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【本編完結】灯火の誓い〜孤独を選んだ少年と、名を奪われた少女の逃避行ファンタジー  作者: 水瀬 莉音
七章余話 語られなかった夜

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言わない夜Ⅰ

 ~七章第67話「残り香」と第68話「夜の回廊」の間に、実際にあった出来事~


 * * *


 潮が静かに寄せていた。

 甲板の端で、ふたりはランプを置き、湯気の立つ茶を手にしていた。

 風が肌を撫で、夜の匂いが海の向こうから運ばれてくる。

 しばらく、何も言わなかった。

 波の音だけが、船底をやわらかく叩いていた。

 リセルが、小さく息を吐いた。


「……エリシア」

「うん?」

「思い出したくないなら、答えなくていい。でも……どうしても聞きたくて」


 ランプの灯が、リセルの瞳に揺れた。


「……あのとき。あいつに連れて行かれてから……何もされなかったか」


 言い終えた瞬間、風がふたりの間を抜ける。

 生温かい潮風が、エリシアの髪を揺らした。

 エリシアはゆっくりと、茶杯の縁を指でなぞる。


 初夏の海を渡る風は、もう冷たくない。

 それなのに、指先が冷えていた。

 ——胸の奥の、閉じた扉がきしむ。

 息が浅くなる。

 視界の端が暗く揺れた。


 記憶は、触れただけで開いてしまう。

 触れたのは、リセルの言葉だった。

 

 *

 

 配置換えの知らせがあった日から、城は急に広くなった。

 バルクもレオンもいない。

 メルダも、ニーナも、リュミエも姿を消した。

 どこへ行ったのか、誰も教えてくれない。

 沈黙だけが増えていき、擁立の日だけが近づいてくる。


 その夜、エリシアは寝付けず、寝台の上で何度も寝返りを打っていた。

 枕の縁が指にふれ、冷たかった。

 冷たさだけが、唯一の現実だった。


 ――そのとき、扉が開いた。

 金具の軋みが、薄い皮膚の裏をなぞった。

 心臓が、一拍遅れて跳ねた。

 半身を起こす。


 暗がりに影が立っていた。

 深い外套のフードに覆われ、顔は見えない。

 気配が、違う。

 兵士の足音でも、文官の呼吸でもない。

 沈黙が形になったような影の匂い。


 言葉ひとつなく、近づいてくる。

 足音がない。

 床が軋まない。


 エリシアは、とっさに寝台から身を落とし、反対側へ下がった。

 寝台を挟めば、少しは時間を稼げる――そう思った。

 背中が石に触れ、冷たさが皮膚を突き抜ける。


「……寝ていたら楽だったのにな」


 抑揚のない声が、部屋に落ちた。

 音は床に吸い込まれ、跡を残さない。


「誰? 人を呼びます!」


 男は、わずかに鼻を鳴らした。


「呼べばいい。どうせ誰も来ない」


 影が動いた。

 次の瞬間、寝台を音もなく飛び越えてきた。

 息を吸うより早く、腕を掴まれた。

 指が深く食い込み、視界がぐらりと傾く。

 喉にあげた声は、空気になる前にほどけて消えた。

 世界が、暗い水に沈んだ。

 

 *

 

