第十三話 一歩にも満たない、半歩であっても
宿として部屋を借りていた家から外へ出ると、眩しいほどに輝く陽光に目を細める。
二日酔いだからだろう。いつもよりも光の刺激を強く感じ、手の平で目を隠すと頭の中にエルメンヒルデの声が響いた。
『どうした?』
「二日酔いで、太陽の光が目に痛い」
『我慢しろ』
端的に切り捨てられ、溜息を吐く。
そうして空を見上げていると、確かにアナスタシアやソルネアが言ったように青い空に黒い点が一つ見える。今は遠くて黒い点としか見えないが、あれがファフニィルなのだろう。
そう思いながら、あの巨体が降りられるほどの広さを探すように周囲を見渡す。
最適ではなく、適当な間隔で建てられた木造の家。長く使われているのか、中には蔓が這った家もある。中々に趣きがあると言えるが、少々耐久性に問題があるというか。
村の中央に広場はあるが、そのような所へファフニィルが降りたら、翼の羽ばたきだけで家に被害が出てしまいそうである。
ファフニィルは、あの巨体に似合わず繊細な気配りが出来る竜だと知っている。その辺りを効力して、降りるなら村のハズレだろうと予想する。
そうして、この辺り一帯の地理を頭へ思い浮かべると、昨日の夜にデルウィン達と酒を飲み交わした場所を思い出し、あそこなら十分な広さがあったと思い付く。
まあ、外したらファフニィルが降りた場所まで歩けばいいだけだ。そう思い、軽い気持ちであの広場の方へ足を向ける。
「ああ、まって」
そうして歩き出すと、俺が出てきた家から、這う這うの体といった感じの幸太郎も出てきた。
こちらも二日酔い……しかも俺より酷いはずなのだが、どうやら一緒に来るようだ。
『大丈夫か?』
「なんとか」
誰の目から見ても大丈夫には見えず、エルメンヒルデからも心配される有様である。それほどに、幸太郎の顔色は悪い。
まあ、体調不良や毒という訳ではなく、ただの二日酔いなのだが。……二日酔いは、体調不良に分類されるのだろうか。
そんな事を考えていると、続けて同じ建物から結衣ちゃんとソルネア――ナイトとアナスタシアも出てくる。その結衣ちゃんの手には、木のコップが握られている。
「コウ、水と薬を持ってきたわよ」
「幸太郎さん……お水、です」
そうして、結衣ちゃんから手渡しで水を受け取ると一口飲み、続けて受け取った木の実のような物を干した乾物を口へ含む。小指の先ほどの大きさがある、梅干しのような見た目をした乾物だ。
名前は何だったか――咄嗟に思い出せないが、頭痛や吐き気を抑えてくれる効果の薬である。
すぐには効かないはずなのだが、「薬を飲んだ」という思い込みからか、幾分か顔色が良くなった……ような気がする。
「大分楽になったよ……ありがとう、結衣」
「は、い……」
幸太郎が笑顔を向けると、結衣ちゃんが恥ずかしそうに顔を俯かせた。頬が赤い――その事に気付き、取り敢えず幸太郎の頭を軽く叩いておく。
「ぉうふ」
奇妙な呻き声が聞こえたが、自業自得である。結衣ちゃんに色目を使うからだ。
本人にそのつもりは無いのだろうが、女神へ整った容姿を願った幸太郎は、はた目から見るとかなりの美男子だ。この世界で最も容姿が整っているとされるエルフよりも、美しいかもしれない。
そんな幸太郎から至近距離で見つめられ、笑顔を向けられれば誰だって恥ずかしくて赤面してしまう。
――まあ、中身はともかく、外側は中二病というか、強がりというか。井上幸太郎という人物を知れば知るほど、残念な男だと分かってくるのだが。偶に、そういうのが心の琴線に触れるという女性が現れたりするのだ。スィなどが、その最たる例である。昨夜も、幸太郎で楽しんでいたようだし。
そして、男に免疫というか、人付き合いがあまり得意ではない結衣ちゃんには幸太郎の笑顔は刺激が強過ぎたようだ。恥ずかしそうに俯いて、耳に掛かる髪を指で弄っている。
その姿は可愛らしいのだが、背後に居るナイトの気配が恐ろしい。
俺は何もしていないので、俺にまで殺気を向けないでくれると本当に助かる。照りつける太陽が温かいエルフレイム大陸だというのに、殺気の冷たさで鳥肌が立ちそうだ。
「ほら、行くぞ」
「……ぃたい」
