第十六話 グリフィンの王3
僅かに曇っていた空を厚い雲が覆い隠し、まだ昼間だというのに陽が落ちた夕刻ほどに世界が暗くなる。空気は湿り気を帯び、周囲の温度が僅かに下がる。
遠い平原で巣を温めていたグリフィンが周囲の変化に気付き、空を見上げた。それは野生の勘か、それとも風精霊の加護か。ともかく、空で何かが起こっていると感じたのだろう。
そのグリフィンの反応を遠目で確認して、ちらりと少し離れた場所で集中している阿弥へ視線を向ける。
暗くなる世界とは反対に、その身体から溢れ出る黄金色の魔力が周囲を照らし、この場所にだけ太陽があるかのように感じられる。それほどまでに眩く、温かな光。
芙蓉阿弥の魔力。女神アストラエラの力を強く継ぎ、魔術の撃ち合いだけなら魔神とすら戦える『大魔導士』の力。
その力を身近に感じたフランシェスカ嬢とフェイロナは、魅入られたように阿弥から視線を逸らせないでいる。同じ魔術の使い手だ、なにか感じるものがあるのだろう。
逆に、魔術とはほとんど無縁である俺とムルルは、眩しいいなあ、くらいの考えしか浮かばない。それはそれで、色々と問題のような気もするが。
『相変わらず、凄い魔力だな』
「だな」
エルメンヒルデの声に同意して、視線を空へ。
厚くなる雲は阿弥を中心に集まっているようで、灰色だった雲はすでに濃い黒色へと変わりつつある。魔力がまったく無い俺でも分かるほどの圧迫感が更に強くなり、風とは別の、魔力の奔流によって周囲の草木を揺らす。比例して雲の動きも早く、俺達の頭上では黒雲が渦巻いている。
そこで、ゴウ、と。世界に知らしめるように、腹の奥にまで響きそうな重苦しい雷鳴が轟いた。黒雲が雷雲へと変わったのだ。黒い雲が青白く光ったかと思うと、所々から細い雷が覗けるようになる。
「――――」
よく見ると、阿弥の口元が僅かにだが動ごいている。
落雷の魔術を顕現する為に、呪文を紡いでいるのだ。魔術を発現するだけなら、想像するだけで十分だ。だが、その魔術をより強力に、範囲を広く、安定して顕現させるためには、その想像を鮮明にする必要がある。
それを助ける為の『呪文』。空を埋め尽くすほどの魔族を焼き払い、竜の王ファフニィルの鱗を焦がし、魔王すらたじろぐほどの雷を落とした際にも紡いでいた呪文。
こちらへ聞こえないように小声なのは、自分の世界に入り込んでいるのではなく、そうやって呪文を口にするのが恥ずかしいからなのだとか。まあ、分からなくもない。
大声で呪文を詠唱したり必殺技の名前を叫んだりするのは、二人も居れば十分だ。というか、一緒に戦うのも恥ずかしいという気持ちは俺もよく分かる。必殺技の名前を叫ぶというのは、現実でするととても無駄な事だ。確かに気合が入るのだろうし、それで剣を振る力が増して威力が上がるというのも分からなくはない。ただ、何をするか気付かれてしまうので、必殺技がどういうものか分かっていると手の内を明かすのと一緒なのだ。
……そういう事を説明しても、気合が大事と言って話を聞かなかったが。あの無駄な努力が、どれほど疲れた事か。
『どうした?』
「嫌な事を思い出しただけだ」
『何かあったのか?』
「昔、な」
今度幸太郎を見付けたら、やはり一発くらい殴ってやろうと心に決め、腰にあるナイフの柄を指で撫でる。
「凄い魔力ですね」
そんな俺の隣に来たフランシェスカ嬢が、呆然と言った様子で口にする。魔力の暴風に揺れる髪を左手で、空いた右手はスカートを押さえている。天気が良いと、その美脚を包む黒ストッキングの艶やかさを楽しめるのだが。
髪を結んでいるムルルは特に気にしていないが、フェイロナも髪を押さえている。髪が長いと、こういう時は不便だな、と思う。
「このような魔術は、私には難しそうです」
「まあ、使っているのが阿弥だからな」
「はい」
