↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【本編完結】灯火の誓い〜孤独を選んだ少年と、名を奪われた少女の逃避行ファンタジー  作者: 水瀬 莉音
七章余話 語られなかった夜

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
96/101

黒衛の沈黙Ⅰ

~七章 第60話「音の届く檻」

 湯浴み後から夕食まで――エリシアから語られなかった夜~


 * * *


 エリシアは、与えられた部屋の椅子に腰を下ろしていた。

 城に着いて、まだ数時間しか経っていない。湯浴みの蒸気が、髪にかすかに残っている。

 扉が、控えめに叩かれた。


「……フィルナ様。おやすみのところ申し訳ありません。黒衛の者から、内部規定に基づく調書確認のため、今すぐ調書室へ来るようにとの通達がありました」


 エリシアは顔を上げた。


「何か……あったのでしょうか?」


 メルダは声を落とした。


「わかりません。けれど、彼らの召集には逆らえません」


 エリシアは立ち上がった。

 簡易な鎧を身に着けた黒衣の兵が二人。薄い灯りが、鎧の縁を鈍く光らせていた。


「本日は、聖堂での記録の確認にご協力いただきます」

「今、から……ですか?」

「命令です」


 ただそれだけ。反論の余地すらなかった。


 *


 細い廊下を歩くたび、靴音が石に跳ね返る。

 窓の外は深い藍色で、月だけが高い。足元に落ちる炎の影が、揺れていた。

 階段を降りたところで、エリシアはふと息を止めた。

 空気が、冷たい。

 何かを覚悟しなければならない気配だけが、静かに迫っていた。



 部屋に入った瞬間、空気の重さでわかった。


 ――ああ。この感じ、知ってる。


 胸の奥が、ひとつ軋む。

 暴力の前にだけ漂う、冷たい沈黙。

 何も始まっていないのに、すでに“終わり”の匂いがしている空気。


 慣れてる。大丈夫。

 そう言い聞かせて、息を小さく吸う。

 心を閉ざす。

 感じないようにする。


 声も気配も、ただ通り過ぎる風だと思えばいい。

 すぐに終わる。

 いつもそうだった。

 どこへ連れて行かれても、扱いは変わらない。


 変わるのは、ただ——「誰がそれをするか」だけ。

 彼らは本気で何かを聞き出したいわけじゃない。

 どうせ、知りたいのはいつも別のこと。


 人がどこで折れるのか。

 どこまで沈むのか。

 どう屈服するのか。


 そのために心を開く必要はない。

 晒さない。渡さない。

 ここには何も置いていかない。


 エリシアは拳を握り、唇をそっと噛んだ。

 その小さな痛みだけが、境界線のように自分を保たせた。


 *


 椅子に腰を下ろした瞬間、視線が三つ、静かに降りてきた。

 ――名前は知らない。

 けれど、この部隊の男たちは、目つきだけでだいたいどんな人間かわかる。


 一人は、後ろへきっちりと撫でつけた銀髪。

 猛禽類のような、薄茶金の瞳。

 沈黙の奥まで見透かすような目だった。

 三人の中で明らかに上官格で、肩章の紋様も他の二人とは違う。


 もう一人は、黒髪を後ろに結った記録官のような兵。

 机に帳面を置き、淡々と筆を構えている。

 片眼鏡の奥の黒い目は冷たく、何も映していない。

 ただ、事実だけを書き留めるための目。


 最後の一人は、白金の短髪の若い兵。灯りを受け、白金の髪が銀色に光った。

 目を合わせようとしない。

 護送の途中、ヴァルデンが何度かその名を呼んでいた。

 ――ルシェ。


 三人とも違う。

 けれど、どんな人間かは、もうわかる。

 どれも、エリシアにとって恐怖ではない。ただ、あまりにも、それに慣れていた。

 エリシアは背筋をまっすぐにした。

 上官格の男が記録官の兵士に低く言った。


「レーヴ、記録を」


 そしてエリシアの前に座り、足を組んだ。


「なぜ呼ばれたかわかるか? あなたが犯した違反について、報告が必要だ」


 炎が揺れ、彼らの影が長く伸びる。

 エリシアはゆっくり顔を上げた。


 ――ここから始まる。

 その予感だけが、胸の奥で固まった。


 *


「聖堂で起きたことを話せ」


 男は淡々とした声で言った。

 エリシアは息を整えた。声が揺れないように。目の奥にぐっと力を入れた。


「……そのことは、すでにあの黒衛の将に話しました」


 三人の影がわずかに動いた。

 レーヴが帳面に目を落とす。


「記録はある。護送中に、あなたが簡単に事情聴取を受けたことも」


 その声は責めるでもなく、冷静だった。


「だが、あの時点では判明していなかった事実がある」


