第二話 十三人目の英雄1
亜人や獣人達が過ごす常夏の島、エルフレイム大陸。その島から離れ、ファフニィルの翼で半日も海を進むと冷たい風が頬を撫でる。
遠くに見える灰色の雲と、潮風とは違う少し濁った空気。
その感覚に顔を顰めると、ドラゴンの広い背中の上で寛いでいたムルルがこちらを見上げて来た。
「どうかした?」
「アーベンエルム大陸が見えてきたからな……これからの事を考えて溜息を吐いていただけだ」
「?」
俺が何を言っているのか分からない、と言った風にムルルが首を傾げる。それもそうだろうなあ、と。
特に何かを伝えたかったわけでもないので、何でもないと首を振っていつものように首をコキコキと鳴らした。小気味のいい音に気を良くすると、頭の中に聞き慣れた――男とも女とも取れる、中性的な声が響く。
『気持ちが悪いから、あまりしないでくれると嬉しいのだが』
「気持ちが良いんだけどな」
『聞いている分には、首の骨が折れないか心配になるぞ』
そういうものなのだろうか。やっている側からすると、肩が軽くなったように感じるのだが。
「慣らしているのは骨じゃなくて関節なんだがね」
「そうなの?」
ムルルが不思議そうに聞いて、俺の真似をするように首を傾げた。
そう。首を傾げただけだ。首の関節を鳴らすような仕草ではなく、どちらかというと愛嬌を感じさせられる仕草。
その仕草が可愛らしくて、口元を緩める。
「ムルルには必要無いだろう」
「そう?」
「肩が凝るような事なんて、考えないだろう?」
「………」
俺がそう言うと、目に見えて表情に険が増した。
「私だって、色々と考えている」
「そうか」
「うん」
どうやら、何も考えていないと思われたと、勘違いしたようだ。別にそんなつもりで言ったのではないのだが、まあそうやって起こった表情も面白いので黙っておこう。
「フランシェスカ嬢は大丈夫か?」
「え?」
「……どうしてそこで、フランシェスカ先輩に聞くんですか」
何気なく、少し離れた場所でファフニィルの背鰭に掴まっていたフランシェスカ嬢へ声を掛けると、返事をしたのは阿弥。どうせ、また胸の事を気にして反応したのだろう。
やはりそんなつもりは無く、高所が苦手なフランシェスカ嬢を心配しただけなのだが、と。鋭い視線をこちらへ向けてくる阿弥へ返事をするように、肩を竦める。
「高い所は大丈夫か、と聞いたつもりなんだがな」
「ぅ」
『阿弥は何に反応したのだ?』
「エルが聞かないでよっ」
『……何故怒られた……』
阿弥の言葉にエルメンヒルデが落ち込むと、同時にファフニィルが大きく一度羽ばたいた。
その衝撃で背中が揺れ、フランシェスカ嬢が可愛らしくきゃ、と悲鳴を上げる。その背中を、少しでも揺れないように支えると、視界が風に揺れる金糸の髪で覆われてしまう。潮風やアーベンエルム大陸の濁った風とは違う、甘い香りが鼻孔を擽る。
一日一善という訳ではないが、やはり善行を積むと良い事があるのかもしれない。
ふとそんな事を考えながら、揺れが収まるのを待ってフランシェスカ嬢から離れる。ファフニィルの全長は目測だが約三十メートルほど。その背中は座って談笑できるほどに広く、先ほどのような羽ばたきに注意していれば横になれるほど。大陸から大陸へ。超距離を移動するのも、それほど肉体的な疲労は感じない。
視線を下へ向ければ透き通るほどに美しい海と、その海を泳ぐ魔物達の姿。空を見れば青い空と白い雲、そして空を飛ぶ魔物の姿。
……どこを見ても魔物の姿が視界に映るが、しかしこちらへちょっかいを出してくる様子は無い。流石に、人とそれほど変わらない大きさの魔物が、三十メートル級のドラゴンに手出しをするのは無理があるのだろう。遠巻きに様子を眺めているだけである。
時折、ファフニィル以上の巨体を持つ魔物――巨大イカや水龍、小さな島程の大きさがある巨大魚が海面に顔を覗かせるが、それだけだ。
そんな、巨大な魔物を安全に眺める事が出来るのは珍しい経験なのだろう。高所が苦手というフランシェスカ嬢も、その時ばかりはファフニィルの背からおっかなびっくりといった様子で海を見下ろしていた。
「アーベンエルム大陸か……」
