第八話 最後の旅1
白が、好きだ。
何物にも穢されていない、真っ白。純白。無垢。
……いや、そこまでは求めないが。
ただ、白色が好きだ。他の色よりも良い思い出が多い、という程度の差でしかないが。それでも俺は、他の色よりもよりも白が良い。
「積もるかなあ」
先日フェイロナが座っていた海が見える柵に腰を下ろし、灰色の空を見上げながら、そうぽつりと呟く。厚い曇天から大地へ舞い落ちているものは、雪だ。
本来なら純白であろうソレは、太陽の光が届かない大地では薄暗い空の明かりに比例してどこか濁っているようにも見える。
見える、ではなく。遠くにある今尚溶岩を溢れさせ、活動している火山から舞い上がる煙と火山灰が混じる事で本当に灰色なのだ。これが窓に当たると汚れるんだよなあ、と。他人事のように思いながら、しばらくの間は空を見上げ続ける。
「冷えるな」
『体調を崩す前に部屋へ戻ってはどうだ?』
「はっはっは――」
エルメンヒルデの珍しい心配の声に笑みを返し、やはり視線は空へ向けたまま。周囲を幾人かの兵士が通り過ぎていくが、あまり俺を気にしている様子は無い。
アーベンエルム大陸で生活していると、雪など見慣れたものなのだろう。
むしろ、俺のように雪を見て喜ん(はしゃい)でいる方が変なのか。
「俺の居た世界では、子供は風の子と言ってな」
『子供という歳でもないだろうに』
「心は、何時まで経っても子供のつもりなんだがね」
『迷惑な子供だな』
くつくつと、エルメンヒルデがするには珍しい、低い笑い声。俺が自分を子供だと言ったからか、今度は無理に大人びた笑い声を出しているような、そんな違和感。
その違和感が可笑しくて肩を震わせると、頭の中にいつもの男とも女ともとれる独特な声音で『……何故笑う』という憮然としたいつもと同じ声。
「変な声を出すからだろうが」
『……ふん』
どうやら、臍を曲げてしまったようだ。
そんなエルメンヒルデに口元を緩めながら、視線を空から海へ。
雪が降った。アーベンエルム大陸の気候なら、きっと明日の朝には積もるだろう。
この大陸に来て四日。明日は様子を見て、明後日には出発だろうか。
今後の事を考えながら、遠くを見る。人間達が住むイムネジア大陸。獣人や亜人が住むエルフレイム大陸。そしてここ、魔族や魔物が住むアーベンエルム大陸。
思えば、随分と遠くまで来たものだ。ここからでは、イムネジア大陸どころか、エルフレイム大陸すら見えない。海の向こう、水平線は濃い霧で隠れてしまっている。見える範囲で時折跳ねているのは鮫だろうか。……この世界に鮫が居るのか、そもそも鮫が跳ねるのかは知らないが。
ぼう、と変な事を考えながら立ち上がる。
今後の天気次第だが、雪が積もればこの砦を出て竜山へ向かう事はフランシェスカ嬢達には伝えている。だが、一応もう一度伝えておくべきだろう。
そう思って、四人が居るであろう場所に見当をつけて歩き出す。と言っても、選択肢はそれほど多くないが。
『日がな一日空を眺めていたと思ったら、ようやく動くのか?』
「これでも一応、天候の観察をしていたんだがな」
『……せめて、フランシェスカ達のように何かしらの手伝いをしながら、というのは難しいのか?』
「冬に水仕事は、皸がな……」
『気にするような性格でもないだろうに』
痛いんだぞ、皸。まあ、そりゃあ……気にする性格ではないけれど。
本音を言うと、寒いのが嫌なだけなのだが。そんな事を言おうものなら小言どころか呆れて口を利いてくれなくなりそうなので、黙っておく。
これから向かうのは、洗濯所だ。アーベンエルム大陸の内陸部から海に向かって流れる川の一つを砦内へ導いて作られた洗濯所で、ここ最近は良くフランシェスカ嬢達が手伝いをしている事を知っている。
貴族のお嬢様が洗濯板を使って洗い物をするなど、ご両親が聞いたらどう思うだろうか。良い経験が出来たと笑うか、うちの娘に何をしていると怒るか。まあ、あまり面識はないが、あのご両親なら前者だろうなあ、と思いながらフランシェスカ嬢のやりたいようにやらせていた。
俺も前者で、良い経験だと思うのだ。まあ、それが何の役に立つのか、と言われたら答えに窮してしまうが。
そんな事を考えていると、すぐに洗濯所の方へ到着した。砦内にある他の建物と同じく、外見は丸太を組んで作られた小屋だが、他の小屋とは違って床が浮いている。そして、その浮いた床の中央を通る様に細い川が海へ向かって流れていた。浮いている白い物は、泡だろう。
俺達が来たばかりの時は洗剤も無かった異世界だが、今では『道具使い』工藤の働きで、軍や一部の市民にまで洗剤が普及している。何でも、水とアルコール、後は柑橘系の精油があれば作れるらしい。知ると簡単だと思うが、この世界へ来たばかりの頃は「洗剤なんて工場でしか作れないだろ」と思っていたものだ。
そうやって人の手で作られた洗剤は、今では安く、手軽に手に入るようになっていた。小屋の中では、暇をしていたのであろう兵士や食事の配膳などをしている女性達に混じってフランシェスカ嬢とムルル……そして何故か、ソルネアまで洗濯を手伝っていた。
「あ、レンジ様……」
小屋のドアを開けた俺に気付いたフランシェスカ嬢が顔を上げ、続いてさり気ない仕草で手に持っていた白い布を洗濯物の山へ隠した。
下着だろうか?
