第六話 彼が隠した事
篝火の明かりに照らされながら、木のコップを傾ける。
中に注がれているものは、甘味の強い果実酒だ。度の強くない酒では全く酔えず、強過ぎる甘味に顔を顰てしまう。隣で同じものを飲んでいたデルウィンが、そんな俺の様子を見て口元を緩めた。
「よくエルフは、こんな甘い酒で酔えるな」
「エルフの舌は繊細なのだ」
「よく言うね」
呟いて、もう一口。この甘味も、何度か飲んでいると慣れてくるもので、慣れるとそれなりに飲み易くある。人間やドワーフ達が飲む度の強いものではない酒も、偶には悪くない。
そう思いながら、つまみとして用意してもらっている果物に手を伸ばす。
果実酒に果物、あとはパンに野菜と鳥女の肉。あまり量はないが、偶にはこういった健康的な夕食も悪くない。
用意してもらったパンに野菜と肉を挟んだ即席のサンドイッチを、テーブルを挟んで正面に座る結衣ちゃんが口に含む。小さな口を大きく開いて食べる様が可愛らしくてじっと見ていると、白磁のようなその頬が篝火の明かりの中でもそれと分かるほどの朱に染まった。
「ちょっと、淑女が食事している所をじっと見ているなんて、礼儀がなっていないわよ」
「そりゃあ失礼」
その小さな体躯をテーブルに乗せて食事を摂っていたアナスタシアが、抗議の声を上げる。それも尤もだと、特に反論する事無く肩を竦める。
暦の上ではまだ冬のはずなのだが、エルフレイム大陸の気候は初夏のソレに近い。夜もまた、肌寒さを感じる事無く過ごす事が出来る。
だからこそ、こうやって朱色の月を見上げながら月見の夕食と洒落込む事が出来る。
気障ったらしく果実酒の注がれたコップを傾けると、ざあ、と。森の木々が風に揺れた。
「ほらほら。ユイ、もっと食べなさい。大きくなれないわよ?」
「……は、い」
そう言ったのはスィ。
大きくなれないと言いながら、無駄に大きい胸を強調するように前屈みになるのは実にけしからん。
「どこ見てるのよ、変態」
「誰が変態だ」
果実酒の注がれたコップを煽るように飲み、視線を隠す。
しょうがないではないか。男なのだ。男なら仕方がない。隣に座るデルウィンはまったく気にしていないが、コイツはムッツリなのだ。
「こら、スィ! ユイが太ったらどうするのよっ」
「何を言っているのよ。ユイは小さいんだから、もっとたくさん食べて大きくならないと」
「アンタみたいに無駄な贅肉は無いのよ、ユイには」
「え、っと。あ、りがとう……ございます」
結衣ちゃんを挟む形でアナスタシアの反対側に座っていたスィが、結衣ちゃんの木皿にいくつかのハーピー肉を取り分ける。アナスタシアは抗議の声を上げたが、結衣ちゃんはきちんとお礼を言ってからその肉を口に含んだ。
アナスタシアとスィはお姉さん風を吹かせたいのだろうが、肝心の結衣ちゃんの意見をあまり聞いていない辺りがどっちもどっちである。
ちゃんと本人の意見も大切にしないとダメなんだぞ、と。自分の事は棚に上げて呟くと、また果実酒を煽る。
「コウ。貴方もちゃんと食べているの?」
「もちろんだとも。……ちょ、その野菜は止めてっ。苦いのは苦手なんだって!」
「はいはい。好き嫌いはしないの」
そのスィは、今度は幸太郎に絡んで遊んでいる。苦手な野菜を手元の木皿、その半分ほどに盛られて悲鳴を上げる。
相変わらず可愛がられているようである。
「蓮司さんも、笑ってないで何とか言ってよ!?」
「好き嫌いは駄目だぞ、幸太郎。なあ、結衣ちゃん?」
「う、ん。お肉と一緒に食べると、おいしいよ?」
そう言って、ピーマンのような野菜の千切りをパンにはさんで一緒に食べる結衣ちゃん。好き嫌いが無いのは素晴らしい。
ちなみに、俺も幸太郎と同じで彼が苦手としているピーマンのような野菜が苦手だったりする。別の野菜を食べて誤魔化しているので、気付かれていないとは思うが。
「ほら。子供に言われちゃって」
「も、もう。子供じゃ……ない」
「そうなの?」
そこで、どうして俺を見るのだろうか。
一緒にアナスタシアもこちらを見るが、その視線には明らかな敵意があった。敵意というか、殺気というか。というか、先ほどの質問はある意味でセクハラなのではないだろうか。
