第十話 精霊の国
ようやく船が港へと到着したのは、魔族の襲撃があってから三日後の朝だった。這う這うの体で船から降りると、ムルルちゃんがふらつく体を支えてくれた。
七日間もの時間を船に揺られていた身体は地面の確かな感触すら揺れるように伝えてくるが、それでも時間が経てば回復するだろう。
深呼吸を数回してお腹の奥に溜まった気持ち悪さを落ち着かせて、ムルルちゃんに案内されるまま船着き場の傍に置いてあった木製の樽に腰を下ろす。
エルフレイム大陸。
実家が船を持っていたが、訪れるのは初めてだ。
私達が乗ってきた船の損傷が気になるのか、桟橋には多くの人が集まってきている。そのほとんどが人間には無い獣の耳や尻尾を持つ獣人や、エルフやドワーフに代表される亜人の方が多い。やはりというか、精霊神ツェネリィアの加護が篤いこの大陸では、人間をあまり見掛けない。私達が乗ってきた船の船員や、桟橋に集まった獣人や亜人の方々に交じって数人見掛ける程度だ。
イムネジアとエルフレイムの国交が始まって数年の時間が経つが、人間が珍しいのか獣人や亜人の子供たちがこちらを見ていた。その視線に気付いて手を振ると、一緒に居た大人の背中に隠れてしまう。
そういう所は、人間の子供とあまり反応が変わらない。
建物は木造の壁にわらで作られた屋根の家が目立つ。ムルルちゃんが言うには、あの造りだと暑い日でも涼しく感じられるらしい。そこに住む人の、生活の知恵というヤツだろう。
魔術の勉強はしてきたが、こうやってエルフレイム大陸の情報に疎いと旅慣れていないと実感させられる。レンジ様なら、きっといろいろと知っているのではないだろうか。
そう考えると、レンジ様の顔を見たくなった。
「フランシェスカ先輩、大丈夫ですか?」
「あ、はい」
しばらくすると、船から降りてきたアヤさんが声を掛けてくれる。その傍にはアヤさんと同じ、十三人の英雄の一人であるユイさんと、彼女が契約した『不死の騎士』ナイト様。ナイト様は二人の後ろへ控えるよう、一歩離れた位置に立っている。
喋る事が出来ないらしいが、その立ち振る舞いは騎士の鏡とも言える。船の中で何度も見掛けたが、常にユイさんの後ろに突かず離れずの位置で控えているのだ。それが出来る騎士が、人間に何人居るだろうか。
「私はフェイロナさんと一緒に今夜泊まる宿と、明日使う馬車を探してきますから。結衣から離れないようにしてくださいね」
「分かりました」
「ムルルも。慣れた場所かもしれないけど、動かないでフランシェスカ先輩やソルネアさんと一緒に居るのよ?」
「わかった」
そう言うムルルちゃんは、いつもなら良い匂いに釣られて屋台を覗きに行くのに、不満な素振り一つせずに頷いた。
ありがとうと言って髪を梳いてあげると、笑顔を向けてくれる。
「行ってくるね、結衣」
「うん」
そう言って歩いていくアヤさんを見送る。その足取りはしっかりとしたものだが、やはりどこか元気が無いようにも感じられた。
「アヤさん、大丈夫でしょうか?」
「うん。だいじょう、ぶ。……お兄ちゃんが居なくなるの、初めてじゃないから」
そのユイさんも、やはりどこか元気が無い。
それは、海上での戦闘が原因だった。
英雄の一人である未来視の魔眼を持つ『魔法使い』コウタロウ様からの言伝を伝える為にレンジ様を迎えに来たユイさん達が黒いドラゴンに襲われ、一緒に居た魔王を道連れにする形でレンジ様が船から落ちた。
アヤさんやユイさんの話では、レッドドラゴン・ファフニィル様や妖精の女王・アナスタシア様も一緒なので大丈夫だと言われていたが。それはどちらかというと、私達ではなく自分達を安心させる言葉のように思えた。
海に落ちたら人間は生きていけない。それは、この世界の常識だ。
海中に引き摺りこまれたら、どれだけ熟練の冒険者や騎士でも呼吸が出来なくなり、魔物に嬲り殺しにされる。魔術師もまた、相応の心構えが無ければ、混乱したまま成す術が無いだろう。
そんな海に落ち、魔族の襲撃が落ち着いた後も合流してこなかったレンジ様。
アヤさんは今でこそ落ち着いているが、船の上では一人の時間が増えていた。ファフニィル様やアナスタシア様と別れたユイさんも、随分落ち込んでいた。
しかしそれも、一晩が経った頃にはレンジ様が居ない分を頑張る様、元気に振る舞われていた。
レンジ様が居なくなって数日。私達は随分落ち着いたけど、やっぱり不安な事に変わりはない。そんな中で、率先して動いてくれているのはフェイロナさんとアヤさんだ。レンジ様が居なくなって、一番心配しているのはアヤさんのはずなのに。
彼女はレンジ様を信頼していると言っていたけど、不安な事は変わらない筈なのに。
「初めてじゃ、ない?」
