第五話 残り僅かな時間1
こちらも岩を刳り貫いて作られた、窓から外を見る。空は厚い雲に覆われ、今にも雨か雪が降ってきそう。それほどまでに冷え込んでいるが……まあ、アーベンエルム大陸ではこの程度の寒さは当たり前だ。
以前一度体験しているし、昨晩に比べると昼間は随分と暖かい。ベッドから足を降ろして素足で石床に触れると、その冷たさに眠気が飛ぶ。
「相変わらず寒いな、こっちは」
昨晩脱ぎ捨てたはずの革ブーツを探しながら言うと、エルメンヒルデがくつ、と低く笑った。
『寒いからと、ずっと毛布に包まるような真似だけはやめてほしいものだ』
「わかっているさ」
ようやく見つけた革ブーツはベッドから離れた位置に転がっていた。どうしてあんなに離れた場所で、昨夜の俺はブーツを脱いだのだろうか。
自分のことながら不思議に思うが、まあ、酔っていたからだろうと結論付ける。昨晩は、結構遅くまで隆と飲んでいたのだ。
といっても、こんな僻地では酒は貴重なので、水で薄めたものだったが。それでも、昔話に花を咲かせながらの飲酒は楽しくて、ついつい悪酔いするまで呑んでしまった。いくら薄い酒でも、長時間飲んでいると変に酔ってしまうらしい。
ベッドの上、毛布を下に敷いたまま着替えを済ませ、もう一度素足を石床の上へ降ろす。
「うぅ、寒い寒い」
『……情けない』
エルメンヒルデが心の底から呟くように声を出す。
『まったく。これからドラゴンの縄張りに行く人間が、そんな事でどうする』
「どうにかするさ」
『前向きなのか、後ろ向きなのか……判断に迷う言葉だな』
「後ろ向きじゃあ、前に進み辛そうだなあ」
軽口を言いながらブーツを履き、同じく床に落ちていた外套を羽織る。最後に、左腰に精霊銀の剣を吊って、ベルトに差しているナイフの束を確認する。
この服装も、随分と長い。この旅が終わったら、心機一転とまではいかないが、新しい装備を工藤に作ってもらおうか。
そう考えながら部屋を出ると、やはりというかあまり人の気配がしない。もうみんなが起き出して、各々の仕事を始めているのだろう。
巨大な岩――海辺の崖を刳り貫いて作られた砦は、大きく分けて居住区と物置き、修練場の三つに分けられる。洗濯などは、砦の外にある木材を組んで作られたログハウスで行われているらしく、ここに居る人の総数は約五百。そのうち、戦えるのは四百人程度なのだそうだ。
随分と少ない。以前、この大陸で魔神の軍勢と決戦を行った際には人間、亜人、獣人が纏まった数万の軍勢が居た。
その、数万の軍勢と魔族が数百、そして無限とも思えるような数の魔物がここから北にある大平原を抜け、三つの大陸を繋ぐ二つの大橋……その一つを崩し、その一つを占領して、魔神が住む城の前にある平原で――両軍が入り乱れて最後の決戦を行った。
魔神の城へ進む俺達から魔族達の視線を逸らすために、数万の兵士達がその命を天秤に載せてくれた。
……その事を思い出し、なんとも言えない気持ちになる。悲しいのか、懐かしいのか。どう言葉にすればいいのか、わからない。
ただ――ここに居る数百の兵士達。彼らはその決戦の際に生き残った、あの時の決戦を死に場所と定めて、しかし死ねなかった人達であるらしい。幾人か見覚えがあるのは、その時に知り合った人達だったからだ。
それに、平均年齢も随分と高い。殆どがオブライエンさんとあまり歳は変わらないと思う。ここで一番若いのは、隆らしいし。あいつも、俺より年下とはいえ今年で二十六。イムネジアの王城に務めている兵士や騎士なら、もっと若い人が居る。
「さて、これからどうするかね」
ファフニィルから竜山――ドラゴン達に認められて来いと言われたが、しかしあそこの山を登るのも命懸けだ。しばらく休養してから向かおうと思うが、さりとてこの砦で何かをしなければならないという用事も無い。
隆と話そうにもどこに居るか分からないし、自分から何かをしようという積極性も無い。だが、ダラダラと時間を無為にするのも勿体無い。
知らない道を適当に歩き、食堂へと向かう。何をするにも、まずは腹ごしらえか。そう考えたからだ。
昨夜の記憶を頼りに食堂へ行くと、砦に居る兵士達に混じって簡単な食事を用意してもらえた。
食堂に居るのは十数人の兵士達だ。それほど多くない。どうやら、すでにほとんどの兵士や非戦闘員の人達は働き出しているらしい。この場に居る殆どの人達が、昨夜までは居なかった俺へチラチラと視線を向けている。
『見られているな』
「昨日までは居なかったからな。珍しいんだろう」
この調子だと、今は一緒に居ないが、フランシェスカ達も同じように見られたのかもしれない。そんな事を考えながら、人の列に並んで朝食を受け取る。
