第一話 竜の記憶
慌てて大岩の影に身体を隠すと、一瞬の間を置いて視界一面を真紅の炎が覆う。岩陰に隠れきれていなかった足の指先が一瞬だけ炎に晒され、火蜥蜴の革で作られているはずのブーツ越しに炎の熱を感じて慌てて足を引っ込めた。。
これが普通のブーツであったならどうなっていた事か。そう考えると、周囲一面を炎で囲まれているというのに、冷たいモノを背筋に感じる。
『大丈夫ですか、レンジ?』
「ああ、問題無い」
『とてもそうは見えませんが』
息を乱し、頭の中に響く彼女の声へ強気の返事を返す。
返ってきた呆れたような声に口元を緩めると、すぐ隣に影が二つ。白銀色の全身鎧に身を包んだ大男と、そんな彼の脇に抱えられた小柄な少女。九季と結衣ちゃんだ。その二人は、僅かな空間の揺らぎ――九季の異能である『あらゆる攻撃を防ぐ盾』。その、一つの形である結界だ。
その結界に囲まれる二人は炎に包まれる事無く、俺と同じように大岩の影へ身を潜めた。炎の攻撃は防げても、その余波である熱までは防げていないようで、九季と結衣ちゃんが荒い息を吐いている。
九季はともかく、結衣ちゃんが戦場に居るという状況は、やはり心臓に悪い。這うように抱えてくれていた九季から離れると、俺の隣へ来て九季以上に荒い息を吐く。汗で張り付いた長い前髪を指で整えてあげると、大丈夫と言うように首を縦に振る。言葉にしないのは、それだけ疲れているという事か。
その結衣ちゃんの肩に掴まるようにして、アナスタシアの無事も確認する。
「二人とも無事だったか」
「私は!?」
俺の言葉に、すぐさまアナスタシアが食って掛かる。それだけ元気なら大丈夫だと言うと、歯を剥いて威嚇してきた。本当にコイツは女王という立場なのだろうかと、不思議に思う。
田舎の村娘でも、もう少しお淑やかではないだろうか。そんな俺達の会話を聞いて、九季と結衣ちゃんが口元を緩める。
まあ、これだけ追い詰められているのだ。軽口でも言って場を和ませないと、緊張で押し潰されそうになってしまう。炎の熱に肌を焼かれ、汗を噴き出しながら、そうぼんやりと考える。
そうしてしばらく――数秒の時間が過ぎると、その火炎も収まった。
視界に映る灰色の空と、岩が剥き出しになっている地面。火炎の被害を逃れた枯れた草木が遠くに見える。そして、俺と同じように岩に身を隠していた仲間達の姿。
その姿を見て、息を一つ吐く。
「出鱈目だな」
「そうですね」
呆れるように言うと、九季が同意してくれる。そうして、揃って視線を空へ向けた。
厚い雲に覆われた暗い空。その空を裂くように舞う、真紅の巨体。
ドラゴン。
しかも、異常に気が立っているというオマケ付きだ。三つの島が連なるような形状で作られているアーベンエルム大陸。その一つを支配する、竜の王。
魔神が座する城へ行く為にはあのドラゴンをどうにかしなければいけないのだが、どうにも勝てるイメージが湧かない。
無視をする事が出来ればいいのだが、どうやら他の大陸へ渡る為の橋はあのドラゴンの縄張りであるらしく、通ろうとすると襲われるのだ。しかも、ここいら一帯が禿山とも言うべき木々が枯れて地面がむき出しとなった場所。身を隠す場所すら、殆ど無い。
なので、こうやって意を決して決戦を挑んだはいいが、空を飛ばれては手の付けようがない。吐息は地面を焼き払い、羽ばたきだけで俺達人間は吹き飛ばされる。その攻撃を掻い潜っても空へ飛んで逃げられ、尾の一撃で薙ぎ払われる。
この世界における最強の一種。たしかに、ゲームや物語でドラゴンが強敵として描かれる理由がよく分かる。
そのドラゴンが、空中で暴れている。ナイトの姿が見えないので、どうやらあの背へ取り付く事に成功したようだ。あの炎の海を走り抜ける事が出来るのは、不死の騎士であるナイトだけであろう。……無事であればいいが。
『諦めますか?』
「バカ野郎」
そんな事を言ってくるエルを、ズボンの上から軽く叩く。
「宗一達に伝えろ。俺と隆……それと、真咲ちゃんの三人で攻める。宗一達は暴れてドラゴンの気を引けってな」
『三人でですか?』
「隠れて近付くなら、数は少ない方がいい」
手の中に、翡翠色の刀身を持つ豪奢な飾りが施された神剣が現れる。
その剣を握り締めると、左袖が引かれた。結衣ちゃんだ。
「お兄、ちゃん……だいじょうぶ?」
心配そうに見上げられると、どんな状況でも頑張ろうと思える。こういうのが父性というのだろうか。
子供が居る年齢でもないのだが、結衣ちゃんに心配されるとそんな気持ちを抱いてしまう。
結衣ちゃんを挟んで向こう側に居る九季が、こほん、と控えめな咳払いをした。
次いで、結衣ちゃんの肩に座っていたアナスタシアが、俺の肩に座る。
