第五話 腐霊の森1
馬を走らせ、森を駆ける。
腐霊の森とはその名の通り、大地と木々は腐り、死者と霊が跋扈する森である。
腐った大地は進むだけで体力を消耗し、木々から発せられる瘴気にも似た濃い腐臭は徐々にこちらの正気を奪っていく。
死んだ肉体だというのに動く死者は常に生者である俺達を狙い、仲間にしようとしてくる。霧のような身体を持つ霊体はこちらの精神の抵抗が弱くなる、睡眠時を狙って悪夢を見せてくる。森を移動していれば時折死体が目に留まり、木々が生い茂っている訳ではないが木々から発せられる瘴気が霧となって太陽の光を遮っている。
一刻も早くこの森を抜けたいと思うが、魔術都市と王都の間にあるこの森は深い。最短距離を馬で駆けたとしても、抜けるのに五日は掛かる。
「フェイロナ、もう少し頑張れるか?」
「ああ、問題無い。それよりも――」
「フランシェスカ嬢とムルルの面倒はこっちで見る。お前は森を抜ける事だけを考えてくれ」
「判った」
馬を寄せて、言葉少なくフェイロナの状態を確認する。
この森を進む事で、最も影響を受けているのはフェイロナだ。精霊の加護が無く、死者と霊魂の憎悪によって歪められた森がここまでエルフに影響を与えるとは予想していなかった。魔力の森のような清浄な森に住んでいるフェイロナも、予想外だったはずだ。本人は隠しているつもりだろうが、顔色は頗る悪い。病人というほどではないが、体調を崩しているのが一目でわかる。
悪霊というのがどれほど厄介かは判っているつもりだったが、ここまで影響があるとは思わなかった。エルフとの旅が初めてという訳ではない。しかし、彼らと旅をした時は精霊の加護を濃く受けた森ばかりを移動していたような気がする。なるほど、と思う。エルフが森の番人と呼ばれる理由が、また一つ判ったような気がした。
今すぐどうこうという状態ではないだろうが、そんな状態では不測の事態もあり得る。どうにかしないといけないな、と馬を駆りながら考えるが良い案が浮かばない。こういう時はゆっくり休むのが一番なのだが、この腐った森ではそれも難しい。
腐霊の森に舗装された道は無く、森の民であるフェイロナの先読みとも思える経験があるから馬でも移動できているが現状だ。そのフェイロナが動けなくなるのはマズイ。
「せめて、夜の間だけでもゆっくり眠れると良いんだがな」
『この森では難しいだろうな』
それもそうだ。太陽が出ている日中は王都方面である東へ移動し、太陽が沈んでからはゾンビやゴーストから襲われる。
ほとんど休みなしで三日も動けている事が凄いと言える。女性陣を優先的に休ませている所為で、俺とフェイロナは疲労がピークに達しつつある。
俺は剣で戦う事しかできないので移動の間だけもてば良いが、移動にはフェイロナの経験が必要なのでせめてフェイロナだけでも休ませたいところだ。
「お前が銀の剣にでも創れれば問題無いんだがな」
『そうしてやれれば私も気が楽なのだがな。残念ながら私は銀でも精霊銀でもないのだ』
ま、期待していないさ、と口内で呟きフランシェスカ嬢が駆る馬と並走する。
あの材質不明の翡翠色の刃は、この世界のどの鉱石にも当て嵌まらない。強いて言うならエルメンヒルデという魔力の刃と言うべきか。俺が女神から課せられた七つの制約を解放するごとに切れ味――攻撃力と強度が増す不思議材質。銀が不死者や霊体に特殊な効果がある様に、エルメンヒルデの刃は魔神に傷を負わせられる数少ない武器だというべきか。
確かにその効果は希少なものだが、今この状況では何の役にも立ちはしない。ゾンビ相手になら武器として効果があるが、霊体には無力だ。相変わらず、俺のチートの役立たずっぷりに泣けてきそうになる。
「フランシェスカ嬢」
「何でしょうか、レンジ様っ」
声を掛けると、元気な声が返ってくる。
夜は少し休めているから、フランシェスカ嬢とムルルは元気だ。俺の後ろで静かな阿弥は、馬に揺られながら目を閉じて休んでいる。眠っている訳ではないが、それだけ信頼されているというのを感じると少々こそばゆい気持ちになる。そう一瞬考え、不謹慎だな、と首を振ってその考えを思考から追い出す事にする。
「ムルルもだが、疲れたら動けなくなる前に教えてくれ。休憩する」
「ふふ、お気遣いありがとうございます。ですが、まだ大丈夫です」
そう言ってふんわりと浮かんだ笑顔に和んでしまう。だがそれも一瞬。