あっさりとした返事なのに、悔しそうな顔を浮かべていた。その表情が何を考えているのか、よく分かる気がする。俺はフランシェスカ嬢本人ではないが、だが……目の前にどうしようもない才能を持つ年下が居るという気持ちは分かるのだ。
俺も同じだったから。
俺も、宗一達に嫉妬した経験があるから。フランシェスカ嬢の表情、その声音に乗せられた感情は、何となく分かる。
「大丈夫さ。フランシェスカ嬢には、フランシェスカ嬢にしか出来ない事がある」
「え?」
「阿弥は阿弥。フランシェスカ嬢は阿弥にはなれないって事だ」
『どういう意味だ?』
「……お前が聞くのか」
そう溜息を吐くと、外套を激しく揺らしていた風が、よりいっそう強くなった。
フランシェスカ嬢が可愛らしい悲鳴を上げて、身体を丸める。その姿に口元を緩め、風の壁となるように立ち位置を移動する。
「ムルル、風に飛ばされるなよ」
「大丈夫」
そう言うムルルは、フェイロナと一緒に近場の岩陰に身を隠していた。
俺達もそうしようか。そう考えた時、ゴウ、と先ほどよりも大きな雷鳴が轟いた。
「いきますっ」
阿弥が宣言する。
アークグリフィンは、空を警戒していたこちらに気付いていない。
やれる。
そう、確信する。
「フランシェスカ嬢、よく見ておくといい」
「は、はいっ」
「これが、千に近い魔族を一瞬で焼き尽くした魔術だ」
ゴウ、と。腹の奥どころか足が竦むほどの轟音。フランシェスカ嬢が耐えきれずに俺の外套を握った瞬間、世界が光に包まれた。
まるでそう錯覚してしまいそうなほどに激しい光と、鼓膜が破れてしまいそうなほどの爆音。衝撃が身体の芯を貫き、平衡感覚が一瞬だが完全にくるってしまう。自分が今立っているのか、倒れているのか。それすらも分からなくなる。あまりの眩しさに目を開けていられない。右手で目元を庇い、左手で俺にしがみ付くようにして耐えているフランシェスカ嬢を支えるように抱える。
肌が痺れるほどの衝撃は一瞬。目が眩むほどの光はすぐに収まり、轟音でバカになった耳を何度か叩く。たったそれだけで、眩暈を起こしそうになってしまった。
すぐには感覚が戻らなかったが、それでもなんとか倒れる事無く耐える事が出来た。それほどの衝撃。直撃どころか、これだけ距離が離れているというのにダメージがある。それが阿弥の魔術。これでも本気には程遠いというのに、俺達はダメージを受けてしまう。もう少し近かったら、先ほどの魔術で俺達が危なかっただろう。
「レ、ンジ……さま?」
「ここに居る。大丈夫みたいだな」
外套が強く引かれる。俺を探しているようなその仕草に、倒れないように抱き留めていた腕へ少しだけ力を込めて返事をする。
すると、頬へ冷たいものが当たった。それが雨だと理解すると、途端に激しく降り始める。雷が落ちたのだから、次が雨というのは自然な流れか。冷える前にどこかで雨宿りを――。
「蓮司さん、来ますっ」
阿弥が暴風に負けないほど声を荒げた。
「エルメンヒルデっ」
瞬間、上手く力の入らない四肢に鞭打ってエルメンヒルデの魔力で作った長剣を手に握る。
それと、俺達の前へ岩の壁が顕現するのは同時。直後、その岩の壁が激しく軋んだ。阿弥が作ったであろう強固な壁なのに、一度の衝撃で罅が出来る。
それほど強力な攻撃を行う敵は、この場では一匹だけしか思い浮かばない。
「フランシェスカ嬢、フェイロナ達の方へ――」
行け、というよりも先に、視線を感じた。
岩の壁の上へ視線を向ける。そこに、ソレは居た。
通常のグリフィンよりも三回りは大きい。遠目では分からなかったが――今まで見た事が無いほどの巨大さだ。おそらく、かなりの年月を生きている。その瞳は逸らされる事無く俺を捉え、僅かな所作をしようものならそのまま岩の壁から降りて襲い掛かってくるだろう。喉が低く鳴り、瞳が見開かれる。
怒っている。理解したとかではなく、肌で感じられた。
何に?