握り拳程度の大きさがあるパンが二つに、薄く切って焦げ目がつくまで焼かれた肉。それと、少量の野菜が入ったスープ。どうやらこれが、この砦での普通の食事らしい。昨晩の豪勢な食事は、特別に用意されたものだったようだ。この大陸に来た俺達に対する、精一杯のおもてなし。……そんな事、気にしなくていいのに、と。
両手を合わせて「いただきます」と食前の礼をいつも以上に深くしながら、心中で呟く。
そして、昨晩話した内容を思い出す。
隆達も、魔物がどこかおかしいのだと気付いていた。今までにない行動……群れるはずの無い魔物が群れ、内陸に住む魔物が海の近くに現れる。その異変。異常の解決を求められている。だからこそ、俺達にああも豪勢な食事を用意した……というのは考え過ぎか。ただ単に、歓迎の為に用意したのだろう。
乾いたパンを手で千切り、カリカリに焼かれた肉と一緒に口へ運ぶ。
「うん、美味い」
噛めば噛むほど味が出るというか、独特の旨味が口の中に広がる。よく噛んで味わった後、スープと一緒に飲み込むとまたパンと肉を口にする。
それを数回繰り返して朝食を終わらせると、食器を下げる時に厨房の調理人へ礼を言って食堂を後にする。
さて。
「フランシェスカ嬢達は何処だ?」
『さて。砦の中を見て回っているか、外かもしれないな』
取り敢えず、エルメンヒルデも分からないらしい。心強い相棒の言葉に溜息を吐いて、取り敢えず歩き出す。立ち止まっていても、探し人が見つからないというのは以前の経験からよく分かっているのだ。
食堂を出て、会議室のような大きな石造りの丸テーブルと沢山の椅子がある部屋、剣や槍といった沢山の武器、鎧兜が並べられている倉庫、内陸の方から海へと流れる川を利用した洗濯場。色々な場所を見て回るが、お目当ての仲間達は見つからない。
……ふとそこで、フランシェスカ嬢達に割り振られたであろう部屋をまだ覗いていない事に気付いた。
これで本当に、自室で休んでいたら。それこそ、間抜けな結末である。
「そういえば、部屋を見てなかったな」
『…………はあ』
その事を口にすると、エルメンヒルデが重い……魂すら口から出てしまいそうに重い溜息を吐いた。
……お前だって気付いていなかったくせに。そう言いたくなりながら、しかしその言葉を飲み込む。俺は大人なのだ。
だが、そうやって今度は仲間達の部屋へ向かおうとして踵を返した先で、海を眺めているフェイロナを見付ける事が出来た。人目に付かない、ログハウスの裏手だ。切り立った崖から落ちないようにと作られた柵に腰を下ろしながら、何をするでもなく海を眺めている。
肩まで伸びた柔らかな金糸の髪と、羽織った外套が海風に揺れている。
「ん、レンジか?」
こちらが何かを言う前に、俺に気付いたフェイロナが名前を呼ぶ。だが、こちらを見る事は無い。視線は、海を見たままだ。
「寒くないか? 風邪をひくぞ」
「そうだな――この大地に向かって吹く風は、冷たいな」
その言葉に、息を吐く。俺が向けた言葉と、フェイロナが応えた言葉には色々と違いというか、温度差があるように感じた。
フェイロナが言っているのは、海から吹く風が商業都市やアーベンエルム大陸の港で感じたソレと明らかに違うからではないだろうか。
以前、この大陸で行われた決戦の前夜。デルウィンが言っていた言葉を思い出す。この大陸では、精霊の存在が希薄だと。だから緑は育たずに枯れ、水は濁り、生命は痩せ細る。だから、このアーベンエルム大陸で生きていけるのは、精霊の加護を必要としない魔物や魔族だけ。
その事を思い出しながらフェイロナの横顔を見ると、何処か寂しそうというか、悲しそうにも見えた。
「精霊の気配を感じない、か?」
「それも、ある」
それも、か。
他に何かあるだろうかとその隣へ歩み寄る。フェイロナが見ている景色は、お世辞にも綺麗とは言えないモノだ。強い風に、荒れた海。ずっと遠くまで続く曇り空。
「イムネジアやエルフレイム大陸から見る海とは、全然違うな」
『そうだな』
フェイロナの言葉に、エルメンヒルデが応える。
「この大地は、ずっと曇っているそうだ」
誰かから教えてもらったのだろう。フェイロナがそう言う。その声音は、やはり悲しそうだ。
「ああ。……晴れたのは、一年前くらいかもしれないな」
魔神ネイフェルとの決戦の際、完全に開放された神殺しの武器の力。その力で、魔神だけではなく、魔神が住む城と、その先にあった灰色の雲、空すら裂いた。
あの時に見えた青空は、今までがずっと曇り空だったからこそ、本当に、宝石のように綺麗だったなあ、と。