その殺気に気付かないフリをして、幸太郎と一緒に歩き出す。
どうやら、結衣ちゃん達は来ないらしい。まあ、その方がいいか。もし面倒事なら、あの子を巻き込みたくない。
そう思っていると、ソルネアが付いて来た。別に何も言わないが、彼女が言うには“なにか”が来るらしいのだが……危険ではないのだろうか。
「一緒に来ても大丈夫なのか?」
「レンジが居ますので」
どうしてそこで、俺の名前が出るのだろうか。
取り敢えず、隣で笑っている幸太郎の頭をもう一回、軽く叩いておく。
「やめてよっ。……二日酔いなんだから」
「安心しろ。俺もだ」
『何故そこで威張れるのだ……』
そんな遣り取りをしながら歩いていると、頭上を大きな影が通った。ファフニィルだ。
確認するまでも無く、低空飛行する竜の王が起こした暴風が周囲の木々や俺達の衣服を揺らす。幸太郎が、長い銀髪を邪魔そうに手で押さえた。ソルネアは、長い黒髪もドレスの裾も風に吹かれるままだ。……こちらは、もう少し周囲の目というものを気にしてほしい。
どうやら俺が思っていたように昨晩酒盛りをした場所へ降りるようなので、そのまま進む。
暫くすると、草原の真ん中で羽を休めているファフニィルを見付ける事が出来た。阿弥達も、丁度ファフニィルの背から降りる所だった。
俺達が近付いている事に気付いたからか、スカートを気にしているフランシェスカ嬢が微笑ましいが、じっと見ているのも礼儀に掛けるのでそれとなく視線を逸らす。ついでに、俺とは違ってじっと見ていた幸太郎の頭を小突いておく。
「むっつりが」
「違うからね!?」
何が違うというのか。今度、スィに教えてやろう。
まあ、アイツの場合は幸太郎が他の女をいやらしい目で見た事に怒るではなく、それをネタにからかって遊ぶのだろうが。
……本当、こいつらの関係って何なのだろうか。偶に分からなくなるが、仲が良いなら別にいいかと思っておく。仲が悪いようには見えないのだから、後は当人達の問題だ。
「随分と速かったな」
いくらファフニィルの翼でも、あと数日は掛かると思っていたのだが。その事は口にせず、ファフニィルへと歩み寄る。
結構自信家であるファフニィルに下手な事を言うと、自分の速さを証明する為に俺を巻き込むのだ。
「ふん。我が翼を舐めるな……と言いたいところだが、すべてを集め終わる前に戻ってきた」
「そうなのか?」
だが、だからこそ早く戻ってきたのだと納得も出来る。
視線をその背へ向けると、木の実に酒に、肉に野菜に――結構な量だが、しかし集めたのは七割ほどか。途中まで集めた精霊神の好物を下ろしている阿弥達の姿が見える。
その様子を眺めていると、ファフニィルが戻った事に気付いた亜人や獣人の戦士たちが集まって、下ろすのを手伝い始める。最終的には、十人くらいの数が集まってしまう。
「楽しそうですね」
「そう見える?」
ソルネアの呟きに、幸太郎が辟易とした声音で呟く。まあ、七割とはいえ結構な量だ。下ろすのも面倒そうだなあ、と。
そして、これを世界樹の麓まで運ばなければならないのだ。
エルフレイム大陸へ初めて来た際にツェネリィアへ謁見する為に好物を集めた時は、地獄だったのを思い出す。あの時はファフニィルはまだ仲間になっていなかったので、エルフレイム大陸を歩き回って好物を集めると、それを世界樹の麓まで歩いて運んだのだから……。
そんな事があったからこそ、幸太郎は辟易とした声でソルネアへ返事をしたのだろう。
「それで、どうして途中で戻ってきたんだ?」
「それはアヤに聞くがいい」
言外に、面倒だからと言われたような気もしたが、あまり気にしない事にして阿弥達の方へと視線を向ける。
どうやらツェネリィアへのお供え物を下ろし終わったようで丁度、阿弥とフェイロナもファフニィルの背中から降りてくるところだった。
「おかえり」
「ただ今戻りました」
声を掛けると、笑顔で返事をしてもらえる。なんだろう。おかえりという言葉に返事があると、少し嬉しい。
「途中で戻ってきたと聞いたが、どうかしたのかね?」
しかし、幸太郎が声を掛けるとその笑顔は引っ込んでしまった。
「見た限り、特に問題が起きたようには見えないが?」
