第九話 戦いが終わった後に3
黒い“門”を通ると、一面に広がったのは高い石造りの壁だ。所々が砕け、罅割れてはいるが、その異様はいまだ健在。
そして、閉じられているべき門は歪み――緑が広がっていた美しい草原は数多の死体で覆い尽くされている。
魔物と……人だ。
ゴブリン、オーク。オーガにハーピー。この大陸には居ない筈のグリフィンや蛇女。数多の魔物、そして人が、死体となって転がっている。
魔物の数に比べて人の数が少ないのは、生き残った人達がその亡骸を弔ったからか。
「酷い臭いだな」
風に乗って、草原の臭いが鼻に届く。青々とした、清涼の匂いではない。毒黒く濁った、血の臭いだ。
だが……と。
もう既に嗅ぎ慣れた臭いでは、顔を顰める事すらせずに深呼吸が出来てしまう。血の臭い。死の臭い。その臭いを感じながら、俺が通ってきた黒い“門”に人影が一つ。
最初は虚ろだったソレは、次第に実態を伴って現実味を帯びた質量を纏っていく。
現れたのは、黒い“門”にも負けず劣らず。腰まで伸びた黒髪と、それ以上にも思える黒の法衣を纏った女性。白い肌が、黒に包まれているからこそ対となるように際立っている。
「あら……どうかしたかしら?」
「いいや。なんでもない」
そんな宇多野さんから視線を逸らすと、“門”から出てきた俺達に驚いたのか、歪んだ門を通って数十人の兵士がこちらへ掛けてくるのが遠目に見える。
まあ、と。視線を黒い“門”へ再度向ける。幸太郎の転移陣は魔神のソレに酷似している。アレが来たと勘違いされても仕方がないのか。
風に揺れ、風精霊の祝福を受けた外套が大きく揺れる。同じように、宇多野さんの美しい黒髪と、法衣の裾も広がった。
「説明してくるわ」
「ああ、頼む」
どうにも、人に説明をするのは苦手だ。説明というか、人の前に立つのがあまり好きではないというのが大きな理由だが。
本当は宇多野さんの方が人前に立つのには慣れているし、物事を説明する事、そして人の心理というか感情を理解して言いくるめる事も俺よりも上手だと思う。だというのに、どうしてかあの人は俺を一番に、自分は二番という立ち位置に居た。
それは、この世界に来て最初に決めた事。子供達ではなく、一番年上である俺達が頑張るという証明。けど、今まではそうだったのだが、魔神との決着がついてからは、宇多野さんが率先して物事を決めていた。
……多分、俺に気を遣ってくれているのだろう。そう思いながら、今もまた、突然帰ってきた俺達の元へ駆けつけてくれた兵士の元へ説明の為に歩いてくれている。
その後ろ姿を見ながら、溜息を吐く。
――感謝の言葉や感情よりも先に、いつもならここでエルが叱咤してくれたのに、と考えてしまったからだ。俺を心配してくれる宇多野さんよりも、エルの事を先に考えてしまう自分が……どうしようもなく、情けない男のように思って、溜息を吐く。
不意に、気配。振り返ると、黒い“門”に新しい影がぼう、と揺らいだ。
その背格好から次に来るのは幸太郎だと予想すると、案の定というべきか、くすんだ色の服に黒の三角帽子、全身を覆うような同じく黒の外套を羽織った幸太郎が“門”を通って現れた。
「おや。蓮司殿だけか」
「まあな」
その言葉に、視線を王都の門へと向ける。そこには、血相を変えて王都の門をくぐった兵士達が、現れたのが俺達だと分かって安堵し、破顔して手に持っていた得物の矛先を地へと向けている。
そして、その兵士達と話している宇多野さんを見て、納得がいったように頷いた。
「では、他の皆も呼ぶとしよう」
いつものように、まるで舞台役者のように大仰な仕草で両手を広げると、その手に持った自身の身長程もある、大きな木の杖を掲げて主柱するように目を閉じた。
同時に、今まで快晴だった空に、深い紫色――幸太郎の言葉を借りるなら、闇色の魔力光で編まれた魔術陣が形作られる。
三角形が二つ――六芒星の周囲を二重の円が囲み、エルフレイム大陸で見たエルフの古代文字が周囲を彩る。
風が強くなり目元を押さえると、まず最初に六芒星の中央に黒い点が出来る。次第にその点が大きくなっていくと、そのまま百人近くが一気に通れるのではという大穴へと成長する。丁度、六芒星の中央に嵌る大きさだ。
そして、宙に浮いていた六芒星が地面へと降り、先ほど俺達が通ってきたのと同じ“門”となる。
「ふう」
