第九話 神殺しの神
「おい――おい、エル! 聞こえてるか!?」
暴れる黒いドラゴンの背で、翡翠の鱗へ向かって大声を張り上げる。
もう何度目の呼びかけか。
声を掛け、殴り、剥ぎ取ろうとして。
喉は大声を出し続けた所為で枯れ、拳は骨を痛めてしまったかのように痛む。また、俺を振り落とそうと黒いドラゴンが身体を大きく震わせた。
落ちないように黒い鱗を手で掴むと、ヌルリとした感触。どうやら、鱗を殴り過ぎて拳を痛めてしまったのかもしれない。そうして耐えていると、身に着けているグローブから血が流れ出た。
赤い血だ。その血を見て、苦笑する。疲労で自分が可笑しくなってしまったのかとも思う。
――そう思えたら、どれだけ楽か。
「エル……っ」
今度は、暴れる時間が長い。
必死に張り付いているのも体力が要る。流れる血と滲んだ汗が手から力を奪い、気を抜けば滑り落ちてしまいそうになる。
ここで落ちたら、ただの人間でしかない俺にはどうしようもない。
一息に死ねるか、それとも足の骨を折るくらいで済むか。どちらにしても、戦えなくなる。
それだけは、まだ駄目だ。
無事な左手に力を込めて、なんとか振り落とされるのを我慢する。
ファフニィルを優に超す巨体だ。暴れるだけでも体力を消耗するのか、それとも単に遊んでいるだけなのか。しばらくすると黒いドラゴンは大人しくなる。
そうして大人しくなるのを見計らって、その背に立ち上がる。
頭が痛い。意識に霞が掛かる。熱い――それは、この黒いドラゴンが体内で焔を溜めているから。
ファフニィルもそうだったが、ドラゴンが今以上の力を得る為に進化する際には強力な熱を発生させる。
一度このドラゴンに負けて無人島で過ごした時がそうだ。砂が結晶化するほどの熱量。今はまだ耐えられるが、じきに生身の人間では耐えられなくなる。
そして、この黒いドラゴンはどうしようもない存在へと昇華する。
エルメンヒルデの力を得た今、俺に代わって『神殺し』にでもなるつもりか――。
「碌なもんじゃねえぜ」
翡翠の鱗へ話し掛ける。
「神殺しなんて、碌なもんじゃない」
荒い息を吐きながら、流れる汗を服の袖で拭う。
「大切なモノを犠牲にして、守りたいものを守れなくて、戦い続けなきゃいけない」
仲間を、エルを失って――それでも俺は、逃げる事が出来なかった。皆の前から姿を消しても、俺は結局戦い続けていた。田舎でのんびりと過ごしたくても厄介事は向こうから舞い込んでくる。
頭の中に、はちみつ色の髪を持つ女性の笑顔が浮かぶ。いつも飄々としていた亜人の姿が、何時も眠そうな目をした獣人が。
けど、それでも。
失っても、新しいモノが出来た。仲間、友人、守りたいもの。
神殺しとして生きるのは辛いけど、生きていれば大切なものが出来る。
大切なものが出来れば、これから先にどれだけ辛い現実が待っていても――笑えるんだと思う。
甘いと笑うんだろうな。
魔神を殺す事だけが生まれた理由だった。
俺がそう望んでしまったから、産まれた命だった。
けど。
でも。
――あの、夕焼けの、黄金色に染まった草原で。風に髪を揺らしながら、言ったじゃないか。夢を語ってくれたじゃないか。
神を殺すために産まれた命だけれど、夢を持てたじゃないか。
叶える事は出来なかったけど……俺は、お前の夢の為に生きたい。
生きていれば、きっと、もっと、大切なものが増える。
そうやって、生きていきたい。
「エル」
黒いドラゴンが吠える。
それは、喜悦に染まった咆哮のように聞こえた。
聞き覚えがある――ネイフェルの笑い声と同じように思える声。