「う、ん。一緒に旅をしていた頃は崖から落ちたり、川に流されたり。山みたいに大きな眷属の背中から落ちた時もあったし……他にも、色々」
「…………」
ムルルちゃんと二人、どう声を掛けるべきか迷ってしまい、無言になってしまう。
崖から落ちた。川に流された。……なんというか、グリフィンと戦った時は空からも落ちていたし。やはり、英雄というのは凄いのだな、と思う。そんな陳腐とも言える感想しか浮かばない。
「よく生きているね、レンジ」
「うん」
ムルルちゃんが私の気持ちを言葉にしてくれて、その言葉にユイさんとナイト様まで頷いている。その雰囲気が柔らかく感じるのは、それだけ緊張が解れているからだろうか。
そんなレンジ様なら、海に落ちても大丈夫だと。不思議と、そう思う事ができた……ような気がする。
もしかしたら、私の口元は引き攣っているのかもしれないが。
「そうなのですか」
不意に、そう呟いたソルネアさんが、私の隣にある樽へ腰を下ろした。
この人は、レンジ様が海へ落ちた後も態度にあまり変化が無かった。最初はそれを冷淡だとも思ったが、どうやらそうでもないようだ。レンジ様が落ちた日は変わりなく船室で窓の外を眺めていたが、次の日からはずっと甲板で船の後ろからずっと海を眺めていた。
多くは語らない人なので想像でしかないが、今思うとレンジ様が追い付いてくるのを待っていたのかもしれない。
――戻ってくると信じていた。
今も、視線は海へ向かっている。水平線の果てから、レンジ様が来ると信じているのだろう。そして、アヤさん達もレンジ様の無事を信じている。
なら私達は、レンジ様が言っていたようにソルネアさんを精霊神様の元に連れて行くだけだ。
きっとその途中で、また再会できる。そう信じよう。
「ソルネアさんは……」
「なんですか。フランシェスカ」
私は、何を聞こうとしたのだろうか。
ふとそう考え、そう深く考える事でもないのだと深呼吸を一つ。
「ソルネアさんは、レンジ様の事を信じているのですね」
「……信じる?」
私の言葉に返ってきたのは、疑問の声だった。
それはまるで、その単語を知らないような、私が何を言っているか理解できていないような。そんな表情。
聞いた私が、困ってしまう。
「いえ」
そんな私へ、ソルネアさんは否定の声を上げる。続いて紡がれた言葉は。
「戻ってくると、約束しました。レンジは、約束を破りません」
そう、はっきりと口にした。
それは、今までのソルネアさんには無かった口調。それが嬉しくて、自然と口元が綻ぶのを感じる。
「そうですね」
「はい」
私が同意すると、ソルネアさんは同意してくれた。
戻ってくると約束した。レンジ様は約束を破らない。……うん。私も、その約束を信じよう。
ムルルちゃんへ視線を向けると、いつもはどこか眠そうな瞳も今はしっかりと開かれている。レンジ様が海に落ちた時、一番心配したのはムルルちゃんだ。あの時、船酔いで動けなかった私とは違い、何も出来なかった事を悔やんでいる。
けど、相手はドラゴンと魔王だったのだ。私やフェイロナさん、動けていたとしても何もできなかったと思う。
その後、船に残った魔物はアヤさんとナイト様があっという間に倒してしまったが。
本当にあっという間だったので、船酔いで倒れていた私には何が起きたのかよく分かっていない。分かっているのは、魔力の結界で守られていたはずの魔族をナイト様があっさりと斬り伏せ、海に投げ捨てられた後にアヤさんが吹き飛ばしたくらいだ。
「あの……」
ふと、聞き逃してしまいそうなほど小さな声が耳に届いた。そちらへ視線を向けると、ユイさんが少し離れた位置から声を掛けてくれていた。
このユイさん。船の上で何度か話したが、どうやらかなり人見知りをする性格らしい。らしい、というのはアヤさんから教えてもらった情報だからなのだ。今でこそ話し掛けてくれるが、最初は船の上で擦れ違ってもナイト様を挟むように、彼の騎士の後ろへ隠れながら会話していた。
白い髪に赤い瞳。レンジ様やアヤさんと同じ異世界から召喚された方なのに、その容姿は今まで会ったどの英雄の方々とも全然違う。どうやら、異世界の方でもユイさんの容姿は少々変わっているらしい。
私は、雪のように白い髪と白い肌はユイさんの控えめな性格をよく表しているように感じるし、その中で異彩を放つ赤い瞳もとても美しく思う。けど、ユイさんは自分の容姿が苦手なようで、紺色の外套を帽子のように深く被って顔を隠してしまっていた。
「どうかしましたか、ユイさん?」
「ぁ、……だいじょう、ぶ。ですか?」
小さな声で、たどたどしく言葉が紡がれる。私より凄く偉い人なのに、可愛いと思ってしまうのは不敬だろうか?
