第八話 無人島生活 二日目
飲み水の問題は、割と簡単に解決できた。といっても、アナスタシアに水精霊の力を借りてもらって、海水を真水へと変えてもらうだけだが。
今後の事を俺とアナスタシア、エルメンヒルデで話し合っていた時、海水を飲み水へ変える事が出来ると教えてもらったのだ。
知っていたら、昨日だってちゃんとファフニィルの傷を水で清潔にしてから薬草を塗ったものを。そう言うと目に見えてアナスタシアが落ち込んでしまい、宥めるのに苦労したのが本日最初の苦労である。
まあ、俺も疲れていてその辺りに考えが回らなかったのが悪いのだが。アナスタシアが使える魔術は土と風、それに水の三つ。土精霊と風精霊と水精霊から力を借りる事が出来る。火精霊とは妖精という種族上、相性が悪いのだとか。
それを知っていたはずなのに、薬草の事ばかりで頭が一杯になってしまっていた。
この現状に俺も焦っているようだ。
「取り敢えず、後でファフニィルの身体を洗うか」
「え?」
『……洗うのか?』
髪を掻きながらそう言うと、アナスタシアとエルメンヒルデが心底から不思議そうな声を上げた。
「身体を清潔にするのは、怪我をした時の基本だからな。ドラゴンだって、汚れた身体のままじゃあ傷が化膿してしまうかもしれないし」
まあ、普通のドラゴンなら菌に負けるような、軟な生命力ではないのだろう。しかし、今のファフニィルは瀕死の重体だ。少しでも回復力を高める事が出来る状況を作るべきだと思う。
幸いにも、今すぐ森の薬草が無くなるという状況ではない。
今日はファフニィルの身体を洗ってやって、薬草を塗り直して……俺とアナスタシアが食べるものを手に入れる。あと、服を洗いたい。海水に浸かって、森に入って、薬草を磨り潰して、その磨り潰した薬草をファフニィルの傷に塗ってやって。正直な話、物凄く臭い。
昨日は気にしていなかったというか気にする余裕も無かったが、水が手に入るなら気兼ねなく服を洗う事が出来る。
「そんな事をする前に、まずは傷の手当てが先じゃない」
「分かっているよ」
『まったく』
肩を竦めて言うと、もう、と怒られてしまう。
一晩眠って気持ちが落ち着いたのか、昨日よりはいつもの調子を取り戻しつつあるアナスタシアに怒られながらファフニィルの背へ登った。
ファフニィルの背へ、視線を向ける。たった一晩であれだけの傷が治るはずも無く、やはりファフニィルは呼吸の度に身体を上下させているが、意識は戻っていない。薬草を塗った傷も、昨日のままだ。
その痛々しい姿に胸を締め付けられるような苦しみを覚えながら立ち尽くしていると、アナスタシアが海水を真水に変えて俺にぶっかけた。
「ほら。ぼーっとしないっ」
『ふふ』
「はあ……元気なのは良い事だな。うん」
きっと、アナスタシアも俺と同じ気持ちなのではないだろうか。一晩休んで落ち着いたとはいえ、これだけの傷を目の当たりにしてしまうと気持ちが萎えそうになる。ファフニィルを助けたいという気持ちよりも、もうダメなのではないかという気持ちが強くなってしまう。だから、無理にでも明るく振る舞って、気持ちを奮い立たせようとする。
「んじゃ、やれる事をやろうかね」
軽く伸びをして筋肉を解してから、何度も俺達を乗せて運んでくれた大きな背中にしゃがみ込む。
さあ、やろう。
内心で気持ちを強くしながら、傷口周辺を丁寧に手洗いしていく。しかし、燦々と輝く太陽を遮るものが無いというのは結構辛い。すぐに汗が滲み、額を服の袖で拭う。太陽が少し傾く頃には、それでも間に合わずに汗が頬を伝って顎から滴り落ちていた。
『大丈夫か?』
「なんとかな」
本当に、人間の身体と言うのは不便だ。熱さにも寒さにも弱いし、少し無理をしただけで体調を崩してしまう。
アナスタシアから水を貰いながらファフニィルの身体を洗っているが、その速さは彼女の半分ほどではないだろうか。コツを掴んだというよりも、単純に手の数が違うのだ。
魔力を元に水精霊の力を借りたアナスタシアは、海水を真水へ変え、更にその真水を人間大の人形として操っている。綺麗な水そのものであるゴーレムは、数体。本当に細かな所まで洗っている辺り、アナスタシアの魔力の消費も相当なのではないだろうか。
