第十四話 選択
その夜、言われた通りに宇多野さんの部屋を訪れる為に廊下を歩いていると、何人かのメイドと擦れ違った。現実だとありえないんだろうが、ああいう格好の女性って良いよなぁ、と。
そんな馬鹿な事を考えながら歩いていると、宇多野さんの部屋の前に辿り着く。といっても、俺と宇多野さんの部屋は間に数部屋を挟んだだけの距離しか無いのだが。この世界に召喚された時、年長者が俺と宇多野さんだけだったので、部屋は近い方が何かと便利だろうと気を利かせてくれたのだ。下世話な考えは無かった……と思いたい。
宇多野さんの部屋の間で、深呼吸を二回する。深夜とはいえないが、夜に女性の部屋を訪れるというシチュエーションが久し振りなので、意味もなく少し緊張しているのだ。あと、これからどんなお怒りをいただくか分からないので怖いというのもある。
落ち着いて、ドアを二度ノックする。
「?」
しかし、返事が無い。肩透かしを食らったような気分で、また二度ノックをする。ドアの隙間から光が漏れているので部屋に居ない訳ではないと思う。暫く待つが、やはり返事は無い。
もしかしたら、不在なんだろうか。聞き耳をそばだてると、部屋の中で何やら慌ただしく動いている音。忙しいのかもしれない。
「どうぞ」
また明日出直そうかと考えていたら、ようやく返事が返ってくる。ドア越しだが、その声は宇多野さんだと判る。
何かしていたんだろうかと首を傾げながらドアを開けると、宇多野さんとは別にもう一人の人間が居ることに気付く。昼間会ったナイトよりは低いが、それでも俺が少し見上げなければならないほどの長身。その身体を、仕立ての良い服で包んでいる茶髪の青年。その糸目がこちらに向く。
「お久しぶりです、蓮司さん」
「おお、九季。久し振りだな」
「ええ、もうかれこれ一年ぶりですからね。怪我をして運び込まれてきた時は心配しましたよ」
そう言いながら歩み寄って来られると、身長差がありすぎるせいか一歩引いてしまう。俺だってそこそこの身長だと思っているが、コイツは二メートル超えてるのだ。異世界でも、そこまで高身長の人間は見かけた事がない。性格が良さそうな顔つきだが、その身長のせいで逆に威圧感を覚える時もあるほどだ。
そんな九季が手の平を向けてくるので、俺も合わせてその手の平を軽く叩く。
「いやぁ、あのまま目を覚まさないかと思いましたよ」
「縁起でもない事を言わないでくれ。ただでさえ、幸太郎のチートだと俺は死にやすいんだから」
「はは、確かに。いつも幸太郎君のチートで、蓮司さんは死んでましたもんね」
「……笑い事じゃないんだけどな」
だがまぁ、今日まで死なずに生きてこれたのだから、ある意味笑い話ではあるのか。どうしてアイツの未来を見るという魔眼はハズレばかりなのか。俺が生き汚いのか、アイツのチートがポンコツなのか。後者であって欲しいと願う。
それはさておき。
「それより。お前、また身長が伸びてないか?」
なんか、一年前よりも見上げてるような気がするのだ。首が疲れる。
「そのようで……オブライエンさんからも、そろそろ止まれと言われます」
「言って止まれば苦労はしないだろうけど……俺に少し分けろ、この野郎」
「蓮司さんは十分じゃないですか」
そりゃそうだ。今だって百八十くらいあるのだ。これ以上伸びたら、俺も面倒だ。
「話は落ち着いたかしら?」
二人して笑っていると、少し疲れたような声。揃って視線を向けると、この部屋の主が退屈そうに腕を組んでこちらを見ていた。見慣れたいつも着ている暗い印象を与えるローブ姿ではなく、ゆったりとした雰囲気を抱かせる柔らかそうな生地の白いネグリジェのような服に、その上から厚手のショールを身に付けている。艶やかな亜麻色の髪は解かれていて、昼間とはまた違った妖艶な雰囲気を感じさせてくる。魔力灯の暗い光に照らされて、余計にその美貌が際立つ。宇多野優子という女性を見慣れた俺でも、一瞬見惚れてしまうほどに。