幸太郎もその事に気付いているが、気にしない風を装って、何事も無かったように次の言葉を紡いだ。
だが、それなりに親しいというか、幸太郎がどういう人間か分かっていると、内心では阿弥の反応に落ち込んでいる事が分かる。なんというか、声の質が少し落ちたというか。感覚だが、そんな気がした。
あと、二日酔いとは別の理由で、口元が引き攣っているようにも見える。
「蓮司さん、こちらを見てもらってもいいですか?」
阿弥がそう言うと、お供え物との一つである巨大猿の一体が地面から生えた草の根に拘束される形で持ち上げられた。そのまま、俺達の傍まで運ばれてくる。
ツェネリィアへ新鮮な肉を届けようとしたのかまだ生きている所は気になるが、別段妙な所は無い。強いて言うなら、元気が良過ぎるくらいか。
草の根で全身を拘束されているというのに、なんとか拘束から逃れようと暴れている。……それでも、手足の関節を押さえられているので根を千切る事も出来ていないが。
「元気だな」
『……そこでは無いと思うが』
「分かっているよ」
暴れる巨大猿が少し怖いが、億するのも格好が悪いので気にしていない風を装って傍へ寄る。
獣臭い匂いが鼻に突き、暴れた拍子に唾液が飛ぶ。その事に顔を顰めて顔を近付け、生半可な刃など通さない体毛へと触れる。堅い――そして、臭い。
やはり何か特別なものがあるようには感じられずに暫く観察していると、ある事に気付いた。巨大猿の目が赤いのだ。充血している。……いくら拘束されて興奮状態だとしても、これほどまでに眼球が充血するのかと驚いてしまうほどに、赤い目だ。
「どこで見つけたんだ?」
「巨大猿達が集まっている、聖域の傍です」
そうか、と。
他には何かないかと探していると、幸太郎も俺と一緒に巨大猿の身体を触り始める。
「何か気付いたか?」
「魔力の流れが乱れている。それに――」
その手が剛毛を掻き分けて、首筋の一点を指し示す。そこに、普通に見ては気付かないような小さな傷があった。
いや、巨大猿が大きいだけで、人間サイズで考えると結構大きな傷だ。それでも、小指の先よりも小さいが。
そんな小さな傷が、二つ。
その傷に、見覚えというか、心当たりがあった。
「吸血鬼だ」
吸血鬼。その名の通り、血を吸う鬼。
ゲームやマンガのように知能が高い訳ではないし言語を解さないので意思の疎通も難しいのだが、その異能はかなり厄介な存在である。
噛んだ相手――自身の血を流し込んだ相手を支配できる。
魅了のような異能ではなく、自分の血を相手へ流し込み、魔力の流れを操って意のままに操るという魔物である。
『――エルフレイム大陸には居ない筈だ』
「そうだね」
エルメンヒルデの驚いた声に、幸太郎が軽い調子で応える。
ただ、思い付くものはある。
先日、エルフレイム大陸の上空に開かれた、巨大な召喚陣。あそこから大量の魔物がこの大陸に流れ込んだ際に、吸血鬼も混じっていたのかもしれない。
連中は夜行性だ。今まで存在しなかった魔物が夜な夜な活動している事に、誰も気付かなかったとしても不思議ではない。
「異変があったのは、コレ一匹か?」
「見付けた……気付いたのはそれだけですけど、やっぱり?」
「だろうな」
阿弥は、確信は持てなかったが異変を感じて引き返したのだろうか。
いい判断だと思う。
そう考えながら、ソルネアへと視線を向けた。
「お前が言っていたのは、コレか?」
「はい」
……その返事に、腑に落ちないものを感じた。
そりゃあ、ソルネアは魔神の器とはいえ、まだ何も知らないと言ってもいい。吸血鬼を“なにか”と称するのも頷ける話だが……さて、たかが吸血鬼を警戒するほどか。
厄介ではあるが、どちらかというと吸血鬼は面倒に分類される存在である。ゴブリンやオークに比べると身体能力も高く、簡易ながら魔術も使える。しかし、吸血からの支配が面倒なだけであって、阿弥や幸太郎の敵ではない。
だからこそ――なぜか、ソルネアが吸血鬼を警戒していた事に違和感のようなものを感じてしまった。
根拠は無い。ただの勘だ。
けど、この世界へ召喚されてからずっと頼ってきた勘は、中々に頼れるものであると俺は思っている。
