第四話 旅の始まり3
馬車に荷を乗せ終える頃には、太陽の光が山間から覗き始めていた。北門前に五台の馬車が並び、それぞれに御者が乗り。続いて、フランシェスカ嬢やメーレンティアさん、そしてソルネアが一番前の馬車へ乗り込んだ。少し遅れて十数人の冒険者も馬へ乗り、馬車の左右へと分かれる。
それでも城門を通るには余裕があり、城壁の上に立って夜通し見張りをしていた兵士が「開門」と声を上げた。
城門の脇に控えていた兵士が木製のクランクハンドルを回すと、重苦しい音を立てて分厚い木製の扉が開いた。
視界が開ける。薄暗く、静かな世界。黒い山、蒼い雲、冷えた空気。丁度、世界が陽光によって色を取り戻す瞬間。
山の合間から太陽が覗くと、暗かった世界に色が蘇っていく。その瞬間を見ながら、俺達も馬へと乗った。同時に、先頭馬車の御者が「はっ!」と激を飛ばして、馬車を進ませ始めた。
「なんだか、楽しそうですね」
傍に馬を寄せてきた阿弥が、笑顔でそう言う。そう言う阿弥も楽しそうに見えるのは、気のせいではないだろう。
「ああ。やっぱり、俺は旅が好きなんだろうな」
『ふふ……よくもまあ、見飽きないものだな』
「まあな。俺でも、毎日見てる景色だっていうのに、よく飽きないなって思うよ」
エルメンヒルデの軽口に答えながら、先頭馬車に馬を横付ける。バートン家付きの騎士と思われる人たちは前から二番目に並んだ馬車の左右に付き、他の冒険者たちは更に後ろの馬車に付く。先頭馬車の右手には俺と阿弥、左手にはフェイロナとムルルが付く恰好だ。
舗装されているとはいえ、現代社会のようにアスファルトで平坦という訳ではない。街道に並べられた白石の僅かな凹凸の上を、馬車の車輪がガタゴトと重い音を立てて進んでいく。その音を心地良く思いながら、視線を空へ。早起きの小鳥が、数匹集まって空を飛んでいる。車輪の音に混じって、チチチ、という鳥の声が聞こえた。
「阿弥は、旅は嫌いか?」
「私も好きですよ。嫌いなら……その、追いかけませんよ?」
「そうか」
僅かに言い淀んだのは、その言葉に色々な感情を乗せているからか。そのいくつかを感じながら横目を向けると、次第に強くなっていく陽光に照らされるはにかんだ笑顔があった。
一際強く、風が吹いた。阿弥の髪とローブを攫い、俺の外套を大きく揺らすほどに強い風だ。視線を阿弥から空へ、再度移す。雲の流れが速い。だが、空気が湿っているようには感じない。雨は、降らなさそうだ。
旅立つには、絶好の日和。心だけでなく、体まで軽くなりそうな気がした。
「また、よろしくな」
「え?」
「一緒に旅をするんだ。よろしくな、阿弥」
俺が改めてそう言うと一瞬驚いた顔をする阿弥。その顔が可笑しくて口元を緩めると、からかわれたでも思ったのか、恥ずかしそうに視線が逸らされた。
俺だって、ちゃんと言うべき事は言うとも。その辺りは、有耶無耶にするつもりは無い。
「はいっ」
そして、一拍の間を置いて満面の笑顔で返事をしてくれる。その笑顔は年相応の少女が浮かべる笑顔そのもので、変に気負った感じがしない。今までの阿弥が浮かべていた表情よりも、ずっとよく似合っている。
子供らしい笑顔と、女らしくあろうとする背伸び。その、両方の貌を持つ阿弥。さて、俺はそのどちらの阿弥を望んでいるのだろうか。
『私には無いのか?』
「うん?」
『よろしくとか、なんとか』
もう何度目かの自問を頭の中に浮かべていると、エルメンヒルデがまた変な事を言い出した。
それは催促するような事ではないだろう、と。阿弥も同じような事を思ったのか、右手で口元を隠している。肩は僅かに震えているが。
まあ、コイツも新しい旅という事で心が高揚しているのか。なんとも――本当に、人間臭いヤツだ。
「お前はいつも、俺と一緒だろうが」
『む』
「今更だろうけどな――今回の旅も、よろしく頼む」
これでいいか?