ふと、そんな事を思い出した。
「晴れたのか?」
「一瞬だがな」
そう言うと、フェイロナの視線がこちらを向いた。その視線に、肩を竦める事で返事をする。
「もう二度とするつもりは無いぞ。疲れるからな」
「……そうか」
そして、溜息。
「レンジらしい言葉だな」
「褒められると嬉しいね」
『褒められていないと思うぞ。絶対』
同時に、エルメンヒルデから呆れられてしまった。
その呆れ声が可笑しくて肩を震わせると、フェイロナも再度視線を海の方へ向けたまま肩を震わせた。
『むう』
そんな俺達の反応に、憮然とした反応を示すエルメンヒルデ。コイツの性格や扱い方を、フェイロナもよく理解してくれていると思う。
「それで、どうした。もう出発するのか?」
「いいや。昨晩言ったように、しばらくはここで休憩だ」
そう言って、視線を空へ。
この季節、そろそろアーベンエルム大陸では雪が降る。降った雪は膝の高さほどまで積もり、こちらの旅路を邪魔してくれる。というか、下手をしたら道に迷ってそのまま遭難。命を落とすと言う可能性も低くは無い。
まあ、一応この辺りの地理はまだ頭の中に入っている。いや、この砦から竜山まで、そして竜山から魔神ネイフェルや魔王……元魔王シェルファが座していた城までの道も。
四十二日。いや、もう後四十日。幸太郎の“未来視の魔眼”が見た決戦までの時間。その時間――最後の時間を、精々大切に使わせてもらおうと思っている。
「お前達を探していたんだ。周りは知らない顔ばかりだろうからな」
「そうだな。今はしばらく海を見ていたい――後で、時間が空いた時に紹介してもらえると助かる」
「ん、分かった」
別に、強制するつもりも無い。フェイロナも、この大陸で旅が終わると感じているのか、少し感傷的になっているようにも見える。近付き難いという訳ではない。それよりも、その横顔はどこか寂しそうで。
……昨晩、俺と隆が話している時からだ。その時に、何か感じるところがあったのかもしれない。
ファフニィルは俺にドラゴン達から認められろと……そうして、言う事を聞かせろと言った。
まあ、スケールが大き過ぎるよなあ、と。イムネジア大陸から出た事が無いと言っていたフェイロナ。それが、エルフ達が住むエルフレイム大陸へ渡り、魔族が住むアーベンエルム大陸へ渡り……もし、このまま俺と一緒に来てくれるなら、今度はドラゴン達の縄張りへ進む事になる。
臆している……とは思わない。
それに、何も思わない方が不自然なのだ。
ファフニィルのように人に友好的なドラゴンも居れば、ヴリトラのように殺し殺される間柄ともいえるドラゴンも居るのだから。
「フランシェスカ嬢達を知らないか?」
「確か、アヤ殿と一緒に部屋でチェスを指していたはずだが」
『チェス?』
「タカシ殿が部屋に訪ねて来て、ソルネアと勝負して負けたそうだ」
「……そうか」
アイツ、負けず嫌いだもんなあ、と。
それからずっと、チェスを指しているのだろうか。そこまで暇な立場じゃないと思うが……。
この砦にはイムネジアから来ている兵士達が主で、隆はイムネジアの騎士団に所属しているわけでは無かったはずだ。だが、昨日の立ち振る舞いから隊長のような立ち位置であるのではと思っていたのだ。
まあ、ある程度の自由はあるのかもしれない。
「じゃあ、俺も部屋に行くか」
「そうか」
「フェイロナも、身体が冷える前に戻れよ」
「ああ」
フェイロナの事だから、その辺りは心配していない。一応口にして、背を向けて歩き出す。
「レンジ」
その声に、振り返る。フェイロナは――肩越しにこちらを見ていた。風に攫われた金の髪がその表情を隠しており、どのような表情で――瞳で、俺を見ているのかは分からない。
「……いや、何でもない」
「おう。じゃあ、また後でな」
「ふ……ああ、また後で」
だが、何かを言い掛けて、止めた。
『どうかしたのか?』
フェイロナから離れると、エルメンヒルデが聞いてくる。
「さあな。大方、チェスを指している隆から何か言われたんだろ」
『なるほど』
アイツ、空気が読めないからなあ。多分、色々と言ったり聞いたりしたんだろう。
何を聞いたかは分からないが、それを気にして一人で居たのかもしれない。
まあそれも、聞けばいいだけだ。
『タカシは空気が読めないからな』
「アイツも、お前にだけは言われたくないだろうな」
『……失礼な』
そんな軽口を言う俺を、砦の入り口に立っていた二人の兵士が変なものを見るような目で見ていた。
そういえば、エルメンヒルデの声は俺以外に聞こえていないのだった、と。