そんな下世話な事を考えてしまう辺り、平和ボケしていると自分でも思う。気付かなかったふりをしつつ、視線をそれとなく、特に何も置かれていない小屋の隅へと向ける。
少しの間を置くと、フランシェスカ嬢の声に反応して、一緒に洗濯をしていた兵士達や女性達が緊張した面持ちになる。兵士達は、一拍の間を置いて被っていた兜を脱いだ。女性だった。
「ああ、いや。そんな大した用事じゃないから、畏まらなくていい」
肩の力を抜けと言うと、俺が小屋へ顔を出す前と同じような雰囲気が小屋の中に戻った……ような気がする。元々小屋の中に居なかったので、それまでがどのような雰囲気だったのかは分からないが。
「フランシェスカ嬢、ムルル。少し話がある」
「はい、わかりました」
「うん」
別にこの場所で話してもいいのだが、何となく気を使って小屋の外へ二人を呼び出す。ソルネアは……後でフランシェスカ嬢から説明してもらおう。
よく分からないが、アイツが洗い物をして人の輪の中に馴染んでいるなら水を差したくなかった。
「どうかなさいましたか?」
「……寒いと思ったら、雪……」
フランシェスカ嬢は小屋から出ると開口一番にそう質問し、ムルルは空を見上げて先ほどから降り始めた雪を見て口元を緩めた。
この辺り、二人の性格は真逆だよなあ、と思う。
「やっと雪が降り始めたからな。このまま降って明日積もったら、明後日は竜山へ向けて旅に出る……って伝えに来た」
「あ……そうですか」
要点を伝えると、フランシェスカ嬢が驚き……続いて、少し寂しそうな表情を浮かべた。
何かあったのだろうかと思い尋ねると、ようやくここに住む人達と仲良く慣れたのに、という事らしい。その微笑ましい理由に、口元を緩めてしまう。
「ドラゴンに会うだけだ。二十日もすれば戻ってこれるさ」
竜山までは、片道約一週間。余裕をもって考えても、二十日も掛からない道のりだ。これまでの旅に慣れたフランシェスカ嬢なら、体力的には問題無いだろう。
後は不測の事態だが……こればかりは断言できない。少しでもその“不測の事態”と遭遇する確率を下げるために雪が降るのを待っていたのだ。後は運である。
「そうですね」
俺がそう言うと不安が晴れたのか、いつものほんわかとした柔らかい笑顔を浮かべてくれた。
見慣れたからか、フランシェスカ嬢が笑顔じゃないと少し落ち着かない。なんというか、フランシェスカ嬢だけではなく場の雰囲気まで暗くなってしまうというか。ムードメーカーというのだろうか、こういうのは。
「ムルルも分かったか?」
俺の話を聞いているのかいないのか。ぼう、と空を見上げていたムルルは名前を呼んで初めて俺の方を向いた。
「分かった」
「お前も気が抜けてるなあ……」
「レンジほどじゃない」
そうかあ、と。胡乱な視線を向けると、少しムッとした表情になってしまった。
「私は、やるべき事はちゃんとやる」
「俺もだ」
『……そうか?』
ムルルに対抗して胸を張りながら言うと、エルメンヒルデが疑問の声を上げた。
その声が真に疑わしい物だったので態とらしく肩を落とすと、フランシェスカ嬢が口元を手で隠しながらクスクスと可愛らしく笑う。
「仲が宜しいのですね」
『うむ』
「そうでもないだろ」
エルメンヒルデが誇らしげに呟き、即座に否定する。すると、今度は頭の中に重苦しい溜息が響いた。
フランシェスカ嬢とムルルにも聞こえていたらしく、三人揃って口元を緩める。ここまでの流れを様式美のように感じながら、咳払いをして柔らかな雰囲気を払う。
「まあ、そういう事だ。今夜にでも、準備をしていてくれ」
「分かりました」
「うん」
「あと、ソルネアにも後で伝えておいてくれ」
「はい」
それだけを伝えて、別れる。後はフェイロナと阿弥だが、二人は食堂か隆の部屋だろうか。
