第十話 山田君と宇多野さん
泣いているのは、誰だろうか。
岩肌を削り取って作ったような城の殆どを破壊した結果、天井が無くなり空が覗いていた。目が眩みそうなほどの蒼穹に燦々と輝く太陽、清廉な風が本来なら心地良かったはずだ。だが今は、そのどれもが鬱陶しくすら感じられた。
剣戟の音が、魔術の爆音が、周囲の地形が破壊される音が、クソッタレな化け物の笑い声が、仲間たちの必死の声が、すぐ傍で俺を呼ぶ声が――そのどれもが苛立たしい。
聞こえないじゃないか。
彼女の、最後の声が。
今、腕の中で消えていく、――の声が。
「すまない」
そう言うと、困ったように腕の中の女性は笑う。闇色の魔神から切り裂かれた身体から、真っ赤な血が溢れているというのに。それでも彼女は笑う。俺に心配させないように。最後の表情が、泣き顔でも痛みに苦しむ顔でもない――笑顔であるように。
そんな姿が痛々しくて、彼女を抱く腕に力を込める。
だというのに、すぐ傍で俺の名前を呼ぶ仲間は彼女の事など考えないかのように俺の肩を揺する。大きな声で、俺の名前を呼ぶ。
「守るって言ったのに。守るって――約束したのに」
また、彼女は笑う。今度は笑顔で、首を横に振る。
黄金色の髪が揺れ、翡翠の瞳が柔らかく緩む。その笑顔は時折見せてくれた平穏な表情そのもので、身体が血塗れでなければ見惚れてしまいそうなほどに美しかった。血の紅が美貌を彩る。命の源である紅すらも、彼女を美しく際立たせる。
その頬を撫でると口元が小さく動いた。言葉はない。聞こえない。ただ、口元だけが動いた。
ああ、どうして俺は、いつもこうなのか。守りたい人を守れない。守られてばかりの、最弱の英雄。戦う力を与えられたのに、それを使いこなす事が出来ない無能者。どうして、どうして、どうして――どうして俺は、こんな力を望んだのか。こんなに悲しいなら、こんなに苦しいなら、こんなに痛いなら……。
「―――」
記憶に、雑音が奔る。思い出せない。彼女の大切な言葉を、思い出せない。
極大の魔術が世界を揺らす。勇者と魔剣使いの一閃が、古竜の息吹が、魔王の一撃が、魔神の居城を城とは言えない瓦礫へと変えていく。
皆が一丸となって頑張っている。世界の敵を、倒そうとしている。だというのに俺は、世界の敵を倒せる武器を持つ俺は、武器ではなく彼女の手を取る。
その小さな、柔らかな、血に滑る、暖かな手を握る。何度も重ねたはずなのに、その時の手は初めて握ったような気がした。
――の手ではないような気がして、その感触を忘れないように頬に寄せる。
「汚れるぞ」
「構うもんか。お前の血だ」
「……相変わらず、馬鹿だな」
ああ、そうだ。俺は馬鹿だ。大馬鹿だ。守りたいと思ったものを何も守れない、愚か者だ。そして、それでもまだコイツを守りたいと願っている……救いようのない愚者だ。
そんな俺を――だと言ってくれた。そんな俺だから、―――――と言ってくれた。だから俺は、この生き方を変えないと誓ったのだ。
仲間よりも、世界よりも、魔神よりも、俺は目の前の女性を選んだ。
そして、その俺に目の前の女性は微笑みを返してくれる。
「泣くな」
その声で、ようやく誰が泣いているのか判った。
泣いているのは俺だ。泣いていたのは、俺だ。
「……泣くな、馬鹿」
死にそうになっているのに、――の声はいつもと変わらないほどに優しくて温かい。握る手から力が抜ける、だから力を込めてその手を握る。痛いくらいに握り締めているのに、――は痛みの声を上げるどころか、顔を歪める事すらしない。
ただただ、笑顔で俺を見上げてくる。
「私は、お前の泣き顔より……笑顔が好きなんだ」
笑う。笑顔で、俺が好きな笑顔で、そう言ってくれる。
最後の最後まで、笑顔で。眩しいくらいの、痛々しい笑顔で。
「だから、泣かないで」
