幕間 彼が居ない一幕
ごう、と。
風が頬を撫で、整えた髪を大きく乱す。特別な事は何一つないというのに、その翼の羽ばたきは台風のような暴風を巻き起こしながら生い茂った木々を大きく揺らした。
その様子を遥かに高い場所から眺めていると、段々と大地が近付いてくる。いや、私達が地面へと降りているのだ。
木々が大きく揺れ、鳥や獣達が慌てて逃げ出す。その様子を上空から眺めていると、ようやく真紅の巨体が地面へと身体を降ろした。
「…………ぁぅ」
それと同時に、真紅の巨竜――ファフニィルの背にしがみ付いていたフランシェスカ先輩が、声にならない悲鳴を上げた。高い所が苦手という訳ではないようだが、巨竜の背に乗るという初めての体験に、必要以上に緊張しているようだ。
そんなフランシェスカ先輩の背中を摩っているムルルはいつも通りの涼しい顔で、同じく最後尾に居たフェイロナさんもまたいつも通り。
「ふむ。もう少し、ゆっくりと飛んだ方が良かったか?」
まるで雷鳴のような、腹の底にまで響く重い声音でファフニィルが言う。心配している声音は竜の王が口にするには優しくて、声には出さずに口元だけを緩めて笑う。
魔術で空気を綿のように柔らかくして、ファフニィルの背から飛び降りる。周囲には誰も居ないが、スカートが捲れないように押さえて飛び降りると、私の想像通りに柔らかい感触が私を受け止めてくれる。
そんな私に倣うようにフェイロナさんが、続けてムルルが飛び降りてくる。最後はフランシェスカ先輩で、こちらも私と同じようにスカートを押さえながら飛び降りた。
「ありがとうございます、ファフニィル」
「気にするな」
「ふふ……結衣が折角、貴方の為に可愛い花冠を作っていたのに。ごめんなさい」
「――意地が悪いぞ、アヤ」
私がからかうように言うと、その真意を悟った竜の王は面倒臭そうに顔を逸らした。しかし、その本心は面倒臭いではなく照れであろう。
結衣は、ファフニィルが大好きだ。ナイトもアナスタシアも大好きだけど、ファフニィルの事も大好きだ。そのファフニィルは竜の王。ドラゴンの頂点に立つ者。この世界における最強の一角という事で、周囲からはかなり怖がられている。
それはそうだ。翼の羽ばたきは嵐のような暴風を起こし、その吐息は一瞬にして大地を焼き尽くす。翼竜なので腕はないが、足の爪は岩を砕き、その牙はオーガすら一噛みだ。
怖がらない方がどうかしている……というと、怖くない私達が変なようにも誤解されそうだが。結衣としては、もっと周囲の人達にファフニィルと仲良くしてほしいらしい。
その為に色々と頑張っているようで、先ほどは亜人や獣人の子供達に好かれるようにとお花でファフニィルをコーディネートしようとしていた。
まあ、うん。方向性はアレだけど、その努力はよく理解できる。方向性はアレだけど。
そして、その結果がどうなるかなど分かりきっているファフニィルは、私達が精霊神様と会うために必要な物を集めるのをこれ幸いと、珍しく自分から移動手段になると言い出したのだった。
……本当に、一年前からしたら優しくなったというか、柔らかくなったというか。以前なら、一喝して結衣を泣かせていたところだ。
そうなった場合、アナスタシアやナイトと大喧嘩なのだが。
「大丈夫ですか、フランシェスカ先輩?」
「は、はい。……ありがとうございました、ファフニィル様」
ムルルに背中を摩られて落ち着いたのか、まだ足元がふらつきながらもフランシェスカ先輩はファフニィルに頭を下げる。
同じように、フェイロナさんとムルルも頭を下げて運んでくれた事へ礼を言った。
「……我も少しユイから離れたかったのでな。気にするな」
ぶっきらぼうに言うが、それは私達以外からはお礼を言われ慣れていないからだろう。
