第二話 女神と精霊神と神殺し1
屈伸をして、身体を伸ばし、関節をコキコキと鳴らす。
シェルファとの戦いの影響というか、アストラエラから力を借りた代償というか。ようやく体が本調子になったのは、アレから五日後の事だ。
皆がまだ寝静まっている時間帯、農作業をする人達が動き出すより少し早い時間。宿屋を抜けだして、傍にある家畜小屋の前にある広場で身体の調子を確かめる。寝たきりという訳ではなかったので身体がまったく動かない、という訳ではない。しかし三日も剣を振っていなかったのが影響しているのか、どうにも腕が重いように感じてしまう。
右手に神剣を握ると、軽く振る。空気を切る音と共に、足元の草が宙を舞う。風に煽られて高く舞った草を追うように剣を振ると、何の抵抗も無く切り裂く事が出来た。
俺の行動を見ていたからという訳ではないだろうが、ブルルと牛のような家畜が低い声を出した。
「ん」
良い調子、と。言葉にすることなく、数度剣を振る。
特に何かを考えて剣を振っているわけではない。思うまま、気ままに振っているだけだ。型など何もないし、ボクシングのシャドーのように誰か相手を想像しているわけでもない。
そうして身体を解すと、段々と剣を振る速さを上げていく。斬り下ろし、斬り上げ、薙ぎ。袈裟に斬り。踏み込んだ足を軸にした回転斬り。
長剣と短剣の二刀持ちになり、受け、突き、払う。
最後にダガーを家畜小屋の柱を狙って放つ。放った二本は狙い違わず家畜小屋の細い柱へと突き刺さった。
「ふう」
息を一つ吐く。常夏のエルフレイム大陸は朝方でも気温が高く、軽く動いただけでも額に汗が滲む。まだ二の月――地球で言うなら三月前半という時期だというのに、と思う。
今でこれなら、夏になったらどうなる事か。そう思いながら、手に持っていた剣を一振り。
神剣が翡翠の魔力となって霧散し、後には何も残らない。
程良い疲労感に口元を緩めていると、パチパチという手を叩く音がまだ薄暗い世界に響いた。
音がした方へ視線を向けると、家畜小屋の周囲を囲う柵の上にグラアニアとデルウィンが座り込んでいた。
いつからそこに居たのか気付かなかった。エルメンヒルデが教えなかったので、きっとコイツも気付いていなかったのではないだろうか。
この時間に起きているのが自分以外にも居たのかと、軽く驚いてしまう。
「……そんな所に座って――器用だな」
「なんだ。拍手するまで気付かなかったことが恥ずかしいのか?」
俺が一拍の間を置いて返事をしたので、どうやら気付かれてしまったらしい。バツが悪くなって頭を掻くと、かかと朗らかに笑われてしまう。
そんなグラアニアから視線を逸らすと、グラアニアとは違って柵に背を預けていたデルウィンを見る。今はエルフの王という座に収まっている友人は、相変わらず顔に微笑みを浮かべたまま俺を見ていた。
「いい動きだ。また腕を上げたか?」
「病み上がりだから調子が良いだけさ。それに、昔の方が良く動いていただろう?」
「ふふ。そうだな」
一年間怠けたおかげで体力が落ちている――とは思わない。フランシェスカ嬢達との旅で、体力は以前と同じくらいには戻っているはずだ。
足らないのは、心構え。そして、エルメンヒルデとの繋がり。
それが、一年前の俺と、今の俺との違いだろう。
そう分かっているからか、デルウィンの言葉へすんなりと返事をする事が出来た。
『早いな、二人とも』
「レンジが起きるのを感じましたので」
「……ストーカーか、お前は」
デルウィンの言葉にぼそりと返す。
俺が言った言葉の意味が分からなかったのか、エルフの王は不思議そうな視線を俺へ向けてくる。
「どういう意味だ、それは?」
「何だったかな……」
日頃、何気なく使っていた言葉なのだが、いざ説明するとなると言葉に詰まってしまう。意味をちゃんと認識して使っていなかったという事もあるし、もう四年近くも昔の知識なのだ。うろ覚えどころか、殆ど記憶から消えかけている。
何とか思い出そうと記憶を探る俺と、そんな俺を見つめてくるデルウィン。グラアニアは、退屈そうに欠伸をした。
