第九話 無人島生活 四日目
アナスタシアが風の魔術で落としてくれた海鳥の首を刎ね、適当な太さの木の枝で作った干し竿へ逆さにして吊るす。こうやって血抜きをした後に羽を毟り、内臓などを抜いて解体するのだ。
先日は危険を冒して海へ潜ったが、良く考えるとアナスタシアが居るのだから海へ潜らなくてもこうやって簡単に食料は手に入るのだ。
海鳥たちはファフニィルを恐れて浜辺には近寄らないが、好奇心を刺激されるのかこの浜辺を中心にして飛んでいる時が多い。その時を狙って、空を飛べるアナスタシアが近付いて魔術で海鳥を落とすのだ。
そうやって落とした海鳥を俺が解体し、後は焚き火の火で炙って食べるだけである。調味料のような物は当たり前だが持っていないので味付けは出来ないが、新鮮な鶏肉はそれだけでも脂がのっていてとても美味だ。
つい先ほど血抜きを始めた鳥とは別に、今朝から解体していた海鳥はいい具合に焚き火の熱で炙られている。木の串に刺しただけという形なので、その木串を伝って脂が滴っている。程良く焦げた皮はパチパチと弾け、香ばしい匂いを鼻に届けてくる。
無意識に口内に溜まった唾液を飲み込むと、自分でも驚くほど音がした。
『はしたないぞ』
「ぷっ」
「しょうがないだろ。美味そうなんだから」
そんな唾液を飲み込む音をエルメンヒルデもアナスタシアも聞き逃さず、笑われてしまう。
俺の言い訳が面白かったのか、アナスタシアが肩を震わせながら鶏肉が焼き上がるのを今か今かと待っている。妖精とは、基本的に植物から魔力を分けてもらう事で空腹を満たしている。口にするのは花の蜜や木の実といったものだ。
しかし、肉を食わないわけではない。妖精の里に住む妖精たちは先に言った通り花の蜜や木の実で生活するが、妖精の里を出た妖精たちは他種族の生活に触れ、その生活に適応する。つまり、人と一緒に行動しているアナスタシアは、肉も食えば酒も飲む。まあ、この場合は蜂蜜酒のようなものだが。
この場合、妖精たちは肉を食えないのではなく、肉が食えるものだと知らないという事になるのだろうか。
アナスタシアと一緒に旅をするようになった時は忙しくてまったく気にしていなかったし、気付いたら藤堂の料理をバクバクと食っていたからなあ。
焚き火の傍へ腰を下ろし、肉の具合を確認する。
「焼けた?」
「もう少し焼いた方が、皮がカリカリに焼けて美味いかもな」
「くっ」
『いい機会だ。我慢を覚えるといい』
「何でアンタに言われないといけないのよっ」
いつもの調子で喧嘩を始める二人に苦笑しながら、早く肉に火が通るよう木串を回してクルクルと回す。すると、喧嘩の口を止めてアナスタシアが俺の手元を覗き込むように見る。
そんなに腹が減っているのか……というのは、俺も同じなので言えなかった。
『ふふ』
二人揃ってエルメンヒルデに笑われながら、黙ってしまう。空腹は最高の調味料とは良く言ったものだ。何の味付けもしていない、素人同然の俺が捌いた鶏肉だというのに、物凄く美味そうに見えてしまう。
しばらく二人で黙りながら肉が焼けるのを待つ。
先に焼き上がったのは、やはりというかアナスタシア用の小さな骨付き肉だ。俺達の世界ではスーパーで手羽先として売られている部位である。他にも胴体の部分もある程度小さく切り分けたのだが、そちらはまだ熱に炙られながらも生焼けの薄桃色の肉が覗いている。酒を飲む身としては生焼けというのも大丈夫なのかもとは思うが、不安なので完全に焼くまで我慢する事にする。
「あふ――あつ、あっ……うまぃぃ」
アナスタシアが破顔しながら肉を頬張っている。その表情は本当に幸せそうで、見ているこちらも食欲を刺激される。そんな表情で食べているアナスタシアを少し羨ましく思いながらしばらく待つと、ようやく焼き上がった鳥肉を木串ごと持つ。
「あふっ、あ、っつ」
そして。空腹を我慢できなかった俺は、アナスタシアと同じように火に炙られて脂が弾けている鳥肉に齧り付いた。
