(8)
「アリス様、おはようございます」
気まずさを隠すように、僕はアリスに歩み寄って声をかけた。
が、アリスは普段とまったく変わらない。
昨晩まるで何事もなかったかのような雰囲気だ。
「おおユウトか。昨日はいろいろ世話になったな」
「世話だなんて、そんなにたいしたことしてません」
「結局お前は私の部屋で休んでいかなかったのだな。その前に私が疲れて先に眠ってしまったようだ」
「ええ、せっかくのご好意なのに申し訳ありませんでした」
「気にするな。やはり大広間の負傷者たちのことが気になったのだろう? そういうところはいかにもユウトらしい」
この何気ないごく普通のやりとり――
どうやらアリスは、寝ている彼女の唇に僕がキスをしてしまったことには感づいていないらしい。
しかし、それが分かって胸を撫で下ろす一方、アリスのいささかそっけない態度にどこかで落胆している自分もいた。
とはいえ、今はそんなこと思い悩んでいる訳にもいかない。
毒にやられ倒れた兵士たちの遺体を目にし、顔をこわばらせるアリスを見て、僕は一瞬で厳しい現実に引き戻されたのだった。
「ユウト、今日の戦いはまだ始まっていないのにいったいこれはどういうことだ?」
と、アリスが怒りの混じった声で言う。
「実は井戸の水に毒が混じっていたようでして」
僕は事情を大まかに説明した。
「それを飲んでしまった兵士が次々と倒れたのです」
「井戸に毒だと……! 私もさっき部屋に来たメイドに水を飲むのを止めらたが、そういうことだったのか。しかしいったい誰の仕業か、卑劣極まりない!」
「推測ですがおそらくは敵の策略の一つかと思います。普通に攻めたのではこの城を落とすのは難しいと考えたのでしょう。とにかく落ち着いて原因を探り対策を検討しましょう」
僕が憤慨するアリスをなだめていると、城の中からロゼットが早足で出てきた。
ロゼットはアリスに気づくと、うやうやしく挨拶をして、それから僕に言った。
「ユウト様、みなさんに井戸その他の水を飲まないよう、ほぼ伝え終わりました」
「ありがとうございます。他の人に被害はありませんでしたか?」
「ええ、多分大丈夫かと思います」
ということは、すべての井戸が汚染されたわけではないのだろうか?
いやでも、さっき向こうから聞こえた悲鳴は、明らかに別の井戸の毒の水を飲んでしまった人の声に違いないし――
「ロゼットさん、デュロワ城の井戸の水源はどこなのか知ってますか?」
「はい、城には大小五十か所以上井戸がありますが、お水はいずれも北のデュロワ山を源流とする豊富な地下水脈からくみ上げています。またお城の一部の部屋には水道設備がございまして、これもそのお水を利用しております」
そういえば僕の部屋や、昨日見たアリスの部屋には風呂があった。
この異世界、そういった技術は結構進んでいるのか。
しかし水源が一つだということは、そこに毒を流されればすべての水がダメになってしまうということでもあった。
ということは――
これはもしかして、敵から攻撃を受けるよりも、はるかに危機的状況ではないのか?
例えば食料がまったくなくても、一週間程度なら人は死にはしないだろうが、水ならどうだろう。
三日、いや下手をすれば二日も持たないに違いない。
脱水症状に陥ってみんな動けなくなったところを敵に攻められたら、まさに一溜りもないではないか。
“渇きと飢え”――
そんな言葉が脳裏に浮かび、事の重大さにいまさら気が付いて、体から一気に血の気が引いたその時だった。
城の外庭とを隔てる城壁の向こうから、今度はクロードが戻ってきた。