それにしても……そんな意図はないのだろうが、エルフという中性的な顔立ちの種族、しかもその王となると美貌も一際だ。フェイロナと同等か、それ以上に美しいエルフの男性に見つめられると、先ほどのストーカーという単語も色々と怪しいものに思えてきてしまう。
まあ、俺の勝手な思い込み。自意識過剰な思考でしかないのだが。
「あれだ。確か、関心がある人にしつこく付きまとうようなヤツの事を言うんだ」
「別に、しつこく付きまとってはいないだろう?」
「まあな」
「では、私はストーカーとやらではないな」
「あってたまるか。ストーカーってのは、異性にするもんだ。男が男にしたら、本気で危ないヤツだろ」
そもそも、ストーカー自体が犯罪なのだが。というか、俺は朝っぱらから何を力説しているのか。
先ほどとは違う、心底から疲れて溜息を吐くと、退屈そうに欠伸をしていたグラアニアが伸びをした。
「レンジ」
「ん?」
「貴様。ムルルに何をした?」
「…………」
『ムルルに?』
いきなり何を言いだすのだろう。この親バカは。
妙な事を口走る獣人の長へ胡乱な視線を向けると、隣のデルウィンは面白そうに口元を隠して笑っていた。相変わらず、この直情的な友人の行動が面白くて仕方がないようだ。
仲が良くて、羨ましい限りである。その直情的な思考を向けられた側としては、どう反応するべきか大いに悩ませられてしまうのだが。
「別に、何もしていないけどな」
取り敢えず、疚しい事は何も無いのでそう口にする。
すると、グラアニアはムルルと同じ銀の髪を逆立てる勢いで目を剥き、こちらを見た。正直、友人とはいえかなり怖い顔である。驚いて半歩下がってしまったのを見て、デルウィンがまた笑った。
「何もしていないわけがないだろう。あの寡黙なムルルが、家ではお前の話ばかりをしていたのだぞっ」
「ちなみに。レンジの話だけではなく、レンジの仲間達の話もしていたな」
激情のままに口を開いたグラアニアの言葉を、デルウィンが補足してくれる。確実に今の状況を楽しんでいるようだ。
後でぶん殴ってやろうかとも思ったが、そうすると逆にぶん殴られそうなので止めておく。
初めて会った時、勘違いだったとはいえ顔の真横を矢が通り過ぎた恐怖は今でも忘れられない。本人は狙って外したとの事だが、俺が回避行動をとっていたらどうするつもりだったのか。今でもその話題になると、俺が避けてもちゃんと外していたと笑って言っている。
友人ではあるが、怖い存在。それがデルウィンというエルフである。なんというか、頭が上がらない。第一印象というのは大事なのである。
『良い事ではないか。寡黙だったのだろう? それが会話をするようになれば、お前も嬉しいのではないのか?』
「それはそうですが……」
エルメンヒルデの言葉に気勢を殺がれながら、やはり何か言いたそうにこちらを見てくる。正直、嫌な予感しかしない。
こういう時の勘は、よく当たるのだ。昼にムルルと会った時、それとなくグラアニアの事を言っておこう。そうすれば、変な事で手を出してきたりはしないだろう。多分。
「というか、むしろ文句を言いたいのはこっちだ」
「……ん?」
「お前、ムルルに俺の事を隠していただろう」
「相変わらず些細な事を気にするな、お前は」
「あ?」
「お?」
この野郎。友人の娘に「子供に邪な視線を向ける大人」と紹介される俺の気持ちが分かっているのだろうか。
ムルルとソルネアにそう聞かれた時は、本気で泣きそうになったのだ。というか、その後ベッドの上で呆然としてしまった事を絶対忘れない。
いきなり休んでいる部屋に来て、「レンジは幼い子供に好意を抱くのですか?」「レンジは、子供が好きなの?」と聞かれた時の俺の気持ちが分かるか。その後の阿弥の視線とエルメンヒルデの無言の圧力といったら……思い出すだけで泣きたくなる。勿論、情けなくてだ。
誰が子供に好意を抱くだ。確かに子供は好きだが、それは恋愛感情とはまた違うものだ。
「だがなあ。お前、胸が小さい女が好みなのだろう?」
「お前。それ、宇多野さんに言ったら殺されるぞ。割と本気で」