言外にそう告げると、エルメンヒルデは何も言わずに黙ってしまった。
「……仲、良いですね」
「どうだろうなあ」
『ふふ』
少し唇を尖らせた阿弥を見ながら馬を操っていると、コンコン、と軽いノックの音と共に馬車の窓が開いた。そこから顔を覗かせたのは、メーレンティアさん。窓から入り込む風が、フランシェスカ嬢と同じはちみつ色の髪を揺らしている。視線をそれとなく馬車の奥へ向けると、ソルネアはフランシェスカ嬢と話しているようだ。
馬車が出発する前にフランシェスカ嬢にソルネアの相手を頼んでいたのだが、どうやら大丈夫のようだ。そのソルネアの表情は、相変わらずであるが。一瞬だけだったが、俺の視線に気付いたのか横目を向けてくる。それに合わせるようにフランシェスカ嬢もこちらを向いたが、その二人に何かを言う前にメーレンティアさんが口を開いた。
「レンジ様、アヤ様。お体は寒くありませんか?」
「お気遣いありがとうございます。ですが、大丈夫です。旅には慣れていますので」
「そうですか。何かありましたら、遠慮なく」
「いえ。そのお心遣いだけで十分です」
そう言うと、馬車の窓が閉じられる。視線を感じたので阿弥の方を向くと、横目でこちらを見ていた。もちろん、笑顔などどこにも無い。
「随分と、仲が御宜しいようで」
さっきとあまり変わらない言葉だというのに、刺々しく感じるのはなんでだろうね。
そんな馬鹿な事を考えながら、首をコキコキと鳴らす。堅苦しいとも言えないが、どうにも話し慣れない言葉で話すと肩が凝ってしまう。今日の夜は、阿弥に肩でも揉んでもらおうか。そう考え、それってセクハラになるのかなあ、と。
「ただの社交辞令だけどな」
「とてもそうは見えませんでしたけど?」
その低い声音に、不覚にも笑ってしまう。阿弥に怒られると分かっていても、どうしても声に出してしまった。
案の定、余計にムッとした表情となる阿弥。この程度の社交辞令など、舞踏会や夜会に参加すれば茶飯事だ。それこそ、英雄という肩書に寄ってくる淑女達からなど腐るほど言われたといってもいい。メーレンティアさんの言葉も、その一つだ。
それほど俺も社交界に精通しているわけではないが、それなりに沢山の人と話してきたのだ。相手の内心、その表面程度は読める自信がある。
メーレンティアさんは商人だ。きっと、それ以上でもそれ以下でもない。だからこそ、俺達に気を掛けるのだろうと思う。英雄に、価値があるから。そういうものだ、根っからの商人というのは。こうやって馬を用意して、一緒に商業都市へ行くのも、そこに何かしらの益があるからだろう。フランシェスカ嬢の家族だからと、その言葉に甘えられるほどこの世界は優しくない。世界というか、業界か。俺達の世界より社会が百年単位で後退していようと、人間の本質はそう変わらないと言ったのは誰だったか。
こうやって俺達が先頭馬車の護衛……とも呼べないかもしれないが、並んで馬を走らせているのも俺と阿弥の顔を立てるという事もあるが、俺と阿弥と一緒に旅をしたというアピールもあるのではないだろうか。それが俺の邪推なのかどうかは分からないが、俺としては素直に受け取れないのだ。色々と。
それにしても――俺なんて、英雄と呼べるほど何かを成したわけでもないのだが。ま、一緒に旅をしたことが無いなら分からないか。
「まだまだだなあ、阿弥は」
「……むう」
その辺りの機微が分からないなら、まだまだ阿弥の社交界デビューは先かもしれないな。あの過保護ともいえる宇多野さんが、こんな阿弥を社交界に出すとも思えない。今のままだと、悪い男に引っ掛かりかねないし。
まあ、悪い男と言えば俺も含まれるかもしれないが。何を言おうが、自分が優柔不断という自覚はある。今の関係を壊したくないとも。
それを自覚して尚……阿弥と、こうやって踏み込めずに会話をしているのだから。
「そのうち分かるさ」
「そういう所、前から変わりませんね」
「ん?」
「……子供扱い」
ああ、と。
そうやって拗ねるところが、子供っぽいと思うのだが。宗一は、阿弥は大人っぽく振る舞おうとしていると言っていた。俺と並べるように。その言葉を思い出すと、どうしても思ってしまう。俺は、そんな姿は望んじゃいない、と。
こうやって子供らしく拗ねて、怒って、頬を膨らませて。変に気負うことなく喋って、笑って、馬鹿をして怒られて。そういう関係が、良い。その方が、肩肘張らずに……安心できる。
そんな事を言うと、阿弥は「また子供扱いして」と怒るだろう。そう分かっているから、何も言わずに左手の革手袋を外した。冷たい空気に触れた指先の感覚が薄れる。冬は辛いね。
「別に、子供扱いをしているつもりは無いがね」
言って、革手袋を外した手を阿弥の頭の上に置く。撫でるというよりも、ただ置いただけ。ぽん、と軽く叩くだけだ。俺は髪を伸ばした事は無いが、長い髪をセットするのが大変だという事くらい知っている。撫でてそのセットを崩すのも悪いだろう、と思ったのだが。
「むう」
どうやらそれも、色々と納得がいかないようだ。怒ったという訳ではなさそうだが、阿弥の乗った馬が俺から少し離れてしまう。
これってセクハラなのかね?