だから、約束した。
目を開けると、見覚えのある天井が視界に入る。木造の天井に、豪奢なシャンデリア。首を横に向けると、ガラス張りの窓と見るからに高価だと判る厚いカーテン。
暖炉に火が焚かれているようで、部屋の中は程よく温かい。窓に水滴が付いていることから、外は結構寒いようだ。
もう一度視界を天井へ向けると、溜息を吐く。
「エルメンヒルデ?」
呼び掛けるが返事は無い。どうやら傍に居ないようで、その事にまた溜息。
ここがどこかはなんとなく予想は付く。ここは――この部屋は、俺に宛行われていた部屋だ。この世界に召喚されて、異世界の常識を学ぶ間過ごしていた部屋。家具の並びも、窓から覗く景色も、何もかもが懐かしい。知らずに緊張していた身体から力を抜き、ベッドに沈む。
しかし、どうしてここにいるのか判らない。腐霊の森での戦いの後……あのクソ骨はどうなったのだろうか。
「――」
身体を起こそうとすると、右腕に痛みが奔る。視線を向けると、包帯が巻かれていた。そういえば、あのスケルトンからダメージを受けていたんだったか。
あの後。阿弥達と合流して――そこから先の記憶が無い。おそらく倒れたのだろう。この右腕の傷を受けた後から、酷く体調が悪かったのを思い出す。多分、毒でも受けていたのかもしれない。酷く身体がダルイのは、その毒の影響か。動くのすら億劫だ。
身体の調子を確かめながら、よく生きていたなと思う。フランシェスカ嬢はもちろん、阿弥とフェイロナも解毒の魔術は使えない。解毒の魔術とは、毒の成分を十全理解していなければ意味が無いのだそうだ。いくら阿弥が天才的な魔術師だとしても、まだ十八歳。しかも医学が遅れているこの世界の知識では毒の成分を理解するなど不可能だ。魔神の眷属の毒だ、解毒剤のようなものもないだろう。ゲームのように、万能の毒消し草なんて物も勿論無い。
なので、この世界で魔神の毒を解毒できるのは弥生ちゃんかもう一人。ここが俺の予想通りイムネジアの王城だとするなら、王都の魔女が解毒してくれたのだろう。
「ふぁ」
色々と考えていると、眠気を感じて欠伸をしてしまう。身体が疲れているのか、寝過ぎてまだ寝たいのか。どういう状況下は判らないが、起こされなかったという事は緊急の問題はないはずだ。そのまま眠気に意識を委ねようとして、ようやく部屋に誰かが居る事に気づいた。
その誰かは黒髪で、部屋の中央付近に置いてある椅子に座り、腕を枕にして、机に身体を預るような形で器用に眠っている。その寝顔には見覚えがあった。というか、一人しか知らないのだが。
「おい、阿弥」
呼び掛けるが、反応はない。よほど深く眠っているようだ。そんな体勢で寝たら身体を痛めそうだな、と思う。
何度か呼び掛けて、起こす事を諦める。まぁ、部屋も温かい。風邪を引くような事はないだろう。後で寝顔を見たとかで怒られそうだが、まぁその時はその時だ。他に見るものもないので、阿弥の寝顔を観察する。普段は凛としているから、こういう無防備な姿は貴重だ。後でからかってやろう。
閉じた瞼、呼吸と共に上下する小さな肩。いつもは凛としている表情も、眠っているからか歳相応に柔らかく感じる。普段の表情も阿弥らしいとは思うが、こんな寝顔のほうが愛嬌があるだろう。魔術学園では優等生という話だったが、授業中に居眠りとかしているのだろうか。さて、この寝顔を一体何人の男子学生が知っているのやら。
だがそれにもすぐに飽きて、視線を再度窓の方へ。呼び掛けても反応がないし、返事もしてもらえないのだ。言っては悪いが、阿弥の寝顔など見慣れているのだ。旅をしていた時は、いつも俺より先に眠っていたのだから。
身体を起こすのも痛いし、とりあえず今はダラダラとさせてもらおう。
「……」