この世界に、セクハラなんて概念は無いのだが。多分、俺が同じような事をアナスタシアへ言ったら殴られるというか吹き飛ばされるだろう。その様子を、鮮明に思い浮かべる事が出来た。
「それで、レンジ。大切な話があると言っていたが、どうかしたのか?」
離れた場所に座っていたグラアニアが、ハーピー肉の手羽元を齧りながら聞いてくる。口元を油塗れにしながらという、豪快な食べ方である。
「ん。ああ……」
いや。言わないといけない事なのだが、いざ口にするとなるとどうにも決心が鈍ってしまう。
ちなみに、件のエルメンヒルデはソルネアへと預けてきている。そのソルネアは、信頼できる騎士が傍に居てくれているので大丈夫だろう。
……アイツは、結衣ちゃんのお願いは何でも聞くからなあ。俺が言っても微動だにしなかった事を思い出すと、溜息が出そうになるが。
「エルメンヒルデ……エルの事でな」
「メダル女の事?」
「こら、アナスタシア。エルメンヒルデ様に失礼だろう」
「いいのよ。アイツ、堅苦しいの嫌いらしいし」
アナスタシアの物言いをデルウィンが窘めるが、どこ吹く風と言わんばかりにあっけらかんと答える妖精の女王様。そんな彼女の反応に溜息を吐くエルフの王と、獣人達の長。からからと笑うのは精霊神の加護を受ける半人半蛇とドワーフ達の代表者。
改めて考えると、凄いメンツである。エルフレイム大陸に数多い種族、その代表達。そして、俺に幸太郎、結衣ちゃん。
阿弥達はまだ戻ってきていない。まあ、いくらファフニィルと一緒とはいえ、ツェネリィアに会う為の儀式を完遂する為には広いエルフレイム大陸中を回る必要がある。そこまで急いでいるわけでもないだろうし、戻ってくるには数日を要するだろう。
「仲が良いのは知っているけど、だからって会う度に喧嘩するのはどうかと思うけどな」
「ふふん。大丈夫よ」
どうしてそこで、自信満々に胸を張れるのかね。
「口元にパン屑が付いてるぞ」
「え!?」
勿論、嘘である。仲間内では口が悪いアナスタシアだが、食事の作法はしっかりしている奴だと知っている。そんな失敗をやらかしてしまう性格ではないが、予想していなかったツッコミだったからか必要以上に慌てて口元を手で払っている。
その様子を眺めて気を紛らわすと、木のコップを煽る。気が付けば、中身は空になってしまっていた。それほど飲んだつもりは無いのだが……どうやら、自分でも気付かないうちに緊張しているようだ。
はあ、と。重苦しい溜息を吐くと、デルウィンが酌をしてくれた。
ふと視線を幸太郎へ向けると、こちらを心配そうな顔で見て……視線が合うと逸らしてしまう。俺が何を話そうとしているのか、気付いているのだろう。
口では何だかんだと強気を装っているが、人一倍心優しいヤツだと知っている。――だから、今日まで誰にも真実を口にせず、胸に秘してくれていた事に感謝の念が絶えない。
そんな幸太郎は、スィに捕まって苦手な野菜と肉を一緒に挟んだ即席サンドイッチを手に持たされて蒼い顔をした。
「なあ、アナスタシア」
「な、なによ」
慌てて口元を隠しながら返事をしてくるアナスタシアに胡乱な視線を向けると、余計に慌てた様子で身嗜みを整えた。
「……何を警戒しているんだ、お前は」
「べっ、べつに――」
「安心しろ。パン屑は嘘だから」
「どうしてアンタは、そう息を吐くように嘘を吐けるのよっ」
そりゃあ、お前。お前の反応が面白いからだろう。
怒ったアナスタシアを結衣ちゃんが宥め、その様子を見ながら皆で笑うとまたアナスタシアが怒った。本当に、長生きしているのに精神年齢は結衣ちゃんとあまり変わらないよなあ、と。
「話が逸れたぞ、レンジ」
グラアニアが呆れたように呟く。話題がエルメンヒルデという事もあって、今朝方のようなおどけた様子は微塵も無い。
こいつも、親馬鹿ではあるが獣人の長としての立場をちゃんと理解している。神が関わる事であれば、ちゃんとする奴なのだ。
……それに、俺がおどけて本題から逃げようとするのは、俺が喋りたくない事である事を理解して――それでも催促というか、手を引いてくれるというか。逆に、こちらが口を開くのを待ってくれるのがデルウィンであり、更に会話の相手をしてくれるのがスィである。
この大陸へ渡ってきて出来た、友人。俺としては、親友のように思っている三人だ。