 蝋燭が揺れた。炎の影が、頬をかすめた。


「火事の規模に対して、犠牲者がほとんど出ていない。これは不自然だ」

「……どういうことですか」


 銀髪の上官が、机を指で叩いた。乾いた音。


「聖堂の火事は、作為的だった可能性が高い。使われていた木材はヴェルナ産。燃やすと煙が多く、視界が奪われる」


 言葉が淡々と積み重ねられる。初めから、返答は求めていない声音。


「わざわざ大きな火事に見せかけている。偶発的な事故ではない」


 エリシアの胸が、ひとつ鳴った。


「……でも、私は何も――」

「あなたがどう思うかは関係ない」


 男が短く遮る。その声に、苛立ちはない。ただ、決められた手続きを進めるような静けさ。


「当時は疑いでしかなかった。だからヴァルデン将も深追いはしなかった。だが――今は違う」


 レーヴの羽ペンが、ゆっくり止まった。


「状況が変わった。我々は知らねばならない」


 三つの影が、同時にわずかに前へ傾く。


「あなたの背後に――誰がいるのかを」


 沈黙が落ちた。

 エリシアは拳を握り、ふっと笑った。

 笑いというより、乾いた息が漏れただけだった。


「……だれもいるはずないでしょう」


 男たちの視線が動く。

 エリシアは目を伏せず、静かに続けた。


「攫われて、閉じ込められて、母からも引き離されて。ずっと一人だった私に——」


 顔を上げる。灯の光が瞳に触れる。


「ねえ、だれがいると思うんですか」


 その言い方は、強さでも反抗でもなかった。ただの事実だった。

 こんな風に閉じ込められた自分に、背後で糸を引く者がいる。

 この人たちは、本気でそう考えているのだろうか。


 ルシェの肩がわずかに揺れる。

 レーヴのペン先が止まった。

 上官格の男は、わずかに眉を寄せた。


「……では、背後には誰もいなかった」

「そうです」

 短い返答だった。


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 *


 部屋の音が消える。

 次に聞こえたのは、靴底が石を踏む乾いた音。

 影がゆっくり近づいてくる。

 言葉はない。表情もない。ただ、試すためだけの歩幅。

 影がエリシアの足元を覆う。


「……では、あなたは知らないと」


 低い声が落ちた。エリシアは椅子に座ったまま、目線だけ上げた。


「はい。知りません」


 その静けさが、男の癇に触れたのだとすぐにわかった。

 呼吸の気配がわずかに近くなる。

 手袋の革が擦れる音がした。


「ずいぶん落ち着いているな」

「本当のことしか言っていないからです」


 エリシアはまっすぐに男を見据えた。

 男はしばらくエリシアを見ていた。薄茶金の眼が、ひたとこちらへ向けられている。何かを見定めるような、長い沈黙だった。


「……本当に、何も知らないと?」

「知りません」

「聖女候補とはいえ、背後に何があるのかわからない者を、何も調べず王城に置くわけにはいかない」

「置いてほしいと頼んだことはありません。もとの場所に捨て置いてくれたらいい」


 沈黙が落ちる。

 燭台の芯がじりっと燃える音がやけに大きく響いた。

 男の眉がわずかに動いた。


 次の瞬間――

 乾いた音がした。

 頬に衝撃が走る。

 視界が白く滲み、椅子の脚が石床を擦った。

 息が止まる。その空白に、心臓だけが強く鳴った。


「グラウ内務官! 手を上げろとは命じられていません!」


 ルシェが慌てて一歩前に出た。

 グラウと呼ばれた男は、振り返らない。


「下がれ」

「しかし――」

「まだ聴取中だ」

「……っ」


 反論しかけたルシェをグラウの鋭い視線が射抜く。


「お前は黙っていろ。ルシェ」


 エリシアはゆっくり顔を戻した。

 口の中に、わずかに血の味がした。

 グラウは、その顔をじっと見ていた。


「これでも、知らないと?」

「はい」


 エリシアは姿勢を崩さず、ゆっくりと息を整えた。

 痛みはある。

 でも、心が揺れるほどではない。

 グラウがもう一歩、間合いを詰めた。

 影が深くなる。


「もう一度、聞く。知っていることを言え」

「何度聞かれても、知らないことを知っているということはできません」


 グラウの視線が細くなる。


「……その答えを通すつもりなら、こちらにも考えがある」


 低い声だった。

 再び、手が上がる。

 エリシアは反射的に身を縮め、腕を顔の前に上げた。ぐっと歯を食いしばり、次の衝撃に備えた。


 ――そのとき。

 廊下で、革靴の音が止まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。