第七話 残り僅かな時間3
隆が出て行ったドアをしばらく眺めていると、カツ、と。乾いた音が部屋の中に響いた。
窓から吹き込む冷たい風に長い黒髪を揺らしながら、ソルネアがチェスの駒を並べ直したのだ。
「レンジ。どうですか?」
「……お前もマイペースだよな、ほんと」
『タカシと変わらないな』
「お前もだけどな」
『…………』
エルメンヒルデの憮然とした感情を感じながら、先ほどまで隆が座っていた席へ腰を下ろす。対面に座るソルネアは、やはりいつも通りの静かな表情で俺を見返し、反応を待つ。
怒っている、か。
とてもそうは見えないが……隆から見ると、この無表情な女性はフェイロナを悪く言われて怒っているのだとか。
「じゃあ、俺から」
「はい」
自陣の駒を一つ動かすと、ソルネアもまた駒を動かす。視線は盤面へ向いたまま、動かない。
集中している――というのとは、少し違うように感じた。今までも何度かチェスを指したが、ソルネアは盤面を見る事はあってもその一つに集中するような性格ではない。
盤面ではなく、対局者を見て戦略を立てる。そういう性格だったはずだ。だが、そのソルネアが、今は盤面だけを注視したままチェスを指している。
……隆から言われた事を気にしているのだろうか。
「どうした?」
駒を動かしながら、聞く。すると、部屋のドアが微かに開く音。
視線を向けると、僅かに開いたドアの隙間から、隆が室内を覗いていた。というよりも、その隙間から俺を見ている。
多分、あれで呼んでいるつもりなのだろう。
「少し、席を外しますね」
俺と同じく隆の視線に気付いた阿弥が、座っていた石造りのベッドから立ち上がって退室した。その阿弥を追ってフランシェスカ嬢やムルルの視線も動くが、やはりソルネアは何を感じるでもなくチェスの盤面を見たまま動かない。
カツ、と。
駒が盤面に当たって固い音を立てた。
「まいった」
それが、幾度続いただろうか。盤面の上にはソルネアの黒い駒ばかりとなり、俺が動かしていた白い駒はその半分ほどの数しかない。
肩を竦めながら言うと、全身から力を抜く。
「はい」
それだけ。ほとんど無言と変わらないほどに口数少なく言うと、ソルネアは駒を並べ直す。
「気にしているのか?」
「おそらく」
何を、とは言わない。そして、ソルネアも聞いてこない。
この女性自身、何を気にしているのか気付いているのだから、聞く必要も無い。言葉少なく会話を交わし、第二戦を開始する。だがやはり、阿弥やフランシェスカ嬢と指して経験を積んだソルネアと、遊びの片手間で刺していた俺とではレベルに差があり過ぎる。
二戦目も会えなく敗北し、椅子の背凭れに体重を預けながら天井を仰ぎ見る。
ああ、岩を刳り貫いて作られた天井の、なんと面白味の無い事か。
『見事な完敗だな』
「別に、勝ち負けを競っているわけでもないしな」
「あはは……」
負け惜しみのように呟くと、いつの間にかムルルを膝の上に載せていたフランシェスカ嬢が渇いた笑い声を部屋に響かせた。
チェスは退屈だったのだろう、そんなフランシェスカ嬢の豊満な胸を枕にしてムルルは船を漕いでいる。羨ましい。男なら、誰もが一度は妄想する場面であろう。勿論、ムルルと場所を交代して。
まあ、男がやったら犯罪者扱いされて憲兵に突き出される可能性が高いが。
「落ち着いたか?」
「はい――ありがとうございます」
「は。よせよ、礼を言われるような事じゃあない」
しっかりとこちらを見て礼を言ってくるソルネアの言葉がくすぐったくて、視線を逸らして頬を掻く。
『照れているのか?』
「そういうのは、見ないふりをするもんだ」