身長もムルルちゃんと同じくらいだからか、どこか妹のようにも思えてしまう。私には姉妹が居るけど、私が一番下だからムルルちゃんやユイさんのような子を見ると、どうしても可愛く思ってしまう。
そうやって考えていると、返事をしない私をどう思ったのか、ユイさんが困ったような視線で見上げてくる。そんな仕草は、目深に被った外套の所為か、年齢以上に幼く見えた。
「はい、大丈夫です。ユイさんは、大丈夫ですか?」
「ぅ、ん。お兄ちゃん……アナとファフさん、が、一緒だから」
「ファフさん?」
その聞き慣れない名前に、ムルルちゃんが反応した。
アナとファフさん。話しの流れから、アナというのはアナスタシア様の事だろう。だとすると、ファフさんというのはファフニィル様の事か。
アーベンエルム大陸でユイさんが契約した竜の王。その炎は大地を焼き尽くし、その翼はこの世界に存在する何者よりも速いと謳われる赤竜。船の上で一瞬だけ見た姿は吟遊詩人の歌にある通り……いや、それ以上に雄々しく猛々しい紅だったのを思い出す。
「可愛らしいお名前ですね」
「……そ、う?」
「はい」
そのドラゴンが、ユイさんの前ではファフと呼ばれ、親しまれているというのは少し想像が難しい。
きっと、私には分からない信頼というか、絆のような物があるのだろう。
人間にとってドラゴンとは畏怖の象徴だ。ファフニィル様はともかく、アーベンエルム大陸の空を統べるドラゴンの殆どは、人間を餌としか見ていないと聞いている。そのドラゴンの王と呼ばれるファフニィル様が、そのように可愛らしい愛称で呼ばれているというのは親しみやすいというか、なんというか。
私のような人間が、親しみやすいと思う事も不敬かもしれないが。
「よかった」
「はい?」
「皆で、考えたから。ファフさんの、名前」
「そうなのですか?」
私がそう聞くと、恥ずかしそうに外套を引っ張って目元を隠してしまう。しかし、隠しきれていない口元が緩んでいるのは、私がファフニィル様の愛称を可愛らしいと言ったからだろうか。
「ファフさん、怖いから。だから、可愛い名前を……お兄ちゃん達と、考えたん、です」
「それがファフ?」
ムルルちゃんの言葉に、小さく頷いて応えるユイさん。
そして、不思議そうな顔でこちらを見上げてくるムルルちゃん。
「可愛い?」
「私は可愛いと思いますけど」
「そう……ソルネアは?」
その質問に返事をすると、どうしてか落ち込んでしまうムルルちゃん。続けて、今度はソルネアさんに同じ事を聞く。
もしかしたら、ムルルちゃんの中ではファフという愛称はあまり可愛いと感じないのかもしれない。私としては可愛いと思うのだけれど、その辺りの感性は人それぞれだろう。
「分かりません」
ソルネアさんの返事はいつもと同じで、それに不満気な顔をするムルルちゃん。
「ソルネアは、いつもそればっかり」
「そうでしょうか?」
「分からないばかり」
「…………」
そこまで強い言葉ではないと思うが、その一言に困惑したようにこちらへ視線を向けてくるソルネアさん。
こちらを見られても困るのだが、あまり感情の波が感じられない表情でみられると少し居心地が悪くなってしまう。
「……私は、可愛いのでは、と思います」
助け舟を出した方が良いだろうかと悩んでいると、不意にソルネアさんが口を開いた。
その言葉は、今までの何気無しに口にした言葉ではなく、悩んで口にした――そう感じられる言葉だった。その表情もまた、今まで見ていた感情の波が感じられない表情ではなく、悩んでいるような、後悔しているような、いつもとは少し違う顔。
なんだろうか。たったそれだけだし、私はソルネアさん本人ではないのでその本心まで分からないのだが……少しだけ、ソルネアさんという女性が身近に感じられた気がした。
「そう」
そして、やはり少し残念そうな声を出すムルルちゃん。どこか拗ねたように唇を尖らせているのは、同じ感性を持つ人が居ないからだろうか。
