第六話 残り僅かな時間2
コンコン、と。軽く木製のドアをノックする。岩を削って造られた通路に木製のドアというのは少々不釣り合いのようにも思えるが、そのような事を気にするほど細かな性格をしているつもりも無い。
そんな事を考えながらしばらく待つと、「はあい」という気の抜けた声と共に、ドアが内側から開かれた。
視界いっぱいに岩を削り取った灰色とは真逆ともいえるはちみつ色の髪が広がり、こんな乾いた建物には似つかわしくない甘い香りが鼻につく。
フランシェスカ嬢だ。押し開かれたドアと一緒に部屋の外へ歩み出た彼女が、そのまま俺にぶつかろうとして、慌てて踏み止まった。
「あ、レンジ様でしたか」
相手が俺と分かったからか、気の抜けたというと失礼かもしれないが、いつもの柔らかな笑みを向けてくれた。
『レンジ以外が来ていたのか?』
「いいえ、そうではありませんけど……」
フランシェスカ嬢の物言いが気になったのか、エルメンヒルデが訪ねると、その答えはどこか歯切れが悪い。
失礼だとは思ったが、首を傾げて部屋の中へ視線を向けると、見慣れない光景が広がっていた。
ソルネアが椅子に座って、テーブルへ向き合いながらチェスを指している。これはまあ、ここ最近で見慣れた光景だ。というか、ファフニィルの背に乗っていた時、チェスの道具を入れた荷袋を持っていただろうか?
むしろどうやって運んだのか気になったが、背中に積んでいた荷物の中に紛れていたのかもしれない。
そして、その相手。いつもなら阿弥かフランシェスカ嬢、それかフェイロナが相手をしていたというのに、ソルネアの正面……テーブルを挟んだ反対側には、まるで熊を連想させる日に焼けた巨体を丸めるようにして、赤髪の大男が座っている。
隆だ。
俺の中で、脳筋と言えば隆。隆と言えば脳筋。そう言える男が、うんうんとうなりながらチェスを指している光景は……夢や幻、幻想、有り得ない現象とすら思えるほどに非現実的であった。
「レンジ様?」
「あ……ああ」
フランシェスカ嬢の声で、我に返る。それでも目の前の光景が信じられず、一応目を擦って見たが、やはりソルネアの相手を隆がしている。
そんな隆を、阿弥が石造りのベッドに座りながら面白くないものを見るような目で見ているのが何だか印象的だった。寒いのだろう、その膝には厚手の毛布が載せられている。
「部屋に入られますか?」
『そうさせてもらおう……大丈夫か、レンジ?』
俺の代わりにエルメンヒルデが応え、確認してくる。
その言葉に従うよう部屋の中へ踏み入ると、俺が寝泊まりをした部屋とは違う、何となく甘いような香りがした。あれか、女の子の薫りというヤツだろうかと、変態的な事を考えてしまう。
「なにか香のような物を焚いているのか?」
「あ、わかりますか?」
俺が聞くと、フランシェスカ嬢が嬉しそうに破顔した。反対に、阿弥とは違うベッドにムルルが困ったように俺を見る。
人間よりも鼻の利く獣人だから、この匂いを辛いと感じているのかもしれない。
「良い匂いだな」
「はい。先ほど、タカシ様からお花をいただきまして……」
「隆が花あ?」
似合わないにもほどがある、と。意図して大きな声を出すと、ソルネアと向き合っていた隆が俺を見た。
俺が驚いた事がよほど心外だったのか、本当に真剣な表情を向けてくる隆。だが、剥き出しの右腕は傷だらけ、まるで岩のように固くなってしまった拳と、剣や槍を振り過ぎて皮が厚くなった手の平。爪もボロボロで、服装だって蝶よ花よと歌うよりも剣を手に魔物と斬り合っている方がお似合いだと言わんばかりに実用的なもの。
何を言いたいかというと、全く似合っていない。そもそも、隆が持ってきたであろう窓際に飾られている赤い花は、このアーベンエルム大陸では珍しい食用の花だ。観賞用ともいうべき綺麗な花ではない。
「俺だって、綺麗なご婦人方には花の一つでもお出しするさ」
そう言うなら、せめて見栄えの良い花を選んでこいと言いたい。まあ、この大陸では難しいのかもしれないが。