考えるが、答えは出ない。一年前までは何も言われていなかったが、そろそろこうやって髪を触るのも駄目な年頃なのか。子供の成長を喜ぶべきか、その変化を悲しむべきか。ま、前者だろうな。
視線を阿弥から逸らして、前へ向ける。目的地は遥か先、影も形も見えやしない。
王都からメルディオレまでは馬や馬車で五日。魔術都市よりも近いが、それでも十分遠い。夜は途中の村で宿を借りるという事なので、日数はもっと掛かるかもしれない。
『退屈な旅だ』
革手袋を嵌めていると、エルメンヒルデがポツリと呟いた。その一言に、俺も阿弥も小さく吹き出してしまう。
『ん?』
「俺としては、退屈なくらいでちょうどいいんだがな」
「私も」
『そうか。私としては、もっとレンジに英雄らしい行動をとってほしいのだがな』
「……まだ言ってるのか、それ」
俺には似合わないと思うがね。俺は肩を竦め、阿弥はクスクスと口元を隠して笑う。
「ふふ。蓮司さんに、似合うかもしれませんね」
「勘弁してくれ。英雄の真似事なんてしたら、俺の命がいくつあっても足らないよ」
『その為の神殺しの武器だろうに。フランシェスカやムルルを助けた時の気概はどうした』
「あれは、助けたというよりも一緒に戦ったの方が正しい表現だと思うがなあ」
黒いオークや、腐霊の森のスケルトン。そのどちらも俺にとっては強敵で、一人で戦っていたらどうなったか分からない。そう考えると、やはり助けたというよりは一緒に戦ったという方が正しいように思える。
しかし、そんな事を知らない阿弥は、興味を惹かれたようで僅かに瞳を輝かせながら俺を見ていた。腐霊の森のスケルトンは戦う前までは一緒に居たし、トドメは偶然とも言える地層抜きの高火力魔術だったので倒したという実感は無い。その後、気を失ったし。
そう考えていると、また馬車の窓が軽くノックされた。視線を向けると、丁度窓が開くところで、そこから覗いたのはまたメーレンティアさんの貌だ。
「その話、私がお聞きしても?」
「さて。盛り上がりに欠ける、どこにでもある魔物退治の話でしかありませんが。構いませんか?」
「ふふ。是非に」
はて、窓は閉じられていたのだが……聞き耳を立てていたのだろうか。それとも、外の声が聞こえるほど薄い窓なのか。
内心で首を傾げると、そういえばエルメンヒルデが喋っていた事を思い出す。もしかしたら、その《声》を聞いたフランシェスカ嬢が教えたのかもしれない。そう思って馬車の奥へ視線を向けると、向こうは反対側の窓を開けてムルルにお菓子を渡していた。何をやっているんだろう、あっちは。仲が良くて羨ましいね。
もしかしたら餌付けされたムルルが犯人かもしれないが……ま、このくらいならどうでもいい事か。
『では。阿弥も居る事だし、一年前の話から始めるか?』
エルメンヒルデがそう言うと、目に見えて阿弥の表情が綻んだ。そんなに楽しい事でもないのだが。
一年前。魔神を殺した後、俺達十三人は王都に戻って体を休めていた。阿弥が知っているのは、その時までだろう。王都に戻って、部屋で休んで……次の日、今日のように太陽が顔を覗かせる前という早い時間に、俺は王都イムネジアから姿を消した。
その後、王都がどうなったか、俺は知らない。風の噂では、宇多野さんが色々と根回しをして俺が姿を消した事を良い方に解釈するような噂を流したのだとか聞いたが。
さて、その間……俺が何をしていたか。
「といっても。今と変わらず、必死に魔物を討伐しまくっていた記憶しかないが」
『まあ、そうだな』
初めの頃は、それはもう真面目だったとも。必死に、自分の身体を苛めるように魔物を狩りまくった。今思うと、ただの八つ当たりでしかないのだが。
エルが死んで、アストラエラに頼んで蘇らせたら全くの別人で。どうすればいいのか分からなくて、ただただ只管、エルメンヒルデを手に魔物を殺しまくった。うん。やっぱりどう考えても、八つ当たりだ。
