第十一話 もう一度。また新しく。
「それで、その後はどうなったのだ?」
デルウィンの声に、宙を見ていた視線を隣へ移す。
そこでは、もう何杯もお代わりをしたのだろう。スィが船を漕ぎながらも懸命に瞼を閉じないように頑張っていた。折角の美人が台無しである。
相変わらず酒に弱い友人に呆れていると、正面に座る結衣ちゃんから感じる雰囲気に再度視線を移す。
「エルを蘇らせたら、記憶が結構抜け落ちていた」
「…………」
おどけて言うが、どうにも空気が重い。
それをなんとも居心地悪く感じながら、酒が注がれている木のコップを傾ける。
いつの間にか中身は空となっており、気付いたデルウィンが新しい酒をコップに注いでくれる。その酒を、一気に煽った。
コン、と。コップとテーブルが乾いた音を立てた。
「分かるか? エルを蘇らせたと思ったら、初めて会った時みたいにレンジ様、だ」
あの時の苦しさが――情けなさが。
エルは死んだのに、アストラエラの言葉に縋ってしまった。
アストラエラの言葉だって、そうだ。アレは、俺を諦めさせるため。前を向かせるため。アイツだって、俺がエルの蘇生を願うだなどと思っていなかった。エルの死を受け入れ、前を向いてくれると信じていた。
……俺は、その信頼すらも裏切った。
今思えば、分かり易い誘導ではないか。だというのに、それにすら気付かず俺はエルの死に捕らわれてしまっていた。
なんとも情けない、そしてどうしようもない結末である。過去の自分に呆れ、そして過去を変えられない事実に呆れ……。
「レンジ様、レンジ様。……ああ、エルとエルメンヒルデは違うんだ、って思い知らされたよ」
あの半年間を思い出す。
戦い――いや、八つ当たりに明け暮れ、ゴブリンやらオークやら。田舎で多くの魔物と戦った。
血塗れになって、傷だらけになって、沢山の人に感謝されながら――それでもエルメンヒルデは、俺に英雄である事を望んだ。
エルと同じように。けど、エルとは違う形で。
戦う事で認められる英雄である事を望まれ、俺はそれに応えようとした。子供達にはとても見せられない姿だったと思う。
……結果は、フランシェスカ嬢に会った頃の俺が示している。
「もう、何度も戦いたくないと思ったね。戦えば戦うほど、エルとエルメンヒルデが重なって見えた」
英雄になれず。英雄である事を重荷に感じて――その生き方では、エルメンヒルデを変える事が出来ないと思ってしまった。
戦いに明け暮れたら、エルと同じになってしまう。そう理解するのに、半年もの時間を必要としてしまった。
本当に、俺は何の進歩もしていないと思い知らされた。
求められるままに戦っても、結局同じ所にしか行き着かないのだと。結末はまた同じなのだと。
だから、戦いは嫌いだ。怪我をしたら痛いし、死ぬのは怖い。なにより、戦いにエルメンヒルデを使うのが怖い。またアイツを失いそうで、でも俺はエルメンヒルデが無ければ戦えない。
そしてまた、俺は神との戦いに向かっている。
何とも皮肉である。
「早く戦いが無くなってほしいのに、戦いを失くすためには戦わないといけない」
あの黒いドラゴン。魔神の力を強く継ぐ、神の座に近い竜。
神との戦いでエルを無くしたのに、また神に近しい存在へエルメンヒルデと一緒に挑もうとしている。
……本当に、救いが無い。
これが神殺しの業だというのなら、世界はとても残酷だ。俺はともかく、エルメンヒルデは神との戦いから降りてもいいじゃないか。
アイツは十分戦った。後は俺一人で……と言えない所が、俺の弱い所だ。
俺とアイツは一人と一枚で“一つ”なのだと、その事実に甘えてしまっているのだから。
「こんな事なら神殺しの力なんか望まなければ良かった。けど、望まなければエルと出会えなかった」
はたして、それはどちらが悪いのか。それとも、どちらも悪いのか。どちらも悪くないのか。
力を望んだからこそエルと出会え、良かったと思うべきか。
力を望まなければエルは死なずに済んだと、短絡的な思考を憎むべきか。
……アストラエラの言葉を使うなら、俺が望んだからこそエルは生まれた。そして、幸せに死ねたらしいが。
やはり、今でも死が幸せだとは思えない。思いたくない。