そう考えると、ファフニィルのこういう対応も可愛いものだ。先日の黒いドラゴンへと対抗する為か、その外見は私達が知っているファフニィルの姿と大きく違っている。
身体つきは一回り以上も大きくなり、身体の節々は鋭角的な形状へと進化した。以前よりも攻撃的で、雄々しい姿。その瞳で見据えられれば心臓を鷲掴みにされるような威圧感を受けるのだろうが、今は気恥ずかしさに顔が逸らされてしまっているのはこの一年での結衣が頑張った影響か。
どうにもこのドラゴンは、人間臭い動作が似合うように思う。
「ふん。それよりも、さっさと魔物を狩り出してこい。我も、何時までも待っているほど暇ではないぞ」
「ええ。すぐに済ませてくるわ」
私の内心を感じたのか、またぶっきらぼうな声。暇ではないと言いながら、それでも待ってくれている辺りがまた可笑しくて小さく笑ってしまう。
話は終わりとばかりに一度大きく息を吐くと、そのまま黙ってしまった。まあ、寝たふりだろう。こういう所は、どこか蓮司さんに似ている気がする。あの人は、照れ隠しに話題を逸らすのが上手だが。
「それじゃあ、いきましょうか」
そんなファフニィルから視線を逸らし、フランシェスカ先輩達を見やる。本来なら世界樹の麓からここまで歩くと数日は掛かるのだが、ファフニィルの翼で運んでもらえば半日も掛からない。
やはり、森の中を歩くよりも空を飛んだ方が遥かに早い。
更に、ファフニィルが現れた事で驚いたのか、本来なら警戒しなければならない獣や他の魔物達も逃げてしまっている。これならすぐに、巨猿を見付ける事が出来るだろう。あの魔物は、どれだけの危機が迫ろうが住処から逃げる事は無い。その習性は、相手がドラゴンであろうと変わらない……と思う。
「ムルルは、エイプを狩った事は?」
「ある。お父さんと一緒に、だけど」
「なら大丈夫か」
「うん」
別に、エイプには特別な能力は何も無い。見た目が悪いとか、体臭が物凄いという事も無いのだが、あの種族は巨猿……猿と言うだけあって、森の中での戦いに慣れている。
きっとそれは、獣人であるムルル以上であろう。だから蓮司さんも、私達だけだと心配だといったのだろうが――私だってエイプと戦うのは初めてではないし、あの時よりも経験を積んでいるのだ。いつまでも子供扱いされるのは、何というか――。
「よしっ」
一つ気合を入れて、森の中へと踏み込む。気温の高いエルフレイム大陸は、森の影に入るだけでも随分と暑さが和らぐ。ファフニィルに運ばれながら風を感じていたが、やはり地面に足をつけると日中という事ですぐに体温が上がってしまう。
そんな私達には、陰に入るだけでも十分涼しくて、気持ちが良い。この大陸に来て約一月。少しは暑さに慣れたフランシェスカ先輩であるが、やはりこの涼しさには気持ちが落ち着くのか、その表情が目に見えて和らいだ。
「それで、これからどうすればいいのだ?」
「特には何も。住処に近付けば、気が立った雄が向こうから現れてくれます」
「そうなのですか?」
「はい」
エイプは雌雄での役割が明確に分かれている。雄は住処を守り、雌は住処で子供を育てる。精霊神様が好きなのは、雄の肉。特に尻尾が好物……らしい。
らしいというのは、教えてくれたのが蓮司さんだからだ。この大陸に住む人達はエイプを丸ごと一匹お供えするのだが、ツェネリィア様が食べるのは尻尾かららしい。蓮司さんの話だと、ツェネリィア様は好きなモノから先に性格なのだそうだ。
本当に、そういう所はよく見ている人だと思う。
まあ、それはさておき。
「それと、殺すのは一匹だけです。運ぶのが大変ですし、エイプはツェネリィア様の好物ですので乱獲すると、ちょっと……」
