第五話 海上の再会2
カツ、と。空けた窓から聞こえてくる潮風と波の音とは別に、乾いた音が部屋に響いた。体面に座るフェイロナが、チェスの駒を動かした音だ。
動かしたのは騎士の駒。フェイロナはこの駒を戦局の要として好んで使う。その辺りの事を思考の隅に置きながら、次はどう動かすだろうかと予想する。チェスとはその時々ではなく、二手三手と言わずに数十手も先を読む勝負だと思っている。
まあ、俺がどれだけ考えようが、そこまで先の手を読めるわけは無いのだが。本格的にチェスを学ぼうとすれば、何時かは出来るようになるのかもしれないが。
取り敢えず、まずは形だけでも思考する事から始めながら、俺も兵士を動かす。
そんな俺の指し手を読んでいたのか、フェイロナは迷う事無く兵士を動かした。
「ううむ」
俺がわざとらしく唸ると、フェイロナが遊ぶように俺から奪った兵士の駒を指先でクルクルと回す。
少し見ない間に、出鱈目に上達しやがって。日頃ムルルと一緒に身体を動かしていた俺と、暇を見ては阿弥やフランシェスカ嬢と指していたフェイロナの違いが、盤上へ顕著に表れているのが現実だ。すでに、俺の陣地にあるべき駒の四分の一はフェイロナにとられてしまっている。
そんな俺とフェイロナの勝負を、ソルネアが隣で興味深そうに眺めている……ように見える。相変わらず表情の変化が分かり辛いので、その本心は分からないが。一方的というほどではないが、押され気味の対局を見られるのは僅かに気恥ずかしい。
フランシェスカ嬢は相変わらず船酔いが酷いので甲板で涼み、付き添いとして阿弥とムルルが傍に居る。エルメンヒルデも、俺にだけ声を聞かせられるという理由で阿弥が預かっている。
別に、チェスの勝負でズルをするつもりは無いが、偶にはこうやって男同士の時間を楽しむのも悪くない。……ソルネアも居るが。
僅かに雑念を交えながら、駒を動かす。
「ふむ」
今度は、小さくフェイロナが唸った。
そうして数秒ほど迷った後、カツ、と乾いた音を立ててフェイロナ陣営の駒が動く。
決して会話が多いという訳ではないが、たまにはこういう時間も悪くない。旅の仲間と親交を深めるというのも、大切な事だ。
それから数十手後、盤上の戦局は大きく変動していた。といっても、俺が追いつめられているのだが。
頭を使うのは嫌いではないが、こうも短時間で複雑な事を考える事には慣れていない事実が現れてしまったのだ。端的に言うと、集中力が切れた。
以前の素人だったソルネアの相手ならいざ知らず、チェスに慣れた相手をするには経験不足だと言わざるを得なかったようだ。
数手先を考えながら駒を動かすが、その後を読み切れていないのは明白で、残っている僅かな駒を確実に追い詰められながら奪われていく。その後も、その場凌ぎの手で逃げながら勝ちの目を探すが、結局はこちらの手ごまを取られていき、余計にどうしようもない状況へ追い込まれてしまう。
そして、しばらく悩んだ後、両手を上げて背中を椅子の背凭れへと預けて大きく息を吐いた。
「まいった」
「そうか」
いつもは凛とした表情だというのに、僅かに口元を緩めながら頷くフェイロナ。ちくしょう。俺に勝って嬉しいと、声にしないながらも態度で丸判りである。
「俺とムルルが最下位争いじゃないのか、これ」
「そうかもしれないな。私とソルネアが、勝ったり負けたりの繰り返しだ」
チェスの強さは、一位が阿弥で、二位がフランシェスカ嬢、フェイロナとソルネアが同格で、俺とムルルが最下位争いといったところのようだ。まあ、ムルルはチェスを指さないので、実質の戦力外とも言えるのだが。
そうなると、俺が一番弱いのか。
その事実に肩を落としながら、背凭れへ体重を預けながら部屋の中を見回す。
メルディオレの街を出て、今日で四日目。
風の具合にもよるが、エルフレイム大陸まではこの世界で一般的な大型のガレオン船の速さでも六日から七日の日数を要する。その間使わせてもらっている船室はとても一介の冒険者が使うようなタコ部屋ではなく、ベッドは二つ、調度品も揃っている、所謂貴族が使うような一等客室である。まあ、船の持ち主であるレオンハルトさんの娘であるフランシェスカ嬢が使うのだから、これくらいは当然と考えているのだろう。むしろ、レオンハルトさんが用意した気がしないでもないが。
