第八話 彼の剣
ああ。これは夢だ。
惨劇としか言いようのない絶望的な状況を目にしながら、誰かがそう呟いた。
・
はぁはぁ、と荒い息を吐きながら石造りの廊下を全力で走る。周囲から飛び交う怒号と絶叫に耳を塞ぎたくなるが、右手は背負った宗一君を支えており、左手は緋勇ちゃんの手を引いているために自由に使えない。背負っている宗一君は、気を失い脱力しているのでとても重い。だが、弱音を吐いている余裕はない。背後からは『死』そのものとすら言ってもいいような化け物が迫ってきているのだ。俺達が来た方向へ駆けていく兵士たちとぶつかりそうになりながら、なんとかやり過ごす。こちらをまったく気にしていない行動に、現状がどれだけの異常事態なのか改めて感じてしまう。鉄の鎧兜が体に当たって物凄く痛い。
オブライエンさんたちは足止めをしてくると言っていたが、あんな化け物達に勝てるとはとても思わない。一緒に召喚された仲間たちの中で一番強かった宗一君でさえ、ただの一合で気絶させられた。オブライエンさん達が逃がしてくれなかったら、最悪の結末すら覚悟しなければならなかっただろう。そのオブライエンさんも、あの化け物達の足止めの為に修練場に留まっているというのに……俺は無様に緋勇ちゃんの手を引きながら逃げているだけだ。こんな時の為に、俺達はこの世界に召喚されたというのに。
いや、そもそもなんの経験も無い俺たちが特別な力を得たとして、だからなんだという話だ。どれだけ強力な異能を得ようが、所詮は素人でしかない。大きな怪我を見ただけで身が竦み、死体なんか見たら吐いてしまう。
「お、お兄ちゃんっ」
緋勇ちゃんが俺を呼ぶ。しかし、その声に応えることなく、俺はその小さな手を握って必死に走る。窓から見える空は目が眩みそうなほどの快晴なのに、どうしてこんな事になったのか。突然の凶事に現実逃避してしまいそうになるが、首を振って気を落ち着ける。考えている暇があるなら走れ。走って逃げろ。このままでは、俺達は全滅だ。緋勇ちゃんの小さな手を強く握る。この少女だけでも守らないといけない。
「大丈夫っ。あんなの、オブライエンさん達がさっさと片付けてくれるさ」
「う、ん……」
そうは言うが、緋勇ちゃんの表情は優れない。それもそうだろう。このままでは……いや、王城はもう終わりだ。その事に、小学生の女の子だって気付いている。それほどまでに戦力差がありすぎるのだ。
今王城を襲撃しているのは本で読んだ最下級の魔物であるただのゴブリンやオークではない。上等な装備に身を包んだ最上位の魔族たちや、強靭な肉体を持つ凶悪な魔物たち。その中には、騎士団の人間が数十人がかりで討伐するような大型のキマイラやゴーレムのような存在まで居る。しかも、そんな化け物たちが一匹や二匹ではないのだ。
いきなりの奇襲。いつものように訓練をしようと修練場へ向かったら、空間が歪んで現れた魔物たち。対応できる方がどうかしている。偶々一緒に居た宗一君が対応しようとしたが、その結果が俺の背中の状態だ。いくら強力な女神の加護を受けていようと、宗一君は先日までただの中学生だったのだ。いきなり殺し合いの渦中に放り込まれても、対応できるはずがない。結果、気絶してしまった宗一君を背負い、緋勇ちゃんの手を引いて逃げ出すしかなかった。
宇多野さん達は無事だろうか。確かめる術が無いのでどうしようもないのだが、せめて心中でだけでも無事を祈る。
そうやっと、どれくらい走っただろうか。見慣れた大扉を見付け、急いでその中に入る。
大聖堂。いつもなら静謐な空間であるその場所は、大勢の人で溢れかえっていた。怪我をした兵士や騎士達。そして、治療に追われる神官達。
まるで映画で見るような戦場だ。その光景に、呆然と立ち尽くしてしまう。身体に力が入らない。頭が働かない。血の匂いと、痛みに呻く声が気持ち悪い。ここが現実だと、とても思えない。
