黒衛の沈黙Ⅰ
~七章 第60話「音の届く檻」
湯浴み後から夕食まで――エリシアから語られなかった夜~
* * *
エリシアは、与えられた部屋の椅子に腰を下ろしていた。
城に着いて、まだ数時間しか経っていない。湯浴みの蒸気が、髪にかすかに残っている。
扉が、控えめに叩かれた。
「……フィルナ様。おやすみのところ申し訳ありません。黒衛の者から、内部規定に基づく調書確認のため、今すぐ調書室へ来るようにとの通達がありました」
エリシアは顔を上げた。
「何か……あったのでしょうか?」
メルダは声を落とした。
「わかりません。けれど、彼らの召集には逆らえません」
エリシアは立ち上がった。
簡易な鎧を身に着けた黒衣の兵が二人。薄い灯りが、鎧の縁を鈍く光らせていた。
「本日は、聖堂での記録の確認にご協力いただきます」
「今、から……ですか?」
「命令です」
ただそれだけ。反論の余地すらなかった。
*
細い廊下を歩くたび、靴音が石に跳ね返る。
窓の外は深い藍色で、月だけが高い。足元に落ちる炎の影が、揺れていた。
階段を降りたところで、エリシアはふと息を止めた。
空気が、冷たい。
何かを覚悟しなければならない気配だけが、静かに迫っていた。
部屋に入った瞬間、空気の重さでわかった。
――ああ。この感じ、知ってる。
胸の奥が、ひとつ軋む。
暴力の前にだけ漂う、冷たい沈黙。
何も始まっていないのに、すでに“終わり”の匂いがしている空気。
慣れてる。大丈夫。
そう言い聞かせて、息を小さく吸う。
心を閉ざす。
感じないようにする。
声も気配も、ただ通り過ぎる風だと思えばいい。
すぐに終わる。
いつもそうだった。
どこへ連れて行かれても、扱いは変わらない。
変わるのは、ただ——「誰がそれをするか」だけ。
彼らは本気で何かを聞き出したいわけじゃない。
どうせ、知りたいのはいつも別のこと。
人がどこで折れるのか。
どこまで沈むのか。
どう屈服するのか。
そのために心を開く必要はない。
晒さない。渡さない。
ここには何も置いていかない。
エリシアは拳を握り、唇をそっと噛んだ。
その小さな痛みだけが、境界線のように自分を保たせた。
*
椅子に腰を下ろした瞬間、視線が三つ、静かに降りてきた。
――名前は知らない。
けれど、この部隊の男たちは、目つきだけでだいたいどんな人間かわかる。
一人は、後ろへきっちりと撫でつけた銀髪。
猛禽類のような、薄茶金の瞳。
沈黙の奥まで見透かすような目だった。
三人の中で明らかに上官格で、肩章の紋様も他の二人とは違う。
もう一人は、黒髪を後ろに結った記録官のような兵。
机に帳面を置き、淡々と筆を構えている。
片眼鏡の奥の黒い目は冷たく、何も映していない。
ただ、事実だけを書き留めるための目。
最後の一人は、白金の短髪の若い兵。灯りを受け、白金の髪が銀色に光った。
目を合わせようとしない。
護送の途中、ヴァルデンが何度かその名を呼んでいた。
――ルシェ。
三人とも違う。
けれど、どんな人間かは、もうわかる。
どれも、エリシアにとって恐怖ではない。ただ、あまりにも、それに慣れていた。
エリシアは背筋をまっすぐにした。
上官格の男が記録官の兵士に低く言った。
「レーヴ、記録を」
そしてエリシアの前に座り、足を組んだ。
「なぜ呼ばれたかわかるか? あなたが犯した違反について、報告が必要だ」
炎が揺れ、彼らの影が長く伸びる。
エリシアはゆっくり顔を上げた。
――ここから始まる。
その予感だけが、胸の奥で固まった。
*
「聖堂で起きたことを話せ」
男は淡々とした声で言った。
エリシアは息を整えた。声が揺れないように。目の奥にぐっと力を入れた。
「……そのことは、すでにあの黒衛の将に話しました」
三人の影がわずかに動いた。
レーヴが帳面に目を落とす。
「記録はある。護送中に、あなたが簡単に事情聴取を受けたことも」
その声は責めるでもなく、冷静だった。
「だが、あの時点では判明していなかった事実がある」
蝋燭が揺れた。炎の影が、頬をかすめた。
「火事の規模に対して、犠牲者がほとんど出ていない。これは不自然だ」
「……どういうことですか」