「ま、弱音は吐けないよな」
『そうだな』
翅のある人形のように小さな少女が、空中に水の球を浮かばせながら太陽を背に飛んでいる。なんとも幻想的な光景に思えるが、ファフニィルの傷口を洗う事が重労働でその光景を楽しむ余裕も無い。春にも至っていない季節だというのに汗を掻き、僅かに息を乱しながら額を拭う。
疲労もあるが、何より空腹が辛い。
アナスタシアから水を分けてもらいながら喉を潤すが、やはりそれだけでは足らない。むしろ、水を胃に入れた事で空腹感が増したように感じる。
ファフニィルの体格の大きさと、傷自体も大きいので一つ一つに時間を掛けながら洗っていると、しばらくして天を仰ぐように休憩。そして、また再開。
太陽が中天へ昇る頃まで繰り返すと、ぐう、と腹が鳴った。
それでも我慢して傷を洗い終わると、次は薬草集めである。アナスタシアはファフニィルの傍に居てもらって、昨日と同じように森へ入ると薬草を採取する。この島に危険な獣は居ないと分かっているので、一回の探索で両手一杯に薬草を抱えながら森を出る。それを二回ほど繰り返して、次は薬草ではなく食べられる木の実のような物は無いか探してみた。いくら何でも、これだけの重労働をして食事も抜きとなると、体力的なのは当たり前だが、精神的にも辛い、
そうやって食べられそうな……というか、取り敢えず木の実と呼べるものを探していると、いくつかの木の実を見付ける事が出来た。やはり昨日は、俺の集中力も欠けていたのだろう。
しかし問題は、だ。
「何それ?」
「分からん」
アナスタシアの声に、神妙な声で答える。
薬草とは別に砂浜へ並んでいるのは、三種類の木の実だ。一つはドングリのようなもので、もう一つは栗のように見えなくもない。そして最後の一つは……なんだろうか。歪な形だ。親指サイズの斑模様というかで、形は松ぼっくりに似てなくもない。
「食べられるの?」
「さあ……食べられるといいな」
自然、俺の声も希望的観測を求めるように弱々しいものへとなってしまっていた。なにせ、斑模様だ。明らかに、ハズレにしか見えない。
アナスタシアも空腹を感じているようで、そんなあからさまなハズレでも、食べないとは言い出さない。空腹は最高の調味料とかなんとか聞いた覚えがあるが、毒は毒である。本当にはずれだった場合は、目も当てられない事になるだろう。
「はあ」
『レンジも知らない木の実か』
「どうするのよ」
そんな三種類の木の実の前で胡坐をかきながら、腕を組む。
腹が減った。空腹だ。
しかし、この状況で得体のしれない物を食うリスクを負うべきなのか真剣に考える。今動けるのは俺とアナスタシアだけだ。どちらかが毒見をするとして、もしそれで腹を壊したら目も当てられない。腹を壊すだけでも問題だが、もし本当に毒を持っていたらそれこそ最悪だ。
だが……腹が減ったのだ。
食べるべきか、ここは我慢するべきか。しかし、我慢したとしても、この先食べ物が手に入るとも限らない。なら、多少の危険は冒してでも食べられるかどうか確認するべきなのでは。
「少しは我慢しなさいよ」
「いや、でもなあ。昨日の朝から、何も食べていないんだぞ?」
「……その気持ちはよく分かるわ。私もだし」
そう言うと、アナスタシアもその小さなおなかに手を添えて項垂れた。そして、俺へ恨みがましい視線を向けてくる。
「折角忘れていたのに……」
「俺のせいかよ」
まあ、この場合は俺が悪いのだろうな。アナスタシアはファフニィルの事を考えていて空腹を忘れていたというのに、食べられるかどうか分からない木の実を持ってきて空腹を思い出させてしまったのだから。
そう考えると、俺は雑念が多いのだろう。
そうやってしばらく悩んでから、ファフニィルを見る。昨日よりは呼吸が安定しているように見えるが、まだ意識は戻っていない。
そんな姿を見ると、ここで動けなくなる危険は犯せないと自分に言い聞かせる。
「よし、頑張るか」
得体のしれない木の実を脇に退け、昨日使った程良い大きさの岩を胡坐をかいた膝の間に挟む。
『食べないのか?』
「もし毒なら、俺達まで動けなくなるからな」
「……レンジが真面目な事を」
泣くぞ、チクショウ。