その声へ反応するように、先ほどファフニィルが破壊してできた城壁の穴から白装束の女が黒髪を靡かせながら飛び出してくる。
いくつかの破片を空中に投げ、それを足場にしての接近。
そんな出鱈目な運動能力を持っている人間を、俺は数人しか知らない。そしてこの場に居るのは――。
「来るな、真咲ちゃん――」
新しい獲物の登場に、黒いドラゴンが顔を向ける。口が開く。
放たれるのは山一つを破壊してしまえる黒い熱線。だが、それが放たれるよりも早く眼前まで近付いた真咲ちゃんが鼻先を抜き身の刀身で殴りつけ、無理矢理に口を閉ざさせる。
熱線が口内で爆発し、その衝撃に巨体が震える。口から煙を吐き、鮮血が宙に舞う。
しかし、その瞳の意思は僅かも揺らいでいない。むしろ、喜悦ではなく怒りの感情を持って真咲ちゃんを捉えた。
「なんって、デタラメ!?」
僅かに引き攣った声と共に、重力に引かれて真咲ちゃんが地面へ落ちていく。普通ならこの高さでも大丈夫だろうが――次の瞬間、翡翠色の鱗、俺の足元にあるもの以外から、光が上る。
黒く濁った、紫色の光。ファフニィルの飛行にも追いつく、誘導弾。それが全部、空中に居る真咲ちゃんへ向かう。
「逃げろっ」
声が届いたかは分からない。
ただ彼女は、自分へ向かってくる誘導弾を切り裂き、斬り伏せ――けれど数十の数を捌ききる事が出来ずに爆炎へ呑まれた。
その全部は黒いドラゴンの巨体が邪魔をして見えなかったが、悲鳴は聞こえなかったので大丈夫のはずだ。
根拠の無い言葉だと自分でも思う。
状況は伝えていないけど、何となく分かったのだろうか。真咲ちゃんが作ってくれた時間で、翡翠色の鱗へ触れる。
右手のグローブを外し、素手になる。皮膚が裂け、鮮血が後から後から流れ出る。その傷が空気に触れると痺れるような痛み、そしてその赤い血の奥に見える白いモノは骨か。
どれだけ本気で殴ったんだ、と苦笑する。
「痛いのは嫌いだ。死ぬのは怖い――けどな」
駄目なのか。
届かないのか。
俺の声は、もう聞こえないのか。
そんな諦めが頭を過ぎり、笑って下らない考えを捨てる。
駄目でもいい。
届かなくても良い。
聞こえなくても――何度でも呼ぼう。
「諦める事だけは、もうしたくないんだ」
もう、戻れないんだ。
お前が夢を語った黄金色の草原へは。
お前は、もう居ないんだ。
死んだんだ。
ああ、そうだ。
俺は、間違えた。間違えていた。今も、間違えている。
だから――。
「起きろ、エルメンヒルデ」
頼む。
「お前が居ないと、戦えない、倒せない、勝てない」
なにより。
「――生きていても、楽しくないんだ」
けれど、翡翠色の鱗は何の反応も示さない。
駄目なのか。
やっぱり俺はただの人間でしかなく、英雄の真似事も出来ずに、何も成せないのか。
「頼む」
弱音を吐く俺を怒ってくれ。背中を押してくれ。
……また、名前を呼んでくれ。
話したい事がある。話さなければならない事がある。そして――もっと、お前と一緒に生きたいんだ。エルが守った世界を見せてやりたいんだ。生きて、生きて、生きて――いつか、俺と一緒に生きて良かったと、思ってほしいんだ。
エルにしてやれなかった事をエルメンヒルデにしてやりたい。
エルの分も幸せにしたい。
エルみたいに――夢を抱けず、叶えられず、消えてほしくない。
女々しいな。死にそうな目に遭いながら、仲間が目の前で傷付きながら、昔の女の事を考えている。
女々しいだろうな。
だから――。
「さっさと起きろよっ」
天を仰ぎ見る。