しかし、そんな俺の手を引く、小さな手があった。
「だ……だいじょう、ぶ?」
その声は、緋勇ちゃん。呆然と立ち尽くしていた俺を現実に引き戻したのは、ただの小学生でしかない少女の不安に満ちた視線だった。
ああ、そうだ。ここで俺がしっかりしないでどうするというのか。今この少女の手を握っているのは俺なのだ。俺が不安になってどうする。
「緋勇ちゃん、少し休もう」
大扉を閉め、緋勇ちゃんにそう声を掛ける。いきなり現れた俺達を心配して、声を掛けてくれた神官の一人に宗一君を預けて俺と緋勇ちゃんは大聖堂の奥へと進む。足の踏み場も無いほどに毛布やタオル、医療道具で溢れている床や長椅子を見ていると、胸が締め付けられるような感情に襲われた。
俺は戦うために召喚されたのに、こうやって逃げてきた。その事実が、胸に棘のような物となって突き刺さる。最奥にはいつもと変わらずに佇む銀の女神像があり、数人の神官たちが彼女に祈りを捧げている。しかし、女神がその祈りに応えることはない。彼女はこの世界には居らず、別の場所でこの世界を見守っている……のかもしれない。
そんな女神像の近く。運よく何の道具も乗せられていなかった長椅子に腰を下ろし、緋勇ちゃんも俺の隣へ座る。腰に差していた長剣が邪魔で床へと放ると、ガチャン、と高い音を立てた。隣に座った緋勇ちゃんに視線を向けると、色素欠乏症特有の白い髪が汗で頬に張り付き、浅く早い息を吐いている。大人の俺だって疲れるほど走ったのだ、小学生の緋勇ちゃんならどれほどの疲労を感じているのか。この子の事を考える余裕すらなかった自分が、本当に惨めになってくる。
「大丈夫、です……か?」
「ああ。緋勇ちゃんは?」
「……私も、大丈夫」
その一言に、少しだけ胸が軽くなった気がした。しかし、これからどうするか考えると、やはり頭が痛い。
あれだけの魔物の大群に侵入されたのだ、全部を討伐しなければならないのは明白である。しかし、それだけの力が無い。人員も、力も、何もかもが足りない。俺はともかくとして、肝心の宗一君だって気絶してしまっている。他の皆も、この混乱で今はどこに居るのか分からない状態だ。世界を救うために召喚されたというのに、全く役に立っていない。それどころか、救うべき世界の住人に守られる始末だ。
こうしている間にも怪我人は増え続け、死人も――。
こんな事がこの世界の日常だというのなら、完全に心が折れてしまう。甘く考えていた。世界を救うなんてただの人間には無理だと分かっていた、俺達だけでは世界を救うことは難しい。戦った経験どころか、剣を握った事すら無かったのだ。
「お兄ちゃん……これから、どうするの?」
「あ、ああ」
そうだ、心中で言い訳をしている暇はないのだ。俺にも緋勇ちゃんにも、女神様から授けられた異能がある。そう思い、ポケットから金のメダルを取り出した。ただの金のメダル。この世界に流通している金貨とは意匠は異なるが、しかしそれだけだ。買い物に使えるわけでもなければ、骨董品のように特別な価値があるわけでもない。女神さまから貰ったものだが、信憑性なんてありはしない。そんな、たった一枚のメダルでどうしろというのか。
使い方を聞かなかった俺が悪いのか、それともこんな訳の分からないメダルを授けた女神さまが悪いのか。くそ、と毒づいてメダルを強く握り締めるが何も起こらない。そもそも、こんな事は何度も試した。力を貸せと何度も呼び掛けたが、無駄だったのだ。おそらく、使い方を間違えているのだろう。それは分かる。必要なのは今だというのに、使えない。
だから、もう一度――。
「おい……」
丁度その瞬間、大扉が大きな音を立てて開かれた。いや、爆発したといった方が正しいのかもしれない。両開きの扉が弾けるように吹き飛び、その破片が怪我人達を巻き込みながら壁に当たって止まった。