その辺りで、一回燃え尽きてしまったのだろう。半年もする頃にはヤル気のヤの字も残っていなかったような気がする。そして後は、エルとの約束を果たすために旅をして、路銀が尽きた頃にフランシェスカ嬢と出会った。なんとも、ヤマもオチも救いも無い話である。小鳥のようにピーチク喋る吟遊詩人でも、この話では謳えないだろう。
「どこから話したもんかね」
『取り敢えず。阿弥の知らない一年で、レンジは三人の女を助けていてな』
おい馬鹿、やめろ。過去を捏造するな。
恐る恐る視線を横に向けると、阿弥がさも話が待ち遠しくてたまらないといった笑顔を浮かべていた。……どうして笑顔なのに、こうも攻撃的な雰囲気なのだろうか。もしここに他の人の目が無かったら、俺は落とし穴に落とされた後、首だけを出した状態で釈明させられたかもしれない。
エルメンヒルデの声が聞こえないメーレンティアさんに目立った変化は見えないが、馬車の奥に居るフランシェスカ嬢は肩を震わせて笑っていた。必死に声を押し殺している辺り、俺の女性関係というのは結構な笑い話になるのかもしれない。ソルネアは、どうでもいいような顔で馬車内に用意されているお菓子に手を伸ばしている。
「そうだなあ……っと」
『どうした?』
慌てて馬の手綱を引くと、突然の事に慌てた馬が少し暴れてしまう。
のんびりと前を見ながら馬を歩かせていたら、丁度叢の奥に小柄な人影が見えたのだ。この辺りに子供が居るはずも無いので、十中八九でゴブリンだろうが。
目を細めるが、もうその姿は確認できない。まあ、おそらく数匹――十匹も居ないだろう。それだけの数なら、この数の冒険者を襲おうなどと思わないだろう。そのまま馬を落ち着かせ、スピードを少し落とす。
「どうなさいました、レンジ様?」
「いえ、叢に魔物が居ましたので」
俺が軽い口調で言うと、メーレンティアさんの雰囲気が硬くなる。反対側ではフェイロナ達も気付いたようで、ムルルがお菓子を食べる手を止めて前方を睨んでいるのが窓越しに見えた。
後ろを見ると、冒険者たちに何かを見付けたような動揺は感じられない。おそらく、偵察というよりも通り掛かっただけなのだろう。
「ゴブリンですか?」
「ん? ああ。阿弥も気付いたのか」
まあ、あれだけ目立てば気付くよな、と。俺へ冷たい視線を向けながらも気付く辺りに、俺と阿弥の間にあるスペックの差が窺える。
「これだけの冒険者が揃ってるし、襲ってこないだろ」
「そうですね」
魔物というのも馬鹿ではない。自分達より数が多い集団に襲い掛かるような愚は犯さないだろう。偶にそういう馬鹿も居るが、それは返り討ちにすればいい話だ。
味方の数が多いからと油断するつもりも無い。それは他の冒険者たちも同じだろう。王都を……厚い城壁に守られている場所を出たのだ。そこを一歩出たら、もうそこは魔物の生息圏。常に死と隣り合わせの過酷な世界。
こんなにも景色は綺麗で、空気は美味くて、風は心地良いというのに。なんとも夢が有りそうで無さそうな、そんな世界なのだ。
「大丈夫なのですか?」
「問題無いでしょう。何かありましたら、剣を取りましょう」
「ふふ。それは心強いですね」
まあ、誰が剣を取るか、というのは明言していないが。そんな俺の言葉に気付いている阿弥は、隣で溜息を吐いていたりする。ちゃんと、メーレンティアさんには見えないよう、俺を壁にして。
実際の話。もしゴブリンが襲ってきたら、この一団へ届く前にフェイロナの弓か阿弥の魔術でカタが付くだろう。ゴブリン――いや、蜥蜴人間クラスまでなら、それで十分か。まあ、リザードマンは水辺に生息しているので、内地の街道にはあまり姿を現さないが。
「それで、一年前の話だったな」
「ええ。蓮司さんが、三人の女性を口説いたとか」
『うむ』
うむ、じゃねえよ。口説いてないし。
・
ああ、疲れた。