いかにも一仕事しました、という仕草で額に浮いた汗を拭う幸太郎。
相変わらず、派手なヤツである。
暫くすると、その一気に百人は通れそうな大穴に次々と人影が浮かんでくる。
最初に通ってきたのは宗一たちだ。
『勇者』天城宗一。
『聖女』天城弥生。
『大魔導士』芙蓉阿弥。
『魔剣使い』久木真咲。
『女神の騎士』九季雄太。
『復讐者』江野宮雄一郎。
『道具使い』工藤燐。
『魔物使い』緋勇結衣。
『武器王』伊藤隆。
そして、『料理人』藤堂柊。
……こうやって見ると、やっぱり相変わらず藤堂は浮いているなあ、と。アイツの料理には何度も助けられたが、やはり英雄というには庶民的過ぎるだろう。普通なら、異世界に召喚されて好きな能力を……なんて言われたら、もっと凄い能力を頼むだろうに。
そんな事を考えていると、その後に続くようにオブライエンさんやデルウィン、スィといった一緒に戦った面々が黒い“門”を通ってくる。更に、その後には騎士団やエルフレイムの戦士たちが。
「ようやく、終わったな」
「ですね」
一緒に戦った兵士や騎士達が現れるのをぼうとした視線で眺めていると、いつの間にか傍に来ていたオブライエンさんが話し掛けてくる。
いつもは厳しいこの人も、魔神討伐という大仕事が終わった後だからか、その声は何時になく明るい。
そのまま肩でも叩かれそうな雰囲気に口元を緩めると、同じく口元を緩めるだけの笑顔で肩を叩かれた。その大きくて重い手に、視線を向ける。
「よくやってくれた」
「いえ。皆のお蔭です」
沢山の人に支えられた。そうして戦え、そして勝てた。
そう、万感の想いを込めて口にする。
――この勝利は、一人だけのものではない。十三人だけのものではない。あの日、あの時、一緒に戦った皆のものだ。
それは間違えてはいけない事で、驕ってもいけない事。
俺は、沢山の人と一緒に戦って、沢山の人を犠牲にして、沢山の人に支えられて――そして勝ったのだ。世界を守ったのだ。
……だから。
「ありがとうございます」
そう口にすると、オブライエンさんは不思議そうな顔をした。
俺の肩を叩いたその手で、白の混じり始めた顎髭を撫でる。
「貴方が戦い方を教えてくれたから、俺は勝てました」
「…………」
それは、この世界に来て最初の事。
この人に戦い方を、剣の振り方やこの世界での生き方を教わった。
山田蓮司という人間の芯には、この人に教わった事がしっかりと根付いている。基礎となっている。それがあったから、今日まで頑張れた。戦えた。心が折れても、芯を立てて、立ち止まる事無く歩く事が出来た。
異世界で、生き残れた。
「……馬鹿者。人前でそのような事を言うな」
そのまま視線どころか身体ごと反対側を向いて、普段のオブライエンさんらしくない小さな声でそう言った。
顎を撫でていた手が、少し上へと動いた。丁度目元の辺り……もしかしたら、泣いているのだろうか。
ふとそう思ったが、口にするのも野暮だと思って気付かないふりをする。
続いて傍に来たのは、デルウィン達。デルウィンにグラアニア、スィ。エルフレイムの戦士達を束ねる、長という立場に居る三人だ。
「神殺し殿、ご機嫌麗しく」
最初に口を開いたのはグラアニアだ。銀の髪と同じ色の耳と尻尾を持つ獣人の長は、似合わない恭しい仕草で頭を下げ、それに同調するようにエルフと半人半蛇の長も頭を下げる。
その仕草は洗練されており、作法には文句は無いというか多分俺よりも洗練されておりむしろ俺の方が教えを請いたいような感じなのだが、こちらとしては友人と思っている連中からそんな態度を取られるとは思っていなかったので、逆に慌ててしまいそうになる。
しかし、三人の雰囲気が厳かなソレではなく、からかい混じりの物であると感じて、逆に不審に思って首を傾げた。
「……なんだ、そりゃ」
「いや。世界を救ったのだから、お前のような人間にも敬意を払うべきだろうと思ってな」
「バカにしてんのか」
呆れ混じりにそう言うと、かかと笑って頭を上げる三人。
つまり、俺をからかっていたのだ。
「冗談だ」
「分かってる」
溜息を吐くと、そんな俺をまた笑う三人。
――まあ、こうやって笑ってくれるなら、からかわれるのもいいか、と。
エルの最後の願いを思い出して、俺も笑う。
「スィはともかく、デルウィンとグラアニアはあまりこういった冗談は口にしないと思っていた」