「あまり、獣人や亜人の方々に良く思われないのですね」
「なるほど。魔物であっても、殺し過ぎるのは良くない相手という訳か」
「エイプは特に、ですね。この大陸では、ツェネリィア様にお伺いを立てる時以外には、基本的には手を出してはいけない相手です」
それは、向こうからは攻めてこない相手だからでもある。縄張りに入り込めばその限りではないが、エイプの住処は誰もが知っているのでそのような危険は誰も犯さない。
「ツェネリィア様は雄のエイプが好きですから、それを一匹」
「罠にかけるのか?」
「いいえ。正面から戦って倒します」
「……大丈夫なのですか?」
エイプがどのような魔物なのか知らないフランシェスカ先輩が聞いてくる。それはフェイロナさんも同じはずなのだが、この人は相変わらず落ち着いている。
それが顔に出ていないだけなのか、それとも内心まで落ち着いているのかは分からないが、こうやって慌てない人が居るというのはそれだけでこちらも気持ちが落ち着いてくる。
「大丈夫。一匹だけなら、私一人でも倒せる」
「そうなんだ。でも、あんまり一人で無理をしたらダメだからね?」
「うん」
ムルルがどこか自慢するように言うと、その柔らかそうな白髪をフランシェスカ先輩が手櫛で梳くように撫でた。嬉しそうに目を細めるムルルに、フェイロナさんも僅かに目元を緩めて頬笑みを浮かべている。
その仕草は本当に可愛くて、蓮司さんが色々と世話を焼く気持ちもよく分かる。
まあ。その結果、グラアニアさんが色々と寂しい思いというか、ムルルに冷たくあしらわれてしまっているが……まあ、年頃の女の子は往々にしてそういうものだ。……私も、ムルルと同じ年くらいの時は、蓮司さんに冷たく当たってしまったし。
この世界に召喚されたばかりの頃を思い出し、懐かしい気持ちになる。
そして、蓮司さん……みんなと一緒に、エルフレイム大陸の森の中を歩きまわった事も。あの頃はアナスタシアやファフニィルがまだ仲間になっていなかったので、苦労したものだ。デルウィンさんやグラアニアさんからは余所者として敵視されていたし、地図は無いしで。森の中をどう歩けばいいのか分からなかったのだ。
「大丈夫ですか、フランシェスカ先輩?」
「ぁ、はい。慣れたつもりでしたが……やはり、森を歩くとなると暑いですね」
そう言って、胸当てで守られた胸元のブラウスを指で摘まむと、風を入れるように引っ張る。その度に、過剰に揺れる肌色が視界に入るが、気にしないようにする。
ただ、はあ、と。重苦しい溜息が漏れてしまったが。そんな私を見て、フェイロナさんが僅かに口元を緩めるだけの頬笑みを浮かべた。その視線に気付いてそれとなく視線を逸らすと、よく分かっていないフランシェスカ先輩と視線が合って笑顔を向けられてしまう。
……もう一度溜息。すると、私がどうして溜息を吐いたのか分からっていない先輩は、少し慌てていた。
その事に溜飲を下げるとまではいかないが、気持ちを軽くして歩いていると、いくつかの気配が私達を囲んだ事に気付く。三人も気付いたようで、私が足を止めるとすぐに周囲を警戒する。
すると、まるで腹の底にまで響きそうな、重低音の咆哮。
身長が約三メートル程もありそうな巨猿が、叢から姿を現した。数は一匹だが、気配は――あと四匹は居るのではないだろうか。
その身長と同様に巨大な拳で胸を叩きながら開戦の声を上げる。その姿は、私達の世界でいうゴリラそのものだ。違いがあるとすれば、その巨大さか。
茶色の体毛に覆われ、その瞳には住処へと近付く私達に対しての敵意だけが宿っている。人と接する生活をしていないからか、外敵への警戒心に乏しく獰猛な性格。目を離すと身軽に木々へ飛び移り、その巨体とは裏腹に素早い動きで間合いを詰めてくる身体能力。エルフレイム大陸に住む魔物全般に言えることだが、森に覆われた場所だからこその戦い方を熟知している。正面や左右からではなく、上からも攻めてくる。平地の多いイムネジア大陸ではあまり馴染みの無い戦い方であろう。