「ああ、すまん。アナスタシアがからかい易くて」
「分かるわあ、その気持ち」
「――レンジ、スィ?」
目を細めて極上の笑顔を浮かべているだけなのに、どうしてこんなにも背筋が凍るような寒さを感じているのだろう。
「まあ、冗談はさて置き」
「後で泣かす」
その呟きを聞こえなかった事にして、もう一度溜息。
「なあ、アナスタシア。王都で俺達と会った時から、エルの様子が変だと思わなかったか?」
「ん? あのメダル女が変なのは、いつもじゃない」
「そうじゃなくて……」
「変なのはレンジもでしょう? あの女の事をエルメンヒルデだなんて呼んでいるし、物凄く弱くなっているし」
「……俺が弱いのは昔からだろ」
「アンタじゃなくてあの女がよ」
幸太郎の方へ視線を向けると、青い顔をしながらも慌てて首を横に振っている。その反応から、幸太郎が喋ったという事は無いだろう。
周囲をそれとなく見渡すと、先ほどまで談笑していた全員が全員、俺を注視していた。アナスタシアに……この様子なら、この場に居る全員に気付かれたというのは俺の態度があからさま過ぎたからか。
まあ、呼び方の事は宗一達にも言われたのだから、以前の俺達を知っているなら何かあったと勘づくのは自然な事か。特に、アナスタシアはエルと仲が良かったのだから、アイツの変化には人一倍敏感なのだろう。
「すまん」
だから、謝罪の言葉を口にする。黙っていた事に。教えなかった事に
その事を悪く思うと同時に、それでも真実を口にする勇気が無い自分に呆れにも似た諦観の念が湧いてしまう。
本当に、俺はエルが言っていたように弱虫だ。背中を押してもらわなければ、一歩を踏み出す事すら出来ないのだから。そんな俺をよく理解してくれているアナスタシアは、先ほどとは全く違う呆れと怒りの混じった目で俺を見ていた。
「レンジ。貴方は何匹の眷属を斬ったかしら?」
「…………」
酒に逃げる気力も無くなり、言われるままに指折り過去に斬った魔神の眷属――その数を思い出す。
――思い出そうとして、すぐに諦めた。
何匹か……塵芥にも等しい雑魚を含めるなら、何十となるのか。
「貴方達の力は、奪った魔神の力に比例していた。女神様、そして魔神の片鱗――。エルも合わせれば三柱の神が貴方を支えた。それが神殺しの本質でしょうに」
「その二つが失われれば、誰でも気付くさ」
「シェルファを斬った時か」
デルウィンの言葉に、そう返す。あの時、俺はアストラエラの力を借りた。女神の力。神の力。銀と翡翠の魔力光。そこに、一色が足りない。俺達の全力――決戦の際に溢れた黒の魔力光。過去に“それ”を見ているデルウィン達だからこそ、あの力が以前の俺達には遠く及ばないと気付いたのだろう。
それに、俺が呼ぶ彼女の名前も。
エルではなく、エルメンヒルデと。
「本当に仲が良いのな、お前ら」
「どこがよ……で? なに。あの女が変わった原因を教えてくれるの?」
まるでさも当然と言わんばかりに聞いてくるアナスタシアに、驚いた顔を向けてしまう。
そんな俺の表情が面白かったのか、からからと朗らかな笑い声を上げるアナスタシアとスィ。
「怒っていないのか?」
「怒っていないわけがないでしょうに。今夜はしっかりと怒られなさい」
そう言ったのはスィ。はたして俺は、デルウィンかグラアニアかアナスタシアか、それともスィか。はたまたその全員か、もっと沢山の仲間達にか。
考えて、それも当然かと思う。
……だって、友人に、親友に、黙っていたのだ。それは、怒られて当然だろう。
そして、仲間達にも。宇多野さんと孝太郎……それに雄一郎。この三人は知っているけど、結衣ちゃんや阿弥……他の皆には話していない。
話せなかったという事もある。
戦いが終わって、皆が喜んでいて――その場で、エルが死んだとは言えなかった。沢山悲しんだ。沢山の人が死んだ。沢山の涙が流れた。……それが終わって、皆が喜んでいる場所で――言えなかった。
だって、彼女は最後に泣かないでといった。泣き顔ではなく笑顔を浮かべてほしいと。
それを聞いたのは俺と宇多野さん、幸太郎の三人だけだったけれど、きっとそれはこの世界に住まう全員に向けた言葉であったはずだ。自身の死で、皆の笑顔を曇らせたくなかったはずだ。
