第八十話 契約と誓い
甲板が近づくにつれ、潮の匂いが濃くなった。
ラグドの小舟が、沖に浮かぶ母船の影へ滑り込む。帆の下は暗く、底に溜まった海水が波に合わせて揺れた。
リセルはまだ息が荒かった。
胸の奥に残った白い熱が、かすかに脈打っている。
背中を押したあの光の余韻だけが、体の中に残っていた。
エリシアが“誓いの言葉”を口にした、その瞬間。
力が一気に流れ込んで、自分の中の暴れる核が、ひとつの場所に沈んでいった。
飲み込まれそうだった火の気配が、ふっと輪郭を得て、胸の奥に収まる。
ゆっくりと膨らみ、静かに灯り続けるような感覚。
――あれが、伝承にある“力を得る”ということなのかもしれない。
けれど、その灯りはまだ脆い。
さっきの火の壁を長く保てる自信は、どこにもなかった。
小舟が大きく揺れ、エリシアは思わずリセルの腕につかまった。
見上げて、ほっとしたように笑った。
「着いたぞ。……ほら、つかまれ」
ラグドが短く言う。濡れた指先から海水が滴った。
リセルはエリシアを抱き寄せ、小舟から母船へと身を移した。
その直後、背後でロープの軋む音がした。
ラグドが縛りを終え、濡れた手を払う。
ちらりとリセルを見る。
「……よく、やったな。ちゃんと、生きて戻ったじゃねぇか」
リセルの肩に手を置いた。頬を掻く。
無骨な手は、熱く、重たかった。
灰緑の瞳が、ほんの少し揺れる。
リセルは何も言わず、うなずく。
少し迷って、その手の上に自分の手を置いた。
その直後、ラグドは照れ隠しのように、反対の手でバシッと背中を叩く。
「ってぇ……!」
痛がるリセルを横目で見て、にやりと笑う。
身を翻し、そのまま舵の方へ歩いていった。
船を次に動かす準備だけを淡々と続けている。
母船はゆっくりと流れに乗り、港から離れていく。
そのとき――外套がはためく音がした。
朱色の外套。
やたら目立つ金糸の飾り紐。
極めつけは、派手すぎる羽飾り付きの帽子。
……スイだった。
「お前、なんだそのバカみたいな格好」
リセルが本気で呆れた声を出す。
スイは肩をすくめ、外套を軽く翻した。
「外国から来た来賓に見せてるんだよ。生誕祭なら、来賓も商人も珍しくない。ラファスじゃ、まず見ない格好だ。万が一見られても、その一人に見えればと思ってな」
「だからって派手すぎるだろ。逆に兵に止められるぞ」
「派手すぎるくらいでいいんだよ。下手にこそこそするより、こういうほうが意外とうまくいく。細工するより確実なんだ」
「いや、意味がわからん」
「……まあ、俺もだ」
短く笑い、帽子のつばを引き下げた。
隠した目の奥に、安堵と疲労がほんの少しだけ滲んでいたような気がした。
「それに、なんで来なかったんだ」
「悪かった。城を出る直前に、余計な仕事を押しつけられてな。……あいつ、絶対嫌がらせだろ」
「あいつ?」
「いや、こっちの話だ。そのせいで遅れた。着いた頃には、港にヴァルデンまで来てたしな」
「ヴァルデンに顔でも知られてるのか?」
「知られてるも何も。変装くらいじゃ誤魔化せない程度には、長い付き合いだ」
リセルは眉を寄せた。
「……お前、ほんと何者なんだよ」
「まあ、それはあとでな」
リセルはまだ納得できなかった。
「こっちは死にかけたんだ。それに……お前に騙されてたのかと、少しは思った」
スイは一瞬黙った。
「……ほんと、悪かったよ」
いつになく力のない笑いだった。
その顔を見ていると、少しだけ肩の力が抜けた。
何者なのかは、まだ分からない。
でも。
一人では到底潜れなかったあの城へ入れたのは、この男が道を作ってくれたからだ。
すべてが予定どおりにいくはずもない。
少なくとも、最初から自分を騙すつもりだったわけではなさそうだ。
もう、それを疑うのはやめた。
エリシアは、スイを見つめたまま動けずにいた。
スイはその視線に気づき、わずかに顔を背けた。心なしか、帽子で顔を隠す。
「ん? どうした、お嬢さん。俺の顔になんかついてるか?」
「……あなた……」
震えた声だった。
スイは片眉を上げ、軽くため息をついた。
「ああ、やっぱりバレるよな。至近距離じゃ誤魔化せないか……」
リセルが眉をひそめる。
「エリシア、知り合いなのか?」
エリシアは唇を震わせながら答えた。
「この人、ラファスのヴィカリウス様に、すごく似ていて……」
「ヴィカ……なんだって?」
ぽかんとするリセル。
スイは帽子を軽く押し上げた。
「まいったな。派手な格好でも隠しきれなかったか。……まあ、あとでちゃんと説明する」
