第十五話 神の器2
振り下ろされた巨腕が地面へ叩き付けられると、まるで地震が起きたかのような錯覚に襲われた。当たってはいないのにその衝撃でバランスを崩し、神剣を振るタイミングが一拍遅れてしまう。
体勢も崩れてしまっているので刃は巨大猿の剛毛に阻まれ、肉まで届かない。
僅かな痛みを感じたのか。腕を剣で叩かれた巨大猿は腕を引くと、俺を威嚇するように大口を開けて咆哮を上げた。
しかし。威嚇のために腰を低くして踏ん張るような体勢になった瞬間、その一瞬を狙ったかのように眉間へ矢が叩き込まれた。巨大猿の強靭な皮膚などものともしないように深々と突き刺さった矢は脳まで到達し、巨大猿は白目を剥いて前のめりに倒れ込む。
残り二体――と思ったが、無事だった巨大猿達は仲間がやられると這う這うの体で逃げ出してしまった。
それを追おうとムルルが腰を低くしたが、それを手で制す。何故、という疑問が浮かんだ瞳で見上げてくる。
「必要以上に殺さなくていいさ」
「……分かった」
そうして、先ほど矢を射った仲間へ向き直る。フェイロナは、先ほど射ったのが自分なのか信じられないとばかりに、自分の弓を見ていた。
その手に握られているのは、初めて出会った時から持っていた木の弓ではない。
いや、確かに同じ木の弓ではあるのだが、細かな装飾がなされ、魔力を持たない俺でも特別な力があるように感じられる、豪奢な弓。
エルフの長が使っていた、世界樹の枝から作られ、精霊神の魔力で強化された神弓だ。
見慣れた武器だが、しかしそれをデルウィン以外が使っている姿に苦笑して、フェイロナへと歩み寄る。
「どうだ、新しい弓の使い心地は」
「慣れない、というのが正確な表現かもしれないな」
本人も戸惑っているようだ。
神を傷付ける事が出来る武器。それをいきなり渡されて、しばらく使えと言われたら。
ツェネリィアからの贈り物。神に認められた証。長い時間を生きるエルフであっても、そのような経験など初めてなはずだ。
そんな、驚いて戸惑うという貴重な反応をするフェイロナが面白くて笑うと、いつの間にか隣へ来ていた阿弥から肘で小突かれてしまった。
「けど、珍しいですね。デルウィンさんが弓を貸してくれるなんて」
「だなあ」
腰に差していた剣も、今まで使っていたものではなく、ツェネリィアの加護を受けた精霊銀の長剣。
デルウィンに限らず、獣人や亜人達にとって精霊神から授けられた武具というのは命よりも大切なものだ。それを貸してくれたという事は、それだけ俺達の事を心配してくれているという事だろう。
グラアニアも、自身の防具をムルルへ貸し与えようとしていたが、いかんせんサイズが違い過ぎた。それと、父親の臭いは嫌だとムルルに断られていた。
あの時の顔は見ものだったが、いつ自分も同じような事を言われるか分からないので、素直に笑う事が出来なかったのも事実だ。明日は我が身、である。もし阿弥や結衣ちゃんからグラアニアと同じような事を言われたら、本気で心が折れるだろう。
アナスタシアは大笑いをしていたが。アイツはもう少し、中年男に配慮というものをしてほしい。男というのは、娘の事となると過敏に反応してしまうのだ。
「どうかしましたか?」
馬鹿な事を考えていると、ソルネアを守る為に後ろへ下がっていたフランシェスカ嬢から心配されてしまった。その後ろでは、ソルネアがやはり感情を移さない静かな瞳で俺を見ている。
その視線に悪い事をしたような気持ちにさせられ、何でもないと肩を竦める。
「いいや、これからどうするか考えていただけさ」
そう嘯いて、神剣を一振り。制約の開放が不完全で、銀の刀身でしかない相棒は翡翠の魔力光となって霧散した。
そうして、巨大猿達が住む西域へ辿り着くなり襲い掛かってきたそれへと視線を向ける。
やはりというか、その眼球は赤く充血し、まるで狂犬病か何かのように凶暴性が高くなっているようにも感じた。それは、この一帯が倒れたら、追随していた他の二体が逃げた事も一因だ。異常な一体と、普通の二体。同じ魔物なのに、目に見えて違いがあるからこそ異常性が際立っている。
「ふむ」
そう呟いて現れたのは、幸太郎だ。ソルネアを守るようにと言っていたのに、何処へ行っていたのか。
その手には、エルフレイム大陸では珍しくない、リンゴのような果実が握られていた。二口程齧った跡がある事に気付く。