やはり、私はムルルちゃんではないのでその内心までは分からない。けど、何となく、こうした方が良いのかなあと思いながら、ムルルちゃんの綺麗な銀色の髪をさらさらと撫でる。すると、驚いたように獣人特有の大きくて毛深い耳が確かに震えた。表情は変わらずどこか拗ねたような顔なのに、髪を撫でると耳が震える。その仕草が楽しくて、もっと髪を撫でてあげる。
「…………」
すると。何を思ったのか、ムルルちゃんの傍に立つソルネアさん。その視線は、どこか興味深そうにふるふると震えるムルルちゃんの耳に向いている……ような気がする。
「気持ち良いのですか?」
「……別に」
「そう?」
私からだと、気持ち良さそうに見えるのだが。旅の途中や宿屋に泊った時も、撫でるとくっついてきてくれるし。ああいう仕草が可愛いから、撫でるのを止められないというか。
「いい、なあ……」
続けて、そんな私達を見ていたユイさんがそう呟いた。
多分本人はそんなに大きな声で言ったつもりは無いのだろう。しかし、外套に隠れていたはずの紅玉を思わせる瞳は露わになり、その視線はムルルちゃんの耳に向いているような気がする。
ファフニィル様の事もあるし、もしかしたら可愛い物が好きなのかもしれない。
しかし、そんな視線に晒されてしまっているムルルちゃんは恥ずかしいようで、頬を僅かに染めながら固まってしまっていた。先ほどはゆっくりと、しかし大きく揺れていた毛深い尻尾も、今は元気無く垂れてしまっている。今までこんな事は無かったが、もしかしたら緊張しているのだろうか。
それはそれで可愛いなあ、と。
そう思っていると、港の人混みの中で見知った顔がこちらへ歩いてくるのが見えた。アヤさんとフェイロナさんだ。
ナイト様は流石で、私が気付くよりも早く振り返って二人の姿を確認していた。私は運良く見えただけなのに、よく後ろからくる二人が分かったものだと感心する。これだけ人通りが多いと、気配のような物も分からない気がするのだが。
「フェイロナさん、アヤさん。早かったですね」
「ええ、まあ」
座っていた樽から腰を上げ、そう声を掛ける。しかし、返ってきたのはアヤさんにしては珍しく歯切れの悪い返事だ。
なんだろうかと首を傾げると、アヤさんの後ろに初めて見かける方が一人。
身長は、フェイロナさんよりも少し低い。ムルルちゃんと同じ銀色の髪に、右が赤で左が金色という左右で色彩の異なる瞳。ボロボロになるまで使い込まれた灰色のローブの下には黒のチュニックとズボン。中性的な顔立ちは、この方が男性なのか女性なのか迷ってしまいそうになるが、この方の口調には覚えがあった。
「え、っと……」
「ほうほう。貴女がフランシェスカ殿で、そちらがムルル殿とソルネア殿か」
どう切り出したものか迷い、口籠った私に向けて、その方が口を開く。紡がれる声は、容姿と同様に男性にも女性にも聞こえる中性的な声。
しかし、エルメンヒルデ様よりも聞き分けが出来る声は、少し男性寄りにも感じられる。その声を聞いて、どうしてかムルルちゃんが私の後ろに隠れた。ソルネアさんは……あまり興味がなさそうで、隠れたムルルちゃんを見ている。
「……何故だ」
「そりゃあ、まあ。幸太郎さんの邪な感情が透けて見えたのではないでしょうか」
良く言えば他人行儀な、悪く言えば白々しい……どちらも変わらないか。
私が知っているアヤさんらしからぬ冷たい声でそう言われると、コウタロウ、と呼ばれた男性が肩を落として項垂れる。
そんな男性を見て、ユイさんが口元を隠しながら、肩を震わせている。その笑顔は年相応で、人形のようにも感じられる可愛らしい容姿も相まって目を惹かれる可憐さがあった。
「幸太郎さん。やっぱり最初は、皆から……誤解、されるね」
「ぐ」
もう一度聞いたコウタロウという名前と、お二人との間にある親しげな雰囲気。そこでようやく、その方が何者なのか確信が持てた。
