第四話 英雄と魔術師の町4
まるで爪で黒板を引っ掻いたような声を上げて、土色の肌を持つ魔物が手に持った得物を振り下ろしてくる。
ゴブリン。この異世界で最も多く戦ったであろう魔物。深い森の中ではそのおぞましさが際立ち、接近されるだけで鳥肌が立ちそうになる。
魔力の森。
先日霊草を採取するために訪れた場所。あの時もゴブリンに襲われたが、今日はあの時以上に厄介な状況だ。
なにせ、まだ居るのか、と内心で呟きそうなくらい湧いてくる。勘弁してほしい。そう思うが、溜息を吐く間もなくゴブリン達は俺に群がってくる。
今日も一緒に依頼を受け、パーティを組んでいるエルフは見える範囲には居ない。おそらく木の上にでもいるのだろう。弓は高い所から狙った方が狙いやすいイメージがある。
そんな事を考えながら、鉄のナイフを手の中でクルリと回す。
『来るぞっ』
「判ってるさ」
なんの策もなく、ゴブリンが正面から向かってくる。
そのゴブリンの一撃を右手に持った鉄のナイフで受け逸らし、ゴブリンが持っていたロングソードが地面に突き刺さる。
慌てて抜こうとするその剣を足で踏みつけ、鉄のナイフを一閃させる。切り落とす事は出来なかったが、裂かれた喉から鮮血が迸った。
返り血が外套を汚し、ゴブリンが前のめりに倒れる。しかし、生き残ったゴブリンは同族のその様子に一切臆することはない。次の一匹が背後から奇声を上げながら走り寄ってくる。
「多いな」
これで六匹目。後ろを振り返ると同時に、七匹目のゴブリンは弓で頭を射抜かれて絶命する。
走っていた勢いのまま倒れ、俺の横を転がっていく。トドメは必要無いだろう、完全に死んでいる。転がるゴブリンが死んでいる事を視線だけで確認し、八匹目、九匹目に向き直る。
射抜いてくれた仲間の方へは視線を向ける事も無い。感謝の言葉など、今この状況では邪魔なだけだ。
俺が斬り、仲間が弓で射抜く。
『まだ湧くか――ここまで来ると、無限に湧きそうでもあるな』
「勘弁してくれ」
何も無い所でナイフを一閃して、刃についていた血を飛ばす。切れ味が落ちている。それには刃も欠けてきている。もう何度も攻撃を受ける事は出来ないだろう。その事に舌打ちする。
そもそも鉄のナイフで魔物を相手にするのがどうかしているのだ。
そう考え、先程仕留めたゴブリンの得物であるロングソードを拝借する事にする。鉄のナイフは左手に持ち替え地面に刺さったままの剣を抜くと、その重さに少しバランスを崩しそうになる。
最近はずっと鉄のナイフを使っていたので、いきなり重い得物を持つと必要以上に使い辛く感じてしまう。ズシリとした重みは、久しく感じた事の無い重さだ。
「重いのは苦手だ」
『私を使うか?』
それは遠慮しておく事にする。得物が無いなら仕方がないが、武器に困っていないならエルメンヒルデに頼りたくない。それに、神殺しの武器を抜いたなら、俺が何者か気付かれてしまう。それは面倒臭い。
危険な状況なら仕方がないが、この程度ならまだ大丈夫だと言える。
「マトモな剣があれば、ゴブリン程度なんとかなる……多分」
『まぁ、エルフの射手も居るしな』
「うむ」
そう応えると同時に、向かってきていた二匹のゴブリンに向けてロングソードを振るう。
片手での一撃だったが、思ったよりも鋭い一閃はまっすぐ正面から走ってきた一匹の肩を斬り裂き、刃が胸まで到達する。しかし断ち切るには力が足らずに、ゴブリンの死体から抜けなくなってしまう。
「ちっ」
今殺した一匹と並走していた残りの一匹が、手に持った錆びてボロボロの斧を振り上げる。
顔面を狙った一撃だが、それが届くよりも早くがら空きの胴を前蹴りで蹴りつける。皮のブーツ越しに肉が潰れ、何か堅い物を砕いた感触が足に届く。
その感触に不快感を感じるよりも早く、カウンターで前蹴りをくらったゴブリンが前のめりになって嘔吐する。
その隙を逃さず、ゴブリンの死体から力任せにロングソードを抜くとその頭部を叩き割る。
「ふぅ」
『今のは少し危なかったな』
「少しどころじゃねぇっての」
血まみれのロングソードを投げ捨て、鉄のナイフを右手に持ち替える。
やはりこっちの方が使いやすい。だが、出来ればすごく軽くて長い得物が使いやすいのだが。
そんな事を考えながら、大きく息を吐く。疲れた。体力的にも精神的にも。終わりが判らない戦いは、いつまで続くのかと不安にさせられる。このままでは、と嫌な予感ばかりが大きくなってしまう。
深い森、生い茂った草木。樹齢数百年はあろうかという木々ばかりが目につき、先日感じた清浄な気配はただただ不気味な暗い森に飲み込まれてしまっている。
そうすると、また不自然に叢が揺れる。そこから現れたのは、やはりというかゴブリン。しかも武装している。更に四体だ……溜息が深くなる。
しかしそのウチの一匹が木の矢で頭を射抜かれて絶命する。その事に残ったゴブリン達が一瞬動揺し、その間に更にもう一匹が木の矢で仕留められる。
これで何匹仕留めただろうか?
