第五話 戦いの準備
石造りの壁に囲まれた部屋の中に、蒼い光が灯る。
開けられた窓からは曇り雲越しに薄く輝く太陽の光が差し込み、湿った風が室内に入り込んでくる。カーテンを柔らかく揺らす風は肌に張り付き、少し気持ち悪い。
海からの湿気を孕んだ風とは違う、濁った、雨が近い時に感じる薫る風。
もうすぐ、雨が降りそうだ。そう思いながら、彼女が指を動かす度に広がっていく蒼の魔力光から視線を逸らして窓から空を仰ぎ見る。
俺に倣うように、部屋に居たオブライエンさんとデルウィンも窓の外へ視線を向けた。
グラアニアとスィは、興味深そうに宇多野さんが作る魔力の立体地図を繁々と眺めている。
「雨、降りそうだな」
「ええ。午後からは雨――明後日からは、作戦開始よ」
俺の言葉に、視線を向けることなく宇多野さんが返事をしてくれる。
蒼の魔力光で描かれた地図にはいくつもの数字。気温と湿度、高気圧と低気圧の影響を受けた雲の動き、アーベンエルム大陸一帯の立体地図。
今、俺達が居る砦周辺だけではない。以前攻めた魔神の城へ至るまで、平地、高地、山脈、川に森。
ソレ等を表した蒼の魔力が、大の大人が三十人は入っても余裕がある部屋の半分を埋めていた。
そんな地図の上には、大小さまざまな赤い点がいくつも移動していて、白と黄の点は数か所に集まっている。赤が魔族や魔物、白と黄は人間と獣人や亜人という事か。
「一年経って、少し地形が変わったわね」
「そう?」
「ええ、ここ――」
スィが不思議そうに相槌を打つと、宇多野さんがその指で蒼い地図に触れた。、魔力光が一瞬波打ってから、元の形状へ戻る。
窓から外を眺めていた俺達もその声に反応して立体地図を波打たせながら宇多野さんへ近付くと、彼女は地図上の何か所を指で触れる。すると、その一帯が緑色に変わった。
「三日前までは、この一帯で強い魔力の反応があったわ。けど、もっと強い魔力を持つ個体に吸収された」
「そんな事も分かるの?」
「慣れればね。おそらく『魔神の眷属』……山田君達が遭遇した黒いドラゴンが眷属を喰った。そして、その際の戦闘で地形が変形した」
なるほど、と。
ファフニィル並――いや、今はファフニィル以上のブレスを吐くであろうあの黒いドラゴンなら、地形を変えるなど簡単な事か。
想像でしかないが、さて。竜山で遭遇した時より、一体どれだけ進化したのか。
その言葉に、部屋の中に居た全員の視線が俺に向く。
「厄介か?」
代表するように、オブライエンさんが口を開く。短いが、用件を纏めた言葉である。
その言葉へ即座に言葉を返す事が出来ず、一拍の間を置く。
「なんとかします」
「……聞き方を変えよう。お前一人で勝てるのか?」
「無理です」
勝ち負け、しかも一人でとなると無理だ。
宗一、真咲ちゃん、阿弥に幸太郎、ファフニィル……それだけの戦力が揃っても、勝てるかどうか。
何せ、相手はドラゴン。空を飛ぶ相手。
しかも、ネイフェルの影響を受けて進化し続けるドラゴンなど、手の出しようが無いというのが正直な所だ。
「エルメンヒルデが手元にあっても、まともに戦って勝つのは難しいですね」
まあ、でも。まともじゃない勝負に巻き込めば――後は、エルメンヒルデが手元にあれば、とは思うが。
あのドラゴンが空を飛べない状況を作って、地上戦。尻尾と翼を斬り落とせば厄介なのはブレス。宗一と真咲ちゃんなら、翼を斬れるだろうか。
あとは、制約を六つ開放して一気に心臓を潰して首を落とす。
二発。
片腕で一回ずつ。それで、俺の両腕は使い物にならなくなる。踏み込んだ衝撃で、足も。両手両足と引き換えに、あのドラゴンを殺す。
……現実は、そんな簡単に事を運べないと分かっているが。
