マルボロと白い指
微妙に残酷かもしれない描写があります。ご注意願います。
その人はいつも真っ白だった。
色素が薄くて髪と目は茶色。それがコンプレックスだとこぼしていたのはいつ頃のことだったろうか。そんな彼女の白さを女子は皆羨ましがっていた。が、それを彼女が嫌がっていたのを、俺はよく覚えている。
「皆羨ましがってるのに?」
「だって、目立つから……」
それに風紀検査の度に地毛が茶色なのだと説明するのはもうウンザリ、と苦笑した時の彼女が酷く綺麗だった事を思い出して、俺は陰鬱とした気分になった。
今日はその彼女の告別式。白い花に囲まれて眠っている彼女も、ひけを取らない程に白かった。全ての感情から解放された彼女。もう笑うことも泣くこともない。怒ることも、苦しむことも、そして共に喜ぶことすらも。……
その白い顔は、綺麗というよりは、不気味だった。
彼女は殺された。急所を鋭利な刃物で一突きされ、即死状態だったのだそうだ。犯人はまだ捕まっていない。何故そのような事態になったのか、それすらまだ究明されていないのだという。そのことも、彼女の家族たちにとってどれほど心を蝕むことだろうと思うと、俺は何もできない歯痒さを痛感せざるを得なかった。何と言葉をかけていいのか、それどころかどのような表情で居ればいいのかすら、全くわからないくらいだったのである。彼女の母親が、何にも勝って不憫でならなかった。こういう場で母親は泣き崩れるものかと思っていたが、あまりのショックにただ茫然としている。その姿を見た途端、俺は犯人を酷く恨んだし、何もしてやれない自分も憎かった。
彼女は即死状態だったが、奇怪なことにその右手の指は全て切り取られていた。犯人が凶器の刃物で切ったのだろうが、それらは犯人とともに行方不明である。
あの、細くて白い彼女の指。爪の部分だけが薔薇色に染まっていて、綺麗だったあの指だ。彼女自身、白いのはコンプレックスだけど自分の手だけは好きなの、と語っていた程、あの手は綺麗だったのだ。放課後の音楽室で、その指で彼女が奏でていた「月の光」が今も俺の鼓膜の内に響いて消えない。どんなCDで聴いた演奏よりも、彼女のその滑らかなピアノが俺は好きだったのだ。……
「いっちゃん」
告別式の式場から出た所で呼ばれ、振り返るとそこには高校時代彼女の親友だった女子が立っていた。目は真っ赤に晴れ上がり、涙で濡れているせいか手にしているハンカチがぐったりとしていた。
「来てたんだね」
「お前こそ、出不精のくせによく来たな」
小さな皮肉を込めてわざと笑って見せると、相変わらず嫌な奴、とそいつは無理に笑って返した。
友人の多かった彼女の一番の親友だったそいつ。実は俺と幼稚園からの幼馴染で、実家が近いのでよく遊んでいた。所謂腐れ縁とでもいうような間柄である。彼女と俺がよくしゃべるようになったのも、そいつのおかげだったわけなのだ。小さい頃からよくしゃべり、よく笑う明るい奴だった。それが、今は涙と絶望とで疲れ果てている。俺は、それだけで気が滅入るようだった。……
夜は比較的涼しいベランダで、俺はマルボロを口に咥え、ライターで火を付けた。
彼女の葬式に出るために一時帰省していたのだが、煙草嫌いの母や妹に厳しく非難され、実家の法律に従って仕方なく外に出たのである。いつもであれば、吸わずにいることもできるはずだった。しかし、その夜だけはどうしても吸わずにはいられない気分だったのだ。
細くて白いマルボロに付いた赤い火。まるで、彼女の指の切断面のように見えてくる。想像した瞬間、俺は吐き気を催し、まだ吸い始めたばかりのそれを吐き棄て、激しく足で踏み拉いた。ベランダに茶色いものが散らばってしまった。
「お兄ちゃん、もう吸ったの?」
「早いわね」
「あんまり吸うと煙草臭くなるもんね。偉い偉い」
言いたい放題の妹と母を斜めに見遣りながら、俺はソファに身体を埋めた。
いつもならばうるさくて敵わないうちの女性陣。だが、今日だけはその騒がしさが酷く安心感を与えてくれた。母の顔を見た瞬間、昼に見た彼女の母親の姿がフラッシュバックして、あんな悲惨な顔をこの人だけにはさせてはいけないのだと思った。
ぎゃあぎゃあと何かを言い合っている二人を尻目に、俺はテレビのスイッチを入れた。ニュースでは、毎日何かしらの殺人事件を報じている。感情のこもっていない口跡でそれらを報じているキャスター達が、まるで機械的であった。それはそうだ……一々全ての事件に心を込めていたら、すぐに疲れてしまうだろうから。俺はそう理解しながら、一方では非常に恨んだ。
「次のニュースをお伝え致します。×月○日、△県にて起こった女子大生殺害事件の容疑者が、本日逮捕されました」
反射的にテレビに詰め寄った俺の足が、ガタリと音を立てて硝子テーブルにぶつかった。その音に驚いて母と妹がこちらを向いたが、それに反応する余裕は俺にはなかった。
「□□さんと同じ大学に通う××容疑者は、殺害の動機を『拒絶され、カッとなってやった』と供述しており、現在も更なる追及がなされています。△△署前の○○さん、そちらの様子は……」
全身から力が抜け、それと同時に激しい怒りが湧き上がってくる。もし目の前に犯人が居れば、俺は間違いなくカッとなってそいつを刺したに違いない。きっと今頃、彼女の家族たちも、同じような気持ちに襲われているのだろうと思うと、柄にもなく涙が滲み出てくるのだ。掌で弄んでいたマルボロを、ケースごとぐしゃりと握りつぶした瞬間、身体の奥から震えが込み上げてきた。
妹も母も、その俺の様子を見て憐れに感じたらしく、一言もしゃべらずに一緒になってテレビに呆けた目を向け続けた。
カッとなってやったのだとすれば、指を切り落とすなどという奇行をやってのけるのだろうかと、素人目にも疑問を感じる。男は殺害後も何食わぬ顔をして大学に通い続けていたのだというのだから、俺の震えは一層強くなったようだった。逮捕された後も男は彼女の指については黙秘しているのだという。
指を、彼女の美しかった薔薇色の爪の指を返してくれ。全て残らず家族の許へ。俺の見知った、月の光を奏でる彼女の指を、彼女を愛した全ての人に返してくれ。色素の薄いことをコンプレックスに感じていた彼女が、自分の手だけは好きだと言っていたことを、お前は知っていたのか。彼女の唯一の誇り、最大の造形美、その白い手をお前が汚したのだ。
俺は手の中でぐしゃぐしゃに潰れたマルボロを見つめながら、彼女の白い指を思い浮かべては再び握り潰した。
了