だがまぁ……腕を組んでも、母性の象徴とも言える膨らみに変化は見られない。一瞬だけ視線を向けたのだが、気付かれないようにさり気なく周囲へと気を配る。男なのだ、そこに目が行ってもしかたがないと思うのだ。
以前よりも蔵書が増えたのか明らかに増えている本棚がまず目に入った。以前も随分多くの本を持っていたが、それでも本棚二つ分だったと記憶している。しかし今は壁一面……窓を塞がないように置かれた本棚は八つ。そのどれもに、本が置かれている。
仕事用の机の上も小奇麗に片付けられていて、さっき部屋の中で慌てていたのは掃除していたからか、と推測する。九季も居るのだから、もう手遅れだろうに。この人は、あまり掃除が得意ではないのだ。昔だったら、机の上どころか床の上まで本が乱雑に置かれていたかもしれない。
次いで、この部屋の主である宇多野さんへと視線を向ける。
「いらっしゃい。遅かったわね」
「少し夢見が悪くてね。寝過ごした」
頬を掻きながら入室する。部屋の外で待たされていた、とは言わない方がいいのだろう。そう考えていると、フワリと淡い花の香が鼻についた。この世界にも貴族の嗜みとして香水のようなものがあるが、宇多野さんはあまりそういうのに興味が無いと思っていたので驚いてしまう。もしここで九季が香水を使っていたら笑えるのだが、どうにも違うようだ。
「どうかした?」
「いんや、なにも」
なんだかこの人も、この一年で女性らしくなったというか。いや、昔から大人の女性として意識していたのだが。人前だときっちりしているのに私生活はだらしない所があるのを知っているだけに、|こういうの(香水)みたいなのも使うんだなぁ、と。立ち止まった俺を不思議そうに見てくる宇多野さんを、そんな些細な事で意識してしまう。
昼間の事を思い出したり、ここ一年はあまり女っ気のない生活を送っていたのも意識してしまう理由なのかもしれない。
そう考えていたら、不意に腹の虫が空腹を訴えてきた。花の香で空腹を覚えるなんて……花より団子。色気より食い気。素敵な言葉だと思う。
「あら、もしかして食事は摂ってないの?」
「……寝てたからな。ま、腹も減ってないから大丈夫だろ」
「ダメですよ、蓮司さん。病み上がりなんですから、栄養はちゃんと摂らないと」
「耳に痛いね」
薦められるままに、部屋の中央に置かれたソファへ腰を下ろす。上質のソファは、座ると腰が沈んで少し座り辛い。今までずっと硬い木製の椅子に座っていたからなぁ、と内心で苦笑するとテーブルを挟んだ反対側のソファに九季が座る。腹の虫が鳴ったのは、気にしない事にする。気にしたら、余計に恥ずかしいだけだ。
俺がソファに座るのを確認して、宇多野さんが部屋に備え付けられたベルをチリン、と鳴した。すると、まるで控えていたかのような早さで、ドアがノックされる。現れたのは、メイド服に身を包んだ年若い女性。多分、俺や宇多野さんよりも幾つか年下だろう。
その女性に飲み物と軽く食べれるものを頼んでいる後ろ姿を、なんとはなしにぼーっと見る。頼み慣れているというか、その姿が堂に入っているというか。やっぱり宇多野さんは格好良い。女性に対しての褒め言葉じゃないと怒られそうだが。
メイドさんに頼み終わった宇多野さんが振り向くと、視線が合った。
「なに?」
「いやいや。良いソファだな、と」
「人はあまり来ないけど、一応ここは王城だもの。それなりのものを用意してないと、周りが煩いのよ」
多分、怖がられてるんだろうなぁ、と思う。内心は良い人なのだが、目付きがね。うん。俺達みたいに慣れたらその辺りは分かるんだが、苦手な人は苦手だろう。
逆に、九季は人に好かれやすい顔をしている。身長が高過ぎるのが少しマイナスだが、糸目で温和な表情だから昔から立ち寄った村々でもよく頼りにされていたのを思い出す。
「賢者様は大変そうで」
