(3)
この傷、まわりの皮膚の色が赤黒く変色しかかっている……!
僕はその時、異世界に来て初めて人を――女騎士ティルファを治療した場面を思い出していた。
あの傷もこんな感じの咬傷だった。
もしティルファを襲った獣がこのサーベルタイガーだったとしたら、レーモンも毒状態のはずだ。
ここは最初に解毒魔法『クリア』を使ったほうがいい。
毒消しを優先すべきなのは、ティルファのケースでわかっている。
「不覚を取った。体が動かん」
レーモンが珍しく弱音を吐く。
「まったく情けない……」
「レーモン様、まずはサーベルタイガーの毒を魔法で除去します」
僕はさっそく『クリア』の魔法を唱えた。
思った通り、あっという間に皮膚の変色が消えていく。
「おお、体が急に軽くなったぞ!」
レーモンが声を上げる。
「レーモン様、出血がひどくなるのでまだ動いてはいけません。次に傷の回復をします」
僕は続いて治癒魔法『リカバー』を唱えた。
老齢のせいかレーモンの傷の治りはやや遅い。
が、それでも魔法の効果は着実に現れている。
サーベルタイガーの牙によって腕に開いた穴が、次第に塞がっていく。
「これでひとまず安心です」
僕は額の汗をぬぐって立ち上がった
「ユウトよ、かたじけない」
レーモンがしゃがれ声でお礼を言った。
「お前がユウトにそんなこと言うなんて、天地がひっくり返るな」
アリスがそう言って笑うと、レーモンもその偏屈そうな顔に苦笑を浮かべた。
しかしレーモンはすぐに元の表情に戻り、
「アリス様、油断してはなりませぬぞ。この獣を影から操っている者が、近くに必ずいるはずです」
と、言って、すっくと立ち上がると、周囲を注意深く見まわした。
だが、ロードラントとイーザ両軍が相対しているこの戦場は、見晴らしの良い平原地帯に展開されている。
パッと見て、人が隠れられるような場所はない。
「うーむ」
と、レーモンが口髭をひねる。
「レーモン、お前の思い過ごしではないのか?」
アリスが辺りをぐるりと眺めまわして言った。
「特に誰かが潜んでいるような感じはしないが」
「いいえアリス様、よくご観察下さい。たとえばあそこに見える大岩の影や、その向こうの倒木の脇など、人ひとり隠れる場所はそこかしこにございます」
隠れる場所か……。
そこで僕はふと『サーチ』という、敵の居場所を探る補助魔法のことを思い出した。
「あのー」
と、アリスに声をかける。
「ん? なんだ、ユウト?」
「あ! ……いえ、何でもありません」
危ない危ない。
ここで『サーチ』は使えない。
なぜなら『サーチ』はマップ上に敵の位置を表示する魔法。
そしてそのマップを見るためには、『スキャン』と同じく、スマホの画面に映し出すしか方法はない。
が、アリスとレーモンの目の前で堂々とスマホを出したら、それが何なのか説明しなければならないだろう。
その時スマホを取り上げられ、万が一壊されでもしたら大変だ。
スマホがなければ、セリカと通信する手段が断たれてしまうし、元の世界に戻る手段もなくなってしまうからだ。
現実世界に未練があるわけではないが、そうなるとさすがにちょっと困る気がする。
「とにかくいったん皆のところへ行こう」
アリスが言った。
「全員、私たちが戻るのを待ちわびているぞ」
「なりません、下手に動いては危険です」
レーモンは簡単には気を緩めない。
「――おいユウト、そのショートソードを貸せ。今のうちにこの獣にとどめを刺さしておく」
確かに『スリープ』の効果は長くは続かない。
サーベルタイガーをこのまま放置しておいたら、目覚めた時またアリスを襲うかもしれない。
僕は腰のショートソードを抜いて、レーモンに渡した。
レーモンはそれを受け取ると、眠りこけるサーベルタイガーの首元を狙い、刃を付き刺そうとする。
すると――
「ちょっと待ったあ~!」
不意に誰かの叫び声がした。
またまた子供っぽいが、今度は少年の声だ。




