第四話 女神と精霊神と神殺し3
相変わらずデカいなあー、と。陽光を弾く瑞々しい緑葉の輝きに目元を隠しながら、世界樹を見上げる。
天を衝きそうという表現はこの大樹の為に在るのでは。そう思えるほどの威容。
緑の多いエルフレイム大陸は空気も綺麗で、深呼吸をするだけで身体の芯から浄化されそうに感じるのだが、世界樹は見ているだけで胸の内まで透きそうだ。
「レンジは」
「うん?」
しばらくのんびりと世界樹を見上げていると、隣に立つソルネアが不意に声を出した。
そちらを向くと、ただじっと俺を見ていた。
「自然が好きなのですか?」
「まあ、そうだな。自然も、綺麗な景色も……なんだろう。こうやって、のんびりと風景を眺めるのが好きなんだ」
『そうだな』
俺の言葉に、エルメンヒルデが同意してくれる。
ポケットからメダルを取り出してその縁を指でなぞると、頭の中に照れの混じった低い笑い声が届く。
その事に気を良くしながら、今度はメダルを撫でながら世界樹を見上げる。
阿弥達は、もう精霊神と会うのに必要な儀式の触媒を取りに出かけただろうか。ふと、そう考える。まあ、俺よりも実力はあるのだから心配するのもどうかと思うのだが。
「ソルネアは、何か好きな事はあるか?」
「どうでしょうか」
そう聞くと、以前のような「わかりません」とは別の返事が返ってくる。
海上で俺と別れて何かあったのか、ソルネアの態度というか、立ち振る舞いは少し変化したように思う。何があったのかは聞いていないが、それは良い変化だろう。こうやって話しているだけでも、会話が成り立つというのはソルネア自身にとっても良い事だろうから。
俺の問いへ返事を返すために思考する横顔を眺めながら、口元を緩める。
この感情を、どう表現するべきか。子供の成長を見守るような感じだろうか。この世界に来て、子供たちの成長を見ていた時に感じていたような……あの時に似た感情だ。
「ですが。この大樹の威容は、見ていて不思議な気持ちにさせられます」
『不思議?』
「はい」
その不思議がどういう感情なのかは分からないのだろう。しかし、確かに胸の内――心か、精神か。言葉に出来ない場所で、何かしらの感情を抱いているのだろう。
「そうか」
「はい」
ただそれだけの言葉を交わして、歩き出す。
世界樹へ近付くと、その周囲を見張っている数人の獣人、亜人達がこちらへ視線を向けてくる。幾人かは面識がある、俺達が初めてエルフレイム大陸へ来た時から世界樹の守り人をしている人だ。
挨拶を交わして、世界樹の麓へと歩み寄る。
その根、一本にしても俺の胴体よりも大きい。それが四方へと伸びており、根の先はエルフレイム大陸の端まで届いているという話だが調べたわけではない。
洞へと続く石造りの足場を登る。その洞の中はまるで奈落へでも続いていそうなほどの暗闇。まだ昼間だというのに、太陽の光すら飲み込む真っ黒。洞の傍には精霊神への捧げ物を乗せる祭壇があり、屋外に置かれているというのに汚れはほとんど無い。
本来ならばここへ捧げ物を乗せる事でつながる門なのだが、俺とソルネアが洞の前へ立つと、先ほどまでは光を呑み込むほどの暗闇だった洞の中に、一条の光が灯る。
その光はか細く、弱々しい。手が届きそうなほど近くにも感じるが、実際には手を伸ばしても届かないほど遠くの光源だ。
「レンジ?」
「なんでもない」
そのか細い光では闇に飛び込むには心細過ぎる。幸太郎が創る転移用の黒い穴もそうだが、どうにもこういった“飛び込む”物は苦手だ。
元の世界でもそうだったが、飛行機というものも苦手だった。地に足がつかないという事が不安なのだ。人間は歩く生き物なのだから、地に足をつけて歩けばいい。腹に力を込めれば両足が地面を踏みしめ、力を込めて剣を振る為には地面を蹴る。
宙に浮く、空を飛ぶ、空間を渡る。
もし不測の事態となった時に地面を蹴れないという事は、どうにも不安に感じてしまう。ファフニィルのような巨体の背中なら少しは慣れたが。
その弱気をソルネアに――そしてエルメンヒルデにも気付かれないように、小さく息を吐いて気を強く持つ。
「それじゃあ、行くか」
『ああ』
気合を入れる。そのままソルネアの手へ自分の手を重ねると、必要以上に力を込めてしまった。
そこの事に自分で気付き、力を緩める。すると、ソルネアと視線が合った。
「なにか?」
「いや。なんでもない」
そのまま、一条の光が差す暗闇の中へと歩を進める。
足がスライムのような軟体を連想させる柔らかなナニカを踏む感触は一瞬で、すぐに身体は浮遊感へ包まれる。
淡かった一条の光は少しずつ強くなり、その“出口”へと向かって身体が勝手に進んでいく。
ソコは、神の住まう精神の世界――らしい。