「貴方もそのうち分かるようになるわよ、英雄様」
どこか確信を抱いたようなその言葉に、肩を竦めてしまう。分かりたくない苦労である。視線を前に向けると、九季も宇多野さんの言葉に頷いていた。コイツも王城で暮らしているので、そういう苦労があるのかもしれない。
「英雄なんてガラじゃないさ」
「でしょうね。私も、賢者なんてガラじゃないわ」
「いやいや」
九季の苦笑交じりの声を聞きながら、少し間を開けて隣に宇多野さんが座ってくる。そして、乾いた音を立ててテーブルの上に黒い宝石の原石を連想させる魔神の心臓の欠片が置かれた。
「それが魔神の心臓ですか」
「欠片だがね。なんだ、九季は見るのは初めてなのか?」
「ええ。これを見てるのは王とオブライエン殿に阿弥、それにムルルという貴方の仲間だけよ」
なんだろう、そのチョイスは。阿弥が見てるなら、九季も見ていてもいいだろうに。そんな俺の疑問に気付いたのか、九季が苦笑しながら手を挙げる。別に、喋るのに挙手は必要無いんだが。
「先ほどまで遠征に出てまして。今帰って来た所なんです」
「ああ、なるほど」
だから昼間、城の中に人が少なかったのか。それでも、人が少なすぎたと思うが。
「忙しいのか?」
「ええ、とても。最近、魔物の行動が活発で」
「騎士団は、今はどこも人手不足ね。第一から第四騎士団まで、大変みたいよ。特に雄太君は『盾』として優秀だから」
「頼られてるんだな」
「それは嬉しい事ですが、そろそろ休みがほしいです」
その切実な願いに、苦笑するしか無い。九季のチートは『守る盾』だ。コイツの代わりは誰も居ない。
なにせ九季が居れば、ドラゴン級の敵が現れても安全なのだ。九季雄太が女神に願ったのは『皆を守る盾』。それは、盾とは名ばかりで自分を中心にした一帯を守る結界。しかも、任意で守る相手を選べるような汎用性も持つ。ドラゴンのブレスや高位魔族の魔術、阿弥や幸太郎の天変地異とも思えるような敵味方を選別しない大魔術。そんな脅威から、何度も俺達を守ってくれた。
そんな九季だから、魔物討伐の任務には常に前線に出ているのだろう。
「第三騎士団に所属してるんだったか?」
「未熟者ですが、副団長を任されてます」
「凄い出世だな」
そう言うと、照れ臭そうに頬を掻いている。そんな相変わらずの反応に、俺も嬉しくなってしまう。
「お姫様とも偶にデートしてるみたいだし、忙しいけど幸せそうよ?」
「ちょ」
「……ほぅ。昔から仲が良かったもんな、お前ら」
「蓮司さんまで」
身長二メートルを超える大男が頬を染めて照れる様は、見ていて妬ましい。ちくしょう。お姫様が恋人とか、羨ましい限りである。
しかし、ようやくか。この世界に召喚されてすぐ、仲良くなってたもんな。いつの間にか。本当に、少し目を離したらこの国のお姫様と仲良くなっていたのだ。顔に似合わず、手が早い。それが、この九季という男だ。俺の主観だが。そう言うと、本人は全力で否定したりする。
「いつ結婚するんだ?」
「まだ出来ませんよ!?」
「ふぅん。まだ、ね」
まぁ、好き合っていてもお互いの立場とかがあるのだろう。お姫様と救国の英雄。後は、この城の中での立場――騎士団の団長にでも昇り詰めれば問題無しか。
「ああ、もう。なんか話がズレてますよ、優子さん!」
顔を赤くして慌てる九季をからかいながら、テーブルの上に置かれていた魔神の心臓の欠片を手に取る。全力で握るが、砕くことは出来ない。やはり、エルメンヒルデが居ないと駄目か。
「壊せばいいのか?」
「そう単純でもないみたいよ。精霊神が関わっているのだし」
「それもそうか」
「……いきなり話を元に戻すの、やめてもらえません?」
九季の疲れたような声を聞きながら、魔神の心臓をテーブルに戻す。