「大丈夫よ、ユイ。私も一緒だから」
「おい」
そんな事を言い出した自称女王様を横目で睨む。睨まれた方は、意に介す事無く胸を張っていた。身体が小さいので、優美や優雅という言葉ではなく、可愛らしいという言葉が似合うというのは、今は黙っておこう。
戦いが終わったら、絶対にからかってやるが。
「ユイが聞いた声、ちゃんと私達にも聞こえているから。大丈夫よ」
もう一度、結衣ちゃんを安心させるようにアナスタシアが大丈夫と言う。『魔物遣い』である結衣ちゃんが聞いた声。ドラゴンの声。苦しむ声。
その声を癒すために――そして、その力を貸してもらうために。
後半は俺の勝手な言い分だが、しかし魔神ネイフェルと戦う為にドラゴンの力を借りる事は必要だ。
この世界における最強の一角。その力を借りる事が出来れば、どれだけ心強いか。――その事に、結衣ちゃんの『異能』を利用している俺を知ったら、結衣ちゃんやアナスタシアはどんな顔をするだろうか。
一瞬だけそう考えたが、すぐに忘れる。勝つためだ。生きる為だ。皆で帰るためだ。そう、顔には出さないようにして、決心する。
決めたのだ。
もう二度と、負けないと。
「ナイトみたいに、あの背中に飛び乗るんでしょう?」
「おう。その後、あの背中に一撃入れて、地面に叩き落としてやる」
「息巻くのはいいけど、落ちたらどうするのよ、バカ。アンタ達三人は魔術が使えないじゃない」
その言葉に、何も言えなくなってしまう。そういえば、そうだった。
「無茶しないで、ね?」
そして、結衣ちゃんから心配される始末である。
やはり、勢いだけで物事を考えると碌な事が無い。失敗するつもりは無いが、そのまま突っ込んでいたら最悪の事態もあり得たかもしれない。
こういう時、ツッコミ役になる宇多野さんがいつも待ったを掛けてくれるのだが、どうやら今回はアナスタシアが止めてくれた。
……恥ずかしくて、視線を逸らす。結衣ちゃんのだいじょうぶ、が何を言っているのかようやく気付いた形だ。
「相変わらず、無茶をするわね」
「ばあか。無茶をしているつもりは無いよ」
「あと、落ちる時も結構怖いからね。覚悟しておきなさいよ」
「………」
その言葉に返事を返す事が出来ないまま、もう一度ズボンの上からエルを軽く叩く。
「やるぞ、エル」
『大丈夫ですか?』
「……頼む」
『はい。頼まれました』
珍しく、僅かに明るい――まるで微笑みすら浮かべているかのような声。高い所は苦手なのだ。以前、山のような身体を持つ『魔神の眷属』の背中から落ちてから、どうにも落ちるというのに苦手意識を抱いてしまっている。その事を知っているエルは、殊更楽しそうな声を頭の中に響かせる。
「お兄ちゃん?」
「なんでもない」
結衣ちゃんが、不安そうに見上げてくる。その表情に心配ないと首を横へ振って答えると、エルが緊張感の無い、鈴の音を連想させる涼やかな声で笑った。
その声で、宗一達へ暴れるようにエルが指示を出す。同時に、俺達とは違う大岩に身を隠していた宗一達が飛び出した。
背に乗ったナイトに気を向けていたドラゴンが、地を走る小さな虫に気付いたのか、空中で向きを変えた。大きく翼を広げて空を旋回すると、その勢いのまま向かってくる。
「九季、子供達を守ってくれ」
「――ふふ。はい、任されました」
先ほどエルが言った言葉を真似するように言うと、九季も岩陰から飛び出して宗一達の元へ向かう。
直後、空中に黄金色の魔力で編まれた、特大の魔術陣が創り出される。小さな山くらいなら、一撃で吹き飛ばせる阿弥の魔術、閃光が魔術陣を通る事で増幅されて極大の柱となる。撃ち出される――だが、その魔術を空中で身をひるがえして躱したドラゴンが大地へその鉤爪を向け、遠くからでも見えるほどの空間の歪みにぶつかって、止まる。九季の『盾』だ。
「結衣ちゃん、ここに隠れてるんだぞ」
『盾』へぶつかって動きを止めたドラゴン、その足先へ宗一が斬りかかる。蒼の聖剣による一撃――だが、その攻撃が届く前に、ドラゴンは宙へ飛び上がり、その尾を地面へ叩き付けて追撃を防ぐ。
尾の直撃は避けたが礫が宗一を襲うが、それも小柄な身体を包み込んだ揺らぎのような結界によって阻まれた。
お互いに攻め手が無い。その状況に焦れたのか、咆哮が、鼓膜を叩いた。まるで、その叫びだけであらゆるものを砕いてしまえそうな、質量すら感じられる圧力に身が竦みそうになる。
そんな自分自身を奮い立たせるために、隣に座る結衣ちゃんの顔を見る。
「行ってくる」
「……う、ん」
結衣ちゃんが控えめに、小さく頷いた。
不安そうな瞳に見上げられ、しかし、その瞳に意図して強気な笑みを返す。