コウタロウ・イノウエ様。世界を救った十三人の英雄の御一人。『魔法使い』『未来視の魔眼』持ち。様々な呼び名はあれど、最も有名なのはこの二つだろう。
コウタロウ様が操る魔術はこの世界の理を外れており、まったく未知の『魔法』である。左右で異彩を放つ瞳、その黄金の瞳は未来を見通す魔眼なのだと。
吟遊詩人に謳われる通りなのだとしたら、この方は私達魔術師の範疇を遥かに超えた存在なのだ。
「なんか。フランシェスカ先輩の目が、普段と違う気がする」
「そっ、そんな事は無いですよっ」
アヤさんの言葉を慌てて否定すると、胸に手を当てて深呼吸を数回。
「おう」
なにやらコウタロウさんが変な声を上げていたが気にしない。
気持ちを落ち着けて、もう一度コウタロウさんへ視線を向ける。魔法使い。私達とは全く異なる魔術の使い手。
見てみたい。是非とも見たい。見て、聞きたい。レンジ様の考え方だって、私のような並以下の魔術師には想像もできなかったものだ。魔法使いと呼ばれるコウタロウ様なら、きっととても凄い事を考えておられるのではないだろうか。
ちなみに、アヤさんにも何度かお話を伺ったが、彼女のは……少し分かり辛かった。少しというか、凄く。膨張率とか浸透率とか。他にも色々と、私には分からない単語が多かったのだ。
アヤさんが言うには、この世界とは技術の進歩が違うから、という事らしい。
「どこを見ているんですか?」
しかし。そのコウタロウ様は、アヤさんに詰め寄られて視線をあらぬ方向へ向けていた。
よく分からなくて首を傾げると、フェイロナさんがこちらに歩み寄ってくる。その表情は、彼にしては珍しく困ったような顔をしているようにも見えた。
「どうかしたのでしょうか?」
「さてな。とりあえず、フランシェスカはもう少し男を警戒するべきなのかもしれない」
「?」
やはりその物言いでは真意を計りかね、アヤさんとコウタロウ様へ視線を向ける。これでも、男の人はちゃんと警戒しているつもりなのだが。
「まったく。どうして男の人って胸ばっかり……」
「自分に無いからと僻むものでは――」
ああ、なるほど、と。
こちらに向けたわけではないだろうが、耳に届いた言葉でコウタロウ様がどうして私から視線を逸らしていたのか理解できてしまった。そして、先ほどまでは興奮に隠れていた羞恥心が首を擡げ、それとない仕草を装ながら外套で胸元を隠す。
胸当てで隠されてはいるが、やはりそういう意図の視線を向けられると恥ずかしい。レンジ様の視線なら、最近は慣れていたのだが。やはり、会ったばかりの人から胸を見られるのには抵抗がある。
しかし、その仕草をどう思ったのか。コウタロウ様はまたしても視線を私から逸らす。少し頬が赤いように見えた。
「うむ。やはり阿弥にはない――」
そして、不用意な一言を口にしたコウタロウ様は、アヤさんに足を踏まれて悶絶した。まあ、女性に身体的特徴を言うのはご法度だろう。
私としては、胸が大きいと動きづらいし、戦いの邪魔になるし、こうやって男の人から好奇の視線を向けられるしで、あまり良い物とは思えないが。それもまた、人それぞれの考え方だろう。
「それで、コウタロウどの。何かご用があってこちらへ来られたのでは?」
そうフェイロナさんが切り出すと、足の痛みにうずくまっていたはずのコウタロウ様が何事も無かったように立ち上がる。その様子を見て、アヤさんがこちらにも聞こえるような音を出して舌打ちをした。
なんだろう。今までは面倒見のいい、優しい人だと思っていたけど。こういう一面もあるようだ。きっと、それは親しい人にしか見せない顔なのではないだろうか。レンジ様へ甘える顔、ユイさんへ向けた笑顔、コウタロウ様に怒る顔。それはどれも、昔のお仲間と一緒に居る時にしか見せていない。
私達の前では見せてくれないけれど、そういう表情もあるのだと分かっただけでも少しだけ近付けたというか、仲良くなれたような気がする。