魔神の心臓。それを砕いた俺だから分かる。精霊神なら、この心臓の欠片を壊す事が出来る。きっと、俺よりも綺麗に壊せるはずだ。しかし、壊さずに宇多野さんに渡したという事は何かしらの意味があるということだろう。大体、俺がこの心臓を砕いたのはアーベンエルム大陸で、しかも一年前だ。なんで今さら、しかもどこで手に入れたんだ、という話だ。
「俺としては、さっさとそんな物は壊したいんだけどな」
「駄目よ。これからの世界に必要な物かもしれないのだから」
その言葉に、もう一度視線を机の上にある魔神の心臓の欠片へ向ける。
「世界を壊そうとした魔神の心臓が?」
「最近、魔物や魔族の動きが活発なの。気付いてるでしょ?」
ふむ、と指を顎へ添える。
思いつくのはいくつかある。何ヶ月か前に、いきなり田舎の村に湧いたオーガ。久し振りに見た、魔神の眷属。ゴブリンの大群。それを操っていた魔族。
九季達騎士団も魔物の行動に振り回されているようだし、こうやって怠け者の精霊神が何かしらの行動を起こすくらいだ。俺達が気付かない所で何かが起きているのかもしれない。
「そういえば、魔術都市を襲った魔族が魔神を復活させるのどうのこうの言ってたな」
「ええ、早馬で聞いてるわ。それも原因の一つだと思うの」
「どうして?」
「世界を創ったのは女神と精霊神、そして魔神。この三柱でしょ?」
そう言って、指を三本立てる宇多野さん。そして、一本を曲げる。魔神は俺達が殺した。なら今、世界を支えているのは女神と精霊神という事だろう。
「でも、女神と精霊神だけでは世界を支える事が出来ない。何故なら、この世界は三柱の神が居てこそ成り立つ世界だから」
「ああ。そこまでは判る」
俺も、旅の途中で何度か考えた事がある。この世界を三柱の神が創ったのなら、その一柱を倒した影響はないのか、と。その影響が魔物の異常行動だと考えているのか、宇多野さんは。
あの魔族は言った、魔神を復活させると。そのために、どうして魔神の眷属を使役しているかは分からないが。魔神の眷属は、魔神の力から生まれる。魔物を生み出すのも魔神だが、眷属はより強い力を受け継いで生まれるので魔物や魔族よりも格上だといえる。しかし、普通は逆なのだ。魔神の眷属が、魔物や魔族を使う。それが正しい形のはずなのに。
「まだ調べてる途中だけど。多分、魔神が討伐されて三柱の神のバランスが崩れたんだと思うの」
「女神が人間を、精霊神が獣人と亜人、魔神が魔物と魔族を創ったって話?」
「ええ。私の予想だと、アーベンエルム大陸に何かしらの影響が出てるのかも」
ああ、なるほど。魔神の影響下にあるといったら、向こうの大陸になるのか。そりゃ、魔物や魔族だけの話じゃないか。その辺りはあまり考えてなかった。調べているという事は、向こうの大陸に人員を送っているのだろうか。大変だな、本当に。向こうの大陸では、こっちの大陸では珍しい魔獣や巨人のような大型の魔物が跋扈しているのだから。
それに、もしそれが本当なら俺も他人事では済まされない。なにせ、魔物の異常行動の原因……魔神を殺したのは俺なのだから。
変な所でそのツケが回ってきてるな、と溜息を吐いてしまう。なにより――魔神が世界に必要だというのなら、アイツを蘇らせなければならないという事だ。あの、クソッタレの化け物を。
「その辺りは、多分アストラエラからお告げが来ると思うけど。何も聞いてないかしら?」
「どうしてそこで、俺に聞くかね。ここ一年、音沙汰無しだよ」
「……山田君の所が一番可能性が高いからよ。彼女、貴方にばかり仕事の依頼をしていたじゃない」
「思い出させないでくれ。悲しくなってくる」
「いいじゃないですか。アストラエラ様に好かれてるんですよ。名誉な事だと思いますけど」
「うるせ。そんな良いもんじゃないんだよ、あの人は」
迷惑ではないが、面倒というか厄介というか。とにかく、困るのだ。あの女神様の依頼は。そういうのは普通、勇者である宗一の役割だろうに。現実とはつくづく、幻想とは違うと思う。主人公より厄介事に巻き込まれる脇役ってどうよ?