「似合わないなあ……後、その喋り方も似合わない」
「うるせえ。お前の喋り方だって似合ってねえよ」
二人してかかと笑うと、何気なしにムルルが座るベッドの隣へ腰を下ろした。阿弥の隣には、フランシェスカ嬢が座る。
「何でお前がチェスを指しているんだ?」
言外に、チェスを指せたのかという意図を込めて聞くと、隆が巨体を小さく縮めるようにして肩を竦めた。
「さっき、このお嬢さんに教えてもらったよ」
「はい」
隆の言葉に、ソルネアが頷く。しかし、その視線はチェスの盤上から逸らされない。隆の言葉を信じるなら先ほどチェスのやり方を覚えたばかりの素人だという事だが、それでもソルネアを追い詰めるほどの才能があるという事だろうか。
来たばかりで刺し方など分からないので、阿弥へ状況を聞くために視線を向けると呆れたように肩を竦めた。
「これで三局目です」
「……差し過ぎだろ」
チェスが強いのではなく、ただ単にずっと差しているらしい。流石、筋肉バカ。勝ち負けにこだわるのは、昔と全然変わっていないようだ。
それが剣や槍ではなく、チェスであっても。
「むう」
「…………」
隆は唸るが、ソルネアは反応を示さない。それだけチェスに集中しているという事か。
しばらくして隆が駒の一つを動かすと、その手を読んでいたのだろう。間髪入れずにソルネアが差し返し、隆はまた手が止まってしまった。
「十数手先で詰みですね」
「うっ――やっぱりか」
阿弥がそう言うと、隆は参ったと言うように天井を仰ぎ見た。ソルネアの指し手に迷いが無かったので、数手先を読まれている事には気付いていたようだ。
「そういえば、どうして蓮司さんがここに?」
隆とソルネアの勝負……いうには少々一方的過ぎる結果のようにも思えるが、盤面を見ていると、阿弥が聞いて来た。
「話し相手が欲しかったから探していたら、外でフェイロナと会ってな」
「フェイロナさんですか?」
「ああ。隆、お前、フェイロナに何か言ったのか?」
「んあ?」
俺が言うと、全く訳が分からないとでも言いたそうな顔をして、隆が俺を見た。
「いや、海を見て黄昏ていたからな。お前がまた空気を読まないような事を言って苛めたのかな、と」
「……失礼過ぎるだろ、お前」
お前の今までの事を考えれば、当然の考えだと思うが。俺が何を言いたいのか悟ったのであろう阿弥が、鋭い視線を隆へ向けた。
「もう。男の人には厳しいんだから」
「俺は誰彼にも厳しいぞ」
「自分以外にな」
阿弥と二人で溜息を吐くと、当の本人は何を言われても気にしていないと言わんばかりに豪快な声で笑う。
まったく。呆れて声も出ない。
『何を言ったのだ?』
「いんや。暇だったから、修練場で何度か手合わせを、な」
『それで、叩きのめしたという訳か』
どういう意図でそうんな流れになったのかは分からないが、あれでフェイロナはプライドというか、自分の実力にいくらかの自負があったはずだ。そして、デルウィンに世界樹の枝から削り出した神弓を渡され、その自信を強くしていたのだろう。
その鼻をへし折られた、という所か。
実際、フェイロナの実力はかなりのものだ。俺は元より、身体能力に優れたムルルでも、戦えば勝てるかどうか。
……どうせ、隆の事だから手加減などしていないのだろうなあ、と。
海を眺めていたフェイロナの姿を思い出す。どこか寂しそうに見えたあの姿は、『英雄』である隆との実力さを思い知らされたからか。
「叩きのめしたなんて人聞きの悪い。この『新しい魔神』を守るってんだ、その実力を知りたいのは当然だろう?」
「俺を見て言うな」
昨晩酒の席で話した事を臆面も無く言うと、チェスの駒を並べる隆。どうやらもう一局、差すようだ。ソルネアを見ると、こちらも駒を並べはじめている。
そう言ってフランシェスカ嬢とムルルを交互に見ると、数瞬驚いた表情を浮かべた後、フランシェスカ嬢はどうしようかと困ったような視線を俺へ向け、ムルルは厳しい視線を隆へ向けた。
そんなムルルの視線を受けた隆は、大仰に肩を竦めた。
「悪気があったわけじゃない」