もっと話したい事があった。教えてやりたい事があった。見せたい景色が、食べさせたい美味しい料理が、面白い物、笑える馬鹿話……もっとあったのに。
「だから俺は、絶対にエルメンヒルデと一緒に生きる」
そう決めたのだ。
エルにしてやれなかった事、してやりたかった事、見せたかった物、話したかった事。
その全部を、エルメンヒルデに捧げようと。
一緒に生きて、担い手と武器ではない、相棒として生きていこうと。
また木のコップを煽ると……いつの間にか中身は空。今度はグラアニアが新しい酒を注いでくれた。
「今度もだ」
相手が神の力を持つドラゴンだろうが、神様だろうが、関係無い。
「ソルネアを魔神の座へ連れて行き、生きて帰る」
魔物の凶行。魔族の動き。
その全部が立ち塞がろうと、絶対に生きて戻る。
仲間の死がどれほど重いか知っている。どれほど苦しくて、悲しいかも。
だから俺は死なない。
そう決意して、ぐらりと視界が歪んだ。その事に気付きながら、更にコップを煽る。
酒精に呼吸が熱くなり、喉が焼けるような感覚。慣れ親しんだ、強い酒を飲む時の感覚だ。
そう思いながら、息を大きく吐いて、天を見る。
満天の星空に、朱色の月。雲はほとんど無く、だからこそその美しい景色は酒の肴に丁度良い。
また、クラリと視界が歪んだ気がした。
「その事を、ユウコやコウ以外は知っているのか?」
「二人以外?」
「ああ。流石に、誰にも何も言っていないという事は無いのだろう?」
そう言うと、デルウィンの視線が結衣ちゃんへと向いた
その結衣ちゃんは、じぃ、っとこちらを見つめている。その視線には、どうして自分には言ってくれなかったのか、という感情が見て取れる。
「ここに来る途中、商業都市で雄一郎と会った時に話した」
雄一郎の名前を出したら、結衣ちゃんの視線が一段と鋭くなったような気がする。
そりゃあ、ネイフェルを倒して姿を消した後に、雄一郎より早く結衣ちゃんとは王都で会っている。けど、あの時は話す心構えが出来ていなかったのだ。
あと、一番年下である結衣ちゃんの前で情けない姿を、というのも抵抗があった。……情けない、大人の矜持というか、良い訳であるが。
「知ってるか。アイツ、もうすぐ結婚するんだぞ」
「そうなのか?」
「……手紙で送られてきただろう、グラアニア」
「俺は読んでいないぞ?」
俺の言葉にグラアニアが驚きの声を上げ、デルウィンが呆れた口調で教えてくれる。
しかし、イムネジア大陸からエルフレイム大陸まで手紙、か。いったい誰が送ったのだろうと視線を幸太郎へ向けると、その幸太郎はスィに酔い潰されていた。……情けない。
まあ、手紙を送るとしたら船か、幸太郎が転移魔術で運んだかのどちらかだろう。
「凄いよな。アイツ、俺より五つも若いのに結婚だぞ」
「イムネジアの人間達からするなら、お前やユウコの方が遅いだけだと思うがな」
「それ、宇多野さんの前で言うなよ?」
「口が裂けても言うものか」
かかか、と。酒に酔った明るい口調で笑う俺とデルウィン。そんな俺達を見て、結衣ちゃんとグラアニアが呆れた溜息を吐いた。
そんな結衣ちゃんの後ろでは、やはり静かにナイトが佇んでいる。
……心なしか、その視線が生暖かいものに感じられるのは気のせいだろうか。
「セレスティアさんの事があったのに、アイツは前に進んでいた」
「う、ん。セラさんと一緒に、ね」
結衣ちゃんが相槌を打ってくれる。
雄一郎の恋人だったセレスティアさん。そして、亡くなった彼女の妹であるセラさん。
アイツは、ちゃんと恋人の死を乗り越えて、前に進んでいる。その姿を見ていたら、どうしても我慢できなかった事を思い出す。
乗り越える事が出来なかった自分がどうしようもなく惨めで、弱い人間に思えて。
……赦してほしかったのか、誰かに話したかったのか。その両方なのか。ただ、話したら気が楽になって――それに、雄一郎は泣かなかった。悲しい顔はしたけれど、泣かなかった。
今のデルウィン達、そして結衣ちゃんもそうだ。
悲しい顔、雰囲気だけれど、涙は流さない。
それでいいと思うのだ。
星を見ながら、思う。エルは最期に、泣かないでと言った。だから――泣かないで悲しんでくれる事が嬉しい。
「それが普通なんだろうな」