あと俺は、胸の大小はあまり気にしない。失礼なヤツだ。
まあ、見る分には大きい方が良いと思うが。
「別に、ユウコの事を言ったつもりは無いが?」
「…………」
『レンジ……』
エルメンヒルデの、呆れたような声が辛い。
「いや。宇多野さんだって、ああ見えて少しはあるんだぞ。少しは」
「やめろ。それ以上言うな。……かえって悲しくなる」
「仲が良いな、お前達」
『取り敢えず、今度ユウコに会った時に教えておこう』
「馬鹿、やめろ」
そうなったら何をされるか。考えるだけで恐ろしい。主に、俺の命が。
「とにかく。俺は別に子供が特別好きという訳でも、胸が小さいからどうこうと言うつもりは無いからな」
「あんなにお前を慕っているムルルに興味が無いというのか?」
「……慕っているかあ?」
どちらかというと、俺を財布か何かと勘違いしているような気もするが。ソルネアと一緒に、よく屋台の代金を払わせられた記憶ばかりが浮かぶのだが。
俺の視線に気付いたのか、グラアニアの視線が鋭くなる。この親バカ、面倒臭ぇ。
「親バカめ」
「親バカではない。失礼な。……少し、ムルルを大事にし過ぎるだけだ」
『そういうのが親バカと言うのではないか?』
「それを親バカというのだろう、グラアニア」
エルメンヒルデとデルウィンが同時にツッコミを入れる。流石に二人……一人と一枚に言われると堪えたのか、バツが悪そうに黙ってしまった。
「それで、御母堂にも口酸っぱく怒られているだろうに」
「う」
グラアニアの御母堂――母親というと、ムルルの祖母にあたるのか。
この戦乱多い世界で、グラアニアの家系は長生きをしているようだ。
それはさておき。
「結局、何をしに来たんだお前達は。冷やかしか?」
家畜小屋の柱へ刺していたダガーを抜き、腰裏の鞘へと納める。随分と話し込んでいたようで、すでに東では太陽の輝きが空を照らし始めていた。
「いや。少し聞きたい事があってきた」
「聞きたい事?」
獣人の村にある宿に部屋を借りているのだから、話などいつでもできる。それこそ、先日行った酒盛りの時でもよかったし、昨日だって会っている。
その時に聞かなかったという事は、あまり人には聞かれたくない事なのだろう。
「お前はこれからどうする」
「…………」
その言葉を口にして、デルウィンもグラアニアも、先ほどとは打って変わった真剣な視線を向けてくる。
『どうする、というのは?』
「お前とエルメンヒルデ様、そしてあの女の三人でアーベンエルム大陸へ渡るのか、と思ってな」
『あの女……ソルネアか?』
「はい。魔神の器だとはコウから聞いています。レンジが斬っていないのでしたら――あのドラゴンではなく、あの女を器とするのか?」
エルメンヒルデと話しながら、最後の一言は俺へ向けてくる。
言葉遣いが違うというのは、友人と思ってもらえていると思うべきなのか。明らかな違いに、苦笑してしまう。
「それは、後で話すよ。身体も動くようになった。今日の昼にでも、精霊神に聞いてくる」
「聞く?」
「これからどうすればいいのか。どうするべきなのか」
女神はソルネアを次代の魔神にと言っていた。しかしそれは、アストラエラの意見だ。ツェネリィアはどう思っているのか。そして、どうしてムルルを使って魔神の心臓を俺の元へ運ばせたのか。
その真意を聞いて、その上で今後の方針を決めようと思う。
どちらにしても、いまのままアーベンエルム大陸へ渡っても魔神の城へ辿り着く前に死ぬのがオチだ。ツェネリィアと話して、デルウィン達と相談して、ファフニィルに運んでもらって……その際には、結衣ちゃんをどうするか、阿弥をどうするか。
「取り敢えず、今すぐ行動する事にはならないだろうな」
「だが、魔族はもう器を用意しているぞ?」
「器が完成しても、待つさ。そういう女だ、シェルファは」
俺がそう言うと、二人――デルウィンとグラアニア、そしてエルメンヒルデが溜息を吐いた。
「なんだ?」
「いや。随分と魔王の事を理解しているようだと思ってな」
「理解しているつもりは無いけどな」
