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【本編完結】灯火の誓い〜孤独を選んだ少年と、名を奪われた少女の逃避行ファンタジー  作者: 水瀬 莉音
第八章 生誕祭の夜

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第八十二話 ここから

 朝の光が崖の上から差し込み、赤い霧が薄れていく。

 小舟の先で、水面が静かに割れた。

 その霧の向こうに、裂けた岩壁が迫る。

 入り江の狭い口へ吸い込まれるように、船が滑り込む。


 断崖に抱かれた廃墟。

 苔むした石垣。

 焼け落ちた祠。

 倒れた石塔。


 石と灰の匂いが、微かに風に混ざる。

 風が吹くたび、石の隙間で何かが呻くような音がした。


 エリシアは胸の前で両手をぎゅっと重ね、息を呑む。

 リセルは彼女の横で、小さく息を吐く。


「……ここが……」


 声は風に吸い込まれそうに細かった。

 クロファがゆっくりと前に出る。


「かつて、ユーファとエルナが暮らした場所だ」


 エリシアは黙って、崩れた石垣を見つめた。

 やがて、薄明の霧の中、入り江の奥に揺れる灯りが二つ見えた。

 ジルドがランプを振り、イリアスが手を上げていた。

 レンデルは岩陰に立ち、周囲を警戒している。


「おかえり、リセル! お前ならやると思った!」


 ジルドがリセルの肩をばんっと叩く。

 リセルは少しよろめき、顔をしかめた。


「で、その子が、エリシア?」


 せわしなく話すジルドの頭を、イリアスが軽くこづく。

 イリアスはエリシアへ向き直り、「どうも」と短く礼をした。


「朝飯まだなら、スープ食うか? どうせすぐ出発なんだろ? だとしても腹に何か入れとかねぇとな」


 その生活のにおいのする言葉が、妙な現実感を連れてきた。


 ――エリシアを取り戻した。

 彼女を閉じ込めていた場所から、やっと逃げてきたのだ。


 * * *


 日が昇るにつれて、赤い霧はいつしか消え、やわらかな光が廃墟に差し込んだ。

 クロファの案内で、一行は廃墟を歩いてみた。

 砕けた石塔の影を抜けると、崩れた石段の先に、低い台座が残っていた。

 かつて誓いの碑が立っていた場所だ。

 クロファが足を止めた。


「確かに、この場所は一度滅んだ。だが誓いは場所に宿るわけじゃない。力を分け合う二人がいれば、どこででも起こる」


 スイが後ろから、ぼそりとつぶやいた。


「……ここ、本来は婚礼の誓いの場所だったらしいぞ」


 エリシアの肩が跳ね、リセルは盛大にむせた。

 クロファが追い打ちのように続ける。


「力を半分ずつ分け合い、二つの民がひとつになる儀式だ。つまり、昔は()()の意味があった。古い言い伝えだが……昨夜、二人はやってしまったな」


「「こ、婚姻……!?」」


 エリシアの耳が真っ赤になり、リセルは髪をわしゃわしゃにして口元を押さえる。

 ジルドが「え、じゃあ二人ってもう――!」と叫びかけたが、ラグドが無言でその頭を弾いた。


「……騒ぐな、ジルド」


 音が乾いて響き、空気に柔らかい笑いが生まれた。

 笑いが落ち着いたあと、リセルがぽつりとつぶやいた。


「……だったらさ」


 髪をぐしゃりとかき、視線を逸らしながら続ける。


「なんで……潜入前に、教えてくれなかったんだよ。力を得るには、〈誓い〉は場所を選ばないってことじゃないか」


 クロファは風の流れを見るように目を細めた。


「それもそうだ。だが、聞かれなかったからな」

「おい、ふざけてんのか?」


 リセルがむすっとすると、スイが苦笑して割って入る。


「怒るな。こいつはそういうやつだ。聞き方が悪いと、まともな答えが返ってこない」


 クロファは平然としている。


「忘れてただけじゃねぇの?」


 リセルが食い下がると、クロファは溜息をつく。


「俺の辞書に忘れるという言葉はない。すべて覚えている。聞かれなければ、引っ張り出せないだけだ」


「それを忘れるっていうんじゃ……」


 クロファが静かに遮る。