どうにも、こうまで豪華な客室は気疲れしてしまう。壁に飾ってある絵の良し悪しは分からないが、あの絵だって一枚が相当な値段なのではないだろうか。流石に壺のような割れ物は置いてないが、蝋燭を立てる燭台だって銀細工の一目で高級品と分かる逸品である。
用意されているベッドも上等品で、今は甲板で日干しされている事だろう。勿論、干してくれているのは船に数人乗り込んでいるメイドさん達だ。そのメイドさん達は、俺達の身の回りの世話を仰せつかっていると言っていたのを思い出す。貴族が身の回りの事をメイドや執事に任せる事はよくあるが、フランシェスカ嬢を除く俺達は一介の冒険者……特に、フェイロナとムルルはエルフと獣人である。自分の事は自分で、という考えが根底にある二人は身の回りの世話を誰かにしてもらうという事に慣れておらず、かなり気疲れしているようだ。
「それにしても。海を渡る船には初めて乗ったが、随分と多くの人が乗り込めるのだな」
「だなあ」
このガレオン船には、船員も含めて人が約五百人ほども乗っている。多くは人間だが、中にはフェイロナやムルルのような亜人と獣人も居て、エルフレイム大陸への里帰りという連中も少なくない。
俺達の世界における大航海時代には、船一隻に約六百人が載っていたそうだから乗組員は少ないほうなのだろうが、それでもかなりの数だ。
常に甲板では十数人の船員が何かしらの役割を持って行動しているし、そうでない人は甲板で景色を楽しんだり、船室で思い思いの時間を過ごしている。その辺りは、映画で見た様子そのままである。
「私が乗った事がある船など、川を渡る程度の物でしかないが。人間の技術というのは、目を見張るものがある」
「まあ。船の設計はドワーフがして、造ったのは人間とドワーフの共同って説もあるけどな」
実はこの、俺達の世界でいうガレオン船の設計を最初に誰がしたというのは、明確な証拠が残っていない。一部の人間は自分達が考えたと言っているし、ドワーフ達は自分が考えたと言っているし、中には人間とドワーフが共同で作ったという人もいる。
物を作る事にかけてはドワーフが世界一という自負もあるのだろう。しかし、海を渡るという先進的な思考があるのはドワーフよりも人間だとも考えられる。
俺達がこの世界に来た時には既にガレオン船がこの世界で最も多く造られている船だったので実際の所は分からないが、やはり現実的なのは人間が考えて作った、という説ではないだろうか。
なにせ、ドワーフは造る事や新しい技術に興味はあっても、外の世界にはあまり興味を示さない。悪く言えば、自分達が満足するなら周囲はどうでもいいという考えを持っている。先に『海の向こう』へ興味を示し、魔物が蔓延る海を渡る為の船を考える理由としては人間の方が強いだろうというのが俺の考えだ。
まあ、これは俺個人の考えなので、正解ではない可能性も十分ある。
「どちらにしても、この船一隻にどれだけの木々を必要としているのかが私は気になるが」
「そうだな。ま、大きな戦が起こらないなら、これからは船を作る頻度も落ち着くだろうさ」
「だといいが」
これからはエルフレイムとの交易の為に船が必要になるだろうが、それは今あるだけで事足りるだろう。今以上にイムネジアとエルフレイム、お互いの文化が成長していけば、自ずとそれに見合った方向へ船も変わっていくだろう。
そうやって話しながら駒の片付けを始めると、対面に座っていたフェイロナが椅子から立ち上がった。
「どうした?」
「いや、交代だ。先ほどから、ずっと待たせてしまったからな」
そうしてそのままベッドへ腰掛けると、今しがたまでフェイロナが座っていた椅子へ、今度はソルネアが腰掛ける。
「よろしくお願いします」
「ちょっと待った。ストップ」
「すと……なんですか?」
「待ってくれ、って意味だ」