詳しい事は分からないが、ここでは魂とも言うべきモノが形を成し、言葉を交わす事が出来る場所であるらしい。
辺り一面は白一色。だというのに眩しいとは感じず、また熱さも冷たさも感じない。ただここに居て、存在している。立っているのか、呼吸をしているのか。それすらも曖昧なのは、この空間の情報を肉体ではなく魂が理解しているからかもしれない。
その光の中に、一際輝く靄がある。白の中の輝き。現実の世界でなら認識するのも難しいであろうソレを、俺は特に意識する事も無く見る事が出来た。
「ツェネリィア様」
『来たか』
その声が、頭に響く。
エルメンヒルデと同じ要領で言葉を伝えているのだろうが、頭の中で聞こえる声はエルメンヒルデよりも重く、頭の芯にまで響くように感じる。
長時間聞いていたら、それだけで頭痛を感じそうな声だと思う。それは、この神がエルメンヒルデよりも力が強いという事の証明だろう。
『もう少し早く来ると思っていたのだがな』
「申し訳ありません。少々、魔族の邪魔がありまして……」
『気にしていない。どれだけ急ごうとも、結果はまだ変わらない」
結果はまだ変わらない、か。
その間だの部分に色々と含みを感じるが、さてどう切り出したものか。
『それと、その話し方は止めよ――面白くない』
そう悩む俺へ向け、ツェネリィアの声が届く。声というよりも、意思か。力強いという訳ではないが、頭ではなく身体の芯まで響くソレに、顔を顰める。
どうして神様というのは、こういう言葉遣いを気にするのだろうか。王都でアストラエラと話した際にも、同じ事を言われたような気がする。
『どうにもお前以外の人間は、畏まる話し方ばかりでつまらん』
「どちらかというと、俺も畏まる話し方の方が楽なんだがね」
それだと臍を曲げるのだ、この神様は。アストラエラもそうなのだが、この世界が出来てどれだけの時間が過ぎたのかは分からないが、そんな記録にも残っていない昔から堅苦しい言葉ばかりで話されると、俺のように砕けた口調で話す人間の方が珍しいのだろう。
まあ、俺だって最初は畏まった口調で話していたのだが。相手は神様。超常の存在。アストラエラは人型を取るが、基本的にアストラエラやツェネリィアには特定の形というものは無い。
強いて言うなら、今のように輝く靄。それこそが、神としての形なのだろう。
人の――四肢を持つ形というものは、とても戦いには向いていないと思う。細い手足は壊れやすいし、薄い肉付きの胴体は少し力を込めただけで折れてしまいそう。
……魔神ネイフェルとの決戦。あの時の形状を考えれば、いかに人が脆いのかがよく分かる。その脆い身体で戦うからこそ、人は群れるようになったのだろうか。そうやって群れるように女神と精霊神は人型を作り、魔神は人の天敵として魔物を作った。
その結果が世界の危機であり、ネイフェルの願い……言葉を変えるなら、夢や希望のようなものか。
女神が平穏を、精霊神が微睡みを望むように――魔神は闘争を望んだ。闘争の果てにある人の進化、その『人間』との戦い。
戦いを望まれる側からすると、迷惑この上ない願いなのだが。
『アストラエラのように、形を伴った方が話しやすいか?』
「……そういう問題でもないと思うが」
しかし、俺の呟きなど聞いていないようで、目の前にある光の靄が輪郭を帯びていく。
光が形を成すというのも、中々見る事の出来ない光景であろう。そうぼんやりと考えていると、徐々に一つの形となって良き……。
『こんな所か』
「…………」
そうして眼前に現れたのは、大きな虎。白の体毛に覆われた姿は、時折ネットで見ていた白虎とでも呼称するべきか。
俺やソルネアを見下ろすほどに大きく、だが丸まっている姿は愛嬌がある。
……威圧感よりも先に愛嬌を感じる辺りに、この精霊神のだらしなさが窺える。難しい言葉を並べても、コイツが面倒臭がりな性格である事はもう知っているのだ。
「それで。結果がまだ変わらない、っていうのはどういう意味だ?」
『そのままだ。ネイフェルの残した者達が用意しているモノは力の集合体だ。器が揃わなければ、意味が無い』
「器は、あのドラゴンだろう?」
そう言うと、沈黙。この世界最強とも言われる生命体、ドラゴン。神には及ばないまでも、その生命力は人知を越え、だからこそ魔神の力――あの黒いドラゴンとして生き永らえている。
並の魔物や魔族であれば、力の大きさに耐えられずに絶命しているはずだ。
きっと、あの黒いドラゴンはまだまだ強くなる。魔神の力に耐え、それに合わせて進化してく。その結果が新たな魔神……そうではないのか?
しかし、そんな俺の思考を読み取っているはずのツェネリィアは何も言わずに俺の言葉を待っている。いや、言うかどうか迷っているのか?