突然の事に、大聖堂へ静寂が戻る。だがそれも一瞬だった。最初に、悲鳴が上がった。絶叫が、絶望の声が、耳に届く。神官たちが逃げ惑い、動ける兵士や騎士達が慌てて各々の武器を構える。そこでようやく、遅まきながら俺も視線を大聖堂の入り口へと向ける事が出来た。現れたのは、黒い魔族。いや、魔族のようなモノ。魔族なんてものはまだ見たことはないが、本で読んでいたのでどのような容姿かは知っている。しかし、現れた存在は本に書かれている魔族とは色々な差異があったのだ。
二本の足で立ち、腕も二本。頭は一つ。人間に近い容姿は魔族特有のものだが、その全身は甲殻類を連想させる鎧に包まれており、頭部にある四つの複眼が赤い光を放っている。そして何より、その口だ。人間のように縦に開くのではなく、横に開くような形状はまるで虫のソレだ。人間や魔族のものとはまるで違う。
魔族は全身を強力な魔力で覆い、身を守っている。動きを阻害する鎧の類は身に着けないのだ。それに複眼と口。魔族の容姿は人間に近い。複眼や虫のような口を持つ魔族など本には載っていなかった。
「ひっ」
「アイツっ」
その魔族に、見覚えがあった。先ほど修練場に現れた魔物たち、その魔物たちの先頭に立っていた魔族だ。そして、宗一君をただの一撃で気絶させた魔族でもある。
オブライエンさん達が足止めすると言っていたのにこの場所に現れたという事。その事実が示す事を考えようとして、首を振る。今は、この状況をどうするかだ。
しかし、逃げ惑う神官達や怪我人達を尻目に、体が動かなかった。恐怖か、それとももっと深い感情か。視線を逸らすこともできずに黒い魔族を見ていると、その黒鎧を身に纏った魔族の複眼がどうしてか――俺を見た気がした。
その瞬間、動ける騎士達が武器を構えながらその魔族へと突撃した。その人数は三人ほど。怪我人が多いというのもあるが、大聖堂の長椅子が邪魔をして多人数で攻める事が出来ないのだ。
しかし、騎士達が切り結ぶよりも早く、魔族の右腕が騎士達へ向けられた。その魔族が腕を一振りするだけで鮮血が舞う。まるで影が意思を持っているかのように伸び、魔族の腕の動きに合わせて向かってきた騎士達を切り裂いたのだ。
舞ったのは鮮血だけではない。肉片――腕や上半身、切り裂かれた防具が宙を舞った。
慌てて緋勇ちゃんの視線を手で塞いだが、遅かった。力が抜けたように、全身を俺に預けてくる。気絶したのだ。
「緋勇ちゃん!?」
慌てて声を掛けるが、反応は無い。その直後に、その黒い魔族の腕が再度振られる。また、絶叫が上がり血飛沫が舞う。騎士達の慟哭と断末魔を聞きながら、床に放っていた剣を拾う。そして抜く頃には、大聖堂の端まで逃げた神官達と俺達だけが生き残っている状態だった。その黒い魔族へ挑んだ騎士や兵士たちは、全員が床にできた血溜りへと沈んでいる。動いているのは、誰も居ない。血の匂いとその光景に、今朝方食べた朝食を吐きそうになるが、なんとか我慢して両手で剣を構えながら大聖堂の中央に躍り出る。何か考えがあったわけではない、宗一君でも敵わなかったあの化け物に相対するなど自殺行為だと頭では分かっているのだ。
だがそれでも、大聖堂の中央に立つ。一歩、黒い魔族が歩を進めた。血溜りを踏み、ベチャリ、と音を立てた気がした。
恐怖で剣先が震えているが、どうしようもない。目の前の存在が、恐ろしくて堪らない。戦いを挑むとか、立ち塞がるとか、そんなものではないのだ。身体が、本能が反応した。多分他の騎士達も同じような心境ではなかったのだろうか。
喉が痛むほどの大声を上げながら、その黒い魔族へと斬りかかる。
反応することが出来たのはオブライエンさんが鍛えてくれたお蔭か、それとも奇跡か。魔族が腕を振ると同時に身を屈め、影の一撃を避ける。血溜りで足を滑らせながら振った剣が、その胴を捉えて火花を散らせた。固いというよりも、まるで巨大で強靭なナニカを剣で叩いたような感じか。件の魔族は、剣で斬られたというのに全く動じていない。下がるどころか、身動ぎすらしないのだ。