銀髪の上官が、机を指で叩いた。乾いた音。
「聖堂の火事は、作為的だった可能性が高い。使われていた木材はヴェルナ産。燃やすと煙が多く、視界が奪われる」
言葉が淡々と積み重ねられる。初めから、返答は求めていない声音。
「わざわざ大きな火事に見せかけている。偶発的な事故ではない」
エリシアの胸が、ひとつ鳴った。
「……でも、私は何も――」
「あなたがどう思うかは関係ない」
男が短く遮る。その声に、苛立ちはない。ただ、決められた手続きを進めるような静けさ。
「当時は疑いでしかなかった。だからヴァルデン将も深追いはしなかった。だが――今は違う」
レーヴの羽ペンが、ゆっくり止まった。
「状況が変わった。我々は知らねばならない」
三つの影が、同時にわずかに前へ傾く。
「あなたの背後に――誰がいるのかを」
沈黙が落ちた。
エリシアは拳を握り、ふっと笑った。
笑いというより、乾いた息が漏れただけだった。
「……だれもいるはずないでしょう」
男たちの視線が動く。
エリシアは目を伏せず、静かに続けた。
「攫われて、閉じ込められて、母からも引き離されて。ずっと一人だった私に——」
顔を上げる。灯の光が瞳に触れる。
「ねえ、だれがいると思うんですか」
その言い方は、強さでも反抗でもなかった。ただの事実だった。
こんな風に閉じ込められた自分に、背後で糸を引く者がいる。
この人たちは、本気でそう考えているのだろうか。
ルシェの肩がわずかに揺れる。
レーヴのペン先が止まった。
上官格の男は、わずかに眉を寄せた。
「……では、背後には誰もいなかった」
「そうです」
短い返答だった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
*
部屋の音が消える。
次に聞こえたのは、靴底が石を踏む乾いた音。
影がゆっくり近づいてくる。
言葉はない。表情もない。ただ、試すためだけの歩幅。
影がエリシアの足元を覆う。
「……では、あなたは知らないと」
低い声が落ちた。エリシアは椅子に座ったまま、目線だけ上げた。
「はい。知りません」
その静けさが、男の癇に触れたのだとすぐにわかった。
呼吸の気配がわずかに近くなる。
手袋の革が擦れる音がした。
「ずいぶん落ち着いているな」
「本当のことしか言っていないからです」
エリシアはまっすぐに男を見据えた。
男はしばらくエリシアを見ていた。薄茶金の眼が、ひたとこちらへ向けられている。何かを見定めるような、長い沈黙だった。
「……本当に、何も知らないと?」
「知りません」
「聖女候補とはいえ、背後に何があるのかわからない者を、何も調べず王城に置くわけにはいかない」
「置いてほしいと頼んだことはありません。もとの場所に捨て置いてくれたらいい」
沈黙が落ちる。
燭台の芯がじりっと燃える音がやけに大きく響いた。
男の眉がわずかに動いた。
次の瞬間――
乾いた音がした。
頬に衝撃が走る。
視界が白く滲み、椅子の脚が石床を擦った。
息が止まる。その空白に、心臓だけが強く鳴った。
「グラウ内務官! 手を上げろとは命じられていません!」
ルシェが慌てて一歩前に出た。
グラウと呼ばれた男は、振り返らない。
「下がれ」
「しかし――」
「まだ聴取中だ」
「……っ」
反論しかけたルシェをグラウの鋭い視線が射抜く。
「お前は黙っていろ。ルシェ」
エリシアはゆっくり顔を戻した。
口の中に、わずかに血の味がした。
グラウは、その顔をじっと見ていた。
「これでも、知らないと?」
「はい」
エリシアは姿勢を崩さず、ゆっくりと息を整えた。
痛みはある。
でも、心が揺れるほどではない。
グラウがもう一歩、間合いを詰めた。
影が深くなる。
「もう一度、聞く。知っていることを言え」
「何度聞かれても、知らないことを知っているということはできません」
グラウの視線が細くなる。
「……その答えを通すつもりなら、こちらにも考えがある」
低い声だった。
再び、手が上がる。
エリシアは反射的に身を縮め、腕を顔の前に上げた。ぐっと歯を食いしばり、次の衝撃に備えた。
――そのとき。
廊下で、革靴の音が止まった。