それは、こちらの一方的な思いでしかないのだろうが。だからこそ、そういう表情を私にも見せてほしいなあ、と思ってしまう。それもまた、一つの前進なのではないだろうか。
「ああ、そうだった。阿弥をからかっている暇などないのだ」
「今度はその顔を殴ってあげましょうか?」
「やめてっ」
まったく、と。重い溜息を吐くアヤさん。
「仲が良いのですね」
「どこがですか……」
ソルネアさんがそう言うと、心底から疲れたと言わんばかりに重い声音で返事をする。その様子を見ると、やっぱり仲が良いのでは、と思う。
そんな私の内心に気付いたのか、もう一度アヤさんは溜息を吐いた。
「レーゲンテン……世界樹の近くにある祠まで、幸太郎さんが移動させてくれるそうです。詳しい話は、向こうで聞きましょう」
「移動、ですか?」
「フェイロナさんには説明しましたが、このバカは距離を無視して移動できる転移魔術を使えますので。これから、一気に移動します」
「転移?」
ムルルちゃんがその単語を拾って口にする。
聞き慣れない単語だが、何度か書物で読んだことがあった。確か、目的の場所を想像して、一瞬で移動できる魔術。距離を無視する攻撃用の魔術はあるが、それを生命――人で再現するのはとても難しく、失敗すると地面や岩の中へ転移してしまいそのまま……という事もあるとても難しい魔術だったはずだ。
しかも、個人でしか使えないと書物には書かれていたはずだ。
「す、凄いですね」
「凄いの?」
「とても凄い事だよ、ムルルちゃん」
「とても凄いんだ」
「……なんだろう。褒められているのは僕なのに、なんだか凄く微笑ましい……」
「いいから。さっさと移動しますよ」
「そして君は、相変わらず愛想が無いね」
「貴方がそれを言いますか」
そうして、コウタロウ様の案内で港町を移動する。初めて見るエルフレイムの街並みは新鮮で、はしたないとは思うがソルネアさんと一緒に何度も周囲へ視線が移ってしまう。まず目に付くのは、精霊神様の加護が篤いだけあり、亜人や獣人が多いという事。そして、向こうも人間が珍しいのかよくこちらへ視線を向けてきている気がする。
そんな中で特に気になったのは、相当数の方達がアヤさんやユイさん、コウタロウ様の事を知っているという事だ。世界を救った英雄であるという事があっても、違う種族の方から声を掛けられたりするものなのだろうか。
そして、そんな人達の挨拶にアヤさん達は笑顔で応えている。
「ほう。あんなに小さかった女の子が、今は一端に冒険者の頭か」
そう言いながら周囲へ響くほどに大きな声で笑っているのは、恰幅の良い獣人の男性だ。
ムルルちゃんとは違う耳や尻尾は、熊獣人である事を示している。書物でしか見た事は無いが、エルフレイム大陸では珍しくない種族だったはずだ。
その、熊獣人の大きな手で頭を撫でられるままのアヤさんは、どこか楽しそうにも見える。次はユイさんで、こちらは相手の力が強過ぎるのか、頭だけではなく体まで撫でられるまま揺れていた。
ただ、コウタロウ様だけは力強く背中を叩かれていたが。それでも動じない辺り、かなり身体を鍛えているのだろう。見た目は、レンジ様以上に身体の線が細いように見えるのだが。まるで地面に根が生えているかのように微動だにしない。
他にも、狐人や犬人。それらは二本の足で歩く人間に似た身体つきの獣人だが、中には半人半馬や半人半蛇といった種族まで挨拶をしてくるのにはどうしても驚いてしまう。
なにせ、上半身は人だが下半身は全くの別物なのだ。フェイロナさんもエルフレイム大陸を訪れるのは初めてだと言っていた野を思い出して視線を向けると、私と一緒に驚いていた。
……相手には失礼だと分かっていても、そればかりはどうしようもないと思う。そんな私達を、向こうは笑って許してくれたが。
むしろ、驚いた事をからかわれてしまった。
以前は人間と亜人、獣人はあまり仲が良くなかった。魔神という共通の敵が現れて、その配下である魔族や魔物という脅威が現れて。数と強さで劣る私達は手を取り合うしか、互いに生き残る道は無かったのだそうだ。