森の薄暗闇に現れた巨猿に、フランシェスカ先輩が息を呑む気配を背後に感じる。一歩、私の前に剣を抜いたフェイロナさんと両腕の肘から先を白い体毛で覆われ、鋭利な爪を伸ばして戦闘態勢を整えたムルルが出た。
「……上に行く」
呟いて、ムルルが木の幹を足場にして器用に大樹を蹴り上がっていく。
それを追って、巨猿もその巨大な腕で木の幹や枝を掴みながら上へと登っていった。薄暗い森の中、黒い体毛に覆われた巨猿は目で追う事が難しいが、逆に白い装束に身を包んだムルルは見付けやす。
木の幹を足場にして数合打ち合うと、離れる。その戦い方には危うさなど感じられず、あと数合もすればエイプの動きを捉えるだろうと誰の目にも予想できる。
「ムルルが動けるとは分かっていたつもりだが、改めて見ると凄いものだな」
フェイロナさんが呟くように言う。
確かに、と思う。獣人の身体能力がどれ程かは知っているが、ムルルの歳であれだけ動ける獣人は稀だろう。
獣人の長の娘であるとしても、あの身体能力は突出している。もう少し成長して経験を重ねれば、獣人の中で名を残せる戦士となれるだろう。
純白の体毛に肘まで覆われた両腕が翻るたびに、巨猿の悲鳴が上がる。
「油断するな」
そう言ったフェイロナさんが、剣を握り直しながら周囲を見やる。不自然に叢が揺れ、いくつかの気配が肌を刺す。
先ほど巨猿が行ったドラミングの音に寄ってきた、他のエイプ達であろう。慌てて、フランシェスカ先輩が精霊銀のショートソードを鞘から抜く。
「ムルルちゃんは――」
「大丈夫だろう。あまり普段と変わらない様子だったが、多分張り切っているだけだ」
一人でエイプの相手をしているムルルをフランシェスカ先輩が心配すると、フェイロナさんが的確な答えを口にする。多分、出る前に蓮司さんから私達を頼むと言われているので、やる気を出しているのかもしれない。
表情や仕草、態度はいつもと変わらないようだが、今日のムルルはやる気がある。それは、フェイロナさんも感じていたようだ。
そう考えながら、私も腰から精霊銀製の儀礼剣を抜く。魔力を込めると、銀色の刀身に黄金の魔力光に照らされながらエルフ文字が淡く浮かび上がった。
「フランシェスカ先輩。よく見ておいてください」
「はいっ」
彼女は、貪欲だと思う。
年下である私が言う事にも素直に頷いて、少しでも自分の目で見た情報を自分の物にしようとしている。蓮司さんから魔力が少ないとは聞いていたが、魔術に最も必要なのは魔力の強弱ではなく、想像力と集中力だ。
幻想を想像する力と、どのような状況でも明確に想像する事ができる集中力。
蓮司さんや宗一が斬る事に集中するように、魔術師は魔術を練り上げる事に集中する。剣と魔術の違いはあれど、戦いの中で集中力を持続する事は難しい。
フランシェスカ先輩には、魔力は少なくても想像力と集中力はある。それは、魔術師としては確かな才能だろう。
そんな事を考えながら、不自然に揺れる叢に視線を向ける。
数は二匹。こちらを焦らそうと姿は見せてこないが、魔力の流れというか、気配で分かる。
魔術師は、魔力の流れに敏感でなければならない。相手がどれだけの魔力を練り上げているかで放とうとしている魔術の強弱、行動の予測……波長が合えば、思考の流れまでもが読めてしまう。
流石にエイプの思考までは分からないが、その体内に流れる魔力の反応から、こちらへ飛び掛かろうと体内に力を溜めているのだと分かる。