ベッドへ腰を下ろしながら大きく息を吐くと、隣のベッドに腰を下ろしていたフェイロナがこちらを向いた。日中は馬車で移動し、夜は王都と商業都市の間に点在する村で休む。やはり貴族というのは、野営をしたがらない。まあ、風呂も無いのだから当然と言えば当然か。
「随分と疲れているようだな」
「旅は好きだが、お喋りはあまり好きじゃないんでね」
日中はずっと俺の昔話で盛り上がったのだ。肉体的にはそうでもないが、精神的にはとても疲れた。こうなるから馬車に乗るのを断ったというのに、結局あまり意味が無かった。
まあ……阿弥があそこまで一喜一憂してくれるとは予想していなかったが。それも、一人で姿を消した俺を心配してくれていたからだろう。そう思うと、なんともむず痒い気持ちになってしまう。駄目だね、こういうのは俺のキャラじゃない。
そう思いながら、コキコキと首を鳴らした。
「その割には、良く喋っているように思うが?」
「仲間内だけさ。これでも、結構人見知りなんだよ」
「ふ。さて、どこまで本気なのやら」
フェイロナとの会話を楽しみながら、装備を脱いで身軽になった体の節々を軽く動かす。しばらく王都で体を動かしていなかったからか、また随分と体が鈍ってしまった気がする。
それは同室となった金髪のエルフも同じようで、俺と同じように日中の旅で強張った体を動かしながら解している。
ちなみにエルメンヒルデは、この村に着いてから阿弥に預けている。人前で使うつもりも無いし、剣ならちゃんと持っている。……エルメンヒルデは地味に嫌がるが。それに偶には、アイツも女の子達に交じってお喋りにでも花を咲かせて来ればいいと思ったのだ。俺なりの気遣いを、アイツはとても嫌がるが。
今頃は一緒に風呂にでも入っているのかもしれない。……メダルをお湯につけても大丈夫なのかは疑問だが。
「それで」
「ん?」
「エルフレイム大陸へ渡ると言っていたが、それが旅の目的か?」
そういえば、まだ旅の目的は伝えていなかった事を思い出す。
「それは、俺と一緒に大陸へ渡ってくれると受け取って良いのか?」
「ああ。長からは、お前に力を貸せと言われているからな」
長、というと魔力の森に住むエルフ達の長だろうか。はて、何かしらの恩を……と考えるが、彼に何かをした記憶は無い。
もしかしたら副次的に、何かしら関わったのかもしれないが。
「それに。個人的にも、レンジの旅には興味がある」
「俺の?」
「魔力の森や魔術都市で仕事をしていた頃よりも、お前と一緒だと刺激的で楽しいからな」
「ふ……保守的なエルフの考えじゃないな」
「まったくだ」
エルフは自分達の領域からあまり出ないので、魔術都市で仕事をしていたフェイロナはそれだけでも変わり者と言えるだろう。その上さらに、今度は別の大陸へ出ようとしている。変化を嫌うエルフにしては、随分と行動的だ。
「ああ、それで旅の目的だったな」
「さて。報酬の交渉とでもいくか?」
「お前相手に勝てる気がしないけどな」
「それは、そのよく回る口を閉じてから言う事だ」
報酬の交渉だというのに、口を閉じろとはこれいかに。フェイロナの冗談に口元を緩め、視線を窓の外へ。日は落ちて、外はもう薄暗い。王都に近い村だからか、陽の落ちた世界を魔力灯の薄明かりが僅かに照らしている。
その薄明りの下を歩く村人たちは、どこか興奮しているようにも見える。おそらく、貴族の団体が宿を借りているからか。村には大きな道具屋や酒場、娼館のようなものまである。今は見えないがそういう店に冒険者達が入って行く所も見えていた。そうやって、お金を落としていく団体様が村に来たので喜んでいるのだろう。
メーレンティアさんとフランシェスカ嬢にはお付きの騎士、いざとなったら傍には阿弥も居る。特に危険もなさそうだが、突然何かが起きても大丈夫だろう。
