第十四話 神殺しのバケモノと最強のバケモノ2
山の天気が崩れやすいというのは、本当である。
この世界ではあまり聞かない言葉を思い出しながら、空を見上げる。アーベンエルム大陸の雲は厚く、陽光の温もりを通さない。けれども灰色であった雲が、今は真っ黒に染まっている。
いつ雨が降り出しても不思議ではない天気といえるだろう。
そして、そんな時に限って雨宿りが出来そうな場所が無い。周囲を見渡しても荒野と見紛う荒地ばかり。木々はおろか、洞窟だってありはしない。
見渡しが良いので魔物の急襲を受ける心配はないが、雨が降れば一瞬でずぶ濡れになるのは明白だ。
「さて、どうしたもんかね」
集団の戦闘を歩きながら、息を一つ吐く。雨宿りが出来る場所を探すか、一気に山を登ってしまうか。
竜山を登り始めて三日。山頂はいまだ遠いが、ドラゴンの住処はもうすぐという所。見覚えのある岩肌がその証拠だ。
「フランシェスカ嬢、大丈夫か?」
一旦足を止めて、一番後ろを歩いていたはちみつ色の髪を持つ女性に声を掛ける。
俺達の中で一番年下に見えるムルルから心配そうに見上げられながら、俺の声に反応して顔を上げた。
「あ、はい。なんでしょうか?」
『随分と疲れているようだな』
どうやら俺の声が聞こえないくらいに疲れているようだ。聞き返す声にも力は無く、足取りもまた遅い。荒い息を吐きながら肩を上下させる様子に、苦笑を返してしまう。
そんなフランシェスカ嬢の様子を見たエルメンヒルデの声音に、僅かな優しさが宿っているのは気のせいではないだろう。
「少し休憩するか」
「そうだな」
俺の言葉に、すぐ後ろを歩いていたフェイロナが同意する。
周囲を警戒するように見渡すが、獣どころか鳥女の一匹だって居やしない。この山は、大地も、空も、ドラゴンの縄張りなのだ。風系統の魔術を使えるグリフィンだって、近付きはしない。
ただ……。
「阿弥、誰か居たか?」
周囲を警戒するでもなく、ただじっと空を見上げていた阿弥に声を掛ける。
探しているのは“誰か”ではないが、探している存在は見つからなかったようで阿弥は首を横に振った。
「やっぱり居ませんね」
阿弥が見ていたのは遠く――雲の向こう。
この灰色の空を飛んでいるはずのドラゴン。この山の主であり、この異世界における最強の一角。
いつもなら……というか、以前なら常に数匹のドラゴンが宙を舞っていたはずなのだが、今回はその姿を一度も見ていない。小さな翼竜、恐竜の様に巨大で翼を持たない下位竜、ファフニィルのように翼を持つ上位竜。
その上位竜の中でもとりわけ巨大な元竜王リヴヤータン、下位竜の長であるファラク。
ファラクはこの火山の更に下、溶岩の中に住んでいるので会う事は難しいのだが、翼竜の一匹も見掛けないというのは流石に変だ。
「困ったな……」
呟いて、頭を掻く。
俺や阿弥、フェイロナはともかく……ムルルも大丈夫そうだけれど、フランシェスカ嬢とソルネアは体力的な問題でこれ以上登るのが難しそうだ。
フランシェスカ嬢はすでに肩で息をするようになっているし、ソルネアも歩くスピードが落ちてきている。
今日も山の途中で野宿かねえ、と。食料には余裕があるし、飲み水も十分。まあ、ドラゴンのお迎えが来ないなら、時間を掛けて山登りをするしかない。
……そう考えるのは、何度目だろう。それだけ登山の辛さを知っており、ドラゴンに運んでもらう楽さを知ってしまったからか。
「ん……?」
ふと、灰色の雲の中。そこに、影が見えたような気がした。
小さな影だ。上位竜どころか、翼竜よりもずっと小さい――俺の視力で見えたのが不思議なほど小さな影。
『……あれは』
「阿弥、フェイロナ。アレが見えるか?」
エルメンヒルデの呟きと、俺が言うのは同時。
俺の視線を追って、阿弥とフェイロナがもう一度空を見上げる。――直後、灰色の空に緋が灯った。
光源ではない。……爆発だ。
一瞬の間を置いて、ボン、と何かが弾ける音。まるで落雷のように、稲光を視認するのと、こちらに音が届くまで時間差があった。
「伏せろっ!!」
途端、フェイロナが慌てるように叫んだ。
言われた通りに阿弥とムルルが身体を伏せると、直後に身体が浮きそうなほどの衝撃波が山肌に叩き付けられる。反応の遅れたフランシェスカ嬢とソルネアが衝撃波に晒され、勢いよく後ろへ倒れ込もうとする。
衝撃波に身体を打たれながら二人を支えると、もう一度空を見上げた。
緋色の爆発が連続して起こる。その度に起きる衝撃波は俺達まで届き、何度も身体全体を叩きつけられるような痛みに晒される。腕の中で、フランシェスカ嬢が小さく悲鳴を上げた。
突然の事に混乱したのだろうと、安心させるように支える腕に力を込める。フランシェスカ嬢は右腕で、ソルネアは左腕で。――そのソルネアが、小さく、だけどしっかりと俺の二の腕を掴んだ。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ」
何が起こっているかは分からない。けれど、ここで不安がってはソルネアやフランシェスカ嬢にまで不安が伝播する。
強気に振る舞ってしっかりと返事をすると、ソルネアは安心したように体重を預けてくる。
『何事だ!?』
この爆発。この威力――リヴヤータンの火炎息か?