その行動を予想しながら、私もまた魔力を練り上げる。
以前ならば攻撃的な魔力を発現させ、向かってくるエイプを力で吹き飛ばしていただろう。
私の魔力ならばほんの僅かな、手の平に乗るサイズの魔力弾でも二匹のエイプと――そして、エイプを中心にした一帯を吹き飛ばしていたはずだ。しかしそのような事はせず、練り上げた魔力を精霊銀の儀礼剣へと流し込み、剣を杖に見立てて地面へと突き立てる。
突き立てた剣からこの周囲一帯の大地へ私の魔力が広がる想像。私の魔力に触れた木々は私の意のままに操られ、手足となって敵を縛る。
そう考えた瞬間、剣を突き立てたまま微動だにしない私に痺れを切らしたのか、二匹のエイプが叢から飛び出してきた。
全長三メートルほどもある二匹の巨猿が勢いよく飛び掛かってくる様は、確かに恐怖を感じる瞬間であろう。しかし、その事にも集中を乱さず、淡々と魔術を想像する。
「縛れ」
一言。
呪文のように呟くと、周囲にあった植物の蔦が、木の枝や根が、飛び上がったエイプへと絡み付いて動きを封じる。両手両足を大の字に、更には首や胴にも。身体全体に絡み付かれては、いくらエイプが怪力であろうと抜け出せるものではない。更に絡みついている蔦達には私の魔力が流れ込んでいるので普段のソレよりも遥かに強靭となっている。
その直後、そんな二匹を囮にして背後に回った別の二匹が叢から飛び出してきた。
しかしその二匹も、オーガの腕と同じくらい太い木の枝を鞭のように撓らせて弾き飛ばす。
悲鳴と共にエイプが吹き飛ぶが、その勢いのまま空中で体勢を整える。しかし、体勢を整えながら地面へ降り立った瞬間に、フェイロナさんが私の目でも驚くほどの速さで弓を構えて矢を番えた。
「ふっ」
そのまま、何の躊躇いも無く放たれた矢はエイプの右膝を撃ち抜いた。そのまま一匹は踵を返して、腕で枝を渡りながら逃げ出してしまう。
残りの一匹は、草の蔓で四肢を拘束されてしまう。私がしたソレよりも蔓は細いし、拘束も甘い。しかし、動きを一瞬でも止めるには十分だ。
その拘束を引き千切ろうとエイプが腕を大きく振り、その一瞬で私が新しく拘束し直す。
「あ」
同時に、身体全体を鋭利な爪で斬り裂かれて首元を大きく割られたエイプが、木の枝を巻き込みながら落ちてきた、。
それとは逆に、木の枝を足場にしながら降りてきたムルルが気の抜けた声を上げる。続いて、どこか不満そうな……でも普段とあまり変わらない眠たそうな表情で拘束されている三匹を見た。
「……はあ」
そして、溜息。
張り切っていたのに、自分が居ない間にエイプを倒した事が、お気に召さなかったのだろう。
そんなムルルの頭に、フェイロナさんが手を重ねる。
「助かった」
「うん」
仲が良いな、と。そんな二人を微笑ましく思いながら、拘束されている二匹へと歩み寄る。
「フランシェスカさん。少し良いですか?」
「はい」
私が呼ぶと、フランシェスカさんも拘束されているエイプへと歩み寄る。
「使えるかどうかは分かりませんが、憶えていて損はないと思います」
「え、っと?」
「この拘束です。手首と足首、肘に膝。それと、肩と首と胴。手足を持つ魔物は、人間と動かせる関節はほとんど変わりません――」
腕を振ろうとするなら方から肘、そして拳へと力を込める。ならその肘と手首を拘束したなら拳を振うことは出来ない。
足を動かそうとするのも同じだ。股関節から膝、そして足へと力は伝わるのだ。
その支点を拘束し、後は胴と首でも押さえれば前進は動かなくなる。拘束を解くにしても出来るのは鋭利な爪のある指だろうが、その指も拘束してしまえば無力だ。
説明しながらエイプの五指、その一本一本を蔦で拘束する。これで完璧。どれだけエイプが怪力であろうと、この拘束からは逃げられない。