「取り敢えず、エルメンヒルデですね。アイツが居ないと、どうしようもない」
「まったく。もっとちゃんとしていなさいよ、レンジ」
「耳に痛い」
その、もう何度目かの言葉はスィだけでなく親しい人達全員から言われた事だ。
エルメンヒルデ……神殺しの武器、神殺しの神の喪失。
いくら相手がシェルファとはいえ、なんとかならなかったのか、というのが全員の意見だった。
無理を言わないでほしい。――アイツは、魔王の座を退いたと言っているけれど、俺が知る中で魔神ネイフェルの次に“強い”ヤツなのだ。
「過ぎた事は言わないの、スィ」
「ユーコはレンジに甘いわねえ」
「はいはい。からかっても反応しないわよ」
スィの揶揄い声を軽くいなして、宇多野さんの指が踊る。
僅かな指の動きだけで、蒼い立体地図の一部が拡大表示された。
「それと、斥候からの情報だけど」
また、宇多野さんの腕が動く。
アーベンエルム大陸は三つの大陸が連なって形成されており、大陸同士が繋がっている場所には大きな橋が掛けられている。
その内の一つは一年前に俺達が破壊して使い物にならないのだが、残り一つの橋がある場所に宇多野さんの指が触れる。
「橋がある場所に、魔族達は門を築いているそうよ」
「俺達を通さない為に?」
「でしょうね」
シェルファが飛龍達を殺して回っていたのは、俺達に陸路を取らせる為。そして、その門で迎撃する為か。
珍しい、と息を吐いた。オブライエンさんも、くぐもった声を上げると手で口元を隠す。
正面から力技で、というのが魔族達の戦い方だったはずだが……地図を見る限る、防御壁を築いてからの迎撃戦。正面は拓けた平原だが、後ろには橋が一本。左右は深い崖と海。左右や背後からの奇襲が不可能な地形は籠城戦に向いている地形であろう。
だがそれは、築いた門から一歩も出なければの話だ。僅か一年前まで力技ばかりだった魔族がとる策としては、随分と変わったように感じる。
「困ったな」
「はい。この門を固められては、被害がどれだけ出るか……」
地図を見ていたオブライエンさんは、口元を覆っていた手を動かして腰に吊っていた長剣の柄を軽く叩いた。ガントレットと剣の柄が小気味の良い音を響かせる。
以前のままなら、今居る砦を強固にして迎撃。魔族達の視線が砦に集まっている間に俺達が魔神の城へ侵入するという策がとれたのに。
一つしか橋が無い、しかも向こうが引き籠って出てこないなら戦いが長期化する。
遠征というとアレだが、人間も、獣人や亜人達もそれほど長期戦が出来る訳ではない。食料や兵の士気……なにより、アーベンエルムという魔族や魔物がやっと住めるような過酷な大陸では戦いが長引くほど不利になる。
短期決戦の定石は、最初に敵の出鼻を挫いて、その勢いのまま懐まで突っ込む。
犠牲も出るが、それが一番手っ取り早い。
けれど、引き籠られるとそれが出来ない。そして、兵糧が尽きて士気が下がった時に攻められれば一たまりもない。数も、個々の強さも向こうが上なのだ。
人が魔族や魔物に勝っている点は、策を弄する知恵と、結束。それが無くなれば、瓦解する。考えるまでも無い事である。
「幸太郎が見た未来だと……あと五日か?」
「ええ。貴方が、新しい魔神と戦う日」
まあ、アイツの『未来視』など半分も信用しないけど……それでも、行動の指針になる。
「ここから門までだと……」
「馬を休みなく走らせて約一日。歩いて行軍なら、三日ね」
気温や湿度を表していた蒼い板の横に、移動時間が新しく現れる。ほんと、便利な魔法である。
そして、もう一度窓から外を見る。
「オブライエンさん、グラアニア。行軍の準備は?」
「いつでも。兵士達には、荷物を纏めさせて待機させている」
「こっちもだ」