目が覚める熱さが舌に伝わり、それ以上に新鮮な肉の感触と鳥の脂が味覚を刺激する。一口で鳥肉を噛み千切ると、熱さを訴えてくる口内で必死に噛み締める。
美味い。噛めば噛むほど味が出るというか、適度な歯応えが口内全体ではなく脳まで刺激してくるかのように錯覚する。飲み込むのを勿体無いとすら思いながら、咀嚼した鳥肉を嚥下すると、ふう、と息を吐いた。
『まったく。冷めるまで我慢すればいいものを』
「馬鹿ねえ。こういうのは、熱い時に食べるから、美味しいのよ」
「そればかりは、アナスタシアに賛成だな」
「……ちょっと。どういう意味よ」
喧嘩腰に、でも笑顔で話しながら、二人揃って鳥肉に齧り付く。
「ああ、ふまひ」
「ほんなにふまはっははな、とりにふって」
『……食べながら喋るな。行儀の悪い』
エルメンヒルデに注意されながらも、食べる手……この場合は口か。口を止める事が出来ない。
魚を捕ったり、薬草を食べたりして過ごしていたが、肉はこんなにも美味かっただろうかと疑問にすら思ってしまう絶妙な味だ。内臓を抜いた後に海水で洗ったからか、仄かな塩味が食欲を刺激してくれる。こんがりと焼けた皮に、肉汁を滴らせる鳥肉。焼けた肉と脂の匂いは鼻孔を擽り、味だけではなく匂いでも脳を刺激する。
あっという間に一本を食べ終わると、二本目へ手を伸ばす。アナスタシアも骨付き肉を食べ終わると、もう一本の骨付き肉へ手を伸ばす。あの小さな身体のどこに入るのだろうかと一瞬思うが、コイツの場合は腹ではなく胸にもちゃんと栄養が行っているので大丈夫だろう。
「……ムウ」
そうやって過ごしていた四日目の朝。
俺が鳥肉へ齧りついた格好でふとファフニィルへ視線を向けると、その黄金色の瞳と目が合った。
一瞬の間。その事にどう反応をすればいいのか分からず、僅かに混乱しながら鳥肉を咀嚼し。
「ファブッ」
咽た。
「ちょ、汚いなあ!?」
「ちが――ふぁ、ファフニィルが目を覚ましたっ」
鳥肉を近くの岩の上へ置き、足を縺れさせながらファフニィルの元へ駆け寄る。
アナスタシアもファフニィルが意識を取り戻した事に気付くと、頬張っていた鳥肉を砂浜へ放り投げてファフニィルの顔へ飛び付いた。
「やっと目を覚ましやがったな、この野郎」
「ファフぅ……」
安堵の息を吐き、砂浜へ腰を下ろす。安心して、全身から力が抜けてしまった。
「どういう状況だ、これは……」
『気を失っていたのだ。かれこれ、四日程な』
「……気を?」
あの漆黒のドラゴンに負け、生死の境を彷徨うほどの怪我を負った。その衝撃に、記憶が混濁しているのだろうか。ファフニィルは自身が置かれている状況をあまり理解できていないようだ。俺も何度かある事なので、後で説明しようと思う。目が覚めたばかりの今では、余計に頭が混乱するだろうし。
そのファフニィルは、いきなり起き上がろうとしたが、激痛に呻きながらすぐに砂浜へ倒れてしまう。
「ば、馬鹿っ。酷い怪我なんだから、まだ動かないでよっ」
「グゥゥ」
アナスタシアが言うまでも無く、ファフニィルが苦悶の声を上げる。しかし、今までは意識の無いまま呼吸を繰り返すだけだったのが、こうやって苦悶の物とは言え声を上げるという事に嬉しさを感じてしまう。
不謹慎だとは分かっていても、口元が緩むのを抑えられない。
「なんだ、これは……」
「憶えていないの?」
そう呟くファフニィルに、アナスタシアが心配そうに声を掛ける。相変わらず顔に抱き付いたままなのは、意識を取り戻して安心したからか、離れてしまうとどうにかなってしまいそうな不安を感じているからか。
意識を取り戻したとはいえ、ファフニィルの傷は酷い。この島へ流れついてから毎日傷口を洗って新しい薬草を塗っていたが、傷は相変わらず治っていないのが現状なのだ。それは、先ほどファフニィルが起き上がろうとして苦痛のまま地へ伏せた事からも分かる。
それが分かっているから、アナスタシアは一瞬安堵の表情を見せたが、今はまた心底から心配そうな表情でファフニィルに抱き付いている。
「ああ、そうだ」
そうやって暫く地に伏せたまま苦痛に呻いていると、ファフニィルが不意に呟いた。