「こうすれば、理論的にはどのような魔物も人型であれば完全に拘束できます」
「…………」
返事が返ってこないのは、あまり理解されていないからだろう。
この世界は戦いに明け暮れた世界だが、人体の構造にはまだまだ疎い。それは、医学が発達しておらず、かわりに回復の奇跡と言った魔術が発達してしまった影響だ。
だから、関節だのを説明してもあまり理解してもらえない。
けど。魔力の少ないフランシェスカさんなら、知っておいて損はないはずだ。この人は私と真逆だが、私と同じでもある。
強力過ぎるから周囲を破壊してしまう私。非力すぎるから魔力の使い方を考えなければならないフランシェスカさん。
なら、こういう拘束術を手段の一つとして教えておくのも悪くない。……使えるかは、この人の努力次第だが。
「ありがとうございます」
丁寧にお辞儀をされると、恥ずかしくて視線を逸らしてしまう。
慣れたけど、こうやってまっすぐにお礼を言われるのは、少し苦手だ。それが、私より綺麗で、年上で……まあ、胸も大きい人なら尚更だ。
「……?」
ふと。視線を逸らした先、フランシェスカ先輩と一緒に拘束したエイプが視界に映った。
それだけなら特に思う所は無いのだが……その瞳の色。私が知っているエイプとは違う、紅い瞳と視線が重なった。
そのエイプへと歩み寄る。
敵意をむき出しにして喚き散らすのは野生の獣そのものといえる反応だが――。
「どうかしたのか?」
ふと感じた違和感は何なのか。
直感ともいえるものを言葉に出来ずに黙ってしまうと、そんな私の背にフェイロナさんが声を掛けてくる。未だ弓に矢を番えているのは、未だエイプの縄張りの中だからか。
そこで、違和感の正体に気付いた。
矢で射られて逃げたエイプと、それでもなおこちらへ向かってきたこのエイプ。
エイプは外敵との接触が少ないからか、痛みに敏感だ。少しの痛みでも、必要以上に驚いて逃げてしまう。
そのはずなのだが、この一匹は逃げなかったのだ。その事が気に掛かると、次はその瞳の色に気付く。普通のエイプは濃い茶色の瞳なのだが、目の前に居るエイプは血のような真紅の瞳。
僅かな違和感は、私が魔神討伐の旅で培った信用に足る勘でもある。
「このエイプも連れて帰ります」
「え?」
「少し気になる事がありまして」
蔦でしっかりと拘束し直してエイプの巨体を持ち上げると、そのまま器用に木の枝や新しい蔦で持ち直しながら運んでいく。
ついでに、すでに絶命している雄のエイプもだ。私が最初に拘束した二匹はその場に置き去りにして、私達が森を出る頃に解放しようと思う。
「き、器用なのですね」
「そうでしょうか?」
このくらいなら、王都に務めている魔術師でも出来ると思うが。……まあ、比べる相手が間違っているのか。
アルバーナ魔術学院の生徒では、ここまで器用に木の枝や蔦を操るのは難しいだろう。いまだ、必死に暴れているエイプを何とはなしに見上げる。
「これでも、この世界に召喚された十三人の中で、私が一番不器用なんですけどね」
それは謙遜などではなく、明確な事実。もし私がムルルのようにエイプを倒そうとしたら、この森の一角を吹き飛ばしてしまっていたかもしれない。
以前よりも魔力の扱いには慣れたが、やはり細かな制御は苦手だ。
私は――こうやって植物を操ったり落とし穴を作ったりする以外は、やはり強力過ぎる魔力に振り回される時がある。
この魔術だけは、蓮司さんが魔力の扱いが苦手な私の為に考えてくれたこの魔術だけは、細かな制御が出来る。…………。
「どうかしたのですか?」
「い、いえっ」
そう考えると、集中が乱れてしまった。もう絶命しているエイプを落としそうになって、フランシェスカ先輩から心配されてしまった。