駒を並べる手を止めて慌てる俺を、ソルネアが不思議そうな顔で見つめてくる。その視線を受けながら、首をコキコキとわざとらしく鳴らして、疲れていますアピールをしてみる。
もちろんそんな事を気にするソルネアではないが、臆する事無く目と目を合わせてくるので、逆にこちらが視線を逸らしてしまう有様である。
気持ちが臆したという訳ではなく、なんというか……幼い子供がおもちゃを買ってくれと催促してくる目線というか。無邪気とも言える瞳に見つめられると、どうにも強く出る事が出来ない。
普段自己主張があまりないソルネアだからこその、破壊力のある視線とも言える。……ただ単に、俺が甘いだけだと言われればそれまでだが。
「疲れたんだ、少し休憩しよう」
「……そうですか」
表情に変化は無いが、僅かに落ち込んでいるように見えるのは気のせいではないのかもしれない。駒を並べていた指が、目に見えてゆっくりと動いている。
「休憩したら、ちゃんと指すから」
「そうですか」
そう言うが、駒を並べる動きは相変わらずゆっくりとしたものだ。行動で感情を示すソルネアに苦笑を浮かべ、さりとてすぐに指すというのは本当に疲れるので俺もゆっくりと駒を並べていく。
こうやってチェスを指すようになってから、少しは人間らしいというか、感情が見え隠れするようになってきたと思う。相変わらず分かり辛いというのはあるが、少しは分かるような気がする。俺とチェスが指せなくて落ち込んでいるというのも、以前は無かった事だ。
以前は感じなかった変化を感じるようになったのは、ソルネアという人格が少しではあるが成長したという事なのだろうか。
「俺と指すより、フェイロナと指した方が楽しいんじゃないのか?」
「楽しい、ですか?」
「俺よりフェイロナの方が、チェスは得意だろ」
俺がそう言うと、ソルネアは何を言っているのか分からないとでも言いたげな視線を俺へ向け、フェイロナは口元を手で隠して肩を震わせる。
そんなに変な事を言ったつもりは無いのだが……ここで、俺と指したいからなどという可愛らしい理由で椅子に座ったと考える事が出来るほど、俺はソルネアと親しいという理由も無い。
それこそ、俺よりもフェイロナや阿弥と一緒に居る時間が長いはずなので、親しさという点でもフェイロナの方が適役と思うのだが。
そう思うのだが……。
「レンジは、チェスは退屈ですか?」
「いや、そういうつもりは――」
別段俺を責める意図は無いのだろう。やはり感情の波が見て取れない表情だが、その声音は少し沈んでいるように聞こえなくもない。
「こういうのは、強い相手と勝負する方が楽しいんじゃないのか?」
「そのような事は無いかと」
俺の言葉へ即座に返事を返し、ソルネアが駒を並べ終わる。その仕草も慣れたもので、俺よりもずっと早い。それだけで、ソルネアがチェスに慣れているのだと分かってしまう。
半端な気持ちというよりも、時間潰しとしか考えていない俺とは、チェスへ打ち込む姿勢そのものが違うのだ。
だからこそ、俺と指すよりもフェイロナや阿弥、フランシェスカ嬢の方が相手をするのが良いのではと思うのだが、ソルネアはどうもそうは思わないらしい。
考え方の違いといえばそれまでなのだろうが、まあ、ソルネアが別にいいのなら俺がどうこういう理由も無いだろう。きっと、この考えもエルメンヒルデに言わせれば「つまらない事」なのだろうし。
「私は、レンジと指したいです」
「そりゃあ、光栄だ」
おどけて言うが、あまり意味は伝わらなかったようだ。表情一つ崩す事無く、俺が駒を並べ終わるのを待っている。
その様子は、まるでこちらの言葉を待っている子犬のように見えなくもない。まあ、子犬はもっと元気で、良く吠えるのだろうが。
そう考えていると、不意に船が大きく揺れた。
反動で、並べていた駒が音を立てて床へと散らばってしまう。その駒を心配するよりも早く、椅子から倒れそうになったソルネアを左手で支えて視線をフェイロナへ向ける。そのフェイロナは、船の揺れに体勢を崩す事無く通路へと繋がるドアへと駆け寄り、外の様子を確認していた。
「何があった?」
「分からない……魔物の襲撃か?」