喪って、傷付いて、落ち込んで。傷にはいつか、瘡蓋が出来る。傷は薄れる。消える事は無いけれど、薄れていく。
きっと、あの時にエルの死を話していたら皆が悲しみに暮れただろう。下を向いて、涙を流しただろう。
沢山の人があの戦いでは死んでいった。沢山の命が失われた。誰もが泣く事に慣れていて、だからきっとエルの死も泣いて悲しんでくれただろう。
けどエルは、泣くよりも笑ってほしいと言ったから。だから――。
「俺が間違っていたんだ」
エルの死を受け入れる事が出来なかった。安易な奇跡に縋りついてしまった。
奇跡は起きない。その事を知っていたはずなのに、目の前にある奇跡へ目が眩んだ。
アストラエラはそんな俺に、奇跡では傷は癒えないと言ってくれた。
その通りだと思う。傷を癒すのは時間だ。それは不変で、ありきたり。過去を変える事が出来ないように、奇跡は起きない。だからこそ、奇跡は何も癒さない。
ファフニィルは、俺のやっている事はエルとの約束で、エルメンヒルデと交わした約束ではないと言った。
ああ、そうだ。俺はエルとエルメンヒルデを重ねていた。エルメンヒルデが嬉しいなら、笑ってくれるなら、エルも喜んでいてくれるのではと錯覚していた。
シェルファは――生きろと言った。いつか殺してやるから、それまで生きろと。
なんとも、あの女らしい励ましの言葉だ。笑いが込み上げてくる……もちろん、呆れてだ。誰が殺されてやるかよ。
「けど、今はそれで良かったと思っている」
エルではない。
エルメンヒルデを。俺は、幸せにしたい。一緒に生きたい。生きて――沢山の物を見せてやりたい。世界を。武器としてではない、エルメンヒルデという一つの意思として。
だから――。
「ごめん、デルウィン、グラアニア……みんな」
謝る。
何も言わなかったからか?
一人で抱え込んだからか?
相談しなかったからか?
今まで姿を消していたからか?
……その全部だ。
友達に隠し事をしていた。その事を、謝った。
・
ぐう、と。隣で寝息を立て始めた友人を静かに見る。その友人を挟んだ向こう側では、同じようにグラアニアがレンジを見ていた。
暫くすると、体勢が辛かったのかテーブルへ突っ伏すようにして本格的に眠りへ落ちてしまった。
流石に、獣人の中でも酒に強い男たちが飲む酒は人間には辛すぎたようだ。話す事に夢中で、途中から酒をすり替えていた事にも気付かない……それほどまでに、エル様の事を口にするのは辛かったのか。
しかし、酔わないとこの男は本心を語ってくれないのだ。どこまでも……自分を格好付けようとする。もっと頼ってほしいと思うし、本心を話してほしいと思うのに。
こういう所は、以前から変わっていない。
「謝られてしまったな、グラアニア」
「そうだな」
謝られてしまっては、怒るに怒れない。茶化すように言うと、グラアニアも同意して一気にコップへ注いでいた酒を煽った。
黙っていたのは、私達よりもレンジの方が辛かったはずだ。
レンジとエルメンヒルデ様……友人の言葉を借りるなら、エル様と呼ぶべきか。
知り合った時間は短いが、レンジの為人は知っているつもりだ。つもりだった。
誰よりも弱く、誰よりも勇気があった。まともに剣も触れなかったのに、ソウイチやマサキに混じって最前線で戦い続けていた。その背中を子供達に見せ、常に前を向いていた。
恐怖があったはずだ。震えていたはずだ。泣きたかったはずだ。
それでも一番前で、エル様を手に戦っていた姿は今でも瞼を閉じれば鮮明に思い出せる。
そんなレンジだからこそ、尊敬している。友人だと胸を張って言える。
「アナスタシア」
その名前を呼ぶ。
すると、隠れていたつもりであろう……夜の帳に紛れ、少し離れた場所にある木の枝に座って話を聞いていたアナスタシアが降りてくる。
その表情は、どこかバツが悪そうだ。
「話してもらえなくて怒っていたと思ったが」
そんなアナスタシアの表情を見て、グラアニアが茶化す。
いつもならそこで食って掛かるアナスタシアは、珍しく落ち込んだようにフラフラと飛んでいる。
「別に……」
元気が無い。
いつもの覇気が無いアナスタシアに軽く笑みを向け、酒を煽るように飲む。こちらは、レンジが飲んでいたものとは違う、果実酒だ。