「我は、負けたのか?」
「…………」
「…………」
『ああ、そうだ』
ファフニィルの質問に俺とアナスタシアが答えられずにいると、代わりとばかりにエルメンヒルデが答えた。それを聞いたアナスタシアがこちらへ強い視線を向けてくるが、俺を睨まれてもどうしようもない。
肩を竦めて、立ち上がる。尻についた砂を払うと、軽く伸びをする。今までの不安が嘘のように体が軽く感じる。
「まあ、そうだな。今回は、俺もお前も完敗だ」
「……そうか」
意図して軽く言うが、どうやら負けたという事が相当ショックなようだ。こちらへ向いていた黄金の瞳は閉じられ、大きく息を吐いた。ドラゴンの溜息は相当な勢いのようで、離れた場所の焚き火の火が消えてしまう。……あれ、火を点けるのが結構大変なんだがなあ。
「まずは、傷を治そう。何をするにも、それからだ」
その首筋を優しく撫でる。固い、岩のようにゴツゴツとした竜鱗の感触を確かめるように撫でると、痛みを感じているはずなのにファフニィルは身動ぎをした。
傷口を洗う為に毎日触っていたはずなのだが、今はその時よりも暖かく感じる。それはファフニィルが意識を取り戻したからか、それとも――この竜の王が、怒りを内に貯め込んでいるからか。
アナスタシアへ視線を向けると、俺を見上げながら溜息を吐いた。俺と同じように、ファフニィルが自身の心配よりも敗北を悔しがっている事に気付いているのだろう。
「何か、してほしい事はあるか?」
「いや」
「そうか」
聞き覚えのある雷鳴のような覇気は薄れ、その声にはどこか力が無い。それは、目を覚ましたばかりというのもあるのだろう。そして、空腹というのもあるのではないだろうか。
ファフニィルが食事をする姿はあまり見た事が無いが、何度か見た限りではグリフィンやソレと同じくらいの体格であるキマイラ、オーガを捕食していたのを思い出す。しかも、一回の戦闘で何匹もだ。
何度か考えた事だが、やはりファフニィルの食事をどうにかしなければならない。
今まで気を失っていたからといって先延ばしにしてきたが、目を覚ました今では急務である。
「お腹、空いてるよね?」
「要らん。今は、少し眠る……」
しかし、心配するアナスタシアへの返事は素っ気ないものだった。どうやら、大層ご立腹のようだ。今は何を言っても駄目だろう。
そう判断して、俺とアナスタシアはファフニィルから離れ、昼食を再開する事にした。不敗という訳ではないが、竜の王としての矜持があったはずだ。それを傷付けられたのか、それとも負けた事に何か思う所があるのかは本人ならぬ身である俺達には分からない。
そして、こういう時はしばらく一人になった方が落ち着くという事も知っている。まあ、俺の経験談だが。敗北を何度も味わっている身で、負ける事に慣れたとはいえ、何も思わないわけではないのだ。
ファフニィルには時間が必要だ。傷を治すためにも、気持ちを落ち着かせるためにも。
「あ」
そうして焚き火があった場所――今はファフニィルの溜息で消えてしまっている――へ腰を下ろすと、アナスタシアが悲しげな声を上げた。その視線の先を見ると、鳥の骨付き肉が砂浜へ落ちてしまっていた。
先ほど、ファフニィルが目を覚ました事に興奮して落としてしまったのだ。
そのまま、悲しそうな顔でこちらを見てくる。
『なにをやっているのだか』
「しょうがないじゃない……嬉しかったんだから」
そして、溜息。
同時に、俺も溜息を一つ吐く。先ほどの溜息で、焚き火が消えただけでなく、その火で焼いていた鳥肉も吹き飛んでしまっていたのだ。まあ、少しは食べていたので空腹を紛らわすことは出来ている。……そう思おう。怪我をしており、しかも意識が戻ったばかりのファフニィルへ強く言うのも憚られる。
なので――半分ほど食べた鳥肉をアナスタシアへ差し出す。木串の持ち手の部分をアナスタシアの方へ向けると、キョトンとした瞳を向けられた。
「食うか?」
「……いいの?」
「よくなかったら、こんな事は言わないさ」