この世界は、魂が反映する。思考は透け、言葉にしなくても強く思えば相手へ伝わる。
だからこそ神と対話する事が出来るこの場所だからこそ、神の意思を――その感情を僅かながら感じる事が出来た。
『アレは紛いものだ。いずれ、破綻する』
僅かに混じる感情は、呆れ。
結局は、ドラゴンも世界の創造物――その一つに過ぎない。いくら強靭でも、成長し続けるとしても、世界を内包するのは難しいという事か。
そしてその結果は、ネイフェルと同じ道を辿るのかもしれない。今ではなく、数年先、数十年、数百年……そして、また俺のような神殺しが用意される。もしくは、また俺が殺す事になるのか
『真の器は隣に居る』
言われ、視線を隣へ向ける。
そこに居るのは、アストラエラから新しい神の器として生まれたと言われていた女性。黒髪黒衣の――。
『お前は、ネイフェルの願いを知っているな?』
「ああ」
強者との闘争。
世界の敵へ向かう勇気、神と戦える力、バケモノに臆さぬ意思……犠牲を糧に出来る器。
女神アストラエラが用意した、魔神ネイフェルを殺す者。殺す武器。俺とエル――俺達との戦い。
殺し、殺される。神ではなく一つの命としてその闘争を楽しむ事。
『神になるという事は、受け継ぐという事だ。力を』
「……そうなのか」
隣を見る。俺の隣に立つソルネアは、何を言うでもなくただ俺とツェネリィアの会話へ耳を傾けているように見える。
魔神となる。その力を受け継ぐ。精霊神の口……口は無いが、言葉でそう言われても、表情に変化はない。凪のように静かな、感情の映らない瞳で純白の虎を見ている。
『ソレはネイフェルの願いの形であり、叶わなかった結果だ』
「ソルネアが?」
『正直な話、お前がネイフェルを斬れるとは思っていなかった』
その、突然の告白に息が詰まりそうになる。それは、俺も思っている事だ。
俺が神を殺せるなど、俺自身が思っていなかった。神は人という存在を超越した概念だ。それを斬るには、相応の犠牲と――痛みが必要になる。
沢山の仲間が死に、その魂を以て俺とエルの繋がりを強固なモノへと成長させた。
魔神の眷属を斬る事でエルはその魔力を奪い、最終的には生みの親であるアストラエラに匹敵するほどの力――女神エルメンヒルデと呼ばれるに相応しい力を手に入れた。
その力は俺を支え、アストラエラの魔力を十全受け止める事が出来る“器”となった。魔力を持たない身体だからこそ、何色にも染まっていない魂だからこそ、器として最適だったのだろう。
何も無い肉の身体と、アストラエラに匹敵する神殺しの武器と、アストラエラの力。
二人の女神に支えられ、俺は神を斬った。その事を思い出すと、胸が締め付けられる。
「そうだな。俺が神を殺せたのは、奇跡なんだろうな」
何かが一つでも欠けていたら結果は違っていたのだろう。
俺を支えてくれた仲間達、魔力の無い身体、エルの信頼、アストラエラから科せられた制約――俺の願い。
もし俺がこの世界に召喚された時に魔術を使えるように願っていたら、エルを願っていなかったら。もしもの話だが、もっと違う形で世界は救われていたのか、それとも滅んでいたのか。
……そうやって、もしもの話へ浸るのは、また後か。
「それで。ソルネアがネイフェルの願いの形っていうのはどういう意味だ?」
『そのままだ。アレの希望。その願いの形だ』
それはまた大層な、と息を詰まらせる。
「希望?」
『ヤマダレンジとエルメンヒルデ。神殺しと神殺しの武器。人間と神。どれが適切かは分からぬが、お前達は我らの予想を超えた』
そこまで言われると、気恥ずかしい。何となく視線を逸らして頬を掻く。
『ネイフェルの願いは二つだ』
そんな俺の事など無視するかのように、ツェネリィアの声が頭に響く。
『お前達との戦い。そして、生を楽しむ事』
その言葉が、胸の奥――そこに在るのかもしれない、魂へと刻み込まれるように。
重く、深く、苦しさすら伴って響いた。
『戦いには満足した。次は生きる事だ』
「……生きたいのか?」
『生きたいのだ。アストラエラが人の祭りを楽しむように、我が微睡みへ沈むように……』
「寂しかったのですね」
つい、と。ソルネアが口を開いた。
「羨ましかったのですね」
それは、聞き慣れない言葉。
魔神の口からは、ついぞ形とならなかった言葉。
「だから私には何も与えられなかった」
『そうだ。空であるからこそ得られるものがある』
それは、神と、神の力を与えられなかった器だからこそ通じる何かなのだろうか。
右手に握ったままだったメダルを見る。
「分かるか?」
『黙っていろ』
茶化してみるが、どうやらエルメンヒルデにも分からないようだ。
それもそうか。
何も無いのは――俺も、お前も同じなのだから。