自嘲気味に口元を歪めると、部屋のドアがノックされた。宇多野さんが返事をすると、先ほどのメイドさんが大きめのトレイにお酒や軽く摘める物を乗せて入室してくる。絨毯が敷かれているとはいえ、音を立てずに歩く姿はまさにメイドの鑑といえるだろう。
「まぁ、難しい話はまた今度にしましょうか」
メイドさんがテーブルの上に料理を並べていく。そして、置かれた飲み物はお酒。瓶に詰められた、見るからに高級だと分かる酒だ。
……まぁ、俺達らしいといえば、俺達らしいのだろう。
料理とお酒を持ってきてくれたメイドさんを下げて、宇多野さんがお酌をしてくれる。俺もお返しに彼女と九季のグラスに酒を注ぐ。琥珀色の液体がグラスの三分の二ほど注がれ、先程まで感じていた淡い花の香と酒のツンとした香りと混ざり合う。そこでふと、我に返った。いや、我に返ったという言葉も変か。ただ、これから酒を飲むとなると、完全に難しい話は終わりの流れだ。
「宇多野さん、エルメンヒルデは?」
「え?」
いや、そこで不思議そうな顔をされてもこっちが困る。
「まだ会ってなかったの?」
「そりゃ、まぁ。結衣ちゃんもアナスタシアもどこに居るか知らなかったし。後、ファフニィルも」
それどころか、ファフニィルには内面を突っ込まれてヘコまされたし。
「貴方が今、一番行きたくない所よ」
「……ああ」
その一言で、どこに居るか分かってしまった。分かってしまい、頭を抱えるようにして重苦しい息を吐いてしまう。
そんな俺の反応をどう思ったのか、宇多野さんは楽しそうな表情でグラスを傾けた。
「そういえば、静かだと思ったらエルさんが居ないんですね」
「後でエルメンヒルデに、九季が口煩いって言ってたと伝えておくからな」
「どうしてそうなるんですか!?」
なんとなくだよ。八つ当たりのように九季を弄る俺を、宇多野さんが面白そうに見上げてくる。
「無事でよかったわ」
「ん?」
「少しは心配していたのよ、これでも。貴方が死ぬんじゃないか、って」
そう、目元を緩ませながら言ってくる宇多野さん。この場で、その表情は反則だろう。普段あまり笑わないくせに、こういう身内ばかりの時にはドキッとするような表情を浮かべてくる。昼間の口付けの事もあり、やはり変に意識してしまう。
大体、夜に女性の部屋へお呼ばれしたというのも色々問題なのだ。うん。……まぁ、そのお呼ばれにホイホイついてきている俺も俺だが。エルメンヒルデの事とか、今のこの状況を考えながらグラスを傾けた。ウイスキーに似た香りだが、度はそんなに高くないように思える。
「そうですよ。ずっと目を覚まさないし。優子さんと阿弥ちゃんが心配してたんですから」
「俺だって、この大陸であんな化け物と出会うなんて思ってなかったんだよ」
あんなのが居るなんて知ってたら、多少時間がかかっても腐霊の森なんて避けて王都へ向かったさ。あのクソ骨め。正直、ムルルが居なかったら俺は死んでいただろう。それほどまでに強かった。
「でも、蓮司さんをそこまで追い詰める魔物なんて……」
「そうでもないでしょ。制約を解除できなければ、山田君も並みの剣士程度でしか無いのだし」
「……正しいけど、酷くないか?」
「正当な評価でしょう。貴方は自分の実力以上の敵を相手にする癖があるから、直しなさい」
そんな癖なんて無いわ。そう言い返したくなるが、我慢する。
実際、宇多野さんが言うように俺は何度も自分の身に余る強敵と戦ってきた。仲間に支えられて、助けられて、守られて。今回もそうだ。
つくづく思い知らされる。俺は、仲間と一緒じゃないと戦えない。そして、生き残れないのだと。
「戦いなんてしたくないんだがね。怪我をしたら痛いし、死ぬのは怖い」
そんな宇多野さんの表情から視線を逸し、用意されていたツマミを口に運ぶ。オーク肉の燻製だろうか、中々酒に合う。もう一度酒を口に運び、喉を潤して口の滑りを良くしてやる。せっかく、久し振りに宇多野さんと九季の三人で酒を飲むのだ。酔わなければやってられない。二人も同じような事を考えているのか、飲むペースが早いように思う。