軽い調子の奥に、張り詰めた静けさが潜んでいた。
そのとき、奥から足音がした。
「到着したか。遅かったな」
霧のような気配とともに、クロファが姿を現した。
金の瞳が、薄い霧の奥で静かに光る。
彼はリセルとエリシアを一度だけ見て、静かに言った。
「面白いものを見せてもらった。〈誓いの灯火〉を、この地上で見られるとは」
エリシアは息を呑む。
「誓い……?」
クロファはゆっくりと首を横に振った。
「お嬢さん、君が使ったのは〈契約〉ではない。〈誓い〉だ。……あれはもっと古い。ユーファとエルナの民が力を分け合っていた頃の形だ」
エリシアは目を瞬いた。
「〈誓い〉……でも、それは……二つの民が力を安定させるためのものだと……」
「そうだ」
「母から教わったのは、命を預ける〈契約〉でした。誓いの言葉を口にして……誰かに、自分の命を渡すような……」
クロファは静かに頷いた。
「言葉も、伝承も、それぞれ違う形で残ったのだろう。長い時の中で本来の意味を失い、今の形で君たちに伝わった。
ユーファとエルナは、もとは同じ竜の力を分けて持つ民だった。二つが結ばれれば、力は一方へ流れるのではなく、互いに結びつく。君たちに起きたのは、それだろうな」
「じゃあ……私が教えられてきた〈契約〉は……?」
「長い時の中で、形を変えたのだろう。力を分け合えぬ相手に同じ言葉を使えば、一方が与え、一方が受け取る形になる。命も、癒しの力も一方的に相手へ渡ってしまう」
エリシアは息を呑んだ。
「それが、今の君たちが〈契約〉と呼んでいるものだ」
スイは外套の裾を軽く払った。
「クロファの言うとおりだ。俺も目を疑ったよ。〈火の壁〉なんて、とっくに伝説の中の話だからな」
リセルはぼそりと呟く。
「……どうやったか、覚えてない。でも、エリシアから俺の中に何かが流れ込んできて……気づいたら、白い火の壁が出てた。あれのおかげで、ヴァルデンってやつの剣も止まった」
「止まったというより、戦意を奪ったのだ。あの光は武器の勢いを削ぐ性質がある」
「……光」
リセルは小さく息を吸った。
――火は、人が最初に灯した光に過ぎない。
あの時、黎火の郷で聞いたクロファの言葉が、ふいに蘇った。
「灯火の竜の力は――光、なのか?」
「さてな。竜の力に形はない。意味を与えるのは常に人だ」
クロファの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
エリシアの声が震えた。
「じゃあ……私は……〈契約〉みたいに、身代わりに死んだりは……」
クロファは瞳を細め、静かに答えた。
「〈誓い〉は〈契約〉とは違う。命の交換ではない。ただ……互いの存在が強く結びつく。何らかの影響は残るだろう」
リセルは眉を寄せた。
「……なんでお前、そんな昔のことまで知ってるんだ?」
クロファは一瞬だけ黙った。
「長く生きているのでな」
「……長くって」
どう見てもスイよりも若く見える。長くってどういうことだ。
「……言い方を変えようか。以前、古いことには少し詳しいと言わなかったか?」
相変わらず、答えになっていない。
追及しても、これ以上は返ってこないだろう。
リセルは短く息を吐き、そっとエリシアの手を握った。
「とにかく身代わりとかそういうんじゃないなら……とりあえずは、よかったんじゃないか?」
「そう、だね……」
エリシアの目から一筋の涙がこぼれた。
その涙は、悲しみの色ではなかった。ただ、安堵の涙だった。
スイは二人をちらりと見て、帽子を押し下げた。
「……さて。感動の再会はそこまでな。城の連中が、そろそろ騒ぎ始める頃だ。
できるだけ早くここを離れる。さっさと潮目を越えよう」
クロファが風を読み、目を細める。
「急いだ方がいいな。……スイ、案内を」
「はいはい。頭に指図するな」
その軽口に、リセルは微かに笑った。
舵の方から、ラグドの短い声が飛ぶ。
「揺れるぞ。掴まってろ」
母船が大きく揺れ、帆が風をはらんだ。
潮の匂いが濃くなり、海面に灯りが点々と揺れる。
港の灯りが、ゆっくりと遠ざかっていく。
母船は岸には寄らず、沖へ滑り始めた。
黒い海を切り裂くように、帆が夜風をはらむ。
波の音だけが近くなる。
スイが短く呟く。
「今夜は荒れそうだ。ルシトへの航海は夜明け以降だな」
そして、少しだけ声を落とした。
「南へ回る。……寄港地の近くまで行く」
灯台の明かりがにじみ、背後で消えていく。
夜の海が、船を呑み込んでいった。