「それに――教えたところで、お前にできたのか? 婚姻の誓いを、その場で」


 リセルは反論しかけて、言葉にならず手の甲で口元を隠した。


「もう、どっちでもいいよ。……エリシアを助けられたなら、それで」


 風が廃墟の隙間をすり抜け、ふたりをそっと包む。

 スイが肩をすくめた。


「まあ、誓ったのはエリシアの方だしな」


 エリシアは、何もない台座を見つめたまま、小さく言った。


「そんな、大事な意味があるなんて……知らなかった」


 リセルは少しだけ息を吸い、言葉を選ぶ。


「いや……婚礼とか、そういうんじゃないのは分かってる。気にするな。それに、あの時、エリシアがいなかったら、俺はとっくに死んでた」


 声は低く、小さく震えていた。


「……なんともないのか? 俺の傷が消えた時……エリシアは、痛くなかったのか?」


 エリシアは自分の手のひらを見つめる。

 指先を握りしめ、そして――そっと開いた。


「痛みはなかった。でも、力を手放した気がするの」


 リセルの腕にそっと触れる。

 彼の皮膚の下で、微かに熱が脈打っていた。


「……前みたいに、癒せない。あの時から、もう力を感じないの。リセルに……渡しちゃったのかもしれない」


 リセルも自分の手を見つめた。

 ゆっくりと、手のひらを握り、開いてみる。

 そのたびに、体の奥から、ほのかな熱が流れた。


「……前より、ちゃんと感じるんだ。火が……俺の中にあるのが」


 理由はわからない。

 でも、もう黒い炎にのまれることはない、そんな実感があった。

 体の奥で脈打つ鼓動のように、それは確かに自分の中にあった。


 クロファが柔らかな表情で告げる。


「それは、力の半分だよ」


 朝の光が金の瞳に揺れた。


「君たちの誓いは()()。まだエリシアしか誓っていない。本来は〈誓い返し〉があって、婚姻が成立した。だが……お前の火は応えた。だから、不完全でも本物の火の壁だった」


 どうしても婚姻という言葉を聞くと、心臓がはねる。

 慌てて視線をそらし、手のひらで口元を隠した。

 クロファはちらりとリセルを見ると、わずかに口元を緩めた。


「リセルも返事しないとな。女性からの求婚には特に、な」


「だから、それは違うって!」

「してません!」


 ふたりは同時に叫んだ。


「はいはい、青春だね。若いって眩しいな」


 スイが手をひらひらさせて目の前を通り過ぎる。

 リセルとエリシアは顔を見合わせた。

 お互いにすっかり赤くなっていた。


 風が廃墟の隙間を抜け、どこか懐かしい音を響かせる。

 スイが大きく伸びをし、腰を軽く叩いた。


「……さて。そろそろ行くか」

「東か?」

「ああ。朝の潮なら、うまく風に乗れる」


 エリシアは不安と期待を胸に抱えながら見上げた。


「……行けるんですか。自由の国、ルシトへ」


 スイは軽く笑い、前髪をかき上げる。


「行けるさ。行きたいならな。それに、こいつとの約束だからな。君の東での身元と生活は、俺が保証しよう」


 エリシアは目を丸くして、リセルを見る。

 リセルは眉をひそめた。どうもスイが言うと胡散臭い。


「……どうやってだよ」


 スイは胸に片手を当て、わざとらしく反り返る。


「俺に任せとけって」


 短い間が落ちる。


「……なんか、いまいち信用しきれないんだよな」


 スイは片肩をすくめ、リセルの胸を人差し指で軽く叩いた。


「お前は、その代わり――わかってるな?」


 リセルはその手をはじく。


「わかってる。東でお前を手伝うんだろ。約束は守る」

「そうだ。それでいい。期待してるからな」


 スイはそのまま前へ歩きだした。

 数歩進んでから、一度だけ振り返る。


「……ここからだな」


 リセルはその背中を見送る。

 小さく息を吐き、ぽつりとつぶやいた。


「……今度は何をさせるんだよ」


 呟きは風に紛れた。

 けれど、自分でもわかっている。

 その声に、嫌悪はなかった。


 むしろ――ほんの少しだけ。

 悪くない、と思っていた。


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