先日、隆から苛められたというか、実力を計られたというか……あれから、隆とフェイロナはよく一緒に訓練をしている。というよりも、隆が一方的にフェイロナを鍛えているそうだ。
何が心の琴線に触れたのか、随分と気に入っているようなのだが、フェイロナが年上という事をアイツは分かっているのだろうか。……まあ、相手が年上だろうが格上だろうが、言いたい事を言う性格は今後も治らないのだろうなあ、と思ってしまう。
その辺りを注意しなければならないのが年上である俺の仕事なのかもしれないが、アイツはアレでいいのかも、と思ってしまうのだ。特に、こういう命の生き死にが身近にある世界なら。
変に気を使って生きるより、生きたいように生きる。――それが、時折とても羨ましく思えてしまう。
……まあ、その生き方は羨ましいが、そんな生き方では敵も多く作ってしまいそうだと思うのだが。アイツに悪気が無い事は分かっているので“敵”という言い方もどうかと思うが、胸中にずかずかと土足で入り込まれると嫌がる人も居るのだ。工藤やら、宇多野さんやら。逆に、宗一や真咲ちゃんは言いたい事を言う隆と気が合うというか馬が合うというか。
『どうした?』
「いんや。しばらくまた隆と会えなくなるから、今夜は飲み明かすかなあ、と」
『……はあ』
「心配したか?」
『ふん』
これから大陸側の扉で見張りをするのだろう。鉄の鎧兜を身に纏った兵士が数名、小走りに俺の脇を通り抜けていく。
何とはなしに立ち止まると、その後ろ姿を見送ってしまう。
「元気だねえ」
『レンジは元気が無さすぎだ』
その言葉に――大きく口元を緩め、歯を見せて笑う。
「そうだな」
雪が降っている。灰色の、濁った、穢れた雪が。
これが、最後の旅だ。ソルネアの。
そう考えると、少しばかり感傷的になってしまう。
先ほど、一緒に洗濯をしていたソルネア。フェイロナの事で隆へ怒りを向けたソルネア。チェスの手を悩むソルネア。
アイツは、初めて会った頃と比べると、変わったと思う。きっと本人に言ったなら、首を傾げてしまうであろう変化。
その変化を……多分、一番身近で見てきたのは俺達だ。俺やエルメンヒルデ、フランシェスカ嬢にフェイロナ、阿弥とムルル。
この旅の終わりに、アイツは魔神……人類の敵になる。きっとアイツは人類と敵対しないだろう。けど、これから先は? ずっと未来は? そんな先の事など、誰も分からない。
人と魔が手を結ぶかもしれないし、もしかしたらまた戦争が起きるかもしれない。
どちらにしても――その時、俺達はソルネアの傍には居ない。
「はあ」
吐く息が白い。冷たい横風に黒髪と外套の裾を揺らしながら、空を見上げる。
ソルネアは、何も言わない。
受け入れているのか、内心で悩んでいるのか。それも分からない。でも、変わろうとしている……のだと思う。商業都市で俺がチェス盤と駒を買ってやった時から、少しずつ、変わろうとしているような気がする。
そんな姿は……エルに、似ている。
最後の戦いで、死を決意していたのに誰にも……俺にも教えてくれなかった。アイツに、似ている。
フェイロナの事で怒ったソルネアは、エルによく似ている。
最初は何も無く、無感情だった。けど、一緒に旅をして、少しずつ変わっていった。人間らしく、人間臭く。……もっと長い時間を一緒に旅する事が出来たなら、ソルネアももっと変わったのだろうか。
『溜息を吐くと、それだけ幸福が逃げるそうだぞ』
「そりゃあ、大変だ」
これ以上幸福が逃げると、俺には不幸しか残らないような気がする。
エルメンヒルデの気配りに軽く答えると、寒い寒いと呟きながら阿弥とフェイロナを探すために砦の中に入る。いくらあの筋肉バカでも、雪が降っているのに外の修練場でフェイロナを鍛えている……という事は無いだろう。無いと思いたい。