どうやら、廊下の方はまだ混乱していないようだ。支えていたソルネアから手を離し、先ほどの揺れで床へ転がった精霊銀の剣を拾う。フェイロナも自身の弓と剣へと手を伸ばし、揃って装備を身に纏う。剣を腰に吊り、壁へ掛けていた外套を羽織っていると、けたたましい音を立ててドアが開いた。
入ってきたのはムルルだ。その慌てた様子に、外套を羽織る手を止める事無く歩み寄る。
「何があった?」
「よく分からない。阿弥が、レンジを呼んでこいって」
その言葉を聞いて、ムルルに案内される形で部屋を出る。
「フェイロナ、ソルネアを頼む」
「……いいのか?」
「取り敢えずな。戻るのが遅かったり、また酷い揺れが起きたらソルネアと一緒に甲板へ来てくれ」
「わかった」
いったい何事か、と。僅かにざわめき始めた廊下を走りながら、窓から外を見る。
特に海が荒れている様子も無く、突然天候が変化したという様子でもない。やはり魔物の襲撃だろうかと考えていると、視界の隅にありえない物が映った。
走っていた足を止めて丸窓から外を見ると、すでに黒い点のようになっているその姿を目で追ってしまう。
注意して見ていたわけではないが、窓から見える視界の隅に一瞬映った姿は、見覚えのある紅の巨躯――ファフニィルではなかっただろうか。そして、そのファフニィルを追い立てていたのもまた、ドラゴンではなかったか。
「レンジ?」
そんな俺の様子をどう思ったのか、ムルルが俺の服の裾を引く。
「急ぐぞ、ムルル」
何故海上にファフニィルが居るのか、という疑問が頭の中で渦を巻く。
その混乱の所為か足が鈍り、俺達が甲板へ辿り着くよりも早く、通路へ混乱した人達が集まり始めてしまう。その人波を掻き分けながら甲板まで駆け上がると、甲板は思っていたよりも静かだった。
というのも、甲板で作業をしているはずの船員が誰も居ない。無人の甲板、その中央には阿弥が一人で立っている。その背は何かを警戒するように殺気立っているようにも感じられるが、取り敢えず無事な姿を目にして安堵の息を吐く。
視線を周囲へ向けると、ドアのすぐ傍に青い顔をしたフランシェスカ嬢が座り込んでいた。
「大丈夫か?」
「フラン、無事?」
「ぁ、レンジ様……」
声に覇気がないのは船酔いの所為だろう。見た限り、外傷は無いようだ。
ムルルにフランシェスカ嬢の介抱を頼み、阿弥へ走り寄る。警戒されないように足音を立てて近寄ると、遠目には分からなかったが、その身体から溢れる黄金色の魔力光が全長五十メートルはあろうかというガレオン船全体へと伸びている事に気付く。
最初の揺れの激しさから、船が転覆しないように僅かな並の抵抗も魔力で抑えているのかもしれない。
「阿弥、大丈夫か?」
「蓮司さん。よかった……」
俺の声に振り返ると、安堵の表情と共に息を吐く阿弥。しかし、海へ視線を向けても波が荒れている様子は無い。
なら、阿弥は何のために魔力を放出しているのだろうか。
『遅い』
「これでも急いできたんだがな。それで、何があった?」
「それが――」
しかし、阿弥が答えるよりも早く、その答えはやってきた。阿弥からメダルを受け取ると同時に、今まで感じた事が無いほどの圧迫感を感じた気がして、視線を向ける。
廊下を移動していた際に丸窓から一瞬見えた巨躯がどこかで引き返してきたのだろう、こちらへ凄まじいスピードで迫ってくる。先ほどまでは黒い点でしかなかったが、今ではその威容を視認できてしまう。
片方は真紅の巨躯を誇る竜の王、ファフニィル。
そして、もう片方は黒い――全身が真っ黒なドラゴン。ファフニィルと同じ翼竜でありながら、竜の王と謳われたファフニィルよりも二回りほど大きな巨躯を誇る黒い竜だ。
二匹のドラゴンが並んで飛びながら、互いを牽制し合っている。いや、あの黒い竜がファフニィルを追い立てているのだ。その現実離れした光景に、言葉が出ずに固まってしまう。
「なんだ、あれ――」
「くっ。蓮司さん、何かに捕まってっ」
言うが早いか、腰から抜いた精霊銀製の短剣を媒介に、黄金色の魔力光が一段と輝きだす。いつもなら強大な自前の魔力を更に増幅させる魔術短杖を使う所なのだろうが、阿弥の手にその魔術短杖は無い。おそらく部屋へ置いてきたのではないだろうか。