隣りに座った女性の頬が僅かだが朱に染まり、眼鏡の奥にある赤みがかった瞳が潤んでいる。こんなに早く酔う人だっただろうか。それとも、日頃の仕事が忙しくてストレスが溜まっているのかもしれない。ペースのことを指摘するのも野暮だろうと思い、俺は自分のペースで飲む事にする。夜、女性の部屋で酔い潰れるのも色々と問題だろう。
九季の方は全然表情には出ていない。コイツは呆れるほど酒に強いのだ。身体が大きいからか、それともそういう体質なのかは分からないが。一緒に旅をしていて、九季が酔った姿を俺は見た事がない。
「まったくです。魔物をどうにか出来れば、一番いいんですが」
「魔神を倒しても、世は変わらず。大変な世界だな、ここは」
もう一口酒を飲むと、九季が注いでくれる。お返しに九季のグラスに注ぎ返すと小さく礼を言われた。
「ですが、だからこそ少しでも僕はこの力を役立てたいです」
「おう、頑張れ頑張れ。その調子で、お姫様の心も射止めてしまえ」
「もうそれはいいですから……」
体格はいいんだが、本当にこういう話題には免疫が無い。まぁ、そういう所がギャップとしてウケが良いのかもしれないが。お姫様は人を見る目があると思う。九季はイイヤツだ。
「僕なんかの事より、蓮司さんの事を教えて下さいよ」
「俺?」
「この一年、何をしてたんですか?」
「エルメンヒルデと一緒に、田舎でのんびりしてた」
「相変わらず仲が良いですね」
「……そんな、良いもんでもないんだがな」
ああ、左足が痛い。視線を隣に座る宇多野さんに向けると、先程よりも頬を赤くしてチビチビと酒を飲んでいた。両手でグラスを持っている姿が可愛らしい。だが、俺の左足へ乗せられた右足にはグリグリと力が込められている。九季からは、テーブルの影になって見えていないのだろう。目の前の糸目男の表情は笑顔のままだ。ああ、痛い。
「ま、やりたい事も山ほどある。死ぬとしたら後五十年は生きて、それからベッドの上で死にたいもんだ」
「そうですね。その頃には、少しは魔物の脅威も減ってるでしょうし」
そうやって話しながら酒を飲んでいると、ようやく宇多野さんの足から解放される。
「暫くは王都に居なさい。色々と頼み事もあるから」
「はい」
宇多野さんの言葉に一言だけで返事をして、口元をグラスで隠す。怖いのか可愛いのか、その一言を言葉にするのにどれだけ緊張しているのだろうか。隣の女性から感じる僅かな震えに苦笑してしまう口元を必死に隠す。
「だったら。蓮司さんは、もう旅に出ないんですか?」
「さて、どうかね。やりたい事もあるから、暫くは王都に居る、とだけ言っとくよ」
九季の言葉に答えると、宇多野さんがこちらを見上げてくる。その頬の朱は、多分酒精だけではないのだろう。
「やりたい事?」
「そ、やりたい事。エルメンヒルデに世界を見せてやりたいし、田舎に隠居してのんびり暮らしたい。他にも、沢山だ」
「素敵な夢ね。田舎に隠居する時は、私も誘ってもらえるかしら?」
「その時、宇多野さんにイイ人が居なかったらという事で」
「あの……二人でイチャイチャしないでくれます?」
「別にしてないだろ」
「むしろ、それは私のセリフなのだけど、雄太君。いつもいつも、修練場の真ん中でお姫様とベタベタして。私の部屋の窓から見えるのよ、修練場」
「……ぇー」
三人して笑いながら、グラスを傾ける。九季が言うように、少しだけ隣に座っている宇多野さんとの距離が縮まったように感じる。この人の気持ちは知っている。そして、そんな彼女の気持ちに俺が気付いている事も、宇多野さんは判っている。この人は何度も俺の中に踏み込んできてくれているが、そこから身を引いているのは俺なのだ。身体を重ねた事もあれば、温もりを求めた事もある。同じ異世界から召喚された年長者、お互いに求めるものが似ていたのも道理なのだろうか。阿弥とはまた違った距離感だが、心地が良い。