溜息を吐きながら竜骨のナイフを鞘から抜くと、昨日と同じように磨り潰し始める。
しかし、食べ物はどうするか。薬草を磨り潰しながら、そう考える。今はまだ大丈夫だが、この調子では明日には動けなくなるかもしれない。そうなる前に、安全に食べられるものを確保したいのだが。
そう考えながらも、薬草を磨り潰していく。
磨り潰してはアナスタシアがファフニィルの傷へ薬草を塗り、その間に俺は新しい薬草を磨り潰す。太陽が中天から少し傾く頃には、全部の傷に薬草を塗る事が出来た。
昨日よりずっと短い時間で終わらせる事が出来たのは、多分アナスタシアの気持ちが昨日よりも落ち着いているからだろう。
昨日は焦って必死に動いていたが、その分手際が悪いと言うか、落ち着かない所が目立っていたような気がする。今日はファフニィルの傷口も洗ったし、昨日よりも息遣いが穏やかな気がする事で少しは気持ちに余裕が生まれているようだ。
「よし」
「ふう。……早く目を覚ましてくれよ、ファフニィル」
アナスタシアが満足そうな声をだし、続くようにそう呟く。
そうして服の袖を鼻先に持ってくると、物凄い匂いに顔を顰めてしまう。海水が渇いた上に、薬草を磨り潰した際に草の汁が飛び散ったのだろう。自分の服ながら、かなり匂いがきつい。
「おーい、アナスタシア」
「ん、なに?」
「水をくれ、服を洗いたい」
「そういえば、そんな事を言っていたわね」
「お前も洗った方が良いぞ。物凄く臭いから」
「あ?」
どうやら、最後の言葉は失言だったようだ。なんだか視線だけで人を殺しそうな目を向けてくるアナスタシアから目を逸らす。
ああ、今日も良い天気だ。俺としては、少し曇ってくれてもいいのだが。
『まったく……』
エルメンヒルデに呆れられながら外套を脱ぐと、精霊銀の剣とナイフ、ダガーの鞘をベルトから外して砂浜に置く。
それだけで随分身軽になったように感じながら、首をコキコキと鳴らす。すると、自分でも驚くほど大きな音が鳴った。
「うわあ」
その音はアナスタシアの耳にも届いたようで、凄く驚かれてしまった。そんなに首の関節を鳴らすのは珍しいのだろうか?
そう考えながら上着を脱いで、続いてブーツも脱ぐ。
「わあっ!?」
肌着まで脱ごうとしたところで、またアナスタシアが声を上げた。視線を向けると、真っ赤になった顔を手で隠そうとしている。している、というのはその指の間からしっかりとこちらを見ている目が確認できてしまっているからだ。
マセた子供のような反応に胡乱な視線を向けると、慌てて身体ごと視線を逸らしてしまう。その様子は、とても妖精の女王様とは思えない。
『なにをやっている?』
「いきなりなんで脱ぐのよ!?」
「いや、服を洗いたいんだが」
だって、物凄く臭い。
ついでに、洗った服を乾かしている間に海に潜ろうと考えているのだが。
木の実が無いなら、魚を捕ればいい。簡単な理屈である。……本気で命懸けだが。
海中で魔物に襲われてしまうと抵抗の術が極端に減ってしまうが、浅瀬にはそこまで寄ってこない事を知っている。よしんば寄ってきても、なんとかアナスタシアに助けを求める時間くらいは稼げる……はずだ。
本当なら浜辺に飛んできた海鳥を落とすのが一番簡単なのだろうが、その海鳥もファフニィルを怖がってか寄ってこないのだ。本当に、ドラゴンというのは威圧感がある。それは、意識が無くても変わらないようだ。
「っていうか、なんでメダル女は何も言わないのよっ」
『いや。いつもの事だからな……』
「宿屋に泊った時とか、一人旅の時は一緒の部屋で着替えていたからなあ」
着替えなど今更だろう。
そりゃあ、最初は俺も恥ずかしかったが。しかし、どうしようもないとも言える。着替えの度にメダルを部屋の外へ出すというのも非効率的だし、そんな事をしようものなら物取りに奪われてしまう可能性が高い。なにせ、見た目は宝石が嵌め込まれているだけのただのメダルだ。店へ売れば、結構な額になるのではないだろうか。売った事が無いので分からないが。
「お、同じ部屋で着替えたりするの?」
「そりゃあ、そうだろ」
『うむ』
俺とエルメンヒルデが同意すると、アナスタシアが驚いた顔で振り返る。少し頬を染め、しかも視線はあちらこちらに彷徨わせながらだが。