フランシェスカ嬢の後ろに居るムルルの視線が険しくなる。それと同時に先頭を走っていたフェイロナの馬が足を止め、俺の背中に頭を預けながら休んでいた阿弥が身動ぎをしながら戦闘体勢に移る。
遅れて俺も視線を前に向けると、フェイロナの前方に鉄の鎧兜に身を包んだ人間のゾンビが四体ほど道を塞ぐように立っていた。そんな意図は無いのだろうが、邪魔だなと思う。よく見ると、そのゾンビの周囲を霧の塊のようなものが二つほど飛び回っている。ゴーストだ。
霊魂は見えないというが、憎悪と悪意によってこの世界に留まるゴーストはどういう訳か霧のような体を持つ。まぁ、こちらとしては見分けがついて判りやすいので助かるが。初めて見た時は恐怖よりも本当にファンタジーだな、と感じたものだ。
ゾンビには明確な思考や意志は無い。ゴブリン達のように群れて連携を取るという事も無く、本能として生者を襲う。
逆にゴーストは、生者を襲うという一点はゾンビと同じだが、ゾンビのような意志の弱い不死者を操る。更に上位のアンデッドである吸血鬼や死神と同じような能力を持つ厄介な敵だ。
聖職者が居るなら女神の奇跡とやらで浄化できるのだが、そんな上位奇跡を行使できる聖職者はまず冒険なんかには出ない。教会で毎日女神に祈りを捧げるだろう。俺の偏見だが。
「阿弥、ゴーストを頼む。フランシェスカ嬢はフェイロナの傍に」
そう言って馬から降りると、同時にムルルが俺の傍に来る。
本当なら無視する所だが、フェイロナが馬を留めたという事は進路を塞がれているという事だろう。そう判断し、さっさと片付ける事にする。
「私は右」
「じゃ、俺は左な」
それと同時に地を蹴って駆け出す。外套が翻り、ムルルの両腕が露わになる。既にそこは、二の腕までが純白の体毛に覆われ、ダガーを連想させる凶悪な爪が覗いている。
俺を置き去りにする突進力でゾンビへと肉薄すると、その爪で半ば腐っている両足を薙ぎ払う。腐った筋肉ではその衝撃に耐えられず、両足を吹き飛ばされてゾンビが地面に転がる。そのまま流れ作業的に革のブーツを履いた右足で頭を蹴り飛ばす。
ゾンビというのは不思議なもので、頭部を破壊すると動かなくなる。しかし、矢や槍で貫くだけでは駄目なようで、今のムルルのように首から切り離すが、原形が残らないほどに吹き飛ばすのが条件だ。一説には脳に何者か――悪霊や虫の類が寄生して死体を操っているという話があるが、確かめる気は無い。気持ち悪い。殺し方さえわかればそれでいいと思う。
俺もムルルに倣ってゾンビへ肉薄すると、首目掛けて鉄のナイフを一閃。その一撃で半ばまでを断ち、返す一閃で頭部を完全に切断する。生者なら無理だが、肉が腐り、筋肉が弛緩しているゾンビならこれで十分だ。
『私を使ってもいいんだぞ?』
「腐った死体を斬りたいのか?」
『………………私は武器だからな』
一瞬迷っただろ。
口には出さずに苦笑して、残り一体に向き直る。その直後、周囲を漂っていた霧が弾ける。阿弥が魔術で爆発させたのだろう。
静かな森に、爆音が響き渡る。それが三度。
ゴーストはどういう訳か、魔術に弱い。魔力――精神力を攻撃力に転化させる魔術だから弱いのか、それとも何らかの理由があるのかは判らない。しかも、何でも効くわけではなく炎や雷に弱いという特性がある。
ファンタジー系のゲームならそんなものかとしか思わないが、こうやって現実でも同じような弱点があるとなると色々と理由を考察してしまうのは俺が現代人だからだろうか。
そんな事を考えながらも手を止めず、最後のゾンビの首を刎ねる。ゾンビは肉が腐り、筋肉も弛緩してしまっているからか動きが鈍い。人間は自分の身体を壊さないように無意識に力を押さえているらしいが、ゾンビはそんな無意識のセーブを取り払っている。しかし、肉体が腐っていてはそんな力すらも無意味なものだ。こちらに掴みかかるだけで腕がもげ、少し走るだけで足が千切れてしまう。
ムルルはすでにフランシェスカ嬢の元へと向かっている。流石に自前の爪で腐った死体を何度も斬りたくないらしい。ツメで斬るのはどんな感触だ、と一回聞いたら気持ち悪いとだけ言っていた。それはそうだろうな、と思う。ナイフ越しでも気持ち悪いのだ。まぁ、それを言うなら生物を斬る事にだってまだ完全になれた訳ではないのだが。
ゾンビとゴーストが全滅したのを確認してから、阿弥が乗っている馬の元へ戻る。