王都イムネジア。イムネジア大陸の中心にある、最も大きな街。東西南北に四大都市を据える、王が住む都。
俺の記憶の最後に居た場所、腐霊の森からは馬でも五日は掛かる。毒に侵されていたというのに、よく生きて辿りつけたものだ。
そこまで考えると、ドアをノックされる。そのまま、返事を待たずに開けられたドアから、どこか見覚えのある女性が顔を覗かせた。
「あ、起きてたの」
まるで世間話でもするかのように声を掛けられる。一応、俺は傷を負って寝込んでいたんだがなぁ、と。まぁそんな事を言い出したら自業自得だとか、阿弥たちに迷惑をかけてとか逆に怒られそうなので何も言わない事にする。
どうにも、口では勝てないのだ。いつも負けていたからか、苦手意識のようなものまである始末だ。
左肩から垂らした亜麻色の髪を指先で弄りながら、その女性が後手でドアを閉める。阿弥を起こさないようにか、小さな音すら聞こえなかった気がする。器用なものだ、と感心してしまう。
魔術師らしい黒ローブ姿に、この世界では珍しいメガネ。気の強さを表したかのような少し赤みがかった瞳は、僅かも逸らされる事無く俺の目を見返してくる。その視線が少し怖いと思うのは、俺だけではないだろう。絨毯の上を音も無く歩く姿は、まるで御伽話の魔女のようだと思ってしまった。そんな事を口にしようものなら、どんな制裁を加えられるか判ったものではないが。
横になったままでは悪いので身体を起こすと、その女性の表情が少し明るくなったような気がする。俺の心配をしてくれていたのだろうか?
何となくそう思う。雰囲気や視線は怖いが、この女性がそこまで冷たくない事は知っている。もしかしたら、倒れた俺の心配を少しはしてくれていたのかもしれない。しかしまぁ、この女性がここに居るという事は、俺の考えが間違ってなかったという事だ。自分でも意識しないうちに、溜息が出てしまう。
「やっぱり、ここはイムネジアの王城か」
「ええ。酷い傷で運び込まれたのよ、山田君」
そう言いながら、眠っている阿弥の髪を梳くように撫でる王都の魔女――宇多野さん。
阿弥も宇多野さんの指が気持ち良いのか、寝顔が少し緩んだような気がする。その様は仲の良い家族のようで、微笑ましく感じてしまう。そして、判り易くもあるか。阿弥は、宇多野さんに母親としての親愛を求めている。昔から困った事があったらすぐに相談していたし、きっと今でも相談しているのではないだろうか。そんな二人の関係は、少し羨ましい。
俺の視線に気づいたのか、宇多野さんが意地の悪い事を思い付いた顔を向けてくる。
「女の子の寝顔をそうマジマジと見ていたら、変態扱いされちゃうわよ?」
「そりゃ失礼。別に、真剣に見ていた訳じゃないんだけどな」
「ふふ。山田君にどんな考えがあろうと、この子にとってはどうでもいい事よ」
そのまま、髪を撫でていた手が頬へと移る。擽ったそうに身を竦める阿弥は、まるで猫のようだ。
「大切な人に寝顔を見られた。それは、とても重要な事なんだから」
「…………」
そんな事を言い出した宇多野さんから視線を逸らす。
その次に何を言い出すのか、なんとなく予想が付いているからだ。だから視線を逸し、窓から景色を眺める。ああ、エルメンヒルデはどこに行ったのだろうか。
「大切にしてあげなさい」
「大切にしているさ。俺なりにだがね」
その視線が冷たく、鋭くなって俺へ向けられる。だが、だからといってどうしようもない。
俺も阿弥も、お互いがお互いに何を求めているのか曖昧なのだから。そんな状態で踏み込んでも、失敗するだけだ。多分。
「一年経ってもヘタレは治らなかったようね」
「……ひでぇ。そこまでヘタレてるつもりはないんだけど」
「知らぬは本人ばかり。私なら、もっとストレートに行くわ」
「そりゃ、宇多野さんだからなぁ」