「それで、何か気付いたか『魔法使い』殿?」
皮肉交じりにそう声を掛けると、幸太郎は咳払いをして果物を後ろ手に隠す。もう気付いているので遅いのだが。
「やはり、数はそう多くないようだ。居ても数匹――十も居ないだろう」
「根拠は?」
「もっと居るなら、巨大猿以外にも噛まれている魔物が居るはずだ」
幸太郎の考察へ同意するように頷き、阿弥を見る。阿弥の方からも、否定の意見は出てこない。もし吸血鬼が大量に居るなら、巨大猿のようなそれなりに強力な魔物ではなく、もっと手軽に見つけられて数の多いゴブリンやオークが噛まれていないのはおかしな話である。勢力を広げるという事は、一にも二にも数である。
いくら知能の低い吸血鬼でも、それくらいは理解しているはずだ。そして、それをしないという事は吸血鬼の数が少ないという理由にもなるだろう。いくら噛んだ相手へ体液を送る事で支配できるとはいえ、吸血鬼の体液――この場合は血液だが――は有限だ。出し過ぎれば、失血死をしてしまうのだから。まあ、そこまで馬鹿な吸血鬼は、あまり多くない。
それも、今ある情報から出した考察でしかないのだが。
ただ、数がそれほどまで多くないというのは答えから大きく外れていないはずだ。
「噛まれたら面倒だから、俺と幸太郎が先頭をいく。阿弥とフェイロナは援護してくれ」
言葉にはしなかったが、フランシェスカ嬢とムルルはソルネアを守ってもらう。
言って、また森の中を歩きだす。鬱蒼と茂った豊かな緑と、季節は冬だというのに汗が出てしまうほどの暖かな気温。
まだ慣れていないフランシェスカ嬢とフェイロナは、しばらく森の中を歩く吐息が上がり、歩みが僅かに遅くなる。それに合わせるよう歩く速度を落とすと、耳元に虫が飛んできた。
それを、叩いて黙らせる。
「幸太郎。虫除けの魔法とかないのか?」
「ふふ。任せなさい」
偉そうに胸を張ると、周囲の雰囲気が僅かに変化した……ような気がする。
これで、虫除けは大丈夫なのだろうか?
『レンジとコウタロウが絡むと、変な事が起きる予感しかないのだが』
エルメンヒルデからも呆れた声が漏れてしまう。まあ、俺も何となくそんな気がしないでもないが。
「おい」
しかし、しばらく歩くとまた虫が寄ってきた。その虫を、再度手で叩く。
「あれ? 虫が嫌がる臭いの出る魔法を使ったんだけどな」
幸太郎も不思議そうに声を上げ、俺と同じように虫を叩いている。
というか、なんだその嫌な魔法は。その言葉を聞いて、服の袖を鼻へ当てて匂いを嗅いでみる。特段変わった匂いはしないが、先ほどの話を聞いた後だと少し変な匂いがしているような気がしないでもない。
「何をしているんですか」
そして、二人して後ろを歩いていた阿弥から呆れられてしまった。
「いや、虫が」
「多くてね」
「……仲が良いですね、二人とも」
そこで、ふと思う。どうして俺と幸太郎には虫が集まるのに、阿弥やフェイロナ……多分、最後尾を歩いているフランシェスカ嬢達にも虫が集まっていないのだろう、と。
「虫というのは、匂いに集まる習性があるんですよ」
「そうなの?」
幸太郎が驚いた声を上げた。そんな事も知らなかったのかと軽く睨むと、愛想笑いを浮かべながら視線が逸らされる。
「体温……熱にも集まりますけど、エルフレイム大陸の気温と人の体温はそれほど差異が無いので、多分匂いの方かと」
「……面倒な」
呟いて、溜息。そして、また耳元に寄ってきた虫を叩く。
そういえば、昔もこうやって虫には苦労したなあ、と。懐かしさではなく呆れを感じるのは、以前と同じような事で悩んでいるからか。
まったく成長していない、とも言う。
『逆効果ではないか』
「人間、失敗から学ぶ事が多いのだよ」
「偉そうに言うな」
隣を歩いている幸太郎の頭を軽く小突くと、また周囲の雰囲気が僅かに変化した……ような気がした。
「取り敢えず、匂いを元に戻してみました」
「後は体臭でしょうか……」
阿弥からすると思った事を口にしただけなのだろうが……幸太郎はともかく俺はそろそろ体臭を気にする年頃だという事を理解してほしい。
村から出発する前のグラアニアを思い出してしまい、小さく溜息。帰ったら、アイツと一緒に一杯やろうと心に誓う。
吸血鬼はその名の通り血を吸う鬼だが、しかし小鬼や一角鬼とは違って、独特の特性がある。その一つが、夜行性であるという事だ。