「ちょっと。私はともかく、って何よ?」
「言葉通りの意味だ」
俺の言葉に不満気な雰囲気を醸しながらも、その両腕は豊かな胸元を支えるようにして組まれる。
そうやって、肢体をネタに俺をからかおうとしている所が、スィらしいともいえる。
そのからかいへ乗るように視線をスィの胸元へ向けると、左足に激痛が奔った。
「どこを見ているのかしら?」
「あら、ユウコ。姿が見えなかったから、てっきりレンジに愛想を尽かしたのかと……」
俺の左足を踏みながら、宇多野さんがスィを――正確にはスィの胸元を肉親の仇でも見るような眼で一瞬見て、次いでその視線を俺に向けてくる。
足を踏まれたまま視線を中空へ向けると、空は呆れるほどに快晴。
まったくもって、勝利を喜ぶにふさわしい天気といえる。アーベンエルム大陸は常に火山灰混じりの厚い雲で曇っていたり雨が降っていたりだったので、透き通るような蒼穹が眩しくて仕方がない。
……足を抉るように踏むのは勘弁してほしい。
「冗談よ。そんな、ゴブリンを見るような目でレンジを見ないでよ」
どんな目なのだろう、ゴブリンを見るような目とは。あれか、ゴキブリを見るような目なのだろうか。
そんな事を考えていると、左足を踏んでいた足の重さが消える。
「くく。相変わらず、仲が良いのだな」
「ふん」
宇多野さんが臍を曲げて、腕を組みながら視線を逸らす。悲しいかな、スィと同じように胸の下で腕を組んでいるというのに、見える景色は真逆である。
――そう思った瞬間、その右腕が閃いて、俺の胸を打った。
突然の事に息が詰まり、咳込んでしまう。
そんな俺を見てデルウィン達が、そして身体ごと視線を逸らしていたはずのオブライエンさんも笑う。
「オブライエンさん。先ほど門番に言いましたが、戻った事を王城の方へ伝えに走らせました」
「む」
「もうしばらくすると、王がこちらの方へ来られるかと」
「そうか。では――」
朗らかな笑顔が一転、真面目なソレ――俺がよく知る、騎士団長としての顔へと戻る。
続いて視線は幸太郎が創った黒い“門”へ向く。そこには、まだ“門”を通って戻ってくる兵士たちの姿がある。戻ってきた正確な人数は分からないが、ざっと見た限りではまだ半分ほどだろうか。
数千に届きそうなほどの兵士や騎士達が、草原に転がっていた魔物の死体を適当にどかしている。そちらの方へと、オブライエンさんは歩いていった。
そうして、その中には。逆に、いまだ弔われる事無く草原にあった人の亡骸を一か所に並べている姿もあった。冬が近づいているとはいえ、長い間外に放置されていた死体の損傷は酷い。きっと、このまま火葬される事になるだろう。
……その姿を忘れないように、しっかりと見る。
この世界の為に、死んだ命だ。俺の力、その糧となった命だ。
――忘れては、いけない。俺は、沢山の人に支えられ、犠牲にして、ここに居るのだと。
「怖い顔をするな」
そんな俺の頭を、デルウィンが軽く叩いた。
次いでグラアニアが胸を叩き、スィが背中を小突く。――更に、デルウィンとは違う、少し強い力でまた頭を叩かれる。
「全部じゃないけど、一つの大きな戦いが終わったのだから、もっと明るい顔をしなさいよ」
「アナスタシア」
そう言って、俺の肩へと座るアナスタシア。
視線を周囲へ向けると、この子の主である緋勇結衣ちゃんは黒鎧の亡霊騎士、ナイトに抱かれて眠っている様だった。
疲れたのだろう。十四歳の少女に、世界を救う旅は過酷過ぎたのだ。気が緩んでしまうのもよく分かる。
「それにしても、メダル女はまだアストラエラ様の所に居るの?」
「ああ」
次にアナスタシアの放った言葉に、なんとか――何でもない風を装って口を開く事が出来た。
あの後、俺は皆にエルはアストラエラの所に戻った……と説明していた。
本当の事を口にするのは躊躇われ、この笑顔を曇らせる事を是とせず――嘘を吐いた。
せめて。この後、魔神討伐の報告をして、世界中に笑顔が溢れるまで。魔族や魔物の脅威は続くけど、最大の敵を討伐した喜びに皆が浸れるまで。
……それまでは、エルの死を伏せておきたかった。
「まったく。放っておかれるなんて、貴方、もしかしたらこのまま捨てられるかもよ?」
「かもな」
アナスタシアの軽口に、こちらも軽口で返す。
捨てられる。……もう逢えないのだから、確かにそうなのかもしれない。そう、思いながら。