エルメンヒルデの言葉に返事をすると、フランシェスカ嬢がムルルを起こさないように左手で支えながら、空いた右手で口元を隠して笑う。
クスクスと、まるで鈴の音のような小さくて可憐な笑い声。
その声に溜息を返し、視線を前へ。
「もうすぐ、お前の旅が終わるな」
「はい」
俺が何を言うのか悟っているのか、ソルネアは間髪入れずに返事をする。
旅の終わり。
ソルネアが、魔神と成る。
「レンジは」
そこで、不自然に言葉が途切れた。
視線は俺に向いたまま。俺の目を見返しながら、しかし言葉を選ぶように口籠る。
だから、何も言わずに次の言葉を待ちながら、チェスの駒を並べてみた。
差すわけではない。ソルネアは盤面を見る事無く、駒を並べる事も無い。ただ、俺を見て――フランシェスカ嬢とムルルを見る。
「レンジ達の旅は、まだ続くのですね」
それに、その言葉に……どのような意図が、感情があるのだろう。
羨ましいのか。
寂しいのか。
嬉しいのか。
悲しいのか。
……分からない。
「……ソルネアさんは、もっと旅を続けたいですか?」
フランシェスカ嬢が言葉を選ぶように、訥々と口を開く。
だが、その答えが分からないのか、ソルネアは空いた右手を胸元へ添えると、僅かな間……瞳を閉じた。なにか、感じるモノがあったのか。それとも、胸の奥にナニカがあるのか。
短い間だった。
王都の武闘大会前に洞窟で出会って、それからの旅。
ほんの数か月。たったそれだけの付き合い。
あの時は何も無かった――聞いても「分からない」ばかりだった会話も、今はこうやって自分の中から答えを出そうと模索するまでに変わった。
これは、良い変化なのだろうか。それとも、悪い変化なのだろうか。
それも、わからない。
ソルネアと同じく……俺も、俺達も、ソルネアの事は何も分からない。
そんな、薄い、曖昧な関係。
仲間と呼べるのかも、分からないような関係。
「はい」
それでも、ソルネアはフェイロナの為に怒り、こうやって旅を続けたいと頷いてくれる。
――繋がりが薄い。希薄な絆。
別れが決まっていたからこそ、必要以上に干渉しなかった結果。
「フランシェスカは、夢はありますか?」
「夢、ですか?」
ソルネアが珍しく、フランシェスカ嬢に質問をする。いや、俺が居ない所では質問をしていたのかもしれないが、俺の前で誰かに質問をするというのが珍しかった。
今までだって、必要最低限というか、自分が興味を惹かれた者以外は質問をしたりする事が無かったのだ。
「夢、というものが私は分かりません」
その言葉を、静かに聞く。
独白にも似た、内心の吐露。
窓から冷たい風が吹き込んでくる。
空は曇り。厚い雲に覆われた、灰色の空。その灰色は、遠くにある火山の灰によって出来たのではなく、もっと暗い――今にも空から落ちてくる雲に押し潰されてしまいそうな……圧迫感のある雲。
おそらく、今日か明日には雪が降るだろう。そんな天気だ。空気は乾いており、肌を刺すような冷たい風は強く吹いている。
雪が降れば、最後の旅が始まる。
雪がアーベンエルムの大地を覆い、強靭な肉体を持つ魔物でさえ自分達の巣に引き籠って暖を取る。そうしなければ、死んでしまうからだ。
元居た世界、地球でだって人間寄りも何倍もでかくて強い熊は餌を貯めて巣で過ごすのだから。
まあ、熊と比べるのもどうかと思うが。
とにかく、雪が降れば魔物の数が減る。一時的だし、居なくなるわけではないが、危険は減る。
そうして旅が始まれば……もう、戻れない。
こうやってチェスを指す事も、無いだろう。
「ですから、私は夢を見たかった」
それが分かっているのか。ソルネアは、僅かに表情を綻ばせてそう言った。
夢を見たかった、と。