そうしてアナスタシアへ鳥肉を渡すと、これからどうするかを考える。
必要なのは、やはり食料だろう。俺やアナスタシアは海鳥で事足りるが、ファフニィルが腹を満たすためにはとてもではないが不足してしまう。そもそも、ファフニィルへ優先的に渡そうとすれば、今度は俺達が飢えてしまう。
木串の余りで砂浜に変な絵を描きながら、いくつかの案を考える。と言っても、二つだけだが。
一つはやはり、俺とアナスタシアが我慢して、ファフニィルへ食料を渡す。あれだけの傷だ、俺達は飢えを我慢するだけだが、ファフニィルは命に関わる。まあ、飢えを馬鹿にすると、手痛い竹箆返しが来ることは知っている。最悪、あの食べられるか分からない木の実を食う事になるだろうが。
二つ目は、危険だが実入りも良い。
海へ潜って、半魚人やらセイレーンやら……魔物を狩る。先日から考えていた事だ。確実にファフニィルの腹を満たすためには、魔物を狩るしかない。そう分かっているが、どうしても尻込みしてしまう。
海は魔物の領域だ。人間が過ごせる場所ではない。もちろん、妖精もだ。水精霊の力を借りられるとしても、水中という未知の領域では咄嗟の反応が遅れてしまう。そんな中にアナスタシアを送るなど、無理な話だ。そもそも、翅が濡れたら飛べないので俺以上に致命的だろう。身体も小さいし。
そこまで考えると、力を入れ過ぎたようで、手に持っていた木串の余りがパキリと音を立てて折れた。
『レンジ?』
「あ……」
ぼう、としていたようだ。エルメンヒルデの声で我に返ると、アナスタシアが心配そうな顔でこっちを見ていた。
「どうしたの?」
「なんでもない」
俺を心配してくれている声に、肩を竦めて答える。
続いて、視線をファフニィルへ。どこか不貞腐れるように身体を休めている姿は、竜の王というよりもただのオッサンに見えなくもない。
「さて」
一つ、気合を入れる。立ち上がった俺を、鳥肉を齧りながら不思議そうな顔で見上げてくるアナスタシア。
屈伸をしたり腕を伸ばしたりして筋肉を解すと、気が引き締まる。
「なにしてるの?」
「ファフニィルに食べさせるご飯の準備」
『海鳥か?』
「足りるか、バカ」
まあ、その考えは俺にもあったが。
「じゃあ魚? それくらいじゃ、全然……」
そこまで口にして、鳥肉を手に持ったままアナスタシアが固まった。
そりゃあ、気付くだろうな。選択肢など、実質一択なのだから。
「海の魔物?」
「おう。取り敢えず、サハギンを相手に頑張ってみるつもりだ」
「……馬鹿じゃないの?」
『はあ』
呆れられた。俺だって、他に選択肢があるならそれを選びたいとも。
海が危険だという事は、エルメンヒルデもアナスタシアも知っている。ゲームのように船の上や浜辺まで上がってきてから戦ってくれるわけではないし、現実は海中に引きずり込まれただけで終わってしまう。
先日海へ潜った際には見掛けなかったが、狙うとしたらやはり基本へ忠実に半魚人か。沖まで出ると巨大イカに水龍も居るだろうが、こちらは確かに一匹仕留めるだけで数日持ちそうな気もする。大きいし、栄養価も高そうだ。だが、逆に食われて終わる未来しか見えないのが現実だ。巨大魚はその名の通り大きいだけの魚で温厚な性格だが、巨大すぎてどうやって倒せばいいのか分からない。なにせ――この島の大きさは何となくでしか分からないが――多分この島よりも大きいのだ。泳いでいる際に船にぶつかっただけで、船を壊すようなヤツである。
そもそも、それだけ巨大な魔物を討伐したとしても、この暑さだ。あっという間に痛んでしまう。
シェルファと相対した時のようにアナスタシアの魔術で助けてもらいながら海上を歩くという手段もあるが、どちらにしても真下から引き摺りこまれると意味が無いような気がする。そもそもあの魔術はアナスタシアが俺の傍に居ないといけないのだ。一緒に引き摺りこまれてしまうと、どうしようもなくなってしまう。
「他に案があるなら、教えてくれ」
「…………」
『私は思い付かない』
