MY LOVE
夫、妻以外の顔で、日常の枠を外れた場所での恋。
結婚生活が「ウチ」であるなら、それ以外の恋は「ソト」。
「ソト」での恋は、いけないことなのか、それとも、それは当然
起こりうる現実であり、日常なのだろうか?
MY LOVE
なんのとりえもない。
髪は短くて、手入れは2カ月に一度のカットと4カ月に一度のカラーリング。
精一杯のおしゃれは、3カ月に一度の小学校の参観日。
時々思うことは、毎日、少しずつ命の終わりに近づいていると言うこと。
もっと分かりやすく言えば、おいていくということ。
心の奥底にあるのは、女が終わりに近づいているということ。
いったいどうやって人はこんなごくごく当たり前の人の一生の変化を
やり過ごすのだろう。
10年前とも、昨日とも確実に違う自分を受け入れるのは、想像できなかった苦しみに
なっている。
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夫とかわす言葉、少なくなっている。
子供もいなくなれば、一人だけの時間。
パソコンだけは、どうにか使えるから、インターネットでブログを書いてみたり。
TWITTERでつぶやきだしたのは、理由などなかった。
だれかからの返信を待つわけでもなく、まして期待などしていない。
ただ、誰に向かって話しても、声にするだけ悲しくなる部屋につぶやくよりは、
文字にした方が美しいような気がした。
いや、美しくなれるような気がした。
娘を書道教室に連れて行った金曜日の夕方。
家事の合間に、tweetした。
たまたま聞いていたBOZ SCAGGSのアルバムは、「MISS SUN」の冒頭
突然始まるBOZの声。20代のころに聞いた時は、単純にコード進行がかっこいいとか、
そんなことしか感じなかったのに。
彼の声は、誘っている。ずっと呪文にかかったように彼女を思い続けていると。
はっとなった。
なんの予感もないけれど、MISS SUNを聴いているとtweetした。
”MISS SUN BOZの声を久しぶりに聞いた。色気のある声に、驚く。
昔よりBOZの曲が好きだと思った。”
打ち終わって、もう一度のその曲をリピートする。
何度も聞いてしまうのは、きっと何かの偶然が少しずつ近づいているようだった。
ギターのリフが、誘っている。
「何を舞いあがっているんだろう?」
滑稽だった。化粧も少しつかれたように、崩れて、白髪が目立つショートカット。
コンタクトレンズをしたのはもう、何年前のことだったのだろう?
パソコンのディスプレイが、淡く今の自分を映し出す。
”BOZは、いいですね。
よく聞いてました。MISS SUN はかっこいい曲で、僕も好きです。”
私のtweetにレスがついた。
「えっ?」
境目のない遠近両用めがねなのに、一度眼鏡をずらして、額の上、頭の先に乗っけて、その
文字を追う。
僕と言うのは、つまり男性なのだろう。
見れば、いつの間にか私のフォロワーになってくれた人だった。
あわてて、プロフィールを見に行った。
ギターを弾くらしい、それ以外はまったくわからない。顔も年齢も。
くすりと笑ってしまった。
何かを期待しているようにあわてている自分が、おかしかった。
なにも起きていないのに、すっかり自分の中ではこのtweetをきっかけに
何かが始まったような妄想が、ちゃっかりと出来上がっていた。
「ばかだな。」
つぶやいた先に、あるキーボードにふれて、返信した。
”私もMISS SUNが好きです。
でも、BOZの歌が好きな男性は、ドライブの時に必ずBOZのCDを
流して、女性を口説きますよね。”
しばらく打ちこんだ文章を眺めて、これを受けた相手はどう思うんだろう?と考える。
つまり、ナンパなんでしょう?あなたも?とでも言いたげな文章だ。
そう思っているのは自分だけかもしれない。
ぽちりとENTERキーを押して、しばらく沈黙する。
返信が来るとは期待してなかったけれど。
なんとなくドキドキしている自分がいて、期待していないと言いながら、
キッチンでやりかけたシチューの準備に戻ろうとしなかった。
”そうですね。僕はよくお世話になりました。(^^)
ボビー・コールドウエルの方が好きですけどね。
あなたがドライブで聞きたい曲は何ですか?”
