第十六話 神の器3
森を抜けて拓けた場所へ出ると、息を一つ吐く。濃い緑の香りを胸一杯に吸い、僅かに滲んだ汗を服の袖で拭う。
すると、隣に並ぶようにして歩いていたフランシェスカ嬢が、こちらを見上げて来た。
「大丈夫ですか?」
「ん?」
さて、何か心配されるような事を下だろうかと、首を傾げる。
「いえ。少しお疲れのようですので」
「……そうか?」
自分では自覚が無いのだが――二日酔いで、体力が落ちているのだろうか。
そういえば、それほど動いていないというのに、いつもより息が乱れているような気がする。歩いていた足を一旦止めると、深呼吸。それで、僅かに呼吸は落ち着いた。
「ああ、二日酔いでね」
『情けない事を……嘆かわしい』
エルメンヒルデが心底から情けない声を上げ、フランシェスカ嬢は口元を手で隠すようにして上品に笑う。その声に苦笑すると、歩くのを再開。二日酔いと口にしたが、もう完全に酔いは抜けている。頭はしっかりしているし、頭痛もしない。息が乱れているのは、俺に体力が無いからだ。
幸太郎の方を見ると、あちらはあまり足元が覚束ないようで、時折フラついている。そんな幸太郎を、隣を歩いているソルネアとムルルがじぃ、と見ているのが面白い。
アイツ、格好つけるのはいいけど妙な所は抜けているよなあ、と。容姿は良いし度胸もある。だけど平時の抜けっぷりがどうにも三枚目感を出してしまっているのが勿体無い。まあ、遊び相手にはそれくらいが丁度良いとも思うのだが。容姿が優れ、普段も真面目。何事にも真剣に取り組む宗一や九季は、幸太郎に似ているようで全然違う。だから、あんなに異性へモテるのだろう。
幸太郎はハーレムを、とか昔は言っていたが、今はどうなのだろうか。俺としては、ハーレムなど疲れるだけだと思うのだが。
視線を感じてそちらを向くと、少し先を進んでいるフェイロナと阿弥が足を止めていた俺を見ていた。その視線に、何でもないと手を振って少し早足になりながら歩くのを再開する。
チチ、と。遠くで小さな鳴き声。小鳥だろう。
顔を上げると、高い木の枝から数羽の小鳥が飛び立っていく姿が見えた。
『しかし、本当にソルネアの言う“なにか”は居るのか?』
「さあな。感じるモノがあるから、そんな事を言ったんだろうよ」
俺にも、エルメンヒルデにも。勘の鋭いフェイロナやムルルにも、魔術師である阿弥やフランシェスカ嬢にも感じられない“何か”を感じる事が出来るソルネア。
それが何なのか――そう考えていると、近くの叢が大きく揺れた。その不自然な揺れは、凄い勢いで離れていく。
叢の揺れ具合から、中型の魔物程度の大きさだろうかと予測する。襲ってこず、逃げるというのは珍しい。
「何だったと思う?」
「巨大猿だったと思いますが、こちらに向かってこなかったのは妙ですね」
「だな……フェイロナ、阿弥」
フランシェスカ嬢も不審に思ったようだ。一旦足を止めて、先を歩いていた二人を呼ぶ。
何かあったのだと気付いたコウタロウ達も、足を止めてこちらの言葉を待っていた。
二人が来る前に、魔物が逃げて言った方向を見る。頭の中へこの辺り一帯の地理を思い浮かべてこの先に何があっただろうかと考えるが、特段目立つものは無かったはずだ。
「フランシェスカ嬢はどう思う?」
「えっと……私の意見を?」
「聞かせてくれ」
「――もしかしたら、偵察かと。私達が何処へ向かっているのか調べていた、とか?」
「そうだな」
俺もそう思っていた、と。小さく頷くと、恥ずかしそうに俯いた。しかし、その横顔は隠しきれない笑みを浮かべてしまっている。
中々に可愛らしい反応である。
「まあ、俺もそう思っていただけで、正解かは分からないけど」
『そこでそうやって、水を差す』
「事実だからな」
俺がかかと笑うのと、フェイロナと阿弥が傍に来るのは殆ど同時。いきなり笑い出した俺を、二人は不思議そうに見てくる。その表情に、気を引き締める。
「どうした、レンジ?」
「なにかありましたか?」
すぐに傍へ来た二人を見ると、先ほど魔物が逃げて言った事を伝える。