空は曇天。今にも雨が降ってきそう。
あの時も、こんな空だった。
黒いドラゴンが暴れ出す。
雨が降ればいいと、何度も思った。
そうすれば、流した涙を雨だと言えたから――。
けど、今は違う。
「アストラエラ――」
解放された制約はない。
神殺しの神、その器も手元には無い。
それでも。
それでもっ。
「俺はここだ、ここに居る――」
天へ吠える。
エルメンヒルデが居なくても、唯一解放できる誓約。
俺という『器』に神を降ろす。
七つ目の誓約。最後の誓約。
「俺はここに居るっ、こい、力をくれ――アストラエラっ!!」
心臓が跳ねる。
全身が爆発してしまったかのような負荷が一瞬で意識を奪おうとする。
歯を食い縛り、奥歯を噛み砕き、口内に血を溢れさせながら、翡翠色の鱗を骨が覗く右腕で殴る。
一撃で、右腕が悲鳴を上げた。拳だけでなく、右腕全体から痛覚が無くなる。
それでも――。
「エル、エルメンヒルデ……」
砕けた鱗を手に取る。
そこまでだった。
人の身に神の魔力は強力過ぎて、制約を五つ開放してもたったの一振り程度にしか耐えられない。
意識が薄れ、立っていられない。
ドラゴンの背から振り落とされて、身体が宙に投げ出される。
浮遊感と開放感。
今感じているのは、どっちだろうか。
落ちれば死ぬ。
死ねば終わる。
終われば、もう戦わなくていい。
戦うのは嫌だった。怖いし、命を奪うというのはどれだけ慣れても、やっぱり時折どうしようもなく嫌だと思ってしまう。
ああ、でも。
「お前は、満足か?」
手の中にある、翡翠色の鱗へ語りかける。
まだ、終われない。
胸の奥が、温かい。
この温もりが、俺を何度でも奮い立たせる。
それと同時に、諦めるという選択肢も選ばせてくれない。
それは、あの時――エルが死んだ時、この手を握ってくれた時に感じた温もり。
泣くなと。生きろと言ってくれた時の温もり。
ずっと、ずっと一緒だった。ああ、そうだ。俺は――ずっと一緒だった。
地面は物凄い速さで俺に向かってくる。いや、俺が地面に向かっている。
落ちる――だが、衝撃は無い。
「レンジ様!!」
名前を呼ばれる。
地面が、まるで海のように柔らかくなり、波のように撓んで俺を受け止めてくれる。
聞こえた声は、俺が田舎の村から出るきっかけになったはちみつ色の髪を持つ女性。
彼女が一人の冒険者として旅に出る時に作った精霊銀のショートソードに無色の魔力を宿らせ、魔術で俺を助けてくれた。
すぐに、立ち上がる。
俺を追って、黒いドラゴンもまた地へ降りる。
その身体から、陽炎が上っている。エルメンヒルデを取り込み、更なる進化を遂げようとしている。
手の中にある翡翠の欠片が、呼応するように脈打った。
「元々空っぽだったんだ――腹あ、一杯になったか?」
右腕の感覚が戻る。痛みが消える。
黒いドラゴンから溢れる陽炎が、天に昇るのではなく俺に――俺の手の中にある翡翠の欠片に集まっていく。
ああ、そうだ。
どんなに小さくても、コレもエルメンヒルデなのだ。
「エルメンヒルデ」
『――――』
大丈夫だ。
信じろ。
これまでの日々を。俺達の繋がりを。
この世界の理を。
想像が、現実になる。
思考が、力になる。
想いは、裏切らない。
「お前は、俺の相棒だ」
右腕を振る。
現れるのは、翡翠の剣。黄金の飾りは何も無く、翡翠の刃と黄金の柄だけという――ただ、神を斬る事だけを追い求めた、俺達の理想。
そして、ネイフェルの魔力――あの黒いドラゴンから奪った魔力で編まれた腕甲が右腕を覆う。
『レンジ、私は――』
「寝過ぎだ、寝坊助……ったく」