エルフレイム大陸の小島で進化したファフニィル以上ではないかと思える衝撃に、火炎息を放っている存在が何ものなのかを予想する。おそらく、そう外れていないはずだ。
というか、あんな雲の合間からブレスを放って衝撃が山まで届くような威力など、撃てる相手が限られる。
問題は――これほど高威力のブレスを、誰に向けて放っているかだ。
「阿弥、見えるか!?」
「いえっ」
厚い雲が邪魔で見えないか。
相手は誰か……ドラゴンの相手で空を飛んでいる相手など、そう多くない。イムネジア大陸……商業都市で戦ったアークグリフィンや、石造りのガーゴイル、魔族。――それか。
「ちっ。取り敢えず身を隠すぞっ」
せめて衝撃波をやり過ごせる場所を探すように、周囲を見やる。けれど、荒地の様な山の中腹でそのような場所などあるはずもなく、再度の衝撃波に襲われる。
痛みへ耐えるように苦痛の声が口から洩れ、腕の中に居る二人が小さな悲鳴を上げる。
「蓮司さんっ」
直後、阿弥が俺の名前を呼んだ。そちらを見ると、その視線は空を見ている。俺も追って空を見上げると、厚い雲間から巨大なドラゴンが姿を現した。
灰色の雲の中でよく映える、青い――蒼穹の鱗を纏った巨竜。進化したファフニィルよりも二回り以上も巨大で、しかし獰猛さや凶暴さよりも神々しさを感じる美しいドラゴン。
翼を羽ばたかせながら雲を裂いて飛び……。
「こっちに来ますっ!」
再度、阿弥の声。衝撃波をやり過ごすために伏せていた身体を起こすと、身体を固くしていたフランシェスカ嬢とソルネアを引っ張り起こす。
「逃げるぞ!」
「どっちに!?」
珍しく、ムルルが慌てた声を上げた。
「ドラゴンが来ない所だっ」
言って、二人の手を引くようにして駆け出す。荷物袋は、地面に置き去りだ。拾っている暇はない。
そうしている間にも、大気を裂いてリヴヤータンがこちらへ向かってくる。先ほどまでは何とか見える程度でしかなかった巨体が、瞬く間に大きくなっていく。
こちらが走るよりも圧倒的な速さで飛んでくる巨体を見ながら、その反対側へと駆ける。
速さが違う。けれど、あの場でぼう、っとしているよりは逃げた方がマシだと感が告げていた。
『レンジ、気付かれたぞっ』
何に?