不意に、耳に遠雷のような――胎の底に響く、低い声が届く。俺達を背に乗せている真紅のドラゴン――ファフニィルの声だ。その声が、今向かっている大陸の名前を口にした。
「? アーベンエルム大陸がどうかしたの、ファフニィル?」
「いいや。あの大陸には、あまりいい思い出が無いのでな」
「そうなの?」
阿弥が、不思議そうに言う。俺も、口にはしなかったが、内心で阿弥と同じように疑問符を浮かべる。
てっきり、ファフニィルの事だから俺達と――結衣ちゃんと出逢えた大陸にはそれなりに思い入れがあるのではと思っていたのだ。
だから、竜の王が口にしたその一言が不思議で、その首筋を軽く撫でる。
「やめろ」
「なんだ。昔はこうすると喜んだのに」
「昔は昔だ。馬鹿者――人間が、馴れ馴れしい」
「へいへい」
軽く言って、首筋を撫でる行為を止める。
人間。
人間に撫でられるのが嫌なら、昔は違ったのか。
ふとそう考えて、これ以上考えても意味の無い事だと自答する。ファフニィルが言いたい事が何となく分かり、そして今はまだそれに応える事が出来ないと自分で分かってもいる。
ただ。
「アーベンエルム大陸で生きていくには、人間のままじゃあ居られないんだけどな」
「ふん――分かっているなら、いい」
結局は、そういう事だ。
エルフレイム大陸でエルの事を口にした時から、覚悟は決まっている。
このままでは駄目なのだと。このままでは、俺はまた後悔する事になる。
一度、失敗した。間違えた。守れなかった。救えなかった。
だから今度こそ、と。
「んー……風が気持ちいねえ」
かかと笑って、その決心のような決意のような、気持ちを隠す。それを口にするのは気恥ずかしいし、誰かに言うような事でもない。
人の前に立つならその言葉を口にする覚悟も必要だが、生憎と、そのような生き方は俺には合っていない。
そのくらいの事は、分かっているつもりだ。
だから、おどけて笑うとまた頭の中に中性的な声が……いつものように、溜息が聞こえた。
『……締まらないな』
「いつもの事だと思うけどな」
『いつもだから、溜息を吐きたくなるのだ』
エルメンヒルデの物言いが可笑しくて肩を震わせると、少し怒ったような気配。本心から怒ったわけではないと分かっているので、弁解はせず、そのままにしておく事にする。
どうせ、すぐに機嫌を直してくれる。そういう相棒だと知っている。
そんなエルメンヒルデに声を掛けずに、視線をフランシェスカ嬢の傍に腰を下ろしているフェイロナとソルネアへ向ける。阿弥とムルルは、いつの間にか尻尾の方へ移動して海を眺めていた。どうやら、魚……というか半魚人が浮いているのを見て楽しんでいるようだ。
「ソルネア、落ちないようにな」
「はい」
何を話そうかと迷い、取り敢えず当たり障りのない事を言うといつものような感情の起伏が感じられない、平坦な返事。
エルフレイム大陸で少し変わったかと思ったが、やはり相変わらずソルネアの考えている事はあまり分からない。
だが、ファフニィルの背に乗ってからはよく海を眺めているように思う。――言葉にするなら、景色を楽しんでいるようにも、見える。
聞いても、海か空を見ているとしか言わないのだが。
「フェイロナ、もしもの時は支えてやってくれ」
「ふ――随分と過保護なのだな」
そんなソルネアの傍に居るフェイロナへそう声を掛けると、逆に俺の方が言われてしまう。
別にそんなつもりは無かったが、もしかしたらそうなのかもしれないとも思う。感情の起伏は分かり辛いが、何も知らない――色々な物に興味を示しているのだと思う。そんな、子供のような反応を示すソルネアを子供扱いしてしまっているのか。
ふとそう考えるが、自分の事ながらよく分からない。
ただ、そんな風にソルネアに景色を楽しむ余裕があるのなら、俺としては喜ぶべき事か。
これから、この女性を魔神の座へ据える。それが何を意味しているのか……結局のところ、俺は全部を理解できていない。
魔物が暴れる原因は俺が魔神ネイフェルを殺し、魔物を御する存在が居なくなってしまったからだ。その為に、新しい魔神――ソルネアを魔神の座へ据える。
それでいいのか。
そう考えるが、答えは無い。女神アストラエラから提示された魔物を御する方法はソレしかなく、俺は他に何かできる事があるのか、それすらも知らない。
そしてなにより、ソルネア自身がその事を受け入れている。
――今更だ。
アーベンエルム大陸。魔物と魔族が支配する――魔神が居た大陸は目の前にある。今更、他に方法があると提示されても困ってしまう。
来るところまで来てしまった。
後は、決着をつけるだけ。
あの大陸に……あの場所に、アイツは居る。
「レンジ様?」
思考に没頭していた俺に、声がかけられる。それは、下を見ないように空を向いていた、フランシェスカ嬢だ。少し、顔が青い。
「ん?」
「難しい顔をされていますが、どうかなさいましたか?」
「……いいや。アーベンエルム大陸が見えてきたからな、これからの事を考えて溜息を吐いていただけだ」
先ほどムルルへ言った言葉と同じ言葉を返す。これからの事。ソルネアを魔神の座へ据える。そして――シェルファと、あの戦闘狂と決着をつける。
アイツは待っているはずだ。魔神ネイフェルを殺したあの場所で。一年前の約束を果たすために。
死にたいと言った俺を殺すために。
死にたいと言った俺に、殺してやるから待っていろと言った――あの約束を果たすために。
「それにしては、随分と深く考え込んでいるように見えるが?」
フェイロナにまで心配されてしまう。そんな仲間の優しさに、肩を竦める。
「なに。約束を守る難しさを痛感しているだけさ」
「約束、ですか?」
「そう、約束」
フランシェスカ嬢がオウムのように聞き返してくる。その言葉に首肯して、視線を海へと向ける。
太陽の光を弾いてキラキラと輝く海は、波の数だけ姿を変える。小さな綺羅星を鏤めたかと思えば、大きな一塊の輝きとなったり。万別。同じ形など、一瞬として無い。
そんな海を見ながら、溜息を吐く。
「まったく。約束なんて、軽々しくするものじゃない」
肩を落とし、そう呟く。
本当に、心からそう思う。約束を守るのは大変だが、約束を破るのはそれ以上に大変だ。
一年越しの約束だが、その大変さは変わらない。
いや、一年経ったからこそ、あの時以上に大変だろう。
エルフレイム大陸で一戦交えた時の事を思い出すと、そうとしか思えない。
なにせ、神剣で腹を裂かれながら、俺の首へ大鎌の刃先を添えながら――それでもあの女は退いたのだ。決着をつける事が出来たはずだ。あの時、あの場所で、終わらせる事が出来たはずだ。
けど、それをしなかった。
あの女にとって、あの黒いドラゴンなどどれほどの意味も無い。死のうが、生きようが。どうでもいいはずなのに、あのドラゴンの延命を理由に退いた。
きっと、あの言葉に本心は欠片も無かったはずだ。
「注意しろよ、フランシェスカ嬢」
だから、言う。言わなければならない事を。
「破らなきゃならない約束なんか、絶対にするものじゃない」
「……は、はあ」
よく分からない、といった風にフランシェスカ嬢は首を傾げた。まあ、それが普通の反応だろう。
約束とは、守るべきものだ。
破る為に必死にならなければならない約束なんて、するのは俺とシェルファくらいのものだろう。
――生きよ。いつか、儂が貴様を殺してやる。その時まで――死ぬな
俺は死なない。生きる。生きたいから、生きる。死にたくないから、生きる。
そう言ったら、あの女はどんな顔をするだろうか。
ふとそう思ったが、首を振って忘れる事にする。
どうせ、殺し合うのだ。考えても、意味の無い事だろう。答えは、四十二日後に分かる事だ。
「面倒臭いのは嫌いだ」
『どうしてレンジはそう……もう少し真面目にしてくれると、嬉しいのだが』
「ふ……俺が真面目にする事ほど、似合わない事は無いだろう?」
『自分で言うな』
そうやって、いつものように復活したエルメンヒルデへ軽口を言う。
「俺が馬鹿を言って、お前が怒る。それくらいが、丁度良いんだよ」
『怒る事になるこちらの身を、考えてくれ』
「身って――メダルだろうに」
『それでもだ』
そういうものかねえ、と。軽く言うと、また溜息。
「そう怒るなよ、相棒」
『私はお前の武器だよ、レンジ』
そんないつもの遣り取りをしながら、視線を前へ向ける。
アーベンエルム大陸。灰色の雲に覆われた魔の大陸は、先ほどよりも大きく見える。