「やはり、女に甘いな」
『まったくだ……嘆かわしい』
「お前ら――」
デルウィンの軽口に頭を掻きながら応えると、右腕を一閃。手の中に、白銀色の刀身を持つ神剣を創造する。
「これでも、後悔しているんだ」
「……お前がか?」
「どうしてそこまで驚く。俺だって、後悔する事はあるさ」
本心からの驚いた声を出したグラアニアを軽く睨む。失礼な奴である。
「初めてシェルファと戦った時、アイツを斬った。俺はそれを、ずっと後悔しているよ」
『そうだったのか……』
エルメンヒルデが呟き、二人が黙ってしまう。重苦しい空気。
あえてそういう雰囲気で話しているのだが、まさかここまでの反応を示してくれるとは予想外だった。
「あそこで張り切ってシェルファを斬ったから、腐れ縁が今もまだ続いているからなあ」
だから、意図して軽い口調で言う。
あの魔王に目を付けられたのは、初めて会った時に張りきったせいなのだと。それこそが、後悔なのだと。……ああ、今は元魔王なのか。
そして、俺がそんな情けない、馬鹿な事で悩んでいると知った二人と一枚は、また溜息。どうせ、俺が後悔しているだなんだと柄にもなく心配した事を、それこそ後悔しているのだろう。
そんな二人と一枚を、逆にかかと朗らかに笑ってやる。
「シェルファは待つよ。待っていれば、俺は絶対に現れるんだ」
あの女にとって、きっとあの黒いドラゴンはそこまで大事ではないはずだ。
魔神が健在だった時でさえ、半ば自分勝手に動いていたような戦闘狂だ。そんな元魔王が、今更魔神の器などを気にする道理が無い。
結局、世界の敵を用意する事で俺が戦場に立つ事だけを望み、そして自分の予想通りに事が運んでいるのを悦んでいるのだろう。
そしてまた、俺はソルネアを連れて魔神の城へと赴く。シェルファからしたら、ただその時を万全の状態で待つだけだ。
まあ、ソルネアの存在に気付いているかは分からないが。ただ、あの黒いドラゴンが居る限り俺は戦場に立つ。
そう――約束したから。
神を殺す。魔神を殺し……世界を救う。
そう約束した。エルと。アストラエラと。ヨシュア王と――この世界に生きた、今は亡き仲間達と。
あのドラゴンは、世界の敵だ。ネイフェルの力を以て、破壊を尽くす。きっとその為だけに、シェルファはあのドラゴンを使うだろう。
そうする事で、俺と敵対できるから。俺と戦うために。ただその為だけに。
魔王を斬り。魔神を殺した。
そんな『神殺し』と戦うために。
「迷惑な話だ」
重苦しい思考を微塵も表に出さず、肩を竦める。おどけた調子で溜息を吐くと、同じように二人と一枚も溜息を吐いた。
「相手はあのバケモノだというのに、余裕だな」
「どこまでが本心かは分からないがな」
グラアニアとデルウィンが、俺の意図を察して軽口で返してくれる。
それでいい。重苦しい雰囲気では、身体が委縮してしまう。陽気というのも問題だろうが、戦場でもないのだから気軽な気持ちで居たいと思う。
大切なのは、シェルファの動向を予想できるという事。
致命には程遠いが、あれだけの傷を完全に癒すには俺以上に時間が必要なはずだ。魔神の器を完成させるために必要であろう魔神の心臓、その欠片も揃ってはいない。しかも、その一つは宇多野さんが持っているのだ。
まだ時間があるという事。
なら、万全で挑むのが良策だ。魔神の器を、シェルファを殺すために。そして、そのシェルファを押し退けて魔王となった名も知らぬソレもどうにかしなければならない。
『ふふ。楽しくなってきたな』
「どこがだ。……戦いは嫌いだ。痛いし、怖い」
そして、いつもと同じ言葉を繰り返す。
それは本心だ。
だが、その本心を押し殺してでも――戦わなければならない時もあるのだ。
そんな俺をどう思ったのか。こちらを見ながら……デルウィンとグラアニアは朗らかに笑った。
「笑うなんて酷いな、お前ら」
まったく。皆、誤解していると思う。殺されれば死ぬ……俺は神様を殺した経験があるだけの、ただの人間でしかないのに。
そんな本心も吐けないというのは、結構キツいんだがね。