姿を見て、俺達の世界の知識があるならわかるのだが。吸血鬼は映画やマンガで見る美形の魔族ではなく、どちらかと異形に分類される。蝙蝠だ。
手足と翼を持つ、人型の蝙蝠。それが、吸血鬼の容姿である。
そして、蝙蝠と同じように明るい場所では行動できず、視力も弱い。音で敵味方を判断し、噛んで血を吸う。
なので、こうやって陽光の下を歩いていても吸血鬼を見付ける事は難しいが、どのような場所に居点いているかは予測できる。
暗い場所。洞窟や洞穴、もしくは太陽の光すら届かないほどに深い森。
巨大猿は逆に、日光浴とばかりに陽光の下で過ごす魔物なので、その聖域の近くで吸血鬼が居そうな場所となると、いくつかがすぐに思い浮かぶ。
その場所を近い場所から探しながら歩いていく。
遠回りにならないように、ここ最近はエルフレイム大陸で過ごしている幸太郎と、森に詳しいフェイロナ、土地勘のあるムルル。
そうして、二か所目にして早速吸血鬼を見付ける事が出来た。
ソレは、木へぶら下がるようにして眠っている。吸血鬼は夜行性……動き出すのは太陽が落ちる夕方からだ。
「あれが……?」
フェイロナが、頭上を見上げながら口を開く。吸血鬼を見るのは初めてだから、その反応も正しい物か。フランシェスカ嬢とムルルも同じように、高い木の枝へ逆さになってぶら下がっている生き物を見上げて固まっている。
テレビの映像などでよく見ていた、洞窟の天井で休んでいる蝙蝠。それが、人間大になった。そう考えれば、確かに驚く光景である。初めて見た時は、それはもう……怖いというよりも、気持ち悪かった。なにせ、普通の吸血鬼は数十、数百の数で群れるのだ。それもまた、蝙蝠と同じ習性である。
だがしかし。いま樹上に居るのは二匹だけ。まあ、人間大の蝙蝠が二匹並んで木の枝にぶら下がっているという光景も、中々にホラーではある。
翼を畳んでいる姿は、昔作ったてるてる坊主を逆さにしているような光景にも見えた。
「フェイロナ」
「……いいのか?」
俺が何を言いたいのか理解したフェイロナが聞いてくる。その言葉に頷いて応えると、眠っている吸血鬼へ向けて、デルウィンから預かった神弓へ矢を番え――その弦を引き絞った。
キィ、と。弦を引く音が耳に届く。綺麗な音色にも聞こえるその音に、吸血鬼は反応しない。音に敏感な魔物だが、眠っている日中では警戒心も薄れているのだろう。
狙いを定め――放つ。
矢が空気を裂く音と共に放たれ、瞬く間も無く吸血鬼の頭部へ吸い込まれた。まるで必中の魔術でも掛けられているかのような精度だ。
頭に矢が刺さった吸血鬼は、力無く――そのまま木の枝へとぶら下がったままだ。どうやら、足の爪が木の枝へ食い込んで離れないらしい。だからか、もう一匹の吸血鬼は隣で同族が殺されたというのに、反応を示さない。
「もう一発。今度は下へ落としてくれ」
「難しい事を言う」
「出来るだろう?」
「ふ」
俺が注文を出すと、口元に笑みを浮かべながら再度矢を番える。放たれたのは、二矢。
最初の一矢は折り畳まれた翼ごと胴体へと突き刺さり、その痛みで吸血鬼が起きる。しかし、翼は矢で胴体に縫い付けられているので飛び立てない。驚いて木の枝から足を離して空中で暴れていると、その頭部にもう一本の矢が突き刺さった。
そのまま絶命して、地面へと落ちる。
「お見事」
「――良い弓だ。外す気がしない」
背中の鞘へ弓を収めながら、フェイロナが言う。なんとも様になる格好である。
一拍の間を置いて、フランシェスカ嬢とムルルが小さくだが喝采の声を上げた。
さて。
「ソルネア、お前が言っていたのはコイツか?」
落ちた吸血鬼の傍へ行き、今回の件を気にしていたソルネアへ声を掛ける。
ここまで歩いたというのに息切れしていないのは、流石は『魔神の器』というべきか。外見は美女だが、その体力は人より……多分、フランシェスカ嬢よりもあるような気がする。
「いいえ」
『ただのヴァンパイアではない、という事か』
「そうらしいな」
頭上を見上げるが、木にぶら下がったまま死んで居るアレも違うのだろう。アレも、同じ“普通の”吸血鬼だ。
「それじゃあ、他にもいるみたいだから探しに行くか」
そう声を掛けると、また森の中を歩きだした。
書籍発売前の連続更新、三日目
フェイロナさんの微妙なイメージチェンジ。
武器強化イベント。