アナスタシアは考え込み、エルメンヒルデは早々に白旗を上げた。お前はそれでいいのか、と言いたい。
「無いわね」
「そうか」
まあ、そう簡単に良い案が浮かぶものでもない。明日になったらもっといい案もあるかもしれないのが、取り敢えず今日は半魚人を狩る事にする。
海上を走る水棲馬や、海面を飛ぶセイレーン、エキドナといった魔物も居るはずなのだが、この島の周囲には見掛けない。おそらく、魔物もファフニィルを恐れてこの島から遠くへ離れているのではないだろうか。
「それで、作戦なんだがな」
「うん」
「俺が餌になるから、俺が襲われたら風精霊と水精霊の力をどうにか使って引き揚げてくれ」
『……作戦か?』
「作戦だろう」
とても無事で済みそうに思えないが。主に俺が。
半魚人は血の匂いに敏感だ。海面に数滴血を垂らすだけでも寄ってくると言われている。
その習性を利用して、海へ入った俺がナイフで手を少し切ってサハギンを誘き寄せる。その後、アナスタシアが魔術でサハギンを陸地へ持ってくる。
とても完璧とは言い難い作戦だが、まあ何とかなるだろう。
命が掛かっているのに「なんとか」なんて博打はしたくないのだが、今はまずファフニィルが食べるものだ。折角意識を取り戻したのだから、ちゃんと食事を摂ってもらってもらいたい。
「どうにかって何よ」
「さあ?」
アナスタシアが力の抜けた声で聞いてくるが、こちらとしては肩を竦めるしかない。
魔術は専門外なのだ。その辺りは、使い手であるアナスタシアに任せよう。
「大丈夫なの?」
「うん?」
「怪我はしない?」
「怪我はするかもなあ」
軽い調子で口にする事で気を紛らわせると、外套を脱いで剣のような装備も全部外す。服も脱ごうとして……それはアナスタシアの視線があるので止めた。
先日はそれでからかったが、あまりやりすぎると本気で怒られかねない。水の球ならまだしも、岩が飛んできたら痛いでは済まないかもしれないのだ。
森の中で服を脱いで準備を整える頃には、アナスタシアも食事を終わらせていた。ちなみに俺は、上半身は裸だが下はちゃんとズボンを履いている。流石に、下着姿は恥ずかしい。
浜辺でブーツを脱いでいると、アナスタシアがそんな俺を興味深そうに眺めている。この前は裸の上半身を見ただけで顔を赤らめていたというのに、慣れとは恐ろしいものである。
「凄い傷ね」
『名誉の負傷というヤツだ』
「……アンタに聞いてないんだけど」
「擽ったいから、あまり触らないでくれよ」
しばらくすると、面白がって身体中の傷を指で触り始める。小さな傷だけではなく、大きな傷も沢山ある。酷い物には、僅かにだが肉が抉れている個所もだ。回復の奇跡で傷を無かった事にするのではなく、自然治癒で治した結果だ。
筋肉痛くらいなら大丈夫なのだが、切り傷となるとどうしても痕が残ってしまうのだが……まあ、俺はこの傷を嫌いという訳ではない。この異世界で生きてきた証だし、誰かの為に戦った、誰かを守ったという証明でもある。
敗北の証明でもあるのだが、それも今となっては悪くない思い出だ。良いとは言えないが、悪くは無いと思える程度にはその過去も乗り越えている……と思う。この傷一つ一つが、俺の戦う覚悟でもあるのだ。
……まあ、本音は戦いなど勘弁してほしいが。
「まったく。いっつも無茶ばかりしている証明じゃない。名誉って言えるの?」
「まあな。この傷は宗一達を庇った傷だし、こっちは阿弥や幸太郎を守った時だし、これは――宇多野さんだったかな?」
いくつかの傷を指さして説明すると、アナスタシアが溜息を吐いた。
「それにこれは、お前を守った傷だ」
「もういいから」
「そうか」
その呆れ声に、こちらも苦笑交じりの声で答える。ただ、少しその頬が赤いのは、照れているからだろうか。
「何笑ってるのよ」
『何を怒っているのだ、お前は』
「怒ってないっ」
ナイフをベルトに差しながら、仲良く喧嘩をし始めたアナスタシアを伴ってファフニィルへ歩み寄る。
俺が近寄ってくる気配に気付いたのか、瞼が上がり黄金の瞳がこちらを捉えた。