そう考えていると、残り二匹になったゴブリンが俺に向かってくる。
「やはり逃げないのか」
『妙だな』
エルメンヒルデが呟く。俺も、そして射手であるエルフも思っているだろう。
妙だ。いくらゴブリンでも、ここまで仲間が殺されれば力量差を感じ取れるはずだ。そもそも、その辺りに関しては野生であるゴブリンの方が人間よりも敏感だと言える。
だというのに、ゴブリンは一向に逃げる気配が無い。
舌打ちしてしまう。こっちの体力は無限ではないのだ。武器は腐るほどあっても、使い手は並に少し毛が生えた程度の人間だというのに。しかも三十近い。
エルフの矢だってどれだけ残っている事か。そう考えていると、俺に向かってきていたゴブリンの一匹が木の矢に胸を射抜かれて絶命する。
「これでっ」
足元に転がっていた、ボロボロの斧を手に取りゴブリンに向けて投げつける。
狙いも勢いも威力も、何もかも甘い攻撃だが投げられた斧はゴブリンによって弾かれる。
その一瞬、次の本命である鉄のナイフがゴブリンの顔面に突き刺さった。その場で立ちつくし、次の瞬間には膝から崩れ落ちる。
先ほどまで響いていた耳障りな声も、剣戟の音も、何もかもが消える。耳が痛くなるくらいの静寂。
心中で十五秒を数えても、新手のゴブリンは湧いてこない。そこで、息を一つ吐く。
『打ち止めか』
「……助かった」
『まったく――私を使えば、もっと戦えるだろうに』
「このくらいが俺の限界だよ」
そう肩を竦める。ああ、本当に疲れた。
周囲に転がるゴブリンの死体を視線を向けて数える。十二匹。戦闘中に数えていた数と遭わない事に首を傾げてしまう。
仕留めそこなったのだろうか? そう考えていると、エルフの男が空から落ちてきた。
まぁ、木の枝にでも乗って狙撃していたんだろうが。
「お前は、本当に人間か?」
「まぁ、エルフではないな」
いきなりの言葉にそう返し、ゴブリンの顔面に突き刺さっていた鉄のナイフを抜く。
死体の数が合わない事に心中で首を傾げながら、鉄のナイフを一閃して刃に残っていたゴブリンの血を払う。
ゴブリン。イムネジア大陸でもっともメジャーな魔物だと言える相手ではあるが……。
「多すぎないか?」
『そうだな』
薬草採取の依頼で草原に出て魔物と遭遇する事は偶にある。今回は霊薬採取の為に魔力の森に来ているので、草原よりも遭遇率は高いのかもしれない。
それ自体は特に驚く事ではないのだが、今日のは流石に数が多すぎる。洞窟のような場所やゴブリン達の住処なら判らなくもないが、こんな森の入り口近くで遭遇する数ではない。
こちらだって旅慣れているという自信はある。魔物が集まりそうな場所には不用意に近づかない。森の入口なんて、警戒もしていなかった。戦闘が始まった当初は、すぐに終わらせるつもりだったのだ。
確かにゴブリンには群れる習性がある。その習性こそがゴブリンが厄介だと言われる要因なのだが、それにしても――だ。
しかもやたらと殺気立っているような気がした。こちらがいくら少数とはいえ、正面から襲ってくるなんておかしい。同族が殺されても向ってきた所も、変だと思う。普段のゴブリンの行動とは違う気がする。
頭も悪くないアイツ等は、数が揃っているならこちらを囲んで、弱らせてから仕留めようとする。
だというのに、先ほど襲ってきたゴブリンは森の中という地の利を全く生かさず、闇雲に正面から襲ってきた。だから首を傾げてしまう。
エルメンヒルデも何か感じる所があったのか、その声が低い。
清浄な森の空気が血の匂いで汚されたように感じ、少し気分が悪い。
「そっちは大丈夫か?」
「ああ、問題無い。お前も無事みたいだな」
「泣きたくなるくらい疲れたがな。魔物討伐は、しばらく懲り懲りだ」
そう肩を竦めると、溜息を吐かれた。
ポケットからも、呆れ交じりの溜息が聞こえたような気がしないでもない。
「お前の性格は判り辛い」
「判りやすいだろ。面倒事は嫌いで、楽をしたい」
『真面目に働け』
真面目に働いてるだろうが。だから、こうやって今日も魔力の森に潜って霊草探しだ。……もうそんな依頼はどうでもいいような気がしてきたが。本当に疲れた。帰って寝たい。
それにしても、今日も一緒に霊薬採取をしていたのだが、まさかゴブリンに襲われるとは――。
「どうやら俺達は、ゴブリンと縁があるのかもしれないな」
「嫌な縁だ」
揃って小さく笑う。
最初の依頼の時も、ゴブリンの討伐を依頼されたのを思い出してしまう。
そして今回も、依頼の途中でゴブリンに襲われた。本当に縁があるのかもしれない。ゴブリンと。
……本当に嫌な縁だ。もっと安全に仕事をしたいのだが。
「さっきのゴブリン、妙じゃなかったか?」
「ふむ……確かに、いつも以上に殺気立っていたような気がするな」
その形の良い顎に指を添え、何かを考えるように目を閉じるエルフ。
なにか思い付く事があるのかもしれない。それを口にしないのは、俺がまだそれほど信頼されていないからだろう。
その事を別に気にする事無く、ゴブリンの死体の傍に膝を付く。
『ただの死体だな。特別な魔力は感じない』
「やっぱりか」
鉄のナイフを鞘に収めずに死体を確認するが、変わった所は無い。エルメンヒルデが何も感じないなら、そうなのだろう。まぁ、俺もこいつも魔力には疎いのだが。
幾つか原因を思いつくが、どれも信憑性が薄い。魔王や魔族は魔物を操れるが、あいつ等は基本的に魔族の国であるアーベンエルム大陸からは出てこない。魔神が討伐された今、以前以上にあの大陸から離れられないはずだ。
滑付いた血が指を濡らし気持ち悪いが、それはいつもの事だ。赤い血を指で捏ねるが、それにも変化はない。
気にし過ぎだろうか?