何時かはこの関係にも何らかの形で踏み込まなければならないのだろうが、今はまだこの女性の優しさに甘えていたい。そういう所が、俺がヘタレと言われる原因なのだろうか。アナスタシアの言葉を一瞬思い出し、宇多野さんの視線で現実に意識を戻された。酔っているからか、いつもは冷たい視線も酒精に潤んでしまっているが。
「そういえば」
暫く無言で睨まれた後、思い出したかのように宇多野さんが立ち上がる。そのまま仕事用の机に近付くと、その影に隠すように置いてあった物を手にとって戻ってきた。顔は赤くなっているが、足取りはしっかりしている。
そして、その手の中にあるものには見覚えがあった。俺が以前、田舎の武器屋に売った精霊銀の剣だ。どうしてそんなものがここにあるんだろう、と首を傾げてしまう。
「これ、売り物じゃないんだから。手放したらダメよ、山田君」
「どうしたんですか、その剣」
「まぁ、ちょっとな」
「お金に困っていた田舎の村で、安い値段で売ったのよ。それを行商人が高値で買い取って、更に私が手を回して回収したの」
何も言わず、チビチビと酒を飲む。実際は、金に困って手放しただけなんだが。そこは言わない方がいいだろう。主に俺の命の為に。そんな理由で手放したなんて言ったら、宇多野さんから埋められそうだ。
「代金を返すまで、逃げないでね?」
「あい」
そしてやはり、隣りに座ってきた宇多野さんから精霊銀の剣を受け取る。柄尻に嵌められた紫水晶が、この剣が俺のものだと証明になる。俺には魔力が無いから使えないが、魔力を込めると王家の紋章が浮き出て身分を証明するものにもなる名剣だ。
「王様から貰った剣を売ったんですか?」
「ええ。それも、タダ同然の物凄く安い値段でね」
耳が痛いなぁ。ああ、酒が進むね。宇多野さんと九季の会話を聞きながら、肩身が狭くなる思いで酒を飲む。
「銀貨十枚。ちゃんと返してね?」
「…………。え?」
何その値段。怖いんだけど。目の前の九季も、グラスを持つ手が止まってしまっている。隣へ視線を向けると、酒精に濡れる瞳がまっすぐ俺へ向けられていた。
「十枚?」
「銀貨、ね」
金貨百枚で銀貨が一枚だから……金貨千枚って事か。銅貨にすると、十万枚になるのか。ちなみに、今の俺の手持ちは銅貨十数枚である。
手元に戻ってきたミスリル製の剣に視線を落とす。銀貨十枚で買い取ったのなら、銀貨十枚で売れないだろうか。一気に酔いが冷めた頭で考えるが、そうなるとまた宇多野さんが買い取って、結局また銀貨十枚の借金になってしまう?
いきなりのデタラメな金額に、頭が全然働かない。
「ご愁傷さまです」
「おい。両手を合わせんな、この野郎」
そんな俺達の遣り取りを見て、クスクスと笑う宇多野さん。足取りはしっかりしていたが完全に酔ってるな、この人。普段の彼女らしからぬ笑顔に、銀貨十枚なんて大金もどうでも良くなってしまう。いや、実際はよくないのだが。
とにかく、今考えてもどうしようもないので保留することにする。後で、エルメンヒルデに怒られそうだ。酒をグラスへ注ごうとすると、瓶の中身が空になっている事に気付く。
「そろそろ、お開きにするか」
「あ、無くなりました?」
「それに、少し落ち込む事があってな」
「ま、いいじゃないですか。暫く腰を落ち着けるのもいいと思いますよ」
「銀貨十枚なんて、一生腰を落ち着けることになりそうだがな」
自分でも分かるくらい、口元が引き攣っていると思う。
「あら。私はそれでもいいのよ?」
「はいはい。酔っぱらいはさっさと寝なさい」
その俺の対応に不満があるらしく、不満気に頬を膨らませるという希少な宇多野さんを横目で見ながらテーブルに頬杖を突く。一体どこまで本気なんだろうか。そう考えて、首を横に振りながら立ち上がる。
「それじゃ、片付けるかね」
「そうですね」
しかし、片付けようと伸ばそうとした服の袖が握られる。視線を向けると、細い指が可愛らしくちょこんと俺の服を握っていた。その指の持ち主へ視線を向ける。
九季は気付かないフリをして、さっさと片付けを終わらせていた。もうドアの前である。
「それじゃ、また明日」