「あっ、また?」
叫び声は驚きと言うより、喜んでいるように聞こえる。
レスがついた。
応えてくれた。
ただ、レスなんだ。
私が質問を投げかけたから応えてくれただけなのに。
”Paul McCartney&Wings
「My Love」を聞きたいです。”
過去に数度男性とドライブしたけれど、誰一人としてこの曲を好きな人はいなかった。
そのたびに少しがっかりしたけれど、自分とは違って当然だと、納得した。
なぜこの返信を、”彼”に送ろうと思っていなかったけれど、PaulのLinda への愛は
Lindaのなくなるその瞬間まで変わらなかったはずだと信じていた。
数分後またレスが来た。
”彼女を家まで送って、家の前に着いた時「My Love」が流れていたら
涙がでそうになりますね。”
「うそ?」
頭の先にのせた眼鏡を、もう一度かけ直した。
「My Love」を知っている、どんな歌か知っているんだ、彼は。
そして彼女を実際こんな風にドライブに誘い、デートの終わりに彼女を家に送り届けて
別れ際にこの曲が流れて、帰したくないと腕をつかむ。
顔も形も、わからないのに、そんな場面がくっきりと頭に浮かんだ。
そして、腕をぐっとつかまれて、体を引き寄せられる彼女は、まぎれもなく私だった。
「すごい、ひとりよがりの妄想だね。」
涙がすこし滲んでいることに気がついた。
返信を打つ指、カチャカチャと規則的に音をならしていたキーボードから一瞬
音が消えた。
ぽたりと、一粒、ぎゅっとつかまれた心から涙がこぼれ落ちた。
幸せだと思う。
今の暮らしに不満はない。不満があったとしても、それは私のわがままだ。
夫のいうことさ聞いていれば、一緒に暮らしてもらえるし、子供も可愛がって
もらえて、はたから見ればお似合いの夫婦だ、幸せな家族だと言ってもらえる
ように、生きてきた。
でも、夫は愛してはくれない。
夫婦はそんなものだ。恋とか好きとか愛してるとか、非現実的なところでは生きてはいけない。
そうしないと夫婦では居られない。結婚生活というのはそういうものなんだ。
だから、私は恵まれている。
「けれど。。」
話もなく、ただ日々を過ごして、確実に年老いていく。
PaulはLinda を伴ってビートルズの解散後、音楽活動をしていた。
彼女が息を引き取るその時まで。
片時も離れなかった。彼らの愛というのは、憧れだった。
それを自分たちも貫けるなどと思ったことはなかった。
でも、夢を見た。
そして、夢だったと気がついた。夢はかなわない。そういうものだ。
それが当たり前、特別なことじゃない。みんなそうなんだ。だから同じなんだ。
あきらめた自分を、悲しく思ったのか。
涙はなんだったんだろう?
”20年前に出会って、そんな言葉を言われたら、私は間違いなくあなたに恋して
いたと思います。”
夢中で返信した。
精一杯考えた言葉だった。
何かが変わるとは思わなかったけれど、
あきらめ続けることをやめたいと思った。
”そうかもしれませんね。”
大きく膨らんだ期待を見事に裏切ったそっけないレスに、がっかりした。
「そんなことあるはずないよね。」
誰も聞いてくれない言葉宙に放った。
小さく笑って、シチューの準備をまた始める。
ほんの一瞬、恋に落ちる感覚を味わったのだと、思った。
ituneで「My Love」を探しだして、流してみた。
包丁でニンジンを切る音、サクッと実に包丁が入って、切り終わる瞬間にまな板に包丁が
こんと、ぶつかる音が、混ざりながらのPaulの歌声は、その方が自然に聞こえた。
きっとLindaが料理しながら、Paulは歌を作って、彼女に聞かせていたんだろう。
かわしあったtweetが、ディスプレイに残った。
鈍いCPUのぶーんと低い音。
時間がたてば消えてしまうだろうと、思いながら。
今起きていることは、バーチャルな世界でのこと。
この平凡な暮らしと一瞬重なっただけのこと。
ずっと続くわけではない。
またいつもの自分に戻っていく。
不平や不満は言わない方がいい。
みんな同じだから。
けれど、時折つぶやいて、本当の私をネットの上に存在させてみたい。
日常の音が乱雑にあふれるキッチンの中に確かに流れる
”My Love"は、その日どの音よりも際立って、非日常を歌っていた。