こいつ、こんなに初心だっただろうか? 昔は、着替えをしている俺の隣で普通に談笑していたような記憶があるのだが。
「なにを照れているんだ?」
「照れてないわよっ」
いや、照れているじゃないか。
顔を真っ赤にして怒られた。耳どころか、首筋まで真っ赤である。元の肌が白く、身に纏っているものも白いドレスのような服なので、朱に染まった肌が分かり易い。
「早くしてくれ。日が照っているうちに洗ってしまわないと、夜までに乾かないだろ」
「ぅ、うー……もうっ。乙女に変な物を見せないでよっ」
「誰が乙女だ。俺より何倍も生きて――」
そこまで言うと、水精霊の力を借りて作り上げた特大の水弾をぶつけられた。俺だけでなく、服までびしょ濡れになってしまう。まあ、これから洗うので別に服が濡れるのはいいのだが。
「……何か言ったかしら?」
「いえ。服を早く洗いたいなあ、と」
その、あまりにも低い声へ敬語のような物を返しながら、右手で髪を掻き上げる。
すると、あからさまな溜息をエルメンヒルデが吐いた。
『遊んでいないで、早く服を洗ってしまえ。食料も探さなければならないのだろう?』
「遊んでないわよっ。レンジが失礼な事を言うから――」
『レンジが失礼な事を言うのは今更だろうに。慣れろ』
「くっ」
「……本気で泣くぞ、チクショウ」
相棒の酷い裏切りに内心で涙を流しながら、怒りながらも用意してくれた真水で服を洗う。洗うと言っても、洗剤のような物は無いので簡単に手洗いをするだけだが。
空中に浮いた水球に服を入れて手洗いをする半裸の男というのは、傍から見ると相当間抜けなのだろう。そう考えながら服を洗い終わり、砂が付かないように岩に置いて干す。
ズボンを洗う為に脱ぐ際、アナスタシアともう一悶着あったが、それでも何とか平和に洗濯は終わったと言えるだろう。海に入る前に、もう既に全身がびしょ濡れだが。
変態扱いと共に、岩が飛んでこなかったのを良しとしよう。
「アナスタシアも服を洗った方が良いぞ」
「うぅ」
とは言ったものの、やはり何か行動を起こすでもなく小さく呻くだけである。まあ、問題はこちらなのだろうが。俺が居るから服を脱ぎたくないのだろう。
いくらアナスタシアが妖精とはいえ、一応女性である。一応。
男の前で肌を晒すというのに抵抗があるようで、羞恥に頬を染めながらスカートの裾を力一杯下へ引っ張っているのが良い証拠である。
……恥ずかしいなら、空を飛ぶ時にスカートは止めればいいのに。それは口にしない方が良いのだろうな。
「臭いから」
「引っ叩くわよっ!」
『はあ』
怒られた。まあ、当たり前だが。
エルメンヒルデに呆れられながら、メダルを右手に握る。
「俺は少し海に潜ってくるから、その間に洗っとけ」
「え?」
「食い物だよ。木の実が駄目なら、魚だ。魚が駄目なら、今度は海鳥を狙うさ」
別に、食を選り好みするような性格ではない。魔神討伐の旅で世界を回っていた時は、それこそ殺したての豚はもとよりグリフィンやキマイラだって食べた事がある俺だ。今更ゲテモノの一つや二つ、どうって事は無い。流石にサハギンには少し勇気が必要だが。
右手にメダルと白銀色の三叉槍を握りながら、膝まで海に浸かる。日差しが強いので、ひんやりとした海水の冷たさが心地良い。
生きていく為に、食料は必須だ。なるだけ早く問題を解決しておきたい。俺やアナスタシアもだが、何よりファフニィルが目を覚ましたら大量に必要になるのだから。
怪我を治すには栄養が必要な事は当たり前だが、この世界には点滴や栄養剤のような物は無いので、傷を治すための栄養は食事からしか摂取できない。ファフニィルほどの巨体に必要な栄養は、相応に莫大であるはずだ。
そんな時、すぐに動けるように俺とアナスタシアは回復しておく必要がある。折角ファフニィルが目を覚ましても、俺達が動けないのでは本末転倒だ。三人揃って共倒れなど、笑い話にもなりはしない。
「じゃあ、いってくる。ファフニィルを頼むぞ」
「ちょ、ちょっと――」
アナスタシアが何か言い掛けていたが、気にせず海に潜る。この世界に来てこうやって海へ潜るのは初めてだが、見える範囲に半魚人をはじめとする魔物の姿は無い。