ただゴブリンが群れただけなのかもしれない。
「ま、判らないなら調べても意味が無いか」
「そうだな。それに、森の魔物に変化があったら我らエルフが気付くはずだ」
「それもそうか」
俺などよりも、エルフの方がその辺りには敏感だろう。森の中なら特にだ。
一通りのゴブリンの死体から討伐確認用の牙を切り落とし、ナイフを鞘に納めて息を一つ吐く。
鼻腔に血の匂いが纏わり付き、顔を顰めてしまう。血の匂いには慣れているが、だからといって好きという訳ではない。
それに、鉄のナイフにだいぶガタが来ている。そろそろ、研ぐだけでは怪しくなってきた。魔術都市に戻ったら、何か良い武器が無いか見て回ろうかと考える。
……そんな事をしたら、エルメンヒルデがまた拗ねそうだが。
「これ以上ゴブリンと戦うのも疲れるしな、さっさと霊薬を集めて帰るか」
「そうだな」
エルフとしても、あまり森を魔物の血で汚すのは避けたいだろうし。
まぁ、森の中に魔物が居るという事も許せ無さそうだが。
そんな事を考えながら、歩き出す。
『面白くないぞ』
知るか。
そんな事よりも、とポケットから一枚のメモを取り出す。
依頼が書かれたメモだ。依頼主には、阿弥の名前がある。依頼内容は一緒に薬草採取。報酬額は銅貨五十五枚。破格の報酬である。
「なんだ。この依頼以外にも何か受けているのか?」
「そんな所だ」
アレから数日経ったが、報酬額は日に日に増えている。
向こうはムキになっているんだろうな。想像するだけで面白い。
「……気持ち悪い顔だな」
「生まれつきだ、ほっとけ」
そろそろ会いに行くべきなのだろう。
先日エルメンヒルデが言っていたように、このままでは薬草採取の依頼だというのに報酬が金貨一枚になりかねない。
金貨なんて、子供の小遣いの限度を超えている。まぁ、曲がりなりにも国の英雄だから俺なんかよりも金を持ってそうだが。しかし、阿弥をからかってそんな事をさせたなんて気付かれたら、他の皆からどんな目で見られるか……。
まぁ、遊びだって気付いてくれるだろうけど。気付いた上で、怒られそうだ。
『まったく――そんなに会うのが怖いか?』
「はぁ」
エルメンヒルデの言葉に、溜息を吐いて応える。相変わらず直球過ぎる物言いが、すんなりと胸に入ってくる。
反論できなかったのは、正解だからか、すぐ傍に第三者であるエルフが居るからか。
そのどちらか判らずに、ただ溜息を吐いて森を進む。
『たかが一年。その程度で切れる絆でもないだろうに』
ポケットの中で、メダルの縁を指でなぞる。
相変わらず真っ直ぐすぎる相棒を、静かに撫でる。
もしもこの場に、今隣を歩いているエルフが居なかったら――俺はどう返していたのだろうか?
まぁ、どうせ。その答えは宗一達に会えばすぐに判るのだろうが。
ゴブリンの異変か、ただ運が悪かっただけか。その事が気にかかるが、どうせ俺には関係無いだろう。厄介事に首を突っ込むつもりは無いし、面倒事を解決するのは勇者の仕事だ。俺じゃない。
そう割り切る。割り切り――。
「何事も無ければいいな」
「――?」
それでも、何も起こらなければいいと思う。
面倒事は嫌いだ。この世界に来て散々巻き込まれたのだから。
……世界を救った後くらい、平穏に過ごしたいものだ。