もう随分と昔の話だが、それが私達人間と、フェイロナさんやムルルちゃんのような亜人や獣人が手を取り合う切っ掛け。それは、世界の脅威だった。
「私達のリーダー……頭は、蓮司さんですけど」
「なに?」
アヤさんがそう言うと、熊獣人の人だけではなく、集まっていた亜人や獣人の人達が周囲を見渡した。
どうやらレンジ様を探しているようだが、そのレンジ様はここには居ない。無事だと信じているが、行方不明だ。その事を伝えると、目に見えて落胆していた。無事を祈るとまで言ってくれていた。
その後に私達の事も、その人達に紹介してくれた。
「ほー……アイツはもっと、胸の小さな女が好みだと思っていたが」
そう言われた時は、とっさに胸を手で隠してしまった。その直後、アヤさんに脇腹を小突かれて蹲る大柄な熊獣人。
そんな私達を見て笑う半人半馬や半人半蛇。
しかし、レンジ様はそういう目で私を見ていないと思うが。
時折からかうような視線を向けられたりするが、好いた惚れたというものではないはずだ。そう分かっているのだが、アヤさんの視線を胸に受けると、どうにも反応に困ってしまう。あと、ユイさんも。こちらは身長が低いだけで、相応のふくらみは服の上からでも分かるので気にしなくてもいいのではと思う。
「分かる。よく分かるよ。あの人の周りは、小さ――」
そこまで言って、コウタロウ様がクルリと回った。本当に、回ったのだ。
アヤさんが綺麗に足払いをして、頭から地面に叩き付けられるコウタロウ様。熊獣人に叩かれても微動だにしなかったのに。そう考えると、どれだけの力で足払いをしたのだろうか。
足場を崩されると、どれだけ体幹がしっかりしていても倒れてしまう。一つ勉強になったが……ちゃんと使うには、私にはアヤさんのような身体能力は無いので何度も練習しないと難しいだろう。
「……痛い」
「怪我一つしていないのですから、早く立って下さい」
アヤさんが笑顔でそう言うと、また周囲から笑いが漏れる。しかし、あれだけ強かに顔を打ったのに、血の一滴どころか掠り傷すらないのは凄いと思う。
その遣り取りの後、一言断ってその人達から離れる。アヤさんとコウタロウ様が先頭で、ユイさんとナイト様、私達が纏まっての移動。そのユイさんは人混みも苦手なようで、ずっとナイト様の傍にべったりだ。その身長差もあり、保護者と子供のように見えてしまった。
そのまま港町から出て、移動したのは町から離れた森の中だ。その移動の際にも、イムネジア大陸では見掛けない形の木々や野草を多く見かけた。森の奥からは虫と鳥の鳴き声が響き、少し歩いただけで汗が滲む。
暑い。
それは私の錯覚ではなく、エルフレイム大陸はイムネジア大陸に比べると気温が高いのだそうだ。そう教えてくれたアヤさんも、汗が滲む額や首元を気にしている。
コウタロウ様とユイさんはエルフレイム大陸で生活していたらしく、この暑さに慣れていると言っていた。まあ、慣れていると言っても暑い事には変わらないようで、やはり汗を拭っていたが。
逆に、特に気にしていないのはフェイロナさんとムルルちゃん、そしてソルネアさんだ。フェイロナさんは森の気配が強く、風の精霊を感じられるからと逆に気持ちが良いとすら言っていた。ムルルちゃんはエルフレイム大陸の出身で、むしろ暑いのが普通だとか。
不思議なのはソルネアさんだ。いつものあまり感情が感じられない表情で、黙々と私達についてくる。まるで暑さなど感じていない様子だった。
そうやって皆を気にして、耳元を飛ぶ虫を叩きながら森を歩いていると、少しだけ開けた場所に出た。
どうやらここが目的の場所だったらしく、ボロボロの外套の下に隠れていた魔術短杖を取り出すコウタロウ様。その魔術短杖を地面に突き刺すと、すぐ前面に黒い穴が出来た。
黒い穴である。紫色の魔力光で縁取られた黒い穴。その穴の中に、空気が吸い込まれていくのが分かる。地面に落ちていた落ち葉が、穴に吸い込まれたのだ。