ソルネアが、俺を見た。
「エルメンヒルデ」
『ん?』
「貴女には、夢はありますか?」
『私の夢は、レンジが人並みの生活をしてくれる事……あと、英雄としての自覚を持ってくれる事だな』
「ふふ」
「空気を読めよ、お前……」
『なっ!?』
エルメンヒルデの『夢』にフランシェスカ嬢が吹き出した。
そんな事を言われた相棒としては、盛大に……それこそ、海よりも深い溜息を吐くしかない。何て色気の無い夢だ。
「なんだそれ。夢じゃなくて願望だろうが」
『夢とは人の願望ではないか。この身は人ではないが、しかし願望ならあるとも』
「仲が宜しいですね」
『そうか?』
「そうか?」
エルメンヒルデと同時に、全く同じ言葉を口にする。だがやはり、俺とエルメンヒルデ。一人と一枚が口にした言葉の温度差は顕著で、だからまたフランシェスカ嬢が噴き出した。
『……失礼だ』
「すみません、エルメンヒルデ様」
謝っているが、フランシェスカ嬢は笑顔だ。そして……ソルネアも、僅かにだが口元が綻んでいるようにも見える。
「夢は、願望」
その、小さな唇が言葉を紡ぐ。フランシェスカ嬢には聞こえない――小さなテーブルを挟んで座っている俺でも、なんとか聞き取れるようなか細い声だ。
そして俺を見た。
「レンジの夢は……願望は?」
「なんだか、願望と聞くと卑猥だな」
『……空気を読んでくれ、レンジ』
心の底から呆れましたと言わんばかりの、エルメンヒルデの声音。そんな声を向けられると、俺としては泣きたい気持ちになるのはどうしてだろうか。
ちょっとした冗談なのに。
「俺の夢は……そうだなあ」
夢、願望。それは、色々ある。
田舎でのんびりと暮らす事。
旅をして綺麗な景色を見て回る事。
美味い飯を食う事。
仲間を守れるくらい強くなる事。
周りに迷惑を掛けずに生きる事。
世界平和。
そして……死ぬ時は、ベッドの上で。
これは絶対に外せない。ベッドの上で、幸せに死ぬ。それが、俺の願い。
他にも沢山あるが、すぐに思い付くのはこの七つ。俺の、七つの夢。
指折り数えながらソルネアに教えると、頷いてくれた。ただ、フランシェスカ嬢はいつもの可憐な笑顔が引き攣っているように見えるし、エルメンヒルデに至っては軽口すら叩いてもらえない。
……少し泣きそうになった。
「レンジは、夢を沢山持っているのですね」
『持ち過ぎだ』
「……いいだろ。夢を持つのは自由なんだから」
子供のように言い返すと、ふん、とエルメンヒルデが鼻息荒く切って捨てる。鼻は無いが。
「……レンジ」
「ん?」
そんなエルメンヒルデの対応で心に大きな傷を受けていると、そんな俺の事など関係無いとばかりにソルネアが俺の名前を呼んだ。
本当、俺の周りの女性はマイペースな人ばかりである。何となく、そう思った。
「私の夢が見つかるまで、傍に居てくれますか?」
「まあ、なあ。そう、約束したからな」
それは、エルフレイム大陸で――シェルファを退けた後に言った言葉だった。
軽い口約束……そうとられても仕方のない、簡単な約束。だが、ソルネアはどこか、すがるような視線で俺を見ているようにも感じられた。
「わあ……」
そんな視線とは真逆というか、どこか上擦ったというか。
頬を薔薇色にでも染めそうな勢いで表情に喜色を浮かばせたフランシェスカ嬢が、その頬を両手で押さえながら声を上げた。
膝の上で眠っていたムルルが落ちそうになり、慌てて周囲を見渡している。……豊かな胸を掴んで落ち無いようにしているのは、どうだろう。痛くないのだろうか。
「なんだか、告白みたいですね」
……やっぱり、俺の周りに居る女性はマイペースだ。
心の底から、そう思った。