考えるまでも無い。
「エルメンヒルデっ」
フランシェスカ嬢とソルネアから手を放して、左手に弓を、右手に矢を顕現させる。
即座に振り返り、こちらへ向かってくる蒼穹の巨体――リヴヤータンではなく、その後ろ。元竜王を追う、小さな小さな、人間と同じ大きさの黒を狙う。
「――――!?」
唇を噛む。
狙った黒――大鎌を構え黒翼をはためかせる死神然とした女の後ろから、雲を裂いて巨大な黒竜が姿を現したからだ。
魔神の器。エルフレイム大陸で戦った、漆黒のドラゴンだ。
『あのドラゴンがやったのか!?』
よく見ると、こちらへ向かってくるリヴヤータンは、全身が傷だらけだ。
あの時――エルフレイム大陸行きの船で漆黒のドラゴンに敗北したファフニィルを連想させるほどに深い傷は無いが、それでも所々の鱗が剥げ、多量の血を滴らせているのが見て取れる。
「阿弥、来いっ! フェイロナとムルルは二人を連れて下がってろっ」
言うと同時に、弓へ矢を番える。翡翠の魔力で編まれた弦を引き絞り、狙いを定める。
視界の先――漆黒のドラゴンを従えるように空中で身構えたシェルファが、笑ったような気がした。
直後に、矢を放つ。こちらへ向かってくるリヴヤータンの脇を抜け、狙い違わず……シェルファの脇も抜けて漆黒のドラゴンへ。
眉間を狙った一撃は俺の意思通りの軌跡を描いて飛び、しかし鱗に弾かれてしまった。空中で、翡翠色の魔力甲となって霧散する。
「くそっ」
弓を見る。翡翠を基に、黄金の飾りが施されたソレは制約が三つ解放された事を示している。だが、その程度では傷一つ付けられないか。
その事に毒づき、もう一度矢を番える。
「阿弥っ」
「いきますっ」
直後、今度は眼前に黄金色の魔力光で編まれた特大の魔術陣が出現する。目が眩むほどに眩しいソレは、それだけ濃密な魔力で編まれた事の証左。
隣に来た阿弥が魔術短杖を魔術陣へ向けて構える。
放たれるのは、魔術陣よりも一回り小さな火炎弾。だが、魔術陣を通る事で極大化し、リヴヤータンの巨体すら飲み込めるほどの大きさへと進化する。
その、極大の火炎弾がシェルファ、そして漆黒のドラゴンへ向けて放たれた。慌てたようにリヴヤータンが射線上から退き、つい先ほどまで俺達が居た場所の近くへと落ちる。
まるで飛行機の事故だ。轟音と衝撃、舞い上がる砂煙と大小さまざまな石。
そして、その衝撃以上の爆音が空中で響いた。極大の火炎弾に巻き込まれた魔王と漆黒のドラゴンが爆発したのだ。
『やったか!?』
「まだだっ」
番えたままだった矢を、黒炎を上げる爆心地へ向けて即座に放つ。
灰色の空を裂く翡翠の矢が爆炎の中へ吸い込まれ――しかし、次の瞬間には明後日の方向から飛び出していく。考えるまでも無く、爆炎の中に居る何者かに弾かれたのだ。
「阿弥、リヴヤータンを頼むっ」
「蓮司さんは!?」
阿弥にそれだけを言うと弓と矢を翡翠の魔力光へ戻して駆け出し、離れた場所で警戒していたフェイロナ達の元へ行く。
「フェイロナ、ムルルっ」
名前を呼ぶと、身体を強張らせていた二人がこちらを見た。その表情には、緊張と焦燥が浮かんでいた。
旅慣れているとはいえ、いきなり空からドラゴンが降ってきたら緊張もするかと考え、内心で苦笑する。
「阿弥の言う事を聞いて動け」
そんな二人の肩に手を置いて、言い聞かせるようにゆっくりと言う。
もう一度視線を空――極大の火炎弾が爆発した場所へ向ける。風は強くない――けれど、今にも黒炎は晴れそうだった。
「フランシェスカ嬢っ」
「は、はぃっ!?」
「ソルネアを頼む」
言って、フェイロナとムルルの肩から手を放す。
右手を一閃して、手の中に神剣を握る。
羽のように軽く、けれどしっかりと手に馴染む、いつも通りの感触。それだけで、気持ちが落ち着いてくる。
「……レンジは?」
ムルルが、恐る恐るといった感じの、小さな声で聞いて来た。
その頭に左手を乗せると、少し乱暴に髪を撫でた。ポニーテールに纏められた銀髪が乱れる。
「バケモノの相手をしてくる。危なくなったら、逃げろよ」
それだけを言うと、皆から離れて山の谷間へ。下を見ると、緩やかとは言えないが、なんとか降りれそうな傾斜だという事が分かる。
『どうするつもりだ?』
「バケモノを引き付ける」
そう言って、肩越しに振り返る。
丁度、阿弥が魔術短杖を空へ向ける所だった。
「阿弥、危なくなったらリヴヤータンに無理をさせてでも飛んで逃げろっ」
それだけを言って、急な傾斜を滑り降りる。
空を見上げると――ソレと目が合った。
緩やかな風にアーベンエルム大陸の空と同じ灰色の髪を揺らし、怖いほどに美しい黒翼を広げ、自身の身長以上の大きさがある大鎌を構えた死神――魔王シェルファ。
あの女が、俺を見ながら笑った。
「くそっ、何でシェルファがこんな所に居るんだよ!?」
『言っている場合か!? 制約は三つだぞ、一人でどうにか出来る相手では――』
「撒いて逃げるに決まってるだろっ」
アイツは俺を狙ってくる。絶対だ。確信がある。
だから、阿弥達と別れたのだ。
ドラゴンに助力を得るなど、後回しだ。理由は分からないが竜山にシェルファとあのドラゴンが居るなどと予想もしていなかった。
――今は、生き延びる事が先決だ。