「これは?」
その穴を見て固まっていた私達を代表して、フェイロナさんが質問する。
すると、それを待っていたと言わんばかりの笑顔を浮かべるコウタロウ様。心なしか、胸を張っているようにも見える。
「転移陣さ。この陣を通過して、もう一つ作った転移陣まで距離を無視して移動できる」
「所謂、魔神が使っていた召喚魔術と似たような効果の魔術です」
「魔法だ」
「……魔術学院の書庫で見ましたが。この世界の転移魔術は、個人を、特定の場所へ、瞬間的に移動させる事だけに拘っていたと思います」
それは、私に向けられた言葉だった。転移魔術は最高位の魔術でもあり、使用者は限られる。しかも、一度の魔術で大量の魔力を消費するし、移動できるのは一人だけ。
何故なら、人一人、しかも他人を移動させるという事を想像するのはとても難しい。しかも、移動させる先も同時に想像するとなると、私達人間の思考できる範疇を超えているようにも思う。
しかし、だからといって目の前の黒い穴がその弱点を克服しているのかといわれると疑問だ。なにせ、見た目は空中に突然現れた黒い穴なのだから。
それはフェイロナさんも同じようで、アヤさんやコウタロウ様が関わっているとはいえ、おいそれと穴へ近付こうとはしない。変わらないのは、ムルルちゃんとソルネアさん、そして慣れているのであろうユイさんとナイト様の四人。
「ええ、っとですね」
そんな私達へ説明する為に、アヤさんが魔術短杖の柄尻を利用して、地面に絵を描いてくれた。丸は、多分この黒い穴だろう。それが二つ。
そして、黒い穴に見立てた丸よりも小さな丸に胴体のような線が書かれたものが人だろうか。
「簡単に説明しますと、この丸が転移魔術の穴です」
「魔法だ」
どうやら、そこには何かしらの拘りがあるらしい。アヤさんは溜息を吐きながらも、あまり相手にしないようにして説明を続けてくれる。
無視される形になったコウタロウ様は、ユイさんに慰められていた。どうやら、見た目からは分かり辛いが、落ち込んでいるようだ。
「それでですね。幸太郎さんの魔術だとこの穴と穴を通るだけで移動できるのですけど……」
そう説明しながら、同時に魔術短杖も動く。それは、坑道や隧道に似た考えなのかもしれない。
山を登って移動するよりも、穴を掘った方が短い距離を移動するだけで済む。どれだけ離れた場所で入り口と出口を作ろうと、魔術で想像した穴ならその距離を無に出来る。人をそのまま移動させようとすると、人体そのものを移動させる想像をしなければならない。入り口と出口を想像するだけと、人体をそのまま移動させる想像。どちらを想像するのが簡単かは、それこそ考えるまでも無いだろう。
「なるほど」
「魔術は想像。想像は原理を知る事でより深くなる。フランシェスカ先輩なら、何時か使えるかもしれませんね」
「そんな……」
私など、才など殆ど無い並の魔術師でしかないのだが。
「難しい事は考えず、本能の赴くままに魔力を放出させるのも大事だがね」
「そうなのですか?」
「魔力は心の力だ。本能のまま、感情のまま使う事で開ける道もあるさ」
そうなのだろうか。
学院で教わるのは、魔術とは想像であり、魔力とは肉体という器に収まる力。戦い、経験を積む事で強くなることは確かにあるが、感情の持ちようで強くなるとは聞いた事がない。
しかし、コウタロウ様が言われるのなら、それも確かな成長の一因なのかもしれない。
「そう言って使えるのは、幸太郎さんくらいだと思いますけどね」
「ふ。才能の成せる技かな」
「……才能というより、妄想だと思いますけど」
「妄想も一種の才能さ。突き抜ければ、魔神殺しの魔法すら紡ぐのだから」
その遣り取りが可笑しくて肩を震わせると、アヤさんが困ったように溜息を吐いた。
発売まであと四日……だけど、書店によっては早売りされているらしいですね。
近所の本屋では売られていなかったけど。