 冷えた床の匂いで目が覚めた。

 石の湿った香りが、鼻の奥にまとわりつく。

 身体を起こそうとして、腕に力が入らなかった。後ろ手に縛られている。

 腕が痛む。さっき掴まれたところが、まだ熱を持っている。

 手足の感覚が、ゆっくり戻ってくる。

 戻るたび、恐怖も戻った。


 見知らぬ部屋だった。

 古びた壁。閉ざされた窓。

 王城ではない。

 母と閉じ込められていたあの粗末な部屋を思い出した。


 目の前で、貴族風の男がこちらを見下ろしていた。

 年は五十を越えているだろうか。痩せた頬に、きっちりと撫でつけた灰色の髪。上等な衣服には、皺ひとつない。

 けれど、目だけが妙に暗かった。

 エリシアは、ひゅっと息を呑んだ。

 怒っているようには見えない。なのに、その奥で何かが静かに蠢いている。

 人を見る目ではなかった。


「お前が……次の聖女か」


 そう言うと、男はしばらく黙っていた。

 値踏みするような視線が、顔から足元へ落ちていく。


「確かに、見目は麗しい。だが……」


 眉間に皺が寄った。


「笑わせる。ただの娘ではないか」

「……誰?」


 自分でも驚くほどの細い声だった。

 男は答えなかった。


「聖典はどこまで修めた」

「え……?」

「聖女としての教育は、誰から受けた」


 エリシアは戸惑った。


「そんなもの……受けていません」


 男の目が険しくなる。


「では、なぜお前なのだ」

「……わかりません」

「わからない?」


 低い声が落ちた。


「聖ルミエラ様は、幼い頃からそのための教育を受けてこられた。聖堂に認められ、あの座に就かれた方だ。それを陛下は――」


 男は忌々しげに息を吐いた。


「聖堂を押さえつけてまで、どこの馬の骨とも知れぬ娘を新たな聖女に据えようとしている」


 エリシアは唇を噛み、男を睨み返した。


「そんなの、あなたたちが勝手に決めたことでしょう」


 なりたいなど、一度も言っていない。

 勝手に連れてきて、閉じ込めて。聖堂でも、何度同じ目を向けられただろう。


「口答えか。身のほどしらずが。平民の分際で」

「そんなに気に入らないなら、野に放ったらどうですか?」


 そうしてくれたら、どんなにいいか。

 どこへでも行くのに。東の果てにだって。リセルに会いにだって。

 腹の底から、身体が震えた。


 これまで、誰に怒ればいいのかさえわからなかった。

 聖堂も、王城も、誰もが決められたことだと言うだけだった。

 けれど今、その理不尽が人の形をして目の前に立っている。

 怖い。

 いや――それ以上に、腹が立った。


 男はしばらくエリシアを見つめていた。

 やがて、薄く口元を歪めた。


「……そうだな。望みどおり、ここから出してやろう」


 一瞬、言葉の意味がわからなかった。


「お前さえいなくなれば、陛下とてルミエラ様を退けることはできまい」


 男の眼が、まっすぐエリシアを捉えた。


「陛下に勝手に祭り上げられた哀れな娘よ。恨むな」


 胸が、一瞬で詰まった。


「これから消えてもらう」


 空気が入ってこない。


「……アルダ。平民の服に着替えさせろ。夜明けまでに王都から消せ」


 アルダがこちらへ歩み寄る。

 その足取りに、音がない。

 影が歩くというのは、こういう動きなのだと思った。

 

 ――どうして。


 私は勝手にここへ連れてこられただけなのに。


 押しつけられた役なのに。


 どうして、こんな――


 声が出ない。

 喉が震え、呼吸の仕方さえ忘れた。

 アルダと呼ばれた男が腕を掴んだ。

 強引に引き起こされる。


 そのとき――

 外が騒がしくなった。


「閣下! 黒衛です! アシュガルドが来ています!」


 貴族の顔色が変わった。


「なに? アルダ! お前が見られたのか?」

「そんなはずは――」


「黒衛の将が来ています!」

「くそ……!」


 怒声が跳ねた。


「アルダ! 娘を連れて行け! 見つかる前に処分しろ!」


 そこで、扉が静かに開いた。


「……処分とは。ずいぶん物騒な相談をされている」


 黒い軍装。

 ヴァルデンが立っていた。

 その顔には、笑みも怒りもなかった。いつもの無機質で低い声。それでも彼が現れた瞬間、周りの空気が冷えた。

 背後に黒衛が影のように並んでいる。


「これは……フィルナ殿。やはりここにいましたか」

「……ヴァルデン将」


 自分でも驚くほど、声が震えていた。

 ヴァルデンは一瞥を返しただけだった。何も言わず、貴族へ向き直る。


「警備を替えたばかりでしてね。そんな折に衛兵を眠らせてフィルナ殿が消えたとなれば、さすがに目立ちます」


 鋼のような深灰の瞳が、わずかに細められる。


「……やはり、あなたでしたか。レナート卿」


 男の顔が強張る。


「先の粛清を免れたのです。おとなしくしていればよかったものを」

「黙れ! 平民を聖女にするなど――!」

「それは陛下への不敬です」


 黒衛が動いた。

 波が巻き込むように貴族を押さえ込む。

 アルダの姿は、もうどこにもなかった。


 *


 縄が解かれた瞬間、足が力を失った。

 膝が崩れ、床に手をついた。

 手のひらに石の冷たさが沁みた。


「立てますか、フィルナ殿」

「……私は、フィルナじゃありません! やめてください……解放してください。聖女は……もう、いるはずでしょう。私は、ただの娘です」

「何を言われたかは存じませんが、陛下がお決めになったことです。……聖堂の判断で動いているわけではありません。今は、黒衛が直轄です」


 短い沈黙。


「……お連れしろ」


 ヴァルデンの傍らに控えていたルシェが、一歩前へ出た。

 エリシアは何気なく彼を見上げた。

 銀にも見える白金の短い髪。琥珀の奥へ紫を落としたような瞳。

 その色に、ふと西を思い出す。

 この人も、西の出身なのだろうか。


 一歩、こちらへ近づく。

 黒い軍装が視界に入り、身体が勝手に強張った。

 ルシェはそれに気づいたのか、一瞬だけ足を止めた。


「……歩けますか」


 以前と同じ、静かな声だった。

 エリシアは立ち上がった。

 もう、縄はない。

 腕を掴まれてもいない。

 けれど、周りには黒衛がいる。

 今ここで走り出したところで、すぐに捕まるだろう。

 ルシェに促され、また歩き出す。


 行き先を決めるのは、いつも自分ではない。

 どちらも、私を連れて行く。


 一方は、消すため。

 一方は、元の場所へ連れ戻すため。


 でも、何が違うの?

 どちらも、私を見ていないというのに。


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