――殺そうとした、俺達にだ。
『レンジっ』
「チッ!」
その威圧感に呑まれていたのか、馬鹿みたいにグリフィンと向かい合っていた身体に自由が戻る。エルメンヒルデの声で正気に戻ると、フランシェスカ嬢を左腕で抱きかかえたまま後ろへ飛ぶ。この場に似つかわしくない可愛らしい悲鳴が上がったが、無視する。
直後、先ほどまで俺達が居た場所へグリフィンが降り立った。雨が降っているのを気にしていないのは、グリフィンの周囲を覆う風の結界のおかげだろう。普段なら不可視であるはずの結界は、雨が降っている事で視認できる。あの風の壁が、矢のような軽い飛び道具を逸らすのだ。
改めて見ると、本当に巨大だ。身体の部分だけで、オーガと同じかそれよりも大きいのではないだろうか。威嚇するように翼を広げた姿から発せられる威圧感は、まるで竜の王であるファフニィルと相対した時に抱いたような感情を思い起こさせる。
絶対に勝てない、と。
たかがグリフィン。魔獣の一種。だというのに、そう思わせるほどの存在感が目の前のグリフィンにはあった。
目と目が合う。そこには、確かな意思が感じられる。怒りの感情とは別の、しっかりとした意志と感情。俺達をただの敵ではなく、見定めているというか。
ゆっくりとした動作で、その視線が逸らされる。向いたのは俺の後ろ。おそらく阿弥の方だろう。しばらくして、また動く。次はフェイロナ達か。
「レン――」
『静かに。喋るな』
俺を呼ぼうとしたフランシェスカ嬢を、エルメンヒルデが黙らせる。些細な事でも、今はこのグリフィンを刺激したくなかった。
そうしてできた時間で、考える。どうしてこのグリフィンが生きているのかを。
阿弥は確かに雷を落とした。不意打ちとはいえ、ファフニィルすら驚かせた魔術だ。いくら長生きしているグリフィンとはいえ、たかが魔獣が耐えられるものではないはずだ。
だが現に、狙ったはずのグリフィンは生きている。考えられるのは二つ。このグリフィンが雷に耐性を持っていたか、それとも何らかの方法で雷を無効化したか。
そして、分かる事は三つ。こいつは阿弥の魔術を受けて生き延びた。こうまで近付かれては阿弥は本気で魔術を使えない。そして。
「ムルル! 阿弥とフランシェスカ嬢の傍に居ろっ」
こいつの相手をしなければならないという事だ。
左腕で庇うように抱いていたフランシェスカ嬢を地面へ放り、アークグリフィンへと全力で駆け寄る。そう来ると分かっていたのか、向こうに動揺は欠片も無い。
その頭部がこちらへ向き、身構えるように四肢へ力が籠るのが分かった。迎え撃たれるのを覚悟で右手に持つ神剣を強く握る。俺の接近を援護するようにフェイロナが矢を放つが、やはりそれは不可視の風の結界――『矢除けの呪い』で逸れてしまう。
右足が振り上げられる。タイミングは完璧だ。このまま突っ込めば抵抗の余地無く踏み潰されるだろう。
残り二歩の間合いで、必死に思考する。阿弥の魔術に耐えるほどの敵だ。現状の俺では傷を負わせることが出来るのかすら怪しいだろう。倒すには、阿弥に本気の魔術を使わせる必要がある。
阿弥の本気を知っている。アイツが本気で魔術を使えば、ここら一帯が焼け野原になるだろう。そうなった時、俺達も一緒に消し炭になってしまう所まで簡単にイメージできる。
「行くぞっ、エルメンヒルデ!」
『どうする気だ!?』
グリフィンの間合いまで突っ込むと、同時に右足が振り下ろされる。受ける事は考えから捨て、避ける事に専念する。集中する。思考する。
頭の芯が痛くなるほどにグリフィンの動きを注視して、避けきれないと判断。攻撃が見えても、身体が反応出来ない。というよりも、先ほどの雷撃の衝撃で反応が鈍いのだ。右足が当たる直前に野球のスイング宜しく、勢いよく振った剣で右足を打ち払う。