「ただ、自分が情けなくて」
「アナ――」
「全然気付かなかったから。レンジの事、エルメンヒルデ様の事」
それは、レンジ達が隠していたから。
……それは、何の慰めにもならないだろう。
特に、アナスタシアには。ユイの心配そうな声、視線にも気付かずにテーブルへ突っ伏すようにして眠っている顔の横へ座り込んでしまった。
「まったく」
そう呟いて、酔い潰れて眠っている友人の頭を小突く。ついでに、グラアニアもレンジの頭を小突いた。
それでも起きないくらい、レンジの眠りは深いようだ。
「相変わらず、女に心配を掛けさせてばかりだな」
「本当にな」
グラアニアの言葉に同意する。
レンジは気付いているだろうか。レンジが無理をする度に、ユウコが、アナスタシアが、ユイが……もちろんエル様も、心配していた事に。
お前の勇敢な姿には勇気づけられたが、同じようにお前が無理をする姿を見て心配している女達も居た。
誰も、お前を強いだなんて思っていない。凄いと、強いは違う。お前と同じように――お前以上に、お前が弱い事は知っているつもりだ。
それでも、だれにも頼らずに頑張っている姿は眩しくて、尊敬出来た。
……そんなお前に、私達は頼っていた。
それが、お前を苦しめたのか。追い詰めたのか。――弱音を吐けなかったのか。
「別に、心配なんか……」
「していない、の?」
「……してない」
ユイの言葉に、ついと視線を逸らしてアナスタシアが言う。やはり、その声音には覇気が無い。
しかし、それは先ほどまでとは少し違う覇気の無さだ。気付けなくて落ち込んでいた先ほどと……気付いて、気付かないフリをしている今。
その様子が可笑しくて頬を緩めると、アナスタシアが強い視線でこちらを見た。
「なによ?」
「いいや。頑固な所は、誰かさんとそっくりだな、と」
「――ふん」
悪いとは思わない。
ただ。
「レンジの周りに居る女は、頑固な女ばかりだな」
グラアニアが、私と同じ考えを口にした。
同じ事を考えていたのが可笑しくて肩を震わせると、その声にスィの意識が覚醒したのか、豊か過ぎる胸を震わせながら驚いて体を震わせる。
「起きたか?」
「……あー……やっぱり、お酒を飲みながらは無理だわ」
「真面目な話だったのだがな」
「う――わ、わかってるわよ」
珍しくバツが悪い……実際、酒を飲んでしまった自分が悪いと分かっているようで、視線を逸らしながら小声で言ってくる。
まあ、悪いと思っているならこれ以上言うつもりも無い。
いつも通り。きっと、レンジが望むのはそれだろうから。変に意識するのは、望むまい。
「ね、ねえ? それで、レンジがユウコの胸で泣いた後はどうなったの?」
「後でレンジから聞け」
そして怒られろ。きっとそれが、私達とレンジの“いつも通り”だ。
「ユイ……?」
「だ、め……だよ? スィさん、寝ちゃった、から」
珍しい、ユイの怒った声。
本心からではないだろうが、その声にいよいよもってスィが諦めたように肩を落とした。
これでは、どちらが年上なのか分からない。いつもお姉さん風を吹かせているスィが、まるで子供のように溜息を吐いた。
「アナスタシア」
そんなスィから視線を外し、レンジの寝顔を眺めているアナスタシアへ声を掛ける。
「なに?」
そして、私の方を向く事無く返事をしてくる。
その表情には僅かな頬笑みが浮かんでおり、怒っているという様子は無い。
慈しみや愛情。言葉にするなら、そのような感情だろうか。あまり見ないというよりも、初めて見るアナスタシアの表情だ。
「レンジが起きたら、怒ってやれ。きっと、レンジもそれを望んでいる」
グラアニアが、笑いながら言った。
「もちろん」
アナスタシアも笑いながら言う。
レンジに向ける頬笑みではない、いつも私達に向ける満面の笑みで。
「そうだな」
私も同意する。
「災難ねえ」
スィが、苦笑しながらテーブルに上半身を乗せてレンジの頬を突きながら笑った。
ユイも、面白そうに眠っているレンジに手を伸ばすと、髪を撫でる。
そんなユイの後ろに立ち、いつものように静かに守っているナイト。
酔い潰れているコウ。
いつも通りの光景。
――お前は考え過ぎるのだ、レンジ。
そう、木のコップを傾けながら心中で呟いた。