「ぅ、ぁ」
それどころか、斬った俺が一歩下がってしまう。そんな俺に興味を無くしたのか、一瞬だけ複眼を向けてきたが俺を無視して歩き出した。俺とほとんど変わらない身長だというのに、威圧感は今まで感じたどんなモノとも違う。ベチャ、ベチャ、と血溜りが散って長椅子や美しい絨毯を穢していく。その歩みの先は――気絶している緋勇ちゃんが横になっている長椅子。そして、治療途中の宗一君が居た。
そう認識した瞬間、自分でも驚くほどの速さで駆け出した。魔族の背後から斬りかかる。ガギン、という甲高い音と共に手が痺れる。しかし、それでも魔族の足は止まらない。もう一撃。それでも止まらない。二撃、三撃と続けるが――止まらない。最後には、固いモノを剣で叩き続けたせいか、手で剣を持っている事が出来ずに取り落としてしまった。
そこでようやく魔族の足が止まり、複眼が俺へと向けられた。
次の瞬間には、吹き飛ばされた。一瞬だが重力が消え、次の瞬間には背中から長椅子へと叩き付けられ、床を凄まじい勢いで転がる。何をされたのか分からない。大聖堂の中央から、入口の傍まで吹き飛ばされたと理解するのに少しの時間が必要だった。血溜りの上を転がったからか、血と臓腑の匂いに鼻の奥がツンとなる。吐き気を覚えるが、それを何とか抑え込む。
「ぐ、ぁっ」
息が上手くできない。骨が折れたのか、それとも痛めただけなのか。経験の無い痛みに呼吸すら出来なくなる。痛いのは胸だ。殴られたのか、蹴られたのか、魔術で吹き飛ばされたのか。混乱しながら、体を丸めて痛みをやり過ごす。
そうやって痛みに呻く俺を一瞥して、魔族の顔が――緋勇ちゃんが横になっている長椅子へと向いた。
「あ」
漏れたのは、とても気の抜けた声。
無事な神官たちは大聖堂の隅に集まって震えており、騎士達は全滅した。助けてくれる人は居ない。誰も、居ない。
「だめだ」
手を伸ばす。意味は無い。なにより、入り口付近で血溜りの中に転がっている俺と、大聖堂の中央付近を歩いている魔族。それは、絶望的な距離だ。
慌てて立ち上がろうとして、血に滑って再度血溜りへ倒れてしまう。その視線の先、すぐ眼前に人の手があった。手首だけだ。他にも、上半身と下半身が分かれて臓腑が溢れ出ている身体、肉から覗く白い骨、絶望に見開かれた眼、兜を身に着けたままの頭部。
……肉片が、俺を囲んでいた。
「ぅっ」
吐いた。朝食に食べた物を嘔吐し、それでも収まらずに胃液を吐き出す。胃酸で喉が痛み、涙が出る。
――それでも、立ち上がった。吐いた事で痛覚が麻痺したのか、肉片と臓腑に囲まれて感覚が狂ったのか。鋭い刃物で刺されているようだった胸の痛みは、鈍痛へと変わっている。口元を拭うと、生臭い胃液だけではなく、生臭い味と匂いの味もした。血溜りに倒れ込んでいたのだ、両手が血塗れだった。両手だけではない、全身が血塗れだ。
「いくぞ」
そう、自分に言い聞かせる。口にして、決意を固める。周囲に死が溢れて、自分の感覚が馬鹿になっているのだ。この化け物に俺が敵うはずがないのに、立ち上がるなんてどうかしている。
鈍く痛む胸を左手で抑え、もう動かなくなってしまった兵士が持っていたであろう剣を右手に持つ。先ほどまで俺が持っていた剣は、吹き飛ばされた際にどこかへ転がってしまったようで見失ってしまっていた。手も、足も、驚くほどに固い。それでも――ここで動かなければ、次にこの血溜りの中に転がるのは緋勇ちゃんと宗一君だ。
そんな俺の声に、黒い魔族の足が止まる。そしてゆっくりと、こちらへと肩越しに視線を向けてきた。赤い複眼が俺を捉え、それだけで心臓を鷲掴みにされたような恐怖を覚えて身が竦む。しかしそれでも、必死に剣を魔族へ向けた。剣先が無様に震えている俺の姿は、さぞかし滑稽な事だろう。
そして、そんな俺を嘲笑うかのように、完全に足を止めて俺へと向き直った。
なんだ?