「じゃあ、海に潜ってくるよ。何か食いたいものはあるか?」
「そうだな……サハギンでいい」
「そりゃあ、ありがたい」
瞳を閉じて休んでいたが、こちらの話はしっかりと聞いていたのだろう。そう言ってくるファフニィルへ笑顔を向けると、瞳が閉じられた。それどころか、顔まで逸らされてしまった。
傷が痛いだろうにと苦笑して、そのまま海へ入る。
「気を付けなさいよ?」
「もちろんだ」
「怪我をしても、治せないからね?」
「分かってるよ」
『心配のし過ぎだ』
「心配じゃなくて、レンジが怪我をしたら私がファフのご飯を捕らないといけないじゃない」
「俺の手当てはしてくれないのか? 後、ご飯」
「自分ですれば」
「冷たいお言葉で」
エルメンヒルデの笑い声が頭に響き、やはり頬を染めて視線を逸らすアナスタシア。さて、その頬の朱は羞恥によるものか、怒りによるものか。
「頼むぞ」
『任せておけ』
アナスタシアの小さな身体が何とか見えるくらいまで離れると、エルメンヒルデの感触を確かめる為にポケットの上から軽く叩く。
海中へ引き摺りこまれると、当然だが喋れなくなってしまう。エルメンヒルデは、アナスタシアへ声を掛ける役だ。
胸まで海水へ浸かれる深さまで進むと、竜骨のナイフを鞘から抜いて――深呼吸を一回。覚悟を決めて手の平を軽く切ると、透き通る綺麗な海に鮮血の赤が広がっていく。僅かに痛む手の平を閉じたり開いたりして、出血量を増やす。あとは、サハギンが寄ってくるまで待つだけだ。
そしてそれは、すぐだった。ファフニィルを警戒していたが、何かが居る気配は感じ取って近くに居たのだろう。驚くほどの速さで泳いでくるサハギンの姿は、透き通る海の中では丸見えだ。
そのサハギンをナイフで刺そうとするが、ナイフを持った手を海面へ叩き付けるだけで勢いが殺され、その刃がサハギンへ届く前に足を掴まれた。そのまま、抵抗する事も出来ずに海中へ引き摺りこまれてしまう。
覚悟はしていたが突然の事に驚いてしまい、海水を鼻から吸い込んでしまう。
その激痛に海中で咽ると、肺から大量の酸素を吐き出してしまった。視界が気泡で白く染まり、しかし混乱する事無く足を掴むサハギンの腕をこちらからも掴む。すると、今度は後ろから抱きつかれた。二匹目だ。
どうやら酸素を吐き出していた間に沖へ運ばれていたようで、すでに足は海底に届かない。暴れる足が水を蹴る。
そのまま、背後から抱き着いているサハギンも離さないように足を掴むサハギンへ向けたのとは別の手でそのサハギンを捕まえる。
『アナスタシアっ』
エルメンヒルデが声を上げる。その直後、凄まじい勢いで後ろへと引かれる感覚。見えない手が身体を掴み、同時に二匹のサハギンも俺を捕まえていた手を放して暴れはじめる。
その勢いのまま、二匹のサハギンごと浜辺へと引き上げられた。
酸素を肺一杯に吸い込み、海水を飲んで激しく痛む喉を押さえる。海水と涙で滲む視界を彷徨わせると、浜辺に置いておいた精霊銀の剣が視界に映った。アナスタシアが気を利かせてくれたようで、俺達が打ち上げられたすぐ傍に置かれている
躊躇う事無く剣を拾うと、竜骨のナイフを放り投げて、鞘から剣を抜く。
「大丈夫!?」
アナスタシアの焦り声を聞きながら、いきなり浜辺へ打ち上げられて混乱したままのサハギンを視界に捉える。
浜辺へ倒れたまま現状を理解出来ないようで、綺麗な砂浜の上で立ち上がる事もせず暴れている。その動きを押さえるように腹を踏んで固定すると、その喉を精霊銀の剣を水平にして突いた。
グゲ、という耳障りな声を上げると、そのまま横に薙ぐ。喉の半分を裂かれて生きていられるほど生命力が高くない半魚人は、しばらくすれば動かなくなるだろう。
その最期を見届ける事無く、もう一体も立ち上がる前に首を刎ねた。
そこでようやく、海水を滴らせる前髪を手で掻き上げる。
「……予想以上に危なかった」
『分かりきっていた事だがな』
そしてまた、エルメンヒルデに呆れられてしまった。
書籍発売まで、あと六日。