「どうかしましたか?」
「ん? ああ、いや――今からデルウィン達に相談してくる」
ただ、根拠の無い言葉を説明できるほど、俺は口達者ではない。
どうしたものか。
どうにも最近は、『魔神の眷属』にシェルファ、新しい魔王……名前は何だったか。そんな、色々と面倒な存在の事ばかりを考えていたので、面倒事へ過敏に反応してしまっているのか。
「フェイロナ、フランシェスカ嬢」
そんな事を考えながら、巨大猿から離れると、お供え物を下ろし終えて一息ついている二人へ歩み寄って声を掛ける。
あまり疲れていない様子の二人は、旅の間に親睦を深めたようでファフニィルと話していた。
「お疲れ様」
「いいえ。良い経験でした」
「そうか」
フランシェスカ嬢と同じ気持ちなのか、フェイロナは何も言わずに口元を緩めて一度だけ頷いた。
「楽しそうで良かったよ」
「ふふ……はい」
「阿弥に苛められなかったか?」
「そんな事はしていませんからねっ!?」
聞き耳を立てていたのか、阿弥がすぐさま反応した。
『すぐに、そうやって揶揄う』
「俺の生き甲斐だ」
「その生き甲斐に巻き込まれるアヤは、大変なのだろうな」
ファフニィルの言葉に、かかと笑って伸びをする。身体を動かしたからか、二日酔いは随分と良くなっているようだ。
「本当にな」
『レンジの事なのに、なぜそうも他人事のように言えるのか……』
エルメンヒルデがしみじみとした様子で呟くと、フランシェスカ嬢とフェイロナが笑う。
そこで、この場にムルルが居ない事に気が付いた。
「ムルルはどこに行ったんだ?」
「一足先に、家の方へと戻ったようだ」
「家に?」
フェイロナが教えてくれるが、何かあったのだろうかと少し心配になる。
すると、その事を教えてくれた美貌のエルフは誰もが目を惹かれるような自然な仕草で肩を竦めた。
「やはり。何だかんだと言っても、親が恋しいのだろう」
「なるほど」
それもそうか、と。
口ではどう言おうが、両親が居て、家がある。なら、そこへ戻りたいと思うのは道理であろう。
その事を悪いとは思わず、むしろ微笑ましい気持ちになってしまった。
『揶揄うなよ?』
「そこまで野暮じゃあないさ」
先に釘を刺されるが、肩を竦めて返事をする。
まあ、全員が無事でよかった、と。その事を確認して、ようやく安心が出来た。
「俺は少し野暮用が出来たから、これからデルウィンの所へ行ってくる」
「デルウィン様の所へ?」
フェイロナの、その言葉に小さく笑ってしまう。アイツが様付けで呼ばれると、少し変な感じだ。
「ああ。もしかしたら、また面倒事に巻き込まれるかもしれない」
「……そうか」
何を思ったのだろうか。俺の言葉に、フェイロナとフランシェスカ嬢……だけではなく、ファフニィルまでが口元を緩めていた。
その事に驚き、三人……二人と一匹を見る。
「どうかしたか?」
「いや。ようやく昔のお前に戻ったようだな」
ファフニィルが何を言いたいのかはなんとなくだが、分かる。王都で再会した時よりも、少しは前に進めたというか、前向きになれたというか。そんな所だろう。
昔の俺。
ただ……そう言われても、いまいちピンと来なかったのだ。
「はあ?」
だから、自分でも意図しないほど大きな声が口から漏れてしまった。
驚いたように、フランシェスカ嬢とフェイロナが俺へ視線を向けてくる。そんな俺が面白かったのか、竜の王は珍しく牙を覗かせるほどに口元を綻ばせた。
……誰が見ても、こちらを威嚇しているようにしか見えない、獰猛な笑みではあったが。
「なんでもない――くく、どうやらこれからの戦い。少しは楽しくなりそうだ」
そして、一人で納得している紅い竜の王。こちらとしては、言い返す事も出来ずに溜息を吐くしかない。
「楽しむのはいいが、俺はあまり巻き込まないでくれよ?」
「それは、貴様次第だろうよ」
その黄金色の瞳で俺を見降ろしながら、まるで遠雷のような、身体の芯に響く声音でそう口にした。
勘弁してほしい、と。
――何故か、そう口にする事が出来ず……頭を掻きながら、目を逸らしてしまった。
不思議と、悪い気がしないのは何故だろうか。
書籍発売直前の一週間連続更新(予定)一日目