剣を両手で持って、しかも全力だったというのに両腕が痺れ、神剣が明後日の方向へ飛んでいく。
それでも右足の攻撃を逸らす事には成功した――が、すぐさま反応した左足で視界外から殴られる。右腕が折れたのではないかと疑いたくなるような衝撃に耐える事など出来ずに吹き飛ばされそうになるが、即座に抜いた竜骨のナイフを地面へ刺す事で距離を開ける事を拒否する。思考よりも身体が反応した状態だ。その左足を見ると、何かが巻き付いていた。草の根だ。攻撃を妨害しようと阿弥が巻きつけたのを、引き千切ったのだろう。それでこれだけの威力なのだから、直撃していたらどうなっていたのかと思うとゾッとする。
即座に立ち上がり、ただの一撃で眩暈や吐き気を訴える思考を無視してグリフィンの体へ抱き着いた。右の二の腕が痛みではなく燃えるような熱を発している気がするが、今は無視する。そんな事を気にしていたら、次の瞬間にはその事を気にする事も出来なくなっているのだ。
形振りなど構っていられない。見た目以上に固い体毛を両腕で掴み、落とされないようにしがみ付く。ナイフを鞘へ納めている暇も無かったので、口に咥えているのが必死である証拠だ。体毛へ頭を押し付けると、物凄く獣臭い。
『援護をっ』
ナイフを咥えているので声を出せない俺の代わりに、エルメンヒルデが全員へ指示を出してくれる。
同時に、しがみ付いた俺を振り落とそうとグリフィンが暴れ出す。翼を広げたり地面を蹴ったりと衝撃で落とそうとしたのは一瞬だけ。この数年間で培った勘が、グリフィンが魔術で俺を吹き飛ばそうとしている事を感じた。
その衝撃に備えるのと、グリフィンの抵抗が止むのは同時。その間に、体毛を引き千切るほど全力でその背へ乗る事に成功する。そこでようやく、グリフィンの四肢が地面から伸びた草の根でとらえられている事に気付く。阿弥とフランシェスカ嬢だろうが、その根は力任せに一瞬で引き千切られた。
『それで、どうする?』
どうしよう。馬に乗る時のようにグリフィンの背へ跨ったのはいいが、どうしたものか。背中なら攻撃が届かないだろうという安易な考えでの行動だが、こうなると今度は決定打が無い自分を思い知らされてしまう。
咥えていた竜骨のナイフを鞘へ納めて精霊銀の剣を抜く。そして、全力でグリフィンの背へ突き立てた。
経験上、根元まで刺されば心臓まで届くと思ったが――それ以前に、剣が刺さらなかった。
固いゴムのような物を指した感覚とでもいうべきか。強靭な皮膚を、俺の力では突き破れなかったのだ。まったく、自分の非力さに泣きそうだ。
そうしている間にも、拘束を解いたグリフィンが動き出す。馬に乗っている時の感覚に似ているというか、何とも妙な感覚だ。背に乗る俺が何も出来ないと判断したようで、標的は俺ではなく先ほど矢を放って援護してくれたフェイロナへと移っているようだ。
ゆっくりと動いているのは、俺達に抵抗の手段が無いと思っているのか。
「レンジ、どうにか出来そうか!」
「簡単に言ってくれるな」
グリフィンを牽制するように矢を射ながら、フェイロナが言ってくる。
本当に。決め手を持たない男勢は情けないね、まったく。そう独り言ちて、俺を乗せたまま動き回るグリフィンを見下ろす。
「舐めんなクソ鳥」
精霊銀の剣を投げ捨て、竜骨のナイフを鞘から抜いて左手に持つ。右手には、エルメンヒルデの魔力で短剣を顕現させる。刀身の色は相変わらずの白銀色で、翡翠のラインが奔っている。解放されている制約は二つ。
それを確認して、逆手に持った二本のナイフを全力でその背へ振り下ろした。
瞬間、嘶くようにグリフィンの背が反り返った。