宗一君と緋勇ちゃんが狙いではないのか。そう訝しむが、足を止めてくれたことは幸いだ。後は――後は。
後は、どうすればいい。この化け物と戦うのか。宗一君を倒し、オブライエンさん達を突破し、この状況を作り出した化け物と。
無理だ。勝てない。
誰かがそう呟いた。
これから作られる死体が、子供達ではなく自分に変わるだけだ。
また、誰かが呟いた。
逃げろ。
呟く。
逃げろ。
声が大きくなる。
逃げろ。
震えていた剣先が僅かに下がる。
逃げろ。
それでも、剣を力強く握りしめた。
逃げろ。
「てめぇの相手はこっちだ、クソ野郎っ」
自分でも驚くほどの大声を出すと同時に、全力で駆け出す。
振り下ろした渾身の一撃は、魔族の鎧を削るどころか当たりもしない。半歩下がっただけで避けられてしまったのだ。床に叩き付けた衝撃で手が痺れるが、今度は全力で切り上げる。跳ね上げるように放った一撃もまた、一歩下がるだけで避けられてしまう。
ギチ、と。虫のような口が音を鳴らした。
笑っているのだ。
そう理解した瞬間、魔族の体勢を崩すために体当たりをする。剣が当たらないなら、当たる状況を作ればいい。しかし、体勢を崩すことはできずに、それどころか俺の左肩に酷い痛みが奔った。しかも、魔族の方は一歩も動いていない。まるで巨大な岩に体当たりをしたように錯覚してしまいそうになる。
次の瞬間には、片手で胸元を掴まれて持ち上げられてしまう。足が浮き、胸元を掴む手を解こうと暴れるがビクともしない。
視界が高くなり、黒い魔族を見下ろすような高さまで持ち上げられる。そして、無造作に投げ捨てられた。
銀の女神像の足元に投げ捨てられ、強かに背中を打ち付けて息が詰まる。それと同時に、悲鳴が上がった。大聖堂の隅で震えていた神官たちが上げたのだろう。痛みに視界が潤みながら、両手を床について顔を上げる。
ただただ泰然と、黒い魔族がこちらへ歩いてくる。剣を拾おうと探すが、傍には無い。投げられた時に手放してしまったのだろう。
「……くそ」
吐いた言葉に、力が無い。そして、全身からも力が抜けた。
どうしてこうなったのだろう。世界を救うために、女神に召喚される。まるで御伽噺のような現実の結末は、こんなにも痛みを伴うものなのか。柔らかな絨毯に体を預けると、瞼が重くなってくる。このまま目を閉じてしまえば、俺は楽になれるのだろう。先ほどまで感じていた恐怖が薄れていく。痛みも恐怖も感じることなく、眠りの中で死ねるというのは――。
「いいわけねぇだろっ」
顔を勢いよく上げる。黒い魔族は……先ほどの場所から、ほとんど動いていなかった。神官たちの怯え声も、痛みや恐怖に呻く声も、聞こえない。
その視線は俺を見ておらず、俺の後ろ――。
「あ?」
その視線を追って後ろを向く。身体を動かすだけで全身に痛みが奔ったが、その痛みすらも忘れてしまいそうになった。そこには美しい銀の女神像があり……どうしてか、光り輝いている。その輝きはとても神々しく、そして暖かい。恐怖に震えていた心が、まるで温められるかのような光。見ているだけで、先ほどまで絶望に折れそうになっていた精神が癒された気がした。
俺は、この光を知っている。見た覚えがある。感じた記憶がある。
――女神、アストラエラ。
彼女と初めて会った空間に満ちていた光、彼女が発していた雰囲気。銀の女神像が発する暖かな光――魔力は、女神が放つソレと同じ。
「な……んだ?」
身体から痛みが消える。いや、痛みだけではない。両手を、全身を怪我していた血も浄化され、淡い光となって消えていく。
それは一瞬か、数秒か、十数秒か。ただただ呆然と女神像を見上げていると、いつの間にかその傍には黄金色の髪を持つ女性が一人立っていた。魔力の光に包まれ、まるで女神に祝福されているかのように、或は女神に仕えているかのように、傍に立つ女性。その光景が、どうしようもなく幻想的で、美しい。まるで童話や御伽噺に出てくる、聖女やお姫様のよう。大聖堂の中に充満している血の匂いを、一瞬忘れてしまうほどに……その女性は清浄で、清廉で、綺麗だった。
その女性の視線が下……倒れ伏している俺へ向く。冷たさすら感じる翡翠色の瞳、まるで絹のような光沢を放つ金糸の髪、窓から差し込む陽光を弾く純白のドレス。髪は纏めているのかもみあげの部分だけが長く、銀の女神像から放たれる魔力の奔流に靡いている。その足が、一歩踏み出される。シュルリ、と丈の長いドレスの裾が、床の絨毯と擦る。その音が鮮明に、耳に届いた。