「助かった」
「どういたしまして」
差し出された小さな手を取って、馬へと跨る。
先ほどの派手な爆音の所為で、森の静寂がより一層耳に痛く感じてしまう。
「それじゃ、さっさと進もうか」
俺のその一声を待っていたようで、フェイロナが馬を動かし始める。
俺とフランシェスカ嬢もそのフェイロナの後に着いて行くようにして移動を再開する。
予定としては、あと二日。まだまだこの森を抜けるのは先になりそうだ。そう思うと、自然とため息が漏れてしまう。
「大丈夫か?」
後ろの阿弥に声を掛けると、腰に回されていた腕に僅かな力が籠る。密着されるのは男として嬉しいが、色気が無い事を言うなら馬を操り辛いので勘弁してほしい。
何か言っているようだが、馬が走る音と風切音で聞こえない。聞き直そうかとしたら、それより早くフェイロナが馬を寄せてきた。
「何かあったか?」
「先に何か居る――」
そう言って、馬を留めて地面に降りるフェイロナ。
そのまま澱んだ霧で湿った地面へと膝をつくと、指で地面をなぞる。よく見ると、そこには大きな足跡があった。良く気付く物だ、と感心する。
俺もそれなりに森の歩き方は教えてもらっているが、やはりエルフには敵わないな、と実感させられる。しかも馬上から気付くのだから、もう凄いとしか言いようがない。
フェイロナに倣って馬から降りると、俺もその足跡を確認する。それは普通の足跡ではなかった。靴底のようなものではなく、細い足底と五本の長い指。骨の足だ。
「骸骨兵か?」
「だろうな。しかも巨大だ」
足跡の大きさだけで俺の三倍くらいはある。そこから考えると、一角鬼クラスのスケルトンとなる。それとも、複数の骨が集まった合成獣タイプのスケルトンだろうか。
見つけた足跡だけでは判断がつかないが、この先にゾンビやゴーストとは格の違う魔物が居るという事は確かなようだ。
「どうかしましたのですか、レンジ様、フェイロナさん?」
「ああ。少しな。ムルル、何か変な匂いはするか?」
「何処も変。この森は、全部腐った匂いがする」
そう聞くと、顔を顰めてそう応えられる。
こんな時は獣人の鼻が頼りになるのだが、この腐霊の森の特性上、今回は役に立たないようだ。
「何か厄介な魔物でも?」
「スケルトンだ。たぶんオーガかキメラみたいな奴か……」
「宗一達の言葉を使うなら、ボスって事ですか?」
「懐かしいな、その言い方。でもまぁ、その通りだな」
昔はそう言ってたなぁ、と。その事を思い出すと、何とも懐かしい気持ちになれた。最初はゲーム感覚だったのだ。異世界。ファンタジー。剣と魔法の世界は心を躍らせてくれた。剣は命を奪う武器で、死が身近にある事を忘れさせてくれるほどに。
それと同時に、自分でも気付かないほどに感じていた僅かな緊張が薄れた気がする。
三年前から、随分と変わってしまったと実感してしまう。殺し、殺される。現代社会では考えられないような冒険をしているのに、昔の事を思い出すだけで落ち着けてしまう。その事に慣れてしまった自分を自覚する。
「ぼす?」
「大物とか、この森の主って事だな。そいつを倒せば、もしかしたらこの後は楽に森を抜けらえるかもしれない」
流石にボスなんて単語が通じるはずもなく、それっぽい事を説明する。まぁ、間違ってはいない。
「阿弥に吹き飛ばしてもらえば簡単だろ」
『物凄い他人頼りだな……ほら、私も居るんだぞ?』
「流石にスケルトンは苦手だ」
そう肩を竦めると、エルメンヒルデから溜息を吐かれてしまう。
しょうがないじゃないかと言い訳をする。エルメンヒルデに鎚を創り出してもらって砕くのもいいが、鎚や戦斧は苦手だ。それと槍も。振りにくい。
それに、苦手な武器で接近戦を挑むよりも遠距離から魔術の大砲で吹き飛ばしてもらった方が確実だし安全だ。
ゾンビは斬りたくないみたいだし、ゴーストは斬れない。スケルトンは今の俺じゃ荷が重すぎる。この旅で自分は全く役に立っていない事を、気にしているようだ。
旅なんて、それこそ適材適所だと思うのだが。俺一人が何でも出来る必要は無い。森の移動はフェイロナに、索敵と戦闘はムルルに、ゴースト退治は阿弥とフランシェスカ嬢に。何もしないのも問題なので、俺は全員の長所を生かせるように立ち回ればいいと思っている。
それも、パーティを組むとなると大事な事だ。
「ふふ。大丈夫です。私だって、一年前よりずっと強くなったんですから」