力が足りないなら、次は切れ味勝負。勝負に勝った二本のナイフは強靭な皮膚を破り、その背へ突き刺さる。しかし、溢れる鮮血は少しだけだ。それほど深く刺さっていないのは、やはり俺の腕力不足である。
また俺を振り落とそうと暴れ出すが、今度は背へ突き立てたナイフを支えにして踏ん張る事が出来る。
踏ん張る俺を落とすために暴れるグリフィンは、阿弥達の拘束やフェイロナの矢を無視して一帯を駆けまわる。結果、俺だけではなく阿弥達も牽制する形になるが、それではらちが明かないと思ったのだろう。おもむろに、翼を広げた。
「ちっ」
何をするのか理解して、獣臭い背へ全身を押し付けるようにして体勢を安定させ、ナイフを握る両手に力を込める。右の二の腕が鈍い痛みを発したが、歯を食いしばって我慢する。
次の瞬間、一瞬の浮遊感を感じて僅かの間だけ目を閉じた。
そして目を開けると、案の定というか――愛すべき大地は、遥か眼下に広がっている。空を飛んでいるのだ。
「よし。取り敢えず、予定通りだな」
『……本当か?』
エルメンヒルデが、胡乱げな声を出す。
まあ、俺も同じ立場なら同じような言葉を向けるだろうが。どうにかこのグリフィンを空へ飛ばせるつもりだったが、俺も一緒に飛ぶつもりは無かった、とだけは言い訳しておきたい。
「空なら、阿弥が本気で魔術を使えるだろうが」
『なるほど』
本気で気付いていなかったのか。ナイフを握る手に力を込めながら、溜息を吐く。
なんだかんだで、ここまではいい。大丈夫だ。
『それで、どうやって降りるのだ?』
「どうするかね」
『こんな下らない死に方だけは勘弁してくれ』
「下らないとか言うなよ。こっちは必死なんだぞ」
『分かっているが……もう少し自分を大事にしてくれると嬉しいな』
「いつもは英雄らしい行動をしろっていう癖に」
『それはそうだが、これは何か違うだろ』
呆れられた。
うん。もう一度言うが、俺も同じ立場なら同じような言葉を向ける。
このまま飛び降りようかとも思うが、さりとて今いるメンバーで俺を受け止めれる人は居ないだろう。阿弥は頭が良いのでこっちの意図を察してくれているはずなので、魔術の準備をしているだろう。フェイロナやフランシェスカ嬢に、落ちる俺を受け止めれる魔術を使ってもらうか。
ぶっつけ本番になるが、それしかないかな、と考える。
空を飛ぶ事には、本当にいい思い出が無い。以前アナスタシアと一緒に飛んだ事もあるが、あの時もやはり落ちそうになった事を思い出した。嫌な記憶だ。
どうして嫌な記憶というのは、記憶へ鮮明に残るのか。そして今日もまた、嫌な思い出が一つ増えるのだ。
そう考えた瞬間、グリフィンが俺を振り落とそうと空中で逆さになった。鳥がこのような体勢で飛べるだなどと思っても居なかったので驚き、背へ抱き着く動作が一瞬遅れてしまう。しかも右腕の痛みが増し、左腕一本で体を支える事になってしまう。
空中へ投げ出される恐怖感に身が竦みそうになりながら、必死に左腕に力を込める。風精霊の力で逆さ向きになっているのだろうが、鳥――翼の性質上、早長時間は無理のはずだ。
その考えは正しかったようで、すぐに元の体勢に戻る。慌てて背へ跨ると、今度は油断なく、恥も外聞もなく、全身を使ってグリフィンに抱き付く。
『……だ、大丈夫か?』
「大丈夫に見えるか、クソったれっ」
心臓が高鳴るどころか、全身から冷や汗が出るのを自覚出来るくらいに恐怖を感じながら、一瞬で乱れてしまった息を必死に整える。
おそらくもう一度……いや、俺が落ちるまで繰り返すはずだ。――そう考えるだけで泣きそうだ。
「絶対、もう二度と空を飛ばないからなっ」
『以前も、同じような事を言っていたと思うがな』
うるせえ。