人を見付けて、襲わずに逃げるというのは、魔物の習性を知っている側からするととても不自然だ。逃げた方向へ何かあるのか、それともこれから向かっている場所に何かあると考えるべきか。
「斥候でしょうか?」
「だろうな」
吸血鬼に操られた巨大猿が見張っていて、俺達を見掛けたから逃げ出したと考えるのが自然か。ここへ来るまでに殺した吸血鬼は五匹。それほど多くないなら、そろそろ打ち止めだろう。
もしかしたら、巨大猿を餌に俺達を遠ざけるための作戦かもしれない。――そう考えても、他に目印となるものも無い。
吸血鬼はそれほど強力な魔物ではないが、こうやって魔物を操る異能が厄介だ。
強いではなく、厄介な魔物。ある種、戦い辛い相手だともいえる。
「俺とフェイロナが先を行く。フランシェスカ嬢は阿弥と一緒だ」
「…………」
俺がそう言うと、僅かにだが……言葉に出さない程度に、阿弥が不満そうな顔をした。それは、吸血鬼を探すようになってから、阿弥には一度も戦わせていないからだろう。
いや、それはフランシェスカ嬢やムルルも同じだ。吸血鬼退治は、遠くからフェイロナか俺がエルメンヒルデを弓へ変えて射殺していた。
それは、吸血鬼は噛んだ相手を操られるから――という理由とは別に、少しばかり俺に嫌な思い出があるからだ。まあ、トラウマと言うほど、強い感情でもないのだが。
ただ、やはり阿弥達は連れて来たくなかった、とは思う。出来れば、フェイロナも。そんな俺の感情に気付いているから、阿弥は不満そうな顔をするのだろう。その辺りを口にしないで、俺と幸太郎の二人で行くと勝手に決めたから。……本当に、聡いというか、イイ女というか。そういうのは、宇多野さんだけでも十分だというのに。
察してくれるのは嬉しいが、男としては悲しくもあり、恥ずかしくもある。俺が泣かないように頑張ったり、強気に振る舞ったり……どうにも、その辺りに気付かれてしまっているからかバツが悪い。
……そんな俺に気付かれているから、俺が駄目だと言っても付いて来たんだろう。二人で行くと言った時の顔は少し怖かったし、フェイロナやフランシェスカ嬢もなし崩し……というと失礼だが、付いて来てくれると言ってくれた。
本心が何であれ、それだけ心配されていると思うと、やはり嬉しいものだ。ムルルは……グラアニアから子供扱いされた反発というのが理由の半分くらいはありそうだが。
「油断するなよ」
「はい」
ここで帰れと言っても聞いてくれないだろうし、ここまで来ては置いていく方が危険だと俺も分かっている。……結局、最初から強く断れなかった俺が悪いし、やはり仲間が居るというのは心強い。
『そうやって、子供扱いをする』
エルメンヒルデの声に、肩を竦める。阿弥が反応しないのは、先ほどの声は俺にしか聞こえていないからだろう。なので、声に出して何かを言う事はしない。
……子供扱い。きっと、その通りだ。グラアニアと同じで、俺もまだまだ子供に甘いのかもしれない。
「これじゃあ、俺もグラアニアを笑えないな」
『安心しろ。レンジとアレは同類だ』
アレ呼ばわりか。聞いたら、グラアニアが泣きそうだなと思い、笑ってしまう。そんな俺を、不思議そうにフランシェスカ嬢が見ていた。
「よし、行こう」
そう言って、巨大猿が向かった場所へと俺達も進路を変更する。獣道とも言えない叢だが、フェイロナに先導してもらえばある程度通れる道を選んでくれるので助かる。
それに、巨大猿の巨体は草木が密集した場所を進むのに適していない。通った場所の草や木の枝が折れているので、追うのは容易い。舗装された道を進むのとあまり変わらない速度で進むと、あっという間に叢の出口へ到達する事が出来た。
その直前、戦闘を歩いていたフェイロナが右手を上げる。止まれの合図だ。
全員が足を止め、緊張が走る。目を凝らすと、叢を抜けた先には何も見当たらない。だが、フェイロナには何か感じるモノがあるのだろう。
「どうした?」
「レンジ、吸血鬼というのは暗がりを好むのだったな?」
「そうだな」
そう聞かれ、フェイロナの視線を追う。その先には、洞窟のような場所の入り口があった。
……あんな場所があっただろうか?