俺の勝手な考えだけれど……エルの死で、もう誰にも泣いてほしくなかった。誰にも悲しい顔をしてほしくなかった。
「アンタ、どれだけ私を鈍いと思っているのよ……」
「その……阿弥さんも、気付いている……よ?」
「むしろ、周りが気付いている事に気付いていないのは、レンジだけなのだがな」
「…………」
木のコップをテーブルの上に置き、大きく息を吐く。酔えるほど強い酒ではないというのに、吐いた息は火が付きそうなほどに熱いと錯覚してしまう。
「案外、自分の事には鈍いのだな」
デルウィンのその言葉に、嘆息をする。
――そんな事、ずっと前から知っている。いつからエルに好意を抱いたのか思い出せない。一緒に居るのが当たり前で、ずっと一緒に居られるのだと思っていた。そんな男が、鈍くない筈がない。
沢山の人が死んだ。仲間が、友が、死んでいった。
それでも、俺達は。俺とエルは……ずっと一緒だと。戦いが終わったら、世界を一緒に旅するのだと、そう思っていたのだ。
自分達が特別だなどと思った事など無い。でも、それが当たり前なのだと思っていた。……思っていたのだ。
「それで。その……エルさんに、何があったの?」
結衣ちゃんの言葉に、口を開きそうになって、閉じる。そんな意味の無い行動を数回繰り返し――舌の渇きと喉の引き攣りを感じそうになる頃、ようやく言葉にする事が出来た。
幸太郎が心配そうにこっちを見ている。
俺は一番年上だった。年長で、だからこそこんな弱い所は見せないように頑張ってきたつもりで、どうしても我慢できない時は誰も居ない所で――宇多野さんと一緒に泣いたり、エルに慰められたりしていた。
その弱さを、今は隠す事も出来ずに晒してしまっている。
涙が流れる訳ではない。
約束したのだ。
エルと――もう、泣かないと。死の際で、笑って……笑顔で居てほしいと言われたから。だから俺は泣かないと約束した。
「結衣ちゃん。エル、な――」
思いを馳せる。エルを殺した神の生まれ変わりであるかもしれない少女と一緒に居る、俺の自己満足の為に蘇った彼女と同じ名前、同じ姿を持つ相棒に。
もしこれを伝えた時、アイツは何と言うだろう。
これまでは何だったのだと問い詰められるだろうか。
俺を罵るだろうか。
騙されたと嘆くだろうか。
きっと、エルを蘇らせた時――エルメンヒルデと初めて会った時にちゃんと説明していれば、ここまで悩む必要など無かったのだ。
俺は馬鹿で、愚かで、救いようのない大馬鹿で……アストラエラにエルの復活を願った時に、エルメンヒルデにエルを重ねた。
メダルという形はあってもソルネアと同じ。昼間、ツェネリィアとの会話を思い出すと、中身は何も無かったエルメンヒルデも思い出してしまう。
いくつかの事は覚えている。俺達と一緒に旅をしていた事。一緒にネイフェルの眷属を斬った事。――だが、アイツは肝心な事を忘れてしまっている。
いや、忘れているという言葉は適切ではない。
抜け落ちている。失くしてしまっている。
旅の最中、その所々を。どうやって眷属を、シェルファを、ネイフェルを斬ったのかを。……七つ目の制約が、何を犠牲にするのかを。そして、制約の全部が解放される事が何を意味するのかを。
神を殺すという事。その意味を。
胸元を見る。
そこにはもう、何も無い。
あの時感じた昂りは、消えてしまった。
忘れたわけではない。神を殺した感触も、痛みも――興奮も。忘れないし、忘れても思い出す。
「エル、な。死んだんだ……ネイフェルと戦った、あの時」
視線を、テーブルの上に向ける。
「……そう」
最初に口を開いたのは、アナスタシア。彼女はそう呟くと、そのまま夜の闇の中へ飛び立っていってしまう。
あ、と。気の抜けた声は、俺の口から漏れた。
「お兄ちゃん、どういう……事?」
そんなアナスタシアの姿を目で追うが、すぐに見えなくなってしまう。
代わりに、口を開いたのは結衣ちゃんだ。デルウィン達は、黙って俺の言葉の続きを待っている。
だから、出来るだけ普段通りに――だが、自分でも分かるほど声も身体も固くなっているのを隠す余裕も無い。
説明する。
今までの事を。
あの日、ネイフェルを斬った日に何が起きたのかを。
そして、その事をエルメンヒルデには伝えていない事を。