『しかし、この状況ではできる事が……』
「考え――」
る、というよりも早く。もう一度グリフィンが空中で逆さになった。今度は覚悟していただけに慌てる事は無かったが、やはり踏ん張る事にも限界がある下半身が空へ投げ出される。
そして、ふと視線を横へ向けると、もう一匹のグリフィンがこちらへ向かってくるところが見えた。
「――――っ!?」
声が出ない。
こっちも生きていたのかという驚愕と、これからどうなるかという嫌な未来しか頭に思い浮かばない。
即座に身体を支えていたナイフから手を離す。直後に感じる浮遊感に身が竦み、悲鳴すら零せないほど喉が引き攣る。
「エルメンヒルデ!!」
落ちる恐怖を気合で捻じ伏せ、左手に神殺しの武器を想像する。形はよく撓り、長い――鞭。
即座に左腕を振って、アークグリフィンとは別の、もう一頭のグリフィンの足へ鞭を絡める。落下からの死は免れたが、結局地面に降りることは出来ない。しかも、アークグリフィンの結界から出たので、一瞬にしてずぶ濡れになってしまう。冷たい雨が身体を冷やすが、かえって気が引き締まる。
宙に浮くいい的でしかない俺を狙って、アークグリフィンが大きく旋回している。
来る。
覚悟の決めようも無いが、諦めるつもりも無い。身体を大きく揺らして突撃を避ける準備をしていると、視界が白一色に塗り潰された。
雷撃による稲光だ。俺がアークグリフィンから離れたので、阿弥が躊躇する理由も無い。不意打ちで落とされた雷撃が視界を白く染める。
「くそっ」
毒づいて、目が眩んだまま鞭を伝ってグリフィンの方へ昇る。
目が眩む一瞬。確かに見えたのだ。
本来なら矢を逸らす程度の事しかできない風の結界が、雷撃を逸らしていた。そのような事が出来るのかというのは化学に詳しくないので分からない。だが、とにかくあのグリフィンは雷撃を逸らせるのだ。それほどまでに強力な魔力。そして、雷の原理を分かっているとは思わないが、どうすれば雷を逸らせるかという事を本能で理解しているとでもいうのか。
案の定、先ほどまで俺が居た場所をアークグリフィンが通過する。完全には回復していない視界で確認する。そして、それは向こうも同じだろう。雷撃は逸らせても、その光まではどうしようもない。
最初に俺を見下ろしていた時も、おそらく目が眩んでいたので襲ってこなかったのだ。
そう分かっても、今はどうしようもない。
二発放って阿弥はアークグリフィンに雷撃が効かない事に気付いただろうか。
「エルメンヒルデ、阿弥に声は届くかっ?」
『すまない、遠すぎる』
なら、どうしようもない。そちらは阿弥達を信じて、俺は生き残る事を考えよう。
こんな所で死ぬわけにはいかないのだ。生きて地上へ戻る。……俺だけ、やたら難易度が高い現実に泣きそうだ。
鞭を上り終え、グリフィンの足を掴む。しかしグリフィンも俺に足を掴まれるのは嫌なようで、急に暴れて振り落とそうとしてくる。
「ちっ」
舌打ちを一つして、鞭が翡翠色の魔力となって霧散する。代わりに、腰裏の鞘から抜いたダガーをグリフィンの足へ突き立ててぶら下がる。
なんとか落下の恐怖からは……まだ解放されていないが、取り敢えずいきなり落ちるという事は無いだろう。そんな無防備な俺へ向かって、視界が回復したであろうアークグリフィンが向かってくる。
しかも今度は、その周囲に雨を弾く不可視の球がいくつか浮かんでいるように見える。風の弾丸。普段は見えないソレも、雨が降っている今なら視認できる。
――視認できるからと、今の状況では満足に避ける事など出来ないが。
『くるぞっ』
「分かってるよっ」
エルメンヒルデに怒鳴り返し、どうするか考える。考える。考えるが――どうしようもないだろ、こんな状態だとっ。