そう言いながら、躊躇いも何もなく部屋から出て行く九季。
薄情者。
そう叫ばなかった俺を褒めてほしい。
日が落ちて、暗くなった廊下を歩く。冷たい空気が肌に触れて鳥肌が立つが、体の芯は先程まで飲んでいた酒のお陰か温かい。石造りの廊下だが、上等な絨毯が引かれているので足音は小さく、ほとんどしないと言ってもいい。寝ずの番をしているのであろう、守衛の兵士の何人かと擦れ違い頭を下げられる。
高価な装飾品が飾られた棚。綺麗な花。銀造りの騎士甲冑。小型の魔力灯。廊下の脇に飾られたそれらが、夜の闇の中にぼう、と浮かぶ。
それが少し怖くて、冷たい空気とは別の冷気で知らずに早足になってしまっていた。静かだった足音が少しだけ五月蠅くなる。
目的地はこの先にある礼拝堂。宇多野さんは言った。俺が一番行きたくない場所に、エルメンヒルデが居ると。なら、礼拝堂だろう。銀の女神像が飾られ、俺達がこの世界に召喚された場所。女神アストラエラから、エルメンヒルデを授かった場所。
異世界なんて初めて来て、王様達に囲まれて、現れたのは二十歳前後の子供ばかり。それでもこの国の人達は優しくしてくれた。なんの戦う力も、知恵も持ってなかった俺達を支えてくれた。頼るだけではなく、一緒に戦ってくれた。
いい人達だった。皆。だから、この世界の為に頑張ろうと思えた。この国の人達の為に、戦おうと思えた。傷付けるのも傷付けられるのも怖かったし、殺し殺されるなんて現実も恐ろしかった。それでも武器を手に取った。やれる事をやろうとした。それが、支えてくれた人達への恩返しになるなら、と。
どれくらい、暗い夜の廊下を一人で歩いただろうか。目の前には、見上げるほどに大きな扉があった。その光景は記憶の中のままで、この場所はあの時から変わっていない。嬉しいのか悲しいのかわからないまま、その扉を全身を使って押し開ける。
あの時は思った以上に重くて、扉を開けるだけで息が上がっていた。だが今は、簡単に開く事が出来た。俺も、少しは成長しているのだろうか。そう思うと、少し可笑しな気持ちになれた
「あの時のままだな」
そう呟く。誰も居ない礼拝堂に、俺の声だけが響く。
幻想的なまでに美しいステンドグラスも、冷たい空気も――その最奥に在る、銀造りの女神像も。
「エルメンヒルデ」
『遅い』
その少し怒った声に、不思議と安心にも似た感情を覚えてしまった。探していた相棒は、女神像の手の平の上に乗せられていた。
「すまないな。遅くなった」
『まったくだ。私はずっと待っていたというのに』
エルメンヒルデを手に取り、礼拝堂に備え付けられている木造の椅子へ腰を下ろす。ピン、と親指で弾くと礼拝堂全体にその音が響いたような気がした。静寂が破られる。だが、そんな事はどうでもいい。
クルクルと回るエルメンヒルデを握り、手を開く。出た目は表。
「ん。良い目だ」
『……はぁ』
息を深く吸い込んで、ゆっくりと吐く。冷たい空気が、酒で温まった身体に心地良い。
『怪我は、大丈夫なのか?』
「ああ。心配させたか?」
『当たり前だ』
「そうか」
そう言ってくれるエルメンヒルデを手に握り、立ち上がる。
「覚えてるか。ここで、俺達は初めて会ったんだ」
『そうだったか? すまないな。前にも言ったが、魔神と戦った影響か、以前の事をあまりよく思い出せないんだ』
「いや、いいさ。些細な事だからな」
その言葉に、何でもない風に返事をする。覚えていなくても、忘れていても。それでも、俺は――。
歩き出す。礼拝堂を出ようとして、もう一度女神像へと視線を向ける。
「ただいま」
それで正解かは分からないが、そう女神へ告げる。
【おかえりなさい】
それは幻聴だろう。ただ、その声が背中を押してくれたような気がした。
『どうした、レンジ?』
「いや、お前に言っておかないといけない事があってな」
『なんだ?』
「借金をした」
『…………』
「宇多野さんに、銀貨を十枚ほど」
『…………。は?』
勇気の出し方を間違えながら、それでも俺は――。