馬の上でそう胸を張る阿弥。頼もしい限りである。
それと、あまり強くなられると本気で守ってほしくなりそうなのでほどほどに強くなってほしいものである。
一年前だって俺よりはるかに強かったのに、今はそれ以上に強いとかどんだけだよ。そのうち、本気で魔神に魔術合戦で勝てるようになるのではないだろうか。
「そりゃ頼もしいな」
「それに、レンジ様も居ますもんね」
『そうだな』
「残念ながら。俺はただの足手纏いになるかもなぁ」
『……おい』
ポケットからメダルを取り出して、指でなぞる。
戦う意思はあれど、この場で俺が守るほどに弱い人は居ない。阿弥、フェイロナ、ムルルは俺よりも強い。フランシェスカ嬢も、今は冒険者としてしっかりしている。俺より強いとは思わないが、自分の身は自分で守れるくらいには成長した。
そうなると、俺の制約が解放されるのは一つだけ。戦う意思。それではいつものゴブリン退治と変わらない。そんな状態では、スケルトン相手なんて難しい。しかも、オーガかキメラとなると絶望的だ。
安定した力で戦う事が出来ないのは、俺のチートの致命的な弱点とも言える。ゴブリンやオーク相手に三つも四つも制約を解除出来る時もあれば、ボスクラス相手に一つしか解除できない時もある。
その事で何度溜息を吐いたか判らないが、今日もまた溜息を吐く。そんな俺に気付いたのか阿弥が視線を向けてくるが、気付かない事にする。
「ま、さっさと片付けよう。日が落ちてしまっては、敵の方が有利になってしまう」
「そうだな」
フェイロナの言葉に同意する。夜の闇に紛れて不意打ちをされては不覚を取りかねない。
阿弥も異世界補正でこの世界の住人よりも強靭な身体能力を持っているが、それでも魔術師という職業柄か宗一達と比べると打たれ弱い。
こちらから一方的に攻撃して仕留めてしまった方が安全だろう。
「取り敢えず、このまま東に向かう。足跡の向きから、このスケルトンも東に向かっているようだしな」
「はい。見付けたら教えてください」
「わかった」
だがまぁ、会わないで済むならその方が良いな、と思う。
無駄な戦闘は避けたい。いくら阿弥が強いとはいえ、戦いは何が起こるか判らないのが常だ。
不測の事態で自分だけではなく仲間まで危険に晒される。一番安全なのは、スケルトンに会う事無くこの森を抜ける事だ。
「さっさと森を抜けたいもんだ」
『……むぅ』
「何を拗ねてるんだ?」
『この旅に出て、まだ何も役に立てていない……』
気にしていないんだがな。むしろこの相棒は、周りを頼る事を覚えるべきだと思う。まぁ、俺は頼り過ぎだと怒られそうだが。
「気にしてないのに」
阿弥にもエルメンヒルデの声が聞こえたようで、慰められていた。
偶に見せるこんな仕草は可愛いもんだ。いつもの小言が無いせいで、余計にそう思ってしまう。
「もっと私を頼ってよ、エル」
『だがなぁ』
「頼ってもらえるのは嬉しいよ?」
フェイロナ達に置いていかれないように馬を操りながら、阿弥とエルメンヒルデの言葉に耳を傾ける。
頼ってもらえて、か。
まぁ、阿弥は俺と違って実力もあるから問題無いだろうな。俺は実力も無いのにそうあろうとして何度も失敗したが。年上だからと、何でも出来る訳ではないといのに。だがまぁ、そうやって頑張ったからこそこうやって僅かばかりの信頼を得られたのだが。
世の中本当に、自分の行動がどう転ぶか判らないものだ。
『……判っているさ』
そんな阿弥の言葉に返された声は、どこか誇らしげに聞こえた。
『だから頼ってほしいんだ。レンジに』
――俺はどう応えるべきなんだろうか?
その言葉をどう捉えればいいのか。エルメンヒルデの真意は何なのか。ふとそんな事を考えて、首を振る。
「頼ってるだろ、相棒?」
『私は武器として頼ってほしいのだ、相棒』
そりゃ無理だ。
だってお前は、俺が一番信頼している相棒だからなぁ。
カカ、と笑うとフランシェスカ嬢とムルルが少し離れた場所から俺に視線を向けてくる。エルメンヒルデの声が聞こえないので、いきなり笑い出した俺に驚いたのだろう。
そろそろ面倒だから、付き合いが長くなるようだったらエルメンヒルデの声をフランシェスカ嬢たちにも聞こえるようにしてもいいかもしれない。
まぁそれだって、俺の勝手な考えなのだが。親しい仲間にだけある特別。そういうのを持ちたいと思うのは普通の事だろう。