視線を下――地面に向ける。丁度下には深くは無いが、そこそこ高い木々が生え揃った林がある。それでも高いが、贅沢は言っていられないだろう。このままだと、風の弾丸で狙い撃ちにされるのだ。
落ちるのなら、自分で決意して落ちた方がいくらかマシだと気合を入れる。冬なので葉が生い茂っていないのが物凄く不安だが、どうしようもない。
『レンジっ』
「――――」
深呼吸をしようと息を大きく吸った直後、エルメンヒルデの声。半端な心構えのまま、空へ身を投げた。
激しい雨と風が俺を叩く。冷たい雨のはずなのに気持ち良いと感じるのは、死の恐怖と隣り合わせで身体が火照っているからか。気持ち良い――思考が冴える。
落ちる俺を追って、二頭のグリフィンが向かってくる。
早い。まるで二つの隕石だ。隕石が落ちるところを見た事は無いが。
「来い――」
左手に翡翠の光が集まり、弓を形作る。芯は翡翠、飾りは黄金。見た目とは裏腹に、質素な造り。実用的とも言えるその弓をしっかりと握り、右手で弦を引く。
顕れるのは、翡翠の矢。空から地面へ落ちながら、狙いを定める。地面が迫っているのを背中越しに感じるが、決して焦らない。この場面で一番してはならな事は、焦って狙いを外す事。
大丈夫。
『レンジ』
「ああ」
その声音は、落ち着いていた。俺を信じてくれているのか、こんな所で死なないと思ってくれているのか。
大丈夫だ。
やれる。
……俺達なら。
死ぬかよ。こんな所で。
約束した。生きて、帰って、チェスを指すと。
約束は守る。今度こそ。絶対に……約束を守る。
――力を貸してくれ。エルメンヒルデ――エル。
アークグリフィンへ向けて、矢を放つ。薄暗い空を、一条の光が裂く。翡翠色の矢は『矢除けの呪い』によって逸らされるが、逸らした先に居たもう一頭のグリフィンを――アークグリフィンの番であろう、牡の頭を狙い違わず撃ち抜いた。
一瞬、アークグリフィンの動きが止まる。空中で反転し、力無く落ちていく牡を見る。気が逸れる。俺からも――阿弥からも。
動きが止まったアークグリフィンを、『矢除けの呪い』など意に介さないほど巨大な石槍が粉砕した。粉砕である。まるで交通事故にでも遭ったかのように、バラバラの肉片となって飛び散る。その石槍が飛んできた方へ視線を向けると、金色の巨大な魔法陣が三枚。まるで砲身のように並んでいる様子が見えた。
その魔方陣が金色の魔力光となって霧散するところを見届けて、俺も背中から落ちた。
歯を食いしばり、身体を丸め、出来るだけ衝撃を散らす。裸の細い枝に叩き付けられる痛みに歯を食いしばりながら、地面に落ちるかという所で柔らかい何かに抱えられた。
風精霊の加護を受けた外套がいくらか落ちる勢いを弱めてくれたようだが、これでは焼け石に水という言葉すら生温い。身体がバラバラになるような衝撃に、呻く事すら出来ずに身動ぎする。
「無事でよかった」
その声は、聞き慣れた仲間の声。薄目を開けると、俺を抱きかかえているであろう、ムルルの顔がすぐ傍にあった。
視線を周囲へ向けると、俺が落ちたであろう無残に枝が折れた木からは少し離れた場所である事が破片の位置で分かる。
おそらく、落ちている最中の俺を空中で拾ったのだろう。身軽なムルルならではの助け方だと思う。あのまま固い地面に叩き付けられていたら、いくら風精霊の外套があっても無事では済まなかっただろうから。
「ぶ……ぶじ、に。見え、る……か?」
「生きてる」
そう言って、目を細めて笑う。どこか安心した笑顔のように思えるのは、俺の気のせいではないだろう。
その笑顔を見て、俺も全身から力を抜く。
『確かに、その通りだな』
「泣きそう、な……くらい、いたいけどな」