「大丈夫ですか、レンジ様?」
そう、声を掛けられた。その声は、男のような、女のような、中性的な声でとても聞き取りやすい。その声の持ち主は、黒い魔族など気にもせずに俺の傍に膝をつく。
「さあ、お立ち下さい」
手を伸ばされる。不思議と――迷い無く、その手を取る事が出来た。立てばまた、黒い魔族と戦うことになる。絶望そのものを体現したような化け物。勝ち目など万に一つ、億に一つも無いだろう。そんな相手と相対しなければならないと頭で分かっているのに、迷いは無かった。
小さな手だ。柔らかく、綺麗な、女性の手。だというのに、とても力強い。
――この力強さは、俺の『力』だ。
そんな俺に、先ほどは冷たさを感じた瞳が細められる。表情が、一瞬だけ穏やかな笑顔を形作る。しかし一瞬だけだ。すぐに引き締められた。そして、黒い魔族へと視線を向ける。
どうしてか、問題の黒い魔族は女神像が輝きだしてから一歩も動いていない。まるで――俺が立ち上がるのを待っているかのように。
「行きましょう、レンジ様」
「……あ、ああ」
不意に、ギチギチ、と音がした。
その耳障りな音は、黒い魔族の口元から。笑っているのだろう。微動だにせず笑う黒い魔族に、鳥肌が立ちそうになる。
相対する。静謐であるはずの大聖堂で、銀の女神像に見守られながら。
王城のどこかで、誰かが強力な魔術を放ったのだろう。一際大きな揺れが俺達を襲った。
その瞬間、黄金色の髪を持つ女性の姿は掻き消え、翡翠の光となって霧散した。突然の事に驚いてしまうが、その驚きもすぐさま高揚へと変わる。身体に力が漲る。先ほどまで感じなかったこの力は、魔力というものだろうか。他の皆にはあって俺には無かった力。もしかしたらこれがそうなのかもしれない。
いきなり現れた女性が光となって消え、その光が俺の右手に集まり……一本の剣となる。刀身は翡翠、柄と飾りは黄金。羽のように軽いその剣を傍にあった長椅子へ向けて一振りすると、何の抵抗も無く切り裂く事が出来た。その切れ味に、口元が引き攣る。修練場で振っていた剣とはまるで違う。軽さも、切れ味も、なにもかも。
ギチ、とまた黒い魔族が笑った。止まっていた足が動き出す。――その先に居るのは、俺だ。
視線を手元の剣へ向ける。宝石のように美しい刀身は、見様によっては脆さを感じるかもしれない。だというのに、俺にはとても力強い剣に思えた。握る手に力を込める。
先ほど現れた女性の瞳も、翡翠色だったことを思い出す。柄と飾りの黄金も、彼女の髪と同じ色。そう思うと、手の中にある剣は、まるで先ほどまで話していた彼女そのものに感じた。
・
目を開けると、眼前にはどこかで見たような顔がドアップで映った。
「……何をしているんだ、アナスタシア」
「んー。観察?」
「重い」
「重くないわよ!?」
胸元に乗っていた人形大の妖精をどうするかと一瞬考えて、どうでもいいかと起き上がる。すると、転がるようにベッドから落ちていった。ベッドの下で何か文句を言っているが、自業自得だ。
やはり先ほどのは夢だったようで、ここは王城に用意してもらっている俺の部屋だ。家具の置いてある場所も、昨夜のままである。窓の外が快晴なのは変わらないが、黒煙は上がっていないし、悲鳴も聞こえない。
魔神が討伐され、平穏を取り戻そうとしている世界だ。
良い夢だったのか、悪い夢だったのか。判断に迷う夢である。エルとの懐かしい記憶と感じるべきか、沢山の命が失われた痛ましい記憶と悲しむべきか。
『ぷっ』
ふと、頭に声が響く。
聞き慣れた声の吹き出すような笑いに、首を傾げながら枕元へ視線を向ける。そこには、夢の中とは意匠が異なる金のメダルが一枚。
「おはよ、エルメンヒルデ」
『ああ。よく寝ていたな』
「まあな。夢見が良くてね」
『とても、そうは見えなかったがな』
しかし、先ほどまで楽しげだった声が、不意に沈んだ。
『魘されていたぞ』
「夢見が良かったからな」
『おい』
「ま、アナスタシアが重かったからだろう」
そう言いながら、ベッドから起き出る。
ふとアナスタシアが気になって視線をベッドの下に向けると、そこには先ほどまで俺に乗っかっていた妖精の姿は無かった。首を傾げると、今度は窓が開く音。どうやら俺が床に視線を向けた一瞬で、この部屋から脱出したようだ。窓からというのが、実に妖精らしい。
なんだろうか?