常在戦場と言うつもりは無い。まさか、船上でドラゴンに襲われるだなどと俺も想像すらしていなかった。
ファフニィル達が飛んでくる方へ魔力が集まると、黄金色の薄い膜が出来上がる。それを待っていたかのように、ファフニィルを足蹴にした黒竜が黄金色の膜へと体当たりをした。轟音と共に、再度船が大きく揺れる。巨体からの体当たりを防ぐことは出来たが、ドラゴンの飛行によって生じた衝撃までは防ぐことが出来なかったのだ。同時に、傍に居る阿弥が苦悶の声を上げる。
黄金の膜ごしに、黒いドラゴンが牙を剥いて吠える。船との間に強固な障害があるというのに、それを気にする事無く吠える姿には狂気すら感じられた。
身体の芯から震え、恐怖に身が竦む。漆黒の体躯、真紅の瞳、だというのに驚くほど白い牙。近くで見ると、その威容は恐ろしさすら感じるものがある。
何せ、巨大なのだ。全長五十メートルはあるであろうガレオン船とほぼ同じ大きさなのではないだろうか。翼を広げると完全に太陽の光が遮られ、船全体がドラゴンの影に包まれる。
その巨大なドラゴンが目の前で黄金色の膜を破ろうと暴れているのだ。翼で殴り、牙で喰らいつき、爪で裂く。耳障りな鳴き声を上げ、ドラゴンが暴れる。その度に、阿弥が苦しそうな声を上げている。
隣を見ると、珍しく額に大粒の汗まで浮かべていた。それだけの相手なのだ、このドラゴンは。
目の前にある異様に呑まれて萎えかけていた意思を奮い立たせる。暴れる黒竜の威容を睨みつける。
「エルメンヒルデっ」
『ああっ』
即座に左手へ翡翠色の弓を、右手へ魔力で作り上げた矢を握る。
躊躇う事なく黒竜へ矢を向けると、剥き出しの逆鱗へ向けて矢を放つ。暴れて狙いは逸れたが、それでもこれだけの巨体だ。翡翠色の矢は黒竜へと直撃するが、鱗の一枚も破壊する事無く霧散してしまった。
あまりの硬さに舌打ちをしながら第二矢を番え、放とうと構えた瞬間――先ほど足蹴にされたファフニィルが真横から襲い掛かった。怒りの咆哮を上げながらその首へと喰らい付き、体格差が二回り以上はありそうな巨体を力で捻じ伏せようとする。
鼓膜が破れそうなほどの咆哮が上がる。上げたのは、黒いドラゴンだ。だが、その咆哮に宿るのは痛みへの絶叫ではなく、怒り。目的を邪魔したファフニィルへと向ける、怒りの咆哮だ。
横から喰らいついたファフニィルを、それを更なる力で押し潰そうとするかのように、黒い竜が翼を巧みに使って海面へと叩き付けた。
直後、船の側面で隠れた場所から爆発が起きる。おそらく、ファフニィルが炎の吐息を吐いたのだろう。すぐ傍に船があるというのに、その事をまったく考えていない。それは、思慮深い竜の王が、それだけあの竜の王が怒っているという事でもある。
先ほどまで黒い竜の猛攻を防いでいた黄金色の膜が薄れ、船全体を覆う。そうやって、爆発の余波を防いでくれる。
しかし、先ほど以上の揺れが船を襲い、体勢を崩しそうになりながらすぐ横に居る阿弥を支えた。続いて、爆発の余波で舞い上がった海水が俺達を濡らす。
そんな海水と一緒に、黒い何かが落ちてきた――。
「ナイト!?」
おそらく、ファフニィルの背に乗っていたのだろう。海水と一緒に落ちてきたのは黒鎧の騎士、ナイトであった。その腕の中には抱えられた結衣ちゃんと、更にその腕の中に抱えられているアナスタシアも居る。
阿弥を支えていた手を離してそんなナイトへ駆け寄ろうとすると、不意に頭上が翳った。
「お兄ちゃん、上っ」
結衣ちゃんが言うよりも早く、弓を消して剣へと変えている。それが何かと認識するよりも早く身体が動き、阿弥の方へ飛ぶ。
しかし、そんな俺の行動よりも早く、空から落ちてきた何かが俺を蹴り飛ばした。咄嗟に蹴り足へ合わせるように剣を構えて防ぐが、出鱈目な威力に船の縁まで吹き飛ばされてしまう。
なんとか船から落ちないように縁へ捕まるが、そんな俺へ向かって蹴りを放った人物が迷い無く突っ込んでくる。
降りてきた影は二つ。そこでようやく、突っ込んでくるのが何者なのか視認する事が出来た。
「シェ――」