心強いね、と軽口を言って深く息を吐く。
視線の先にある空は灰色で、曇っていて、今にも雨が降り出しそう。これから行軍となると雨に濡れて、しかも進んだ先は敵の砦。守って迎撃するより、守られている者を攻める方が被害は大きいと分かっているのに。
「飛べるドラゴンは二頭――うち、ファフニィルは俺達を運んでもらいますから、リヴヤータンに先行してもらう」
「分かったわ」
地図の上に、白く大きな点が作られる。
その飛行スピードは、人が三日歩いて到着する門まで半日とかからずに到着する。
「九季とナイトを先行させて、上手く釣り出せればオブライエンさん達の第一陣で殲滅できる」
「門を築いているのなら、そこから出てこないのでは?」
「一年前まで力技しかできなかった連中だ。新しい魔王からどんな命令を受けようと、その本質が感嘆に変わるとは思わないな」
それに、もし出てこなくても疲れるのは九季達だけだ。九季は体力馬鹿だし、ナイトとリヴヤータンは疲れ知らず。それほど影響があるとは思えない。
万が一その砦にシェルファが居たとしても、九季の『盾』なら逃げるくらいの時間は稼いでくれる。
あいつも、俺が居ないと分かればそれほど深追いもしないだろう。まあ、もし、だが。
「出てこなかったら?」
「……申し訳ないですが、力攻めをお願いしても?」
「犠牲が出ると分かっていても?」
「はい。魔族達の目を集めてください。――多分、殆どの戦力がここに集まります」
俺が蒼い立体地図の一角に指で触れると、その一帯が桃色に変わった。
そこは門のすぐ後ろと、前。
「そこが決戦の場になると?」
「いいえ。ここからなら、魔神の城が良く見える」
同時に、その場所を迂回するように指を動かし、俺の動きに合わせて線が引かれる。
「ファフニィルと一緒に移動して、城に」
宇多野さんが俺の意図を察して、別の立体地図を用意してくれる。
魔神の城、その内部を鮮明に映した地図だ。
その三割ほどが真っ赤に染まり、その赤を中心にして五割ほどが茜色。……一年前、俺とネイフェルとの戦いで破壊された箇所。我ながら、よくもまあ、これだけ破壊したものだと思う。
「目的地はここです」
その地図の中で無事な場所……城の天辺を指で叩くと、白い印が付く。
「連中は、あの黒いドラゴンが新しい『魔神の器』だと言っていました。俺を殺して、喰って、新しい神に成る。門の周りからは、それが良く見える」
魔神ネイフェルを殺した俺の死を知らしめるには、丁度良い場所だろう。
まあ、ちょっとばかり距離があるけど……その辺りは、魔術でどうとでも出来る。
「エルメンヒルデを奪われて、ソルネアも――俺なら、絶対取り戻すために動く。そして、のこのこ現れた神殺しの人間を殺す」
それが、連中のシナリオではないだろうか。
単純明快。分かり易い。
俺が二人を見捨てれば破綻する物語だけど……なんだ。その通りに動いてしまう。エルメンヒルデを、助けたいから。もう二度と失いたくないから。もっと、一緒に、生きていたいから。
きっと、考えたのはシェルファだろう。
話した覚えはないけれど、妙に勘が鋭いアイツの事だ。エルメンヒルデの事には、それとなく気付いているだろう。
半面、アイツの考えている事も何となく分かるので――。
「罠は無いでしょう。エルメンヒルデの無い俺は、ただの人間と変わらない」
しかも、向こうは俺に魔力が無い事も知っている。魔術を使えない事も。
シェルファの性格なら、よく分かる。
新しい魔王とやらも……あの我儘女が自由に動けているのなら、あの女を御しきれていないと考えられる。
「きっと、正面から、力技で殺しに来る。それで、俺を殺すには事足りる……けど、そこに油断がある」