俺はアンタみたいに、自分を信じられるほど強くないんでね。阿弥は……どうかは判らないが。
ストレートに突っ込んで玉砕しました、じゃ笑い話にもなりはしない。ま、それも言い訳でしかないのだが。実際、宇多野さんの言う通り俺がヘタレているだけなのも事実だ。阿弥の好意は判っている。ただ、俺がその好意を避けているだけとも言えるのだ。
阿弥が俺に求めているものが分からないなら、一緒に探せばいい。阿弥はまだ十八歳、好意を寄せられるようになった頃は十六歳の子供だった。そんな子供に答えを求める方が間違っている。だが、俺は求めた。そして今も、阿弥の好意に甘えている。答えなんか……一年前に出ているのに。
「倒れた山田君を心配して、泣いていたわよ?」
「そうか」
「女の子を泣かせるなんて、最低ね」
「判ってるさ」
肩を竦めると、呆れたような溜息。
その最低は、俺が弱いからか。それとも、阿弥を受け止めないからか。きっと、どちらもだろう。ああ、確かに俺はヘタレだな。エルメンヒルデから言われるのとは全く違うダメージに、項垂れてしまう。
「それに、私も――」
「ん?」
その続きの言葉は小さくて、聞き逃してしまった。
だから聞き返すように視線を向けるが、そこにはいつもの冷めた視線の魔女様が居るばかり。
「腐霊の森で暴れたんですって?」
「いや。魔物から逃げ回っていたら、阿弥がトドメを刺してくれた」
「なに、それ。聞いてる話と全然違うわね」
どうにも聞き返せそうにない雰囲気に、結局彼女の言葉に返事を返すことにする。
すると、その柔らかそうな手で口元を隠しながら肩を震わせる。その仕草には、阿弥やフランシェスカ嬢に無い女性らしさを感じさせられる。胸は二人に負けているのに、雰囲気はやっぱり大人の女性である。
「本当なんだけどな」
「貴方にとってはそうでも、阿弥にとっては違う風に見えたんでしょう。ほら、好きな人って結構美化されるものじゃない?」
「そもそも、その場に阿弥は居なかったんだけどな」
あの蜘蛛を思わせるクソ骨を思い出す。あの場に阿弥は居なかったが、あのスケルトンにトドメを刺したのは阿弥だ。地下から、地上へ向けて撃った高出力の砲撃で地層ごと魔神の眷属の半身を消し飛ばした。
あんな攻撃を見せられると、どれだけ自分が弱いか自覚させられる。
頭は良いし、美人だし、性格も良い。俺が阿弥に勝っているものなんて、年齢くらいしかないだろう。なんとも悲しい話である。
「なら、尚更でしょうよ。この子にとっては、貴方は特別なのだから」
「それはそれで困るんだけどな。俺は、特別な人間じゃないんだし」
阿弥を起こさないように小声で会話をしながら、その寝顔に視線を向ける。
「それで、どうして俺はここに?」
「覚えてないの?」
「残念ながら。腐霊の森で魔神の眷属と戦った後から記憶が無い」
「あらあら。阿弥の泣き顔も見逃したみたいね」
「それは見なくてよかったと思うがね」
そんなのを見せられたら、自責の念に駆られそうだ。
泣き顔なんて――見たくない。それが嬉しくて泣いてるのならいい。ただ、悲しくて泣いてるのなら……俺は見たくない。
「俺は泣き虫なんでね。泣き顔を見せられたら、俺まで泣くさ」
「そうね」
へいへい、とその視線から逃げるように顔を逸らす。どうしてこんな時だけ、そんな優しい視線を向けてくるのか。やはり俺は、宇多野さんが少し苦手だ。話す分には楽しいが、まるで内心を悟られているのでは、と思う時がある。
「結衣が運んでくれたのよ。腐霊の森からここまでね」
「結衣ちゃんが?」
思い掛けない名前が出てきて、聞き返してしまう。
結衣ちゃん。緋勇結衣。俺達と同じ異世界から召喚された人間の一人で、魔物を使役した少女。今はどこに居るか判らなかったが、運良く腐霊の森の近くに居たのだろうか?