おそらく、海鳥と同じようにファフニィルの気配に怯えているのだろう。そう判断して少し沖まで進むと、何匹かの魚を見付ける事が出来た。
あまり見た事の無い種類なのは、イムネジア大陸側の海とは生態系が違うからだろう。小さな日本でだって、西側と左側では捕れる魚の種類に差があるのだ。広い世界、イムネジアとエルフレイムという違う大陸では魚の種類が違ってくるのも当然か。
「エルメンヒルデ。魔物が寄ってきたら教えてくれよ」
『任せろ』
一度海面へ顔を出して息継ぎをすると、そのまま一気に海底へ向けて潜――ろうとして、上手くいかずに再度海面へ顔を出した。
『どうした?』
「……いや。海に潜るのって、考えていたより難しいみたいだ」
『そればかりはな……。頑張れとしか言いようがない』
「ああ。頑張るよ」
昔、テレビで見た時などは簡単に潜っていたような気もするのだが。
その後も何度か繰り返し、空腹も相まって疲労がピークに達しながら頑張って、ようやく三匹の魚を確保する事に成功する。三叉槍の刃先一本一本に魚が貫かれている光景は、中々にシュールである。
半魚人が寄ってこない内に浜辺へ上がると、やはり意識の無いまま眠っているように穏やかな呼吸を繰り返しているファフニィルの姿に安堵の息を吐く。海から上がって息をしていなかったら、と一瞬考えてしまったのだ。縁起でもない。
自分の頭を左の握り拳で小突きながら周囲へ視線を向ける。
アナスタシアの姿が無いのだ。魔物の姿も気配も無いので大丈夫だと思うが、ファフニィルの状態もあり少し心配になってしまう。
「アナスタシア?」
『右側だ。岩の陰――』
「教えないでよっ」
エルメンヒルデが教えてくれると、怒鳴るような声で返事をしてくる。
「無事だったのか。姿が見えないから心配したぞ」
「そ、それは嬉しいけど。ちょっとこっちに来ないでよねっ」
アナスタシアが隠れているらしい岩へ近寄ろうとすると、来るなと言われてしまう。
なんだろうかと首を傾げる前に、その岩に乗っている白い服に気が付いた。俺の服と同じように、砂が付かないよう岩へ乗せて服を乾かしているのだろう。
という事は、今のアナスタシアは一糸纏わない姿か、下着だけの姿か。どちらにしても、俺の前に姿を現すには少し躊躇いを覚える状態であるという事だ。
なるほど、と。内心で得心し、苦笑して踵を返す。
「魚を取ってきたから、服が乾いたらこっちに来いよ」
「う、ん。分かった」
普段のアナスタシアらしくない控えめな声に肩を震わせ、右腕を一振り。三叉槍が翡翠の魔力光となって霧散し、その刃先に刺さっていた魚が砂浜に落ちる。
その魚を拾うと、昨日火を焚いた場所へ腰を下ろした。枯れ枝は少し余裕をもって集めていたので、魚を焼く分には十分足りる量が残っている。
火打ち石も火の魔術も無いので、昨日と同じように木の棒で木の板を擦りながら火を起こす。これがなかなか重労働なのだ。思っていたほど簡単に火が点いてくれない。火打ち石が恋しくなりながらそれでも必死に火を起こすと、今度はその火を消さないように枯れ葉で大きくして、その火を元に枯れ枝を組んで更に火を大きくする。
今度は竜骨のナイフを抜いて魚の鱗を剥いで、内臓を抜き、海水で綺麗に洗ってから枝を口から突き刺す。
『ようやく、一息つけそうだな』
「まだまだだろ」
エルメンヒルデの言葉に苦笑して、ファフニィルへ視線を向ける。一息つくのは、ファフニィルが目を覚ましてからだ。
まだ、油断はできない。
焚き火の火を見つめながら、息を吐く。風の調子にもよるが、阿弥達が乗っていた船は今日か明日にはエルフレイム大陸にある港へ到着する予定だったはずだ。皆は無事だろうか。そう考えると、溜息が出てしまう。
それでも、安否を知る術が無いのでは、無事である事を信じるしかできない。
今までは宗一や阿弥達の保護者を気取っていたが……もしかしたら、ただ単に子離れが出来ていないだけなのかもしれない。
そう考えると、少し気が楽になった。
阿弥も結衣ちゃんも、もう大人なのだと。そう思いながら、少しの間だけ眠ろう。そう考え、膝を抱えながら目を閉じた。
書籍発売まで、残り一週間。
……ここに書いていいのかな?