「取り敢えず、俺からの依頼は商業都市へ着いてからだな。ここだと、誰かに聞かれる可能性もある」
「そうか」
それ以上言ってこないのは、その言葉で誰かに聞かれては拙い事だと理解してくれたからだろう。本当に、このエルフには頭が上がらない。頭の回転もいいし、察しもいい。
「それで、これからどうする?」
「といってもなあ。風呂で汗を流して、酒場を冷やかすかね」
つまり、いつも通り。俺の酒好きを知っているフェイロナは、特に何も言ってこない。これがエルメンヒルデなら、溜息と一緒に小言が始まるのだが。
それを物足りないと思ってしまう辺り、どうしようもない。そんな自分に苦笑してしまう。
「なら、今日は私が付き合おう」
「おう、付き合ってくれ。一人で飲むより、二人の方が酒は美味い。酒と会話は、一人だと寂しいからな」
「私は目付け役だ。お前一人だと、飲み潰れそうだからな」
あれ。俺って、酒癖が悪いように思われているの?
潰れるまで飲んだのは……そんなにないはずだが。
「……仕事の最中に、そこまで飲まないからな」
「どうだか。昨日の夜も飲んだと言っていたではないか」
そう言って、苦笑しながら部屋を出て行くフェイロナ。その脇には着替えが抱えられている。俺も荷物から着替えを取り出すと、その後を追いかけて部屋を出た。
二階には俺とフェイロナが使っているような相部屋とは別に、少し高い料金で選べる個室もある。廊下の奥側にある数部屋がそうだ。その入り口には騎士が経って見張っていた。そこがメーレンティアさんの部屋である。本当はフランシェスカ嬢も個室の予定だったが、ムルルがあぶれるので相部屋を使っている。それと、阿弥とソルネアが同室だ。その二つの部屋の入り口にも、騎士が控えている。
あれ、逆に気になりそうだと思うのは俺だけではないだろう。取り敢えず、阿弥は微妙に困った顔をしていた。王城のようにしっかりした作りの壁と扉なら大丈夫だろうが、木製の壁と扉では会話が聞こえてしまうだろう。
「どうした?」
「いや、なんでもない」
そんな騎士達を見ていた俺を不思議に思ったのだろう。立ち止まったフェイロナが聞いてくるが、首を横に振って応える。
まあ、聞かれて困る会話もしないだろうし、本当に困ったら俺かフランシェスカ嬢にでも相談してくるはずだ。それに、阿弥もなんだかんだでこういう生活には慣れているはずだ。数日程度なら問題は無いだろう。
「昨日は、酒と一緒に変なのを飲んだり飲ませたりしたんだよ」
「なんだ、それは?」
「まあ、色々あったんだ。本当に、色々……」
俺がそう言うと、あまり聞いてはいけない類の話だと気付いたようで、それ以上の追及は来なかった。
そのまま宿屋の一階にある風呂場へ向かう。俺達以外の客も居て、結構な大人数だ。村のどの家にも風呂があるわけではないので、宿屋の風呂を利用している村人達のようだ。ちょっとした大衆浴場……銭湯のような感じである。いや、風呂には屋根が無いので、露天風呂か。木製の壁一枚を隔てた向こう側が女湯なので、余計にそんな感じがする。
それを特に気にする事も無く服を脱ぐと、僅かなどよめきが広がった。その原因は、俺の身体。全身に残る、多くの傷痕だ。視線が集まっているので、嫌でも分かってしまう。
「初めてではないが、相変わらず凄いな」
「そうでもないだろ」
それなりの修羅場を潜った冒険者なら、これくらいの傷痕は、と思うのだが。そう思いながら、改めて自分の身体を見下ろす。この体に残る数多くの傷痕の殆どは、魔神に付けられた傷だが。中には、弥生ちゃんと別れて行動していた時に着いた傷もあるけど、大体がネイフェルとの戦いで負った傷だ。
俺には魔力が無いので弥生ちゃんの能力でも傷が治りにくいという事もあるが、ネイフェルから負わされた傷は特に治りにくかったのだ。女神から与えられた能力と、魔神の力。与えられた力と純粋な神の力では、どちらが強いかなど分かりきっている。特に治りにくい俺は、どうしても傷が残ってしまったのだ。