僅かに身動ぎをしようとして、全身の痛みに身体を引き攣らせる。だが、痛いという事は生きているという事だ。
しかし。
「お前に抱きかかえられているってのは、なんだか変な気分だな」
「そう?」
なにせ、ムルルは十五歳の、外見も年相応の少女だ。
二十八歳……もうすぐ二十九になろうかという男がそんな少女に抱きかかえられているのは、シュールとしか言いようがないだろう。
ムルルに下ろしてもらい、近くにあった木へ背を預けるように腰を下ろす。そこでようやく、一息吐けた。
「もう空は懲り懲りだ」
「うん。空だと、助けに行けない」
「落ちると怖いしな」
「……少し楽しそうだった」
勘弁してくれ。
痛みで気絶する事も出来ず、フランシェスカ嬢達が迎えに来てくれるのを待つ。ムルルに抱えてもらって帰るのも良いが、それだと恥ずかしくてもう商業都市の大通りを歩く事が出来なくなる。
先ほどまで戦いの余韻で火照っていた身体も、今は雨に濡れて冷えている。身体中の痛みが増したように感じるのも、気のせいではないだろう。
両手両足は動くし、感じる限りだが身体の方も痛みは酷くても呼吸が辛いという訳ではない。骨は折れていないだろう。
自己判断だが、空から落ちたというのにこの程度で済んだのは幸運か。
『む』
ムルルの濡れた耳がピクピクと動くのと、エルメンヒルデが気配に気付くのは同時。そこでようやく、誰かが草を踏みしめながら歩いてくる音に気付いた。
顔を上げると、こちらも雨に濡れたフェイロナ達である。
「よう」
「まったく。見ている方が心配になるな」
「言い訳のしようもない」
そもそも、俺は空を飛ぶつもりは無かったのだが。
「しばらくは、空を飛びたくない」
「また飛ぶ気なのか?」
「あと一回な」
アーベンエルム大陸に渡るには、ファフニィルに運んでもらう必要がある。つまり、最低でももう一回……帰りを考えると、あと二回は空を飛ばないといけないのか。
考えるだけで憂鬱になってくる。幸太郎に転移魔術で運んでもらうという手段もあるが、転移というのは原理が分からないので怖いのだ。出来れば使いたくない。転移よりは……どっちもどっちか。
「んじゃ、帰るか」
「巣を始末したらな」
「……そうだったな」
さっさと帰って、宿屋のベッドで寝たいね。
フェイロナの手を借りて立ち上がると、そのまま肩を借りて歩き出す。フランシェスカ嬢が、心配そうな顔をしながら立つのを手伝ってくれる。
「フランシェスカ嬢も、よく頑張ったな」
『そんな姿をしているレンジが言うのも、どうかと思うがな』
「本当にな」
いつもの調子で肩を竦めようと、痛みに呻いてしまう。
「また、助けられてしまいました」
「気にするな。助けたつもりは無いさ」
俺がそう言うと、不思議そうな顔でこちらを見上げてくる。肩を竦めるのは無理だったが、笑うくらいはできるだろう。……引き攣った笑みでなければいいのだが。
「俺としては、一緒に戦ったつもりだ」
「ふふ。はい……はい」
「そうだな。少しばかりレンジの負担が多かったが、な」
「少しどころじゃないと思うがね」
今度は、フェイロナに頑張らせようと思う。こいつなら、俺よりも要領良く動き回りそうだ。
僅かにだが、皆の表情に笑みが浮かぶ。
それがいい。心配されるより、皆に笑っていてもらった方が、気が楽だ。
「蓮司さん」
空いた右手に、阿弥の手が重ねられた。
震えているのは寒いから……ではないのだろう。
「ありがとうな、阿弥。助かった」
体中が痛むが、その痛みを無視して笑う。
本当、大人というか、男というのは見栄っ張りだ。どれだけ痛くても、我慢して笑おうとするのだから。
そんな俺を見て……溜息を吐いた後、阿弥も笑ってくれた。