「幸太郎、ムルル。ここに洞窟なんかあったか?」
この大陸の出身者と、滞在している仲間に聞くと、首を横へ振られてしまう。ただ、この場合はよく覚えていないという理由だった。
まあ、洞窟の一つ一つを覚えているわけも無いか。
そう考えて周囲を見やるが、先ほど逃げた巨大猿は見当たらない。洞窟の中へ入ったと考えるべきだろうか。そう考えながらしばらく周囲を観察して、周りに他の魔物が居ない事を確認してから叢から出る。
空を見上げると、まだ太陽の位置は高い。ここは一旦洞窟を探索して、何も無かったらここで夜営をした方がいいか。
もう一度、今度は叢から出て周囲を確認する。拓けた場所だ。ここなら、魔物が近寄ってきても事前に気付けて不意打ちをされる危険も少ない。絶対とは言えないが、十分安全な場所だろう。
「俺と幸太郎で洞窟の中を見てくるから、皆、少し早いがソルネアと一緒に夜営の準備をしていてくれ」
何も無ければすぐに戻ってくるし、何かあればそれでも仲間と合流する為に戻ってくるのだが。
洞窟の入り口、周辺の地面へそれとなく視線を向けるが、足跡は大小さまざまなモノが沢山あってどれが先ほど逃げた巨大猿の物か分からない。確かにここ一帯は巨大猿達ばかりが住む聖域だが、しかし巨大猿意外の魔物も住んでいる。ただ、その場合はエルフ達が魔物を駆逐したり、巨大猿に食われているだけである。
「はい」
しかし、返事をしたのはフランシェスカ嬢達だけだ。阿弥は、やはり何か言いたそうに俺を見返してくる。
大方、付いてくると言いたいのだろうが……。
「頼んだぞ」
「……幸太郎さんの代わりに、私が行きます」
だが、洞窟へ向かおうとした俺の背へ、そう言葉を掛けてくる。振り返ると、荷袋からランタンを取り出して洞窟へ潜る為の準備をしている。
その姿に、溜息。幸太郎が、オロオロと俺と阿弥を交互に見ていた。
お前はもう少し落ち着きを持てば、もっと格好良いのにと思う。
「阿弥」
「私だって、もう子供ではありません」
その強い視線に何かを言い返そうとして、黙ってしまう。
そんな事は分かっている。阿弥は、もう自分で考えて、自分で行動できる。ただ――俺が子供なだけだ。
子供達を子供扱いして、自分を大人だと位置付けなければ頑張れない。そんな、弱い大人なのだ。
けど。
「そうだな」
いつまでも、子供扱いもしてやれないのか。いや、してはいけないのか。
この場合は、阿弥が大人になったと感じるべきなのか。それとも、俺が成長しなければいけないと思うべきなのか。
逡巡は一瞬。幸太郎へ視線を向けると、話が落ち着いた事に安心したのか、いつもの強気な表情で肩を竦めていた。
「何かあったら、お前が盾になれよ?」
「その時は、私が皆を守るさ」
は、格好良い事を言うヤツだ。先ほどはオロオロしていたくせに、という言葉を飲み込んで苦笑を浮かべると阿弥が隣へ来た。
「蓮司殿こそ、何かあったら阿弥を守れよ?」
『ふふ』
その言葉に、俺ではなくエルメンヒルデが笑って返事をした。
守る。
それは、俺には重い言葉だ。今までずっと守られてきた俺が言うには、難しい言葉だ。
けど――昨日の話を聞いていた幸太郎が言うと、少しだけ違う意味があるような気がした。
だから。
「ああ、守るさ」
昔は、簡単に守ると言えたのに。そう、思う。
守ると。俺が守るから、と。そう言う事で皆の不安は薄れ、俺は覚悟を決める事が出来た。
……けど、守れない事も多かった。その一つが、これから戦う吸血鬼なのだが――。
「ほら、阿弥。行くぞ」
そう言って、立ち止まったままのアヤを置いて洞窟へ足を踏み入れる。入り口は陽光の明かりでまだ明るいが、少し進めばすぐに暗闇で何も見えなくなってしまうだろう。
ランタンは阿弥が持っているので、阿弥が居なければ進めないのだ。
「はぃっ!」
なんだか、引き攣ったような、変な返事が聞こえた。
それが可笑しくて、肩を震わせる。
『笑ってやるな』
「お前だって笑っているじゃないか」
後ろで、幸太郎の悲鳴が聞こえた。
きっと、俺が変な事を言う切っ掛けを作った罰で、落とし穴に落とされたのだろう。
書籍発売前の連続更新四日目。
そういえば、今日から早い所では書籍が発売されている様です。
もし書店で見掛けられましたら、「あ、本当に発売されている」と笑っていただけたらと思います。