「元はエルフレイム大陸に居たらしいんだけど、幸太郎君が連れてきてくれたみたいよ。事前に、山田君が死ぬ未来が見えていたみたいだしね。お礼、言っておいたほうがいいんじゃないかしら」
どこから突っ込めと。結衣ちゃんと幸太郎の名前だけでも驚きなのに、俺の死の未来って……。また幸太郎か。あの野郎。そんな未来が見えたんなら、俺に教えろとあれだけ言っておいたのに。
まぁ、行方を眩ませて田舎で過ごしてた俺も悪いんだが。どうしてあいつが見る未来の俺は、毎回死んでるんだろうか。そこまで弱いのか、俺は。この世界の一般冒険者よりは強いと思ってるが、それは俺がそう思い込んでるだけなのだろうか。少し泣けてくる事実だ。
そんな俺をどう思ったのか、また口元を手で隠して肩を震わせる宇多野さん。阿弥は相変わらず寝たままである。
「結衣ちゃんに幸太郎って……王都に皆を勢揃いでもさせる気か?」
「さて、ね。イベントは近いけど、そんなつもりは私はないわ」
私は、のところを強調しながら言う辺り、おそらく誰かが裏で動いているのだろう。
例えばこの世界を創った人とか。もしくは不条理な運命とか。まぁ、あの人は人間ではなく女神だが。また厄介事の予感がするのは、気の所為であってほしいものだ。あの人が持ってくる厄介事は、全部面倒だから本当に困る。しかも、ほぼ全部に俺を関わらせようとする。もはや嫌がらせに近いと思うのは、俺だけだろうか。
そんな俺の考えが判ったのか、宇多野さんの表情が面白そうな笑顔に変わる。
「頑張ってね」
「ヤだよ。一年前の時点で、一生分は頑張ったんだから」
「そんなの関係無いわよ。彼女は女神なんだから。そして、彼女から頼まれ事を受けるのは、いつも貴方の仕事だった」
何その理屈。おかしい。それじゃ、俺は一生彼女に巻き込まれ続けるということじゃないか。
肩を落とす俺を無視して、宇多野さんが立ち上がる。
「でも確かに、また皆が集まろうとしているわ。まるで、何かの意志が働いてるみたいに」
「勘弁してくれ。魔神は死んだ。一番の面倒事は終わった……戦いは、もうゴメンだ」
「同感ね。私も、この国でやらなければならない事が多いわ」
その声音は、今までの会話の時よりも一段沈んでいるように感じた。きっと、そのやらなければならない事を考えて沈んでいるのだろう。
あまり表情には現れないが、こんなところは判りやすい女性なのだ。
「……頑張ってるみたいだな、色々と」
「ええ、誰かさんは早々に姿を消して逃げたから」
その誰かさんは、気付かないふりをして阿弥の寝顔を眺めることにする。
悪いとは思っているのだ。面倒事から逃げたのも、阿弥から逃げたのも、仲間達の前から姿を消したことも。……宇多野さんに全部を任せてしまった事も。
だというのに、宇多野さんはその事を悪く言わず、こうやって以前のように話してくれる。それがどれだけ嬉しいか判っているのだろうか、この女性は。文句を言われてもしょうがない立場なのに。
「ふふ。とりあえず、まずは傷を治しなさい。ここは安全だから」
「勘弁してくれ。せめて城下町で宿を取らせてほしいんだけど」
王城なんかで休むとなったら、知った連中に見つかる可能性が高い。一年間も音信不通だったのだ、今更どんな顔をして会えというのか。
それを判っているのだろう、宇多野さんの視線は冷たい。もの凄く――絶対零度とか、そんな感じの視線を向けられる。
「それは無理よ。貴方がここに居るという事は、もう皆が知っている事だもの」
「――は?」
「エルは保険よ。彼女が居なければ、貴方は一人で王城からは抜け出さない。そうでしょ?」
ぽかん、と宇多野さんの顔を見る。
そこには、悪戯が成功したような子供の笑顔の宇多野さん。希少な表情だと思う以前に、悪寒しか感じない。
「宇多野さん、つかぬ事をお伺いしますが」
「何かしら、山田君?」
「私はどれくらい……何時間ほど眠ってたのでしょうか?」
「今日で五日目だから、ざっと百時間くらいかしら?」
左手で顔を覆う。そりゃ、身体がダルイ訳だ。王都までの強行軍で疲れていたのもあるんだろうが、そんなに眠っているとは予想もしてなかった。
「阿弥が居るって事は、他の連中……フェイロナ達は?」
「会ったわよ。貴族の御令嬢にエルフと獣人。また面白い人達と旅をしているようね」