立体地図を四回叩く。
現れるのは、灰、金、茶、緑。四色の点。
「宗一と真咲ちゃんにシェルファ、それと城に残っているかもしれない魔物達の足止め」
灰と金の点が赤に囲まれる。一つは、黒。それがシェルファ。
「俺はエルメンヒルデを探して……」
緑は城の真ん中に。
「そして、信頼できる仲間にソルネアを救出してもらう」
茶は地下へ。
「それは?」
「フェイロナ……ここまで一緒に旅をしてきた、エルフです。ソルネアの顔を知っている」
「一人で大丈夫なの? デルウィンが弓を貸した相手なのは知っているけど、お城は広いわよ?」
「その辺りは後で話し合うよ」
「事後承諾か――まあ、アンタらしいわね、レンジ」
行くのは死地だが――行ってくれるだろうか。
まあ、行くことを前提に話している時点で、俺も大概残酷だと思うが。
そして、これから言う事も。
「オブライエンさん達には、門で魔族達の足止めをお願いします。九季達と合流して、隆と阿弥に幸太郎が居ればそれほど犠牲も出ないはずです」
けど、ゼロではない。
いくら九季達に特別な『異能』があっても、守れるのは手が届く範囲。阿弥に至っては、強力過ぎる魔術で仲間ごと吹き飛ばしかねない。
それでも、彼女の強力過ぎる魔術は対軍向きだ。魔族が十数人程度なら束になっても吹き飛ばせる。運が良ければ、橋の前に作られている門を破壊できるかもしれない。
そうなれば、一気にこちらに勝勢が傾く可能性だってある。
でも……。
「魔物達に勝たないで、足止めです」
「ああ」
勝ってはいけない。
こちらが勝てば、魔族達は逃げるだろう。城に。
そうなっては、今度は俺達が全滅させられる。だから、足止め。適度に戦って、適度に負ける。
負けたら、怪我人。……死人が出る事を、分かっていても。それでも、足止めをお願いする。
第一陣の指揮はオブライエンさんとグラアニア。第二陣、残る人間軍の半分とエルフ達を率いるのはデルウィンとスィ、そして宇多野さん。
第二陣と合流すれば、第一陣の指揮が回復する。それで、もう少し長い時間を戦える。
そして、その間にエルメンヒルデを取り戻して、戦う。
「エルメンヒルデを取り戻したら……シェルファを殺して、新しい魔王を殺して、黒いドラゴンを殺す」
やる事は簡単だ。決まっているのだから。
あとは、やるだけ。
地図から顔を上げると、オブライエンさん達が何も言わずに俺の顔を見ていた。宇多野さんも……分かり易いほど、心配そうに。
成功するのか。失敗するのか。
やれるのか。やれないのか。
ではない。
「今度こそ終わらせてやる――腐れ縁も、ここまでだ」
言い切る。吐き捨てる。
きっと、それを誰もが望んでいる。俺も……シェルファも、あの黒いドラゴン――『ネイフェルの器』も。
胸の内に、恐怖が湧く。
絶対に勝てるのか。
相手はあの魔王。
何度も対峙して、勝って、負けてを繰り返した相手。
今度も勝てるのか。
……自信など無い。
絶対だなんて言えるほど、俺は強くない。
「終わったら、目印を上げます。そうしたら、鬨の声を。士気が上がれば、魔族達も動揺する」
「目印?」
「まあ、なにか。目立つ事をするよ」
オブライエンさんへ向けた言葉に、グラアニアが反応した。
そして、俺の言葉ににやりと笑う。
「誰が見ても分かるような、派手なのを頼む」
「まあ、頑張るよ」
俺も、そんなグラアニアに釣られて笑う。
失敗したら。負けたら。
そう考えると足が震えそうになる。涙が零れそうになる。
でも。
俺は、負けない。
絶対に負けてはならない。
勝たなければならない。
生きて戻らなければならない。
恐怖も不安も押し殺して、声に出して、笑う。笑う。笑う。
――それが、『英雄』だから。