かかと笑って、いつものように軽口を言う。
黒いドラゴンが、吠えた。
翡翠の爪も、牙も、鱗も健在。だが、その咆哮は今までで一番大きく、そして喜んでいるようにも聞こえた。
俺の後ろに居るフランシェスカ嬢達が悲鳴を上げる。
怯えるな。大丈夫だ。
「お前には言わなきゃいけない事が沢山あるんだ……眠り続けられると困るんだよ」
『私は、どうして……』
「お前は忘れてしまったんだろうけど、元々はそういう存在なんだ」
エルは、『魔神の眷属』を斬る度にその魔力を宿し、器を満たし、蓄えていった。
それは、最後の最後……一番最後で、七つ目の制約と成すために。
神を殺す武器は、神の魔力を溜める器。
そして、魔力を持たない俺は女神の魔力を降ろす器。
俺達は互いに『器』でしかなく、だからこそ、メダルよりも小さな欠片でもエルメンヒルデは意思を取り戻せたのだろう。
その身に、あの黒いドラゴンの魔力を蓄え、いまだ身に纏う翡翠達を経由して魔力を奪い続ける。
正確な理屈を考えるのは、宇多野さんみたいな頭の良い人の仕事だ。
そして――。
「うるせえ、すぐに終わらせてやるからそう吠えんなよ」
黒いドラゴンへ言い放ち、その目を見据える。
不思議だった。
どうしてエルメンヒルデを蘇らせた時に、俺に関する記憶だけが酷く曖昧だったのか。失われていたのか。
アストラエラが、あの選択を間違っていると言ったのか。
駄目だと糾弾するでも、死者の復活を妨げるでもない。
間違っていると言ったのは、エルは俺の中に居たから。彼女の肉体は失われた。けれど、俺に関する記憶を持った魂は、俺の中に居た。
記憶が俺の中にあるなら、そりゃあ、復活させたエルメンヒルデに記憶があるわけがない。
……そう考えると、口元が自分でも分かるほど緩んでしまった。
ああ、本当に。俺は馬鹿だ。
「よく見てろよ、フランシェスカ」
命を助けられたんだ。もう嬢だなんて、子供扱いも出来ない。
名前を呼んで、いつものように剣を一振り。
「これが七つの制約を解放した俺達だ」
翡翠の剣を天へ掲げる。
ドラゴンは、待つ。
だよな。
テメエが本当に魔神なら、これまでも、そしてこれからも、本気で戦えるのは、そしてお前を殺し得るのは俺だけだ。
満足できる戦いは、今、今日、この時だけなのだ。
「アストラエラ」
剣先から昇る魔力が雲を裂き、空を覆う曇天が晴れる。
眩しいほどに美しい青空が現れる。燦々と輝く太陽が現れる。湿った空気ではない、爽やかな風が吹く。
朽ちた大地、枯れた森、毒に濁った湖を太陽の光が照らす。
もう――雨は、要らない。
「俺はここに居る。俺達は、ここだ」
俺の中にあるエルが、支えてくれる。
力が漲る。
人間の肉体、神を殺し得る武器、女神の魔力――そして、黒い、世界を壊そうとした魔神の魔力。
四つの歯車が噛み合う。噛み合って、絡み合って、一つになる。
俺達は――四つで一つ。それが、ネイフェルの願った敵。望んだ一つ。神殺しの神。神殺しの人間。
黒いドラゴンが、翡翠の爪で大地を割る。
翡翠の剣を一振りし、向けられる殺気を払う。
「行くぞ、エルメンヒルデ、アストラエラ――」
――エル。
『ああ。さっさと終わらせて、説明してくれ』
――存分に、貴方が思うままに。レンジ。
幻聴だ。分かっている。けど……胸に、勇気が湧く。
その声に背中を押されるよう、あの時と同じように、けれどあの時のような怒りなど僅かも胸に無く。
自分よりも圧倒的に巨大な敵へ向かう。
連続更新五日目。
もう五日目。一週間が早いですね……。