「無事なのか。良かった……」
まずは一安心である。阿弥が無事だから他の連中も無事だとは思っていたが、流石にあれから五日も経っているとなると心配してしまう。
王城には居ないだろうから、おそらく今は城下町に宿でも借りているだろう。後で抜けだしたら、会いに行こうと思う。まぁ、まずは泊まっている宿を見つけなければならないのだが。
「安心していいわ。これから使いを出して、明日にでも王城に招待するから」
「あ、そう」
本当に心が読めるのだろうか、この人は。それとも、俺が判りやすいだけなのか。出来れば前者であってほしいものだ。
「それにしても、また面倒なものを持ってきてくれたわね」
「ん?」
そう言いながら、懐から取り出したのは黒い結晶。見覚えはないが、見ていてあまり気分が良いものではないように感じる。それに、その色は――どこか、あのクソッタレな化け物を思い起こさせる。さっき昔の夢を見たからか、自分でも驚くほどに気分が悪くなってしまう。
見た目はカッティングされていない、綺麗な宝石の原石にしか見えない。
「それは?」
「ムルルという獣人が、エルフレイム大陸から持ってきたものよ」
「……ムルルが?」
というかアイツ、エルフレイム大陸の出身なのか。イムネジア大陸には船で来るしか無いはずだが、どうやって来たんだろうか。金の価値もよく理解してなかったのに。
ま、今度会った時にその辺りは詳しく聞く事にしよう。今色々と考えても、結局答えは出ないのだし。
「なら、それが精霊神からの依頼の中身か」
「呆れた。知らなかったの?」
「宇多野さん以外には見せないの一点張りだったんだよ。俺も、宇多野さんと一緒に見れば良いかと思ってたんだ」
実際は、会わずに逃げようかと思ってたが。その辺りは言わない事にする。
正直なのは美徳だろうが、馬鹿正直はただの馬鹿なのだ。
「で、それは?」
「心臓の欠片よ。魔神の」
ああ、だからか。こんなにも気分が悪くなるのは。知らなかったはずなのに、その事を教えられても心に動揺が無い。それどころか、妙に納得している自分が居る。きっと傍にエルメンヒルデが居れば、迷わず斬り壊していたはずだ。さっきは俺が逃げないようにと言っていたが、だから宇多野さんは俺の傍からエルメンヒルデを遠ざけたんだろう。
それほどまでに、忌々しい。
「魔神が復活するのか?」
「いいえ、させないわ」
魔術都市で魔族が言っていたことを思い出す。
しかし、宇多野さんからは力強い否定の声。それだけで、随分と心強い。
「私達はその為に居るのよ、山田君」
窓から離れ、ベッドの脇に座りながら自信に満ちた声で言ってくれる。その赤みがかった黒い瞳が、先程よりもずっと近い位置から俺の視線を見返してくる。
近すぎる、と思うのは俺の気の所為だろうか。
「阿弥は起きないな」
視線を逸らして、阿弥へと向ける。
どれだけ疲れているのか、これだけ話しているのに起きる素振りすら無い。
「ええ、魔法で眠っているもの」
「な――」
何を言っているんだ、と質問するよりも早くその唇が塞がれる。柔らかな、女性の唇で。
触れるだけの、子供のような口付け。しかも一瞬だけで、すぐに離れてしまう。だというのに、それはとても甘くて、いい匂いがした。
いつの間にか閉じられていた瞼が開くと、少しだけ潤んだ宇多野さんの瞳と視線が重なった。それも一瞬。すぐにベッド脇から立ち上がり、ドアへと足早に向かう。照れているのだろう。積極的なのに、事が終わったら初心な子供のよう。そんな所は、相変わらずのようだ。
「それじゃ阿弥の相手をお願いね、山田君」
パチン、と指が鳴らされる。
すると何事もなかったかのように、阿弥が眠たそうに身体を起こす。机に体を預けるように眠っていたからか、眠そうな瞳で伸びをしている。
「おはよう、阿弥」
「え、あ――ゆう……」
そこまで言って、ようやく俺が起きていることに気付いたように身体が固まってしまう。その表情も様々に変わり、見ていて飽きない。
ここで寝顔を見ていた事を教えたら、どんな表情になるのだろうか?
「食事を用意してくるわ。お腹、空いてるでしょ?」
そして、問題ばかりを残した彼女はそれだけを言い残して静かに部屋から出て行った。