ただ、この場合だと捨てられるのはどちらだろう。俺なのか、エルなのか。
そう思うと――。
「じょ、冗談よっ。そんなに落ち込まないでよっ」
アナスタシアの大きな声。肩に座っているからか、余計に耳に響いて思考から戻ってくる。
すると、目の前にはこちらをじっと見ている皆の姿。
慌てて、何でもないと装って笑顔を浮かべる。
「いやあ。エルに捨てられるとなると、流石にショックでなあ」
「……なによ」
しかし、次の瞬間には怒ったアナスタシアに頬を抓られた。痛みよりも、くすぐったさが先に立つ。
「心配させたか?」
「べっつにー」
そんなアナスタシアの様子を見て、表情を綻ばせるデルウィン達。どうやら、上手く誤魔化せたようだ。
ただ、宇多野さんだけは……俺の左手に、自身の右手を重ねてくれた。
指を絡ませるように握られるが、胸が高鳴るよりもその手のぬくもりを強く感じて、握り返す。
「ふふ。今のうちに甘えていないとね、アナスタシア」
「煩いわねえ。スィ、私はね? 別に、甘えたくなんてないのよ。レンジに元気が無いと、ユイも落ち込んじゃうから仕方なく私が――」
「甘えられても困るけどな」
「……」
無言で頬を抓る指に力を込めないでほしい。アナスタシアのサイズが人形程でしかないとはいえ、抓られると痛いのだ。
そんな俺の顔が可笑しかったのか、珍しくデルウィンが破顔した。
「エルメンヒルデ様が不在で落ち込んでいたようだが、少しは元気が出たようだな」
「お蔭さまで。子供達も居るし、何時までも落ち込んでいられないからな」
「ま、そういう事にしておこう」
その物言いは、まるで俺の内心を探っているかのよう。いや、もしかしたらある程度は分かっているのかもしれない。
エルの死に気付いているとは思わないが、俺が落ち込んでいる事に。
かなわないな、と。
苦笑すると、兵士や騎士達の間に動揺が広がるのが分かった。
視線を兵士達へ向け、続いてその視線を追って歪んだ王都の門がある場所――そこに、豪奢な鞍を付けた馬に乗る形で駆けつけてくれたのだろう、数日前似合ったはずなのに、以前よりも随分と疲れた顔をしたヨシュア王の姿があった。
この草原の惨劇を見ればわかる。その後、魔物の襲撃があったのだ。しかも、かなり大規模な。
俺達がアーベンエルム大陸で決戦を繰り広げている際に、イムネジア大陸でも戦いが起きていた。しかも、俺達の助力無し、オブライエンさんや半数以上の騎士が不在という状況で。
俺の姿を見ると、ヨシュア王は馬から降りてこちらへ歩み寄ってくる。俺も慌てて宇多野さんから手を放してそちらへ向かうと、俺がするよりも先に人間の王は膝を突いて俺へ祈りを捧げるように両の手を組んだ。
「異界の英雄よ。この世界を救ってくださり、感謝の念に堪えません」
「ヨシュア王……」
「女神アストラエラ様。そして、英雄達に限りの無い感謝を」
まるでヨシュア王へ倣うように、周囲の兵士達が、騎士達が、遠巻きに見ていた王都の住人達が、オブライエンさんが……デルウィン達、エルフレイム大陸の戦士達も、一様に膝を突いて俺達に感謝の祈りを捧げるように手を組む。
それは、神々しくもあり、だがどうしても慣れなかったのか。工藤や藤堂、伊藤は困ったように頭を掻いていたりした。
英雄。
それが、俺達に与えられた称号。そして、求められたもの。
「貴方が救ったのよ、レンジ」
耳元で、アナスタシアがそう呟いた。
違う。
「この世界に生きる皆で救ったんだ」
俺は――英雄なんかじゃない。
英雄になりたいと思っていた。
宗一達のように、英雄に相応しい強さが欲しかった。
でも俺は、英雄にはなれなかった。今はもう、なりたいとは思えない。
胸の奥、腹の奥にどす黒いモノが溜まっていくような、不快感。気持ち悪さ。
もう一度、周囲を見渡す。
数多くの魔族や魔物の死体。そして、草原に並べられた、未だ弔われていない人の死体。
その死体が、エルと重なる。彼女の死に際と、重なってしまう。
俺を守る為に死んだエル。
世界を守る為に死んだ人たち。
……死に、変わりはない。
そして俺は、そんな人の死を糧に強くなる。
そんな俺が、英雄であるものか。――俺はもう、神を殺せないし、世界も救えない。
原点に戻る。
サブタイトルというか、旧題はここで回収する予定だったという話。