第零話
目を覚ますと、少しだけ懐かしい感じがした。
木製のテーブルから頭を上げると、身体の節々が痛んだ。変な体勢で眠っていたからだろう。
軽く伸びをすると、身体の筋が伸ばされて気持ちが良い。
次いで、首を横に振ると気持ち悪いほどにゴキゴキと鈍い音。その音に、カウンター奥の老店主は顔を顰めた。
「ようやく起きたかね」
コップを磨きながらの言葉が、やけに渋い。
その仕草を少しだけ羨みながら、酒精で重くなった瞼を開き、顔を向ける。
「ええ。ここの酒は美味しいですから、良い夢を見れました」
多分、昔の夢を見ていたのだろう。
胸の奥が少しだけ暖かくなっているような気がした。
昔の仲間たちは、元気にしているだろうか。
ふとそんな事を考えて、もう一度首を振る。
彼ら彼女らと袂を分かったのは自分だ。
勇者として召喚され、英雄として期待され、神殺しを望まれた。
――懐かしいな、と。胸に宿るのは辛くも充実していた日々への懐古と、僅かばかりの後悔。
勇者として振る舞い、英雄として凱旋し、神殺しとして羨まれた。
その重圧から逃げた自分を、同郷の仲間達はどう思っているだろうか。
きっと恨んでいるだろうな。そう、結論付ける。
確かめる度胸は、残念ながら自分には無かった。
そしてこれからも、確かめるつもりは無い。
蝋燭の頼りない火に照らされたカウンターに、あまり中身の無い財布から銅貨を一枚取り出すと乾いた音を立てて置く。
「勘定。置いときます」
「おう、さっさと帰れ。酔って道端で寝ないようにな」
「はは。気を付けます」
木製の椅子から立ち上がろうとして、躓いてしまう。
酔いで足を上手く動かせない。
そんな俺を見て、老店主はもう一度溜息を吐く。
もう随分と遅い時間のようだ。夜だというのに、飲んでいる客は他には居ない
まぁ、あまり他の住人達が活用していないというのも、理由の一つなんだろうが。
俺が起きるまで待っていてくれた老店主に、もう一度頭を下げて店を出る。
冷たい風が肌を撫で、少しだけ酔いが覚めたような気がした。
実際、気がしただけで足取りは相変わらず覚束ない。
これが、一時は勇者だ、英雄だと持て囃された人間の末路だと思うと、笑うしかない。
この世界に召喚されて三年。魔神討伐に二年を費やした。
残り一年は、共に戦った仲間たちと別れ、魔神討伐の報酬を元に田舎に引っこみ悠々自適な生活をしている。
もしかしたら、彼らの記憶から俺は完全に消えているかもしれないな。
そう思うと、情けなさよりも先に、良かったという思いが胸に湧く。
俺は、勇者や英雄の器ではなかったのだ。
異世界――地球から召喚された十三人の救世主。
この世界を壊そうとした“魔神”討伐の為に召喚された、チート持ちの十二人。そして、俺。
世界最高の魔術師が束になっても敵わない魔法使いでも、十メートルくらいあるゴーレムを両断する剣士でもない。
頭が良い訳でも、策略に長けている訳でも、治癒術が得意な訳でも、アイテム作成が出来るほど器用な訳でもない。
そんな彼ら彼女らと一緒に居る事が、苦痛だった。
異世界召喚。救世主。女神の加護。王族の信頼。国民の期待。
その全部を背負って前に進んだ他の十二人は、本当に凄いと思う。
だが残念ながら、俺にはその全部は重過ぎた。
「あー……ねむ」
見上げた夜空には、薄紅色に輝く月。
その色が、この世界は異世界なのだと、教えてくれる。
眠気混じりの溜息を吐く。
このまま眠ったら、また昔の夢を見そうだな、と。
どうしてか確信を持ったまま、夜道を歩く。
電気などが無いこの世界は、日が落ちればひどく暗くなる。
王都などに行けば魔力の街灯で少しは明るいが、俺が今居る田舎の村ではそうはいかない。
月の薄明りを頼りに、部屋を借りている宿を目指す。
もう一度、欠伸。
明日は、どうするかな、と。
皮のブーツで小石を蹴飛ばしながら、そんな事を考える。
まぁ、なるようにしかならないか。
冒険者ギルドで仕事を探して、小銭を稼いでご飯を食べる。偶に酒を飲む。
この世界に来て三年。魔神討伐に二年。その後の一年は、そんな調子で過ごしていた。
他の連中は、自分の才能を生かして生活しているようだ。
元の世界のゲームをこの異世界に流行らせたり、政治を良くしたり、生活を良くしたり。
魔物退治で生計を立てたり、王城で騎士として生活しているとも耳に挟んだ。
まぁ、その殆どはまだ道半ばのようだが。世界を変えるなんて、世界を救うよりもよっぽど難しいみたいだ。だが、充実した毎日を送ってるんだろうな、と思う。
きっと、俺みたいに金に困る生活なんかしてないんだろうなぁ。
「さむっ」
夜風が肌を撫で、その冷たさに身震いする。
そして、溜息。
ネットも無い、車も無い。元の世界にも帰れず、親や友人と連絡も取れやしない。
繋がりをいきなり、それも一方的に断ち切られたも同然だ。
だというのに、俺はこの世界を嫌いになれないでいる。
嫌いになれず、でも他の皆のように好きにもなれず、中途半端に生きている。好きか嫌いかと言われれば好きなんだろう。だが、そう胸を張って言えないような状態。
本当に、何をしているのだか。
溜息。
見上げると、薄紅色に輝く美しい月が一つ。俺を見下ろしている。
「お金、稼がないとなぁ」
宿代は纏めて払っているから暫く大丈夫だが、そろそろ財布の中身が心許ない。
異世界から召喚された勇者にして、神殺しの英雄――その一人。
だというのに、明日の飯代にも困る有様だ。
その事実に、笑うしかない。