アイツの奇行は今に始まったことではないが、別に胸の上に乗ったくらいで怒るほど狭量ではないと思っているのだが。そうやって逃げられると、少しばかり気になってしまう。
「なんだ、アイツ」
『鏡を見てみるといい』
そのエルメンヒルデの声を不思議に思いながら、言われた通りに鏡を探す。すぐに見つかった鏡を覗き込むと、先ほどエルメンヒルデが噴き出した理由が分かった。
「あの野郎」
『野郎ではなく、女だがな』
「んな事はどうでもいいわ」
エルメンヒルデのツッコミに返事をしながら、落書きを指で撫でる。インクで書かれたソレは、指で撫でるとすぐに汚く広がってしまう。
チクショウ、あの悪戯妖精。なんて事を……。
『そこまでされて起きない、レンジが悪い』
「そう言われてもな……お前も、起してくれればよかったのに」
『起こそうとしたが、起きなかったのだ。気が緩みすぎているのではないか?』
「……そうかもな」
言い訳のしようも無いので、肩を竦めながら同意する。しかし、この顔はどうしたものか。鏡の中では、見慣れた自分の顔に色々な落書きがされて酷い有様となっている。先ほどアナスタシアが俺の胸に乗っていたのは、落書きの途中だったからだろう。俺より長生きしているというのに、相変わらず子供っぽい奴だ。
「なぁ、エルメンヒルデ」
『どうした?』
「魘されながら、俺は何か言っていたか?」
『ん? いや……』
自分で何を言いたいのかよく分からなくて、頭を掻く。寝惚けているのだろう。顔を洗う水をメイドさんに用意してもらおうと思い、この顔で人前に出たくないな、と足が止まる。どうしたものか。
『レンジ』
「どうした?」
落書きされた顔をどうするか悩んでいると、エルメンヒルデが神妙な声で話しかけてくる。
その声は何処かで聞いた……彼女が悩んでいる時の声に似ていると感じた。
『いや、なんでもない』
「そうか」
ここで、踏み込むべきなのだろうか。
一瞬そう考えたが、踏み込むべき言葉を寸でのところで飲み込む。何かあったら話してくれるだろう。そう考えながら、顔の落書きの事に思考を向ける。それは逃げか、信頼か。
前者だろうな、と思う。
夢を見た。エルメンヒルデではなく、エルの夢を。それは今までも何度かあった事で、今更どうこう思う事ではない。エルは死んだ。俺は、エルメンヒルデと共に生きている。
ただ……彼女と同じ声で、同一の別人が話をする。その現実を、忘れそうになってしまう。エルメンヒルデを、全くの別人と重ねて見てしまいそうになる。それは、俺にとっても……エルメンヒルデにとっても残酷な事だ。だから、エルメンヒルデの悩みに踏み込むのを思い留まってしまった。
「この顔、どうすればいいと思う?」
『メイドにでも水を頼めばいいと思うが』
「それもそうだな」
物凄く恥ずかしいが、しょうがないだろう。取り敢えず、後でアナスタシアへの制裁を三割り増しくらいにしようと心中で決意しながらメイドさんを呼ぶためのベルを探す。
ほとんど使わないのでどこにあるのか分からず、探すこと数分。ベルは部屋中央に備え付けられたテーブルの上にあった。灯台下暗しというか、なんというか。
メイドさんを呼んで顔を洗う為の水を頼むが、その時の顔は笑いというよりも驚きに染まっていたような気がする。まぁ、寝起きの男が顔中に落書きをしていたら笑うより驚くか。
窓を閉めてベッドへ腰を下ろすと、枕元に置いておいたエルメンヒルデを手に取り、指でその縁を撫でた。
『どうした?』
「いや。平和だなぁ、ってな」
『平和なのはいいが、その顔で言われては格好悪いぞ』
「は、確かにその通りだな」
そう俺が笑うと、エルメンヒルデが疲れたような溜息を吐く。
それでいい。こういう雰囲気がいい。
『……嘆かわしい』
「そう言うな。俺らしいだろ?」
その俺の言葉に応えるように、小さな笑い声が頭に響く。
『そうかもしれないな』
そして、そう言ってくれた。