『当然だ。まったく』
エルメンヒルデが呆れて言うと、阿弥が溜息を吐いた。
「実力は悪くない。勘も、経験も」
「で?」
「デルウィンがあの弓を預けた理由がよく分かったよ」
ソルネアが駒を並べ終えると、当然のように隆が先に駒を動かした。すぐさま、間髪を入れずにソルネアが差し返す。
「随分と早く打つな」
「この方の打ち筋は、覚えました」
「……マジか」
ソルネアの声音が、どこか堅い。ふと、そう感じた。
その横顔はいつもと同じように感情の浮かばない、瞳すらまるで凪の海のように穏やかなまま。だというのに、まるで暴力とすら思えるほどの打ち筋で隆を追い詰めていく。
隆はチェスの素人だ。
初めて一年も経っていないとはいえ、何度もチェスを打って居るソルネアとは経験や打ち筋を予測する力が違い過ぎる。
数十手の後、戦局は決まっていた。
「なるほどね」
そしてまた、隆は大仰な仕草で天井を仰ぎ見た。そのまま、俺へ視線を向けてくる。
「相変わらず、魔神ってのは怒らせると怖いな」
容赦が無いと呟いて、椅子に座ったまま伸びをする。
その言葉に、隆に向けていた視線を逸らしてソルネアを見る。
やはりその横顔からは、感情の波は感じられない。何を感じているのか、考えているのか、思っているのか。何一つ分からないというのに……隆は、分かるらしい。
俺よりも遥かに短い時間を過ごしただけだというのに、ソルネアの感情が。
「怒っているのか?」
「……私は、怒っているのですか?」
俺の質問に、ソルネアが質問で返してくる。それは本当に、自分がどのような感情を抱いているのか分からない――そんな、困惑ともいえる声音。
もしかしたら、隆がフェイロナを打ちのめしたと聞いて……怒ったのか。そんな、人間らしい感情を、ソルネアが抱いたのか。
阿弥やフランシェスカ嬢を見るが、二人もソルネアの考えは分からないようで驚いた顔を隆へ向けている。
「ここまで一緒に旅をしてきた仲間を貶されて怒った、じゃないのか?」
「分かりません」
「蓮司は、その辺りは教えてくれていないんだな」
そう言って、隆が立ち上がった。言うべき事は言った、と言わんばかりの満足げな表情で。
……ぶん殴りたい顔である。
「もっと冷たい奴かと思ったけど、案外熱いんだな」
そして、そんな殴りたい笑顔でかかと朗らかに笑う。
「こういう奴は嫌いじゃない」
憮然と、自分でも不機嫌と分かる表情を浮かべていると、隆がそんな俺の肩を叩いて部屋から出て行く。
なんとなく、アイツが何をしたかったのかが分かった気がした。
フェイロナの実力を計ったのも、ソルネアと慣れないチェスで勝負したのも。その人物の器、度量、そんなものを計る為に相手の得意な物で挑んだのだ。
真っ直ぐに、もっとも単純な方法だろう。あの脳筋らしい、考え方だ。
そして、一緒に居た俺よりもソルネアの感情の機微を察した。……なんとなく、それが面白くない。
別に、俺がずっと一緒に居たのに、とか。俺が一番の理解者だ、とか。そんな事を言いたいわけではない。
……どうしてアイツは、こんなにもまっすぐで、人の感情を理解できるのに。ああも空気を読まないのか。
言いたい事だけを言って出て行かれると、俺も阿弥もフォローが出来ない。
自分の感情に困惑しているソルネア。出て行った隆の後姿を追ったまま呆然としているフランシェスカ嬢。フェイロナを叩きのめされたと聞いて分かり易い感情を表情に浮かべているムルル。
――はあ、と。深く溜息を吐く。
アイツは本当に、自分の言いたい事だけを言って、マイペースに進んでいく。
それは伊藤隆という男の長所なのだろうが、同時に短所でもある。付き合いの長い俺や阿弥は隆がどういう人物か分かっているが、ああもマイペースに行かれると付き合いの無いフランシェスカ嬢達は困惑するしかない。
中には、ムルルのように怒りを向けたり、フェイロナのように落ち込んだりもしてしまう。
その辺りの、人間関係ともいうべきか……そういった所を気にしてくれると、周りは本当に助かるのだが。