その名前を口にする前に大鎌を構え、横薙ぎに払われる。その刃先に刀身を合わせるように受けるが、衝撃を殺す事が出来ずに横へと吹き飛ばされてしまう。
灰色の髪が空へ広がり、ボロ衣のような黒衣を翻しながら向かってくる。ただの数歩で吹き飛ばされた俺までの距離を詰め、振り上げた大鎌を力任せに振り下ろす。その攻撃を吹き飛ばされる勢いのまま更に後ろへ跳んで避けると、甲板に大穴が空いた。大鎌の刃を突き立てた直後に魔力を送って爆発させる、シェルファの得意魔術。
相変わらずの威力に背筋が凍った瞬間、更に距離を詰めてきたシェルファに胸倉を掴まれてしまう。
「貴様はこっちだ」
突然の浮遊感に混乱し、視線を甲板の上――俺を投げ捨てた体勢でニヤリと笑っている魔王の顔を認識し、即座に剣を鞭へと変える。
「テメエも来やがれ、シェルファ!!」
その腕へと鞭を絡みつかせ、落ちる勢いを利用してシェルファを甲板から文字通り引き摺り落とす。その表情が驚愕に歪んだ事に気を良くしながら、海へ落ちる――と、背中から柔らかい物へ落ちた。不思議に思って下を見ると、海中に落ちるではなく、海面へ落ちていた。落ちたというよりも、海面に浮いていると言った方が正しいのか。
どういう状況か理解できずに混乱していると、黒翼を羽ばたかせながらシェルファが降りてくる。
同時に、突然の事に固まっている俺の元へ、小さな人影が降りてくる。
「いきなり落ちるとか、なに!?」
「俺に怒られても――」
どうやら、何かしらの魔術を使ってアナスタシアが海中へ落ちるのを助けてくれたようだ。
見慣れた小さな人影……アナスタシアの姿を確認して、同時に視線を先ほど落ちた船の甲板の方向へ向ける。あの黒いドラゴンの背から落ちてきた影は二つ。一つはシェルファ。もう一つも、おそらく魔族――敵だろう。阿弥とナイトが居るから大丈夫……と楽観できる性格は持っていない。
阿弥は強いが、それは持ち前の出鱈目な魔力で相手を押し潰せる条件が揃ってこそだ。船の上では、その魔力を十全使う事など出来はしない。ナイトも、その戦技は人の域を超えているが、アイツは何よりも結衣ちゃんを優先する。
何気に噛み合わないのだ、あの二人は。その事を知っているだけに少し焦るが……こうなってはしょうがない。頑張ってもらおう。
そう割り切ると同時に、シェルファが大鎌を一振りして場の雰囲気を一掃した。剣を両手で構え、警戒する。アナスタシアも俺の邪魔にならないように後ろへ控えると、シェルファが口元を緩めた。
ニヤリという擬音が聞こえそうな、艶やかな唇を三日月のように裂きながら――哂った。
「さあ、儂等も少し遊ぼうか。のう、神殺し」
警戒するように、一歩下がる。
そんな俺を追うように、ニヤニヤと笑いながらシェルファが距離を詰めてくる。その姿には、警戒心の欠片も無い。いや……隙を見せて俺が踏み込むのを待っているのだ。
相変わらず嫌なヤツだと内心で舌打ちをする。戦う事を、心底から楽しんでいる。そう感じられる笑顔には悪意が無く、純粋な狂気とも言える喜びが浮かんでいた。
海へ落ちた俺達を置いて船が進んでいく様子を見ながら、その事を思考から追いやり、目の前の脅威へ集中する。
深呼吸を一回。剣の握りを直し、全身から力を抜く。程良い緊張感をもって、目を惹く大鎌ではなく、シェルファの全身を見る。
直後、少し離れた場所で海面が爆発した。
いや、爆発したような勢いで、海中から何かが――ドラゴンが飛び出したのだ。先に飛び出したのは紅のドラゴン。少し遅れて、黒いドラゴン。
空中で、二頭のドラゴンが喰らい合う。その首へ、その肩へ。
突然始まった怪獣大決戦から視線を逸らし、シェルファへ向き合う。おそらく、ファフニィルにもそこまで余裕があるわけではないだろう。
あのドラゴンの強さは身に沁みて分かっているつもりだが、ファフニィルが戦っている黒いドラゴンは何かが異常だ。甲板の上で相対した時の圧迫感を思い出す。魔神と対峙した時のような……あの時感じた、恐怖。
それは、俺の前に立ち、殺気を振り撒く魔王が発するもの以上のようにも感じるのだ。