まあ、身体の傷は男の勲章。そう、前向きに考える事にしている。偶にというか、かなりの確率でドン引きされるが。
「これで、顔にも傷があれば格好良いんだろうけどな」
「ふ。お前はどんな時でも変わらないな」
「慣れさ、慣れ。好奇の視線には慣れるのが一番だ」
そういうフェイロナの身体は綺麗なものだ。エルフ特有の白磁のような肌には、僅かな傷も無い。エルフ自身の治癒能力が高いし、精霊の力を借りてさらに回復力を高める事も出来るのだから、それも当然か。
ここで悔しいという思いよりも、なんとなくだが勝ったと思ってしまう辺り、どうかしてるのかもしれない。
服を脱ぎ終わって頭と身体を洗うと、十数人は余裕で入れるほどの大きさがある風呂へ体を浸ける。風呂の準備をしているのが魔術師なのだろう、もう何十人という人間が入ったはずなのにお湯は綺麗なままだ。温度も丁度良い。
「ふう……」
どうして人間というのは、お風呂に入ると声が漏れてしまうのだろう。肩まで浸かって目を閉じながら、そんな事を考えてみる。
ああ、疲れが抜けていく。やはり、旅の後に入る風呂は堪らない。こうやって疲れを抜いた後に飲む酒は、格別なのだ。今から楽しみで堪らないね。
今日はエルメンヒルデも居ないので、何の気兼ねも無く楽しめる。そうやって気を緩めていると、少しの間を開けてフェイロナが隣に浸かる。長い金髪は、お湯につからないようにタオルで巻かれていた。なんだか肩から上だけを見ると、エルフ特有の美貌も相まって、女の人に見えなくもない。
「最初はどうして湯に体を浸けるのか理解できなかったが、これは確かに心地良いな」
「だろ? 風呂を考えた最初の人は、天才だな」
「ああ、まったくだ」
村の子供達だろう、数人の子供が浴室内を走り回っている。その子供達を注意する大人達も居ないようで、浴室内はとても騒がしい。
ま、こういうのも大衆浴場の醍醐味なのかね。ふと、視線を隣の女湯とを隔てている木製の壁へ向ける。向こうは女湯なのか、と。
「どうした? 向こうが気になるのか?」
「……お前の中で、俺は一体どれだけの問題児なんだろうな」
それに、興味があるのかと聞かれると微妙なところだ。女性に興味はあるが、名前も知らないような人を覗く趣味も無い。それに、フランシェスカ嬢やメーレンティアさんには冗談が通じなさそうだし。阿弥は慣れた調子で落とし穴に落とすか、殺傷能力の無い魔術でふっ飛ばしてくるか。どちらにしても、痛い目にはあうが怪我をする事も無いだろう。ムルルとソルネアは……分からん。見ても何の反応も無い気がする。少なくとも、ソルネアは。
「すまないが、先に失礼する」
何故か頭の中で覗いた時の反応を考えていると、隣のフェイロナが立ち上がった。そのまま湯船から出て行く。あまり風呂にも慣れていないようなので、長湯は辛いのだろう。
なら俺も、と。続いて湯船から上がる。一人で風呂に入るのも、なんだか寂しいではないか。昔はそれが普通だったのだが。昔の宗一達は、一緒に風呂へ入るのをとても恥ずかしがったものだ。あの年頃なのだからしょうがないのかもしれないが、何時からアイツらは一緒に入るのに慣れたのだったか。
そう考えながら着替えを済ませる。何かあった時の為に竜骨のナイフをベルトへ差し、服は気軽に動けるチュニックとズボンだけ。フェイロナも同じようなものだ。
「それじゃ、飲みに行くぞ」
「ああ。まったく、こういう時は生き生きとしているな、お前は」
「旅の醍醐味の一つは、村の美味い飯と酒だと思っているからな」
「お前らしいと思うよ、本当に」
フェイロナの呆れ声を聞き、笑いながら夜の村に繰り出す。偶には、男二人というのも悪くない。今まではずっとフランシェスカ嬢やムルルが一緒に居たからか、今夜は楽しめそうだ。




