第七十八話 逃げ場のない夜
石畳に風が触れた。
広場の真ん中に、ひとつだけ影が立っている。
「――そこで何をしている」
ヴァルデンの声だった。
低く、迷いのない響き。
「フィルナ殿。まさかこんなところでお会いするとは思いませんでした。……念のため聞きましょう。そこで――何をしているのですか?」
背後で足音がして、階段を上りきった影が、広場へ現れる。
黒衛の若い兵だ。
退路が、ふさがれた。
ヴァルデンは視線も向けずに命じた。
「ルシェ。フィルナ殿を押さえてろ。動かすな」
「はい!」
エリシアへ向かう足音。
伸びた手が触れようとした――その瞬間。
「やめろ!」
リセルは反射で踏み込んでいた。
エリシアの前に割り込むように。
だが、その刹那。
金属が擦れる、乾いた気配。
――鞘鳴り。
身体が勝手に反応した。
リセルはエリシアを庇う姿勢のまま、ぎりぎりで横へ跳ぶ。
次の瞬間、ヴァルデンの影が、すぐ目の前に迫っていた。
「フィルナ殿から離れろ」
低く冷えた声。
鞘から抜け出た剣の先端が、わずかに空気を切る。
リセルは歯を噛み、踏ん張る。
振り返ると、ルシェの手がもうエリシアの腕を掴んでいた。
固い、真面目な兵士の手。
エリシアの肩が小さく震える。
「放して……!」
抵抗