「大丈夫。皆で一緒に、生きて戻るから」
つい先日、戦いによって左腕を失くした雄一郎。そして、その雄一郎を守る為に命を落としたセレスティアさん。
その事があったから、こんな危険な戦場へ一緒に来たのだろう。自分が知らない所で、つい数時間前まで普通に話していた人が死ぬ。――まだ子供というよりも幼い結衣ちゃんだって、分かっているのだ。俺達が命の遣り取りをしているのだと。いつどこで死ぬか分からないと。
――それが分かっているだけに、弱気は見せられない。
「雄一郎君を、一人ぼっちには出来ないしね」
今アイツは、傷を癒すために戦場を離れている。弥生ちゃんと工藤、そして藤堂の三人が診てくれている。
そんな四人を置いて、死ねない。残してなんかいけない。
「ユイ。私もレンジも、貴女を置いてなんか行かないから」
「おう」
「もちろん、メダル女もね」
『はい。ユイ、安心してください』
強い、という事がどういうことか。今もまだ分からない。
一番年上だから。男だから。強くあろうと思った。強くなりたいと思った。
強くなって、皆を守れるようにとまでは言わない。一緒に戦えるように、背中を預けてもらえるように、少しでも勇気づける事が出来るように。
そう思って、今日まで生きてきた。
けど結局、沢山の人を守れなくて、犠牲になって、雄一郎君だって大怪我をして……ここまで一緒に旅をして来た、心から頼りにしていた騎士が逝ってしまって。
――強い、とは何だろう。
分からない。
だから、決めた。
『私達は、もう誰にも負けません』
負けないと。勝つと。
魔神にも、魔王にも、有象無象の魔族にも、魔物達にも。
負けないと、決めた。
岩陰から飛び出す。予想したよりもずっと遠い場所に、ドラゴンの姿があった。遠いというよりも、高い場所、というべきか。
高い――空の上。跳んでは届かず、飛べば気付かれる。アナスタシアに援護してもらって飛ぶ事も出来るが、空中戦でドラゴンと戦えるとは思わない。その背に、気付かれないように登る為に練った案を考えていると、隆と真咲ちゃんが傍に来る。
九季には及ばないまでも、俺よりも高い身長の隆はその身長程もある特大剣を肩に背負いながら、重さなど感じさせない軽快な足で走り寄ってくる。
筋肉質な身体なので横幅があり、程よく焼けた肌と相まってなんとも健康的。力強い、という言葉が最も似合う男だ。紅く染めた髪、意図して残している傷。そんな風貌は歴戦の勇士と呼ばれるに相応しく、おそらく戦う事に関しては俺達の中で最も長けた戦士。数多の武器を使いこなす『武器の王』は、豪快に笑いながら阿弥の魔術とドラゴンの羽ばたきが起こす暴風の中を笑顔で駆け抜ける。
その後ろからくるのは、長い黒髪を一つに束ねた剣士。
凛とした容姿と立ち振る舞い。髪が乱れる暴風を気にする事無く鋭い視線を俺へ向け、左手に持った刀をいつでも抜けるように右手は柄へ添えられている。
服は洋装、厚手の上着とズボンに、魔物の革で編まれた胸当てと、同じく革で編まれた手甲と肘当て。動き易さを重視した装備は、彼女を男装をした麗人のようにも感じさせる。
「さあ、やるぞ」
そんな二人に声を掛けると、無言で頷いてくれる。同時に、剣を鞭へと変え、軽く撓らせた。
視線を上へ向けると、真紅のドラゴンが映る。その背に飛び乗ったナイトを見ると、こちらの意図を察したように一度頷いた……ようにも見えた。
鞭をナイトに掴んでもらい、そのまま背へ飛び乗る。
……なんとも無謀だが、他にいい案が浮かばない。何せ、生半可な魔術は鱗で弾かれる。溜めた高威力の魔術は避けられる。物理的な石礫などは吐息で破壊される。状態異常には耐え、ああも空を飛ばれては罠を張るのも難しい。
「上手くいくといいけど」
真咲ちゃんが、息巻く俺へそう言ってくる。だが、止めようとはしないし、これからの事を楽しみにしているようでもある。
「俺と真咲はともかく、蓮司は大丈夫なのか?」
そして、からかうような隆の声。
その声へ、口元を歪めるような笑みを浮かべて、視線を返す。
「翼が生えていて火を吐く、ただの蜥蜴だろうが。これから神様を斬るっていうのに、その程度にビビってられるか」
かかと笑って、鞭を振る。
「やるぞ、エル」
『はい、レンジ――あのトカゲを、叩き落としてやりましょう』
やっぱり、お前のそういう言葉遣いは似合わないなあ、と。
暴風と爆音、その衝撃に揺れる地面に立ちながらそう思った。
「エル」
そんなエルに向けて、隆が口を開いた。
「こういう時は、叩き落とすじゃなくて、調教するって言うんだぜ」
『そうですか』
「変な事を教えないでくれるかな、本当」
真咲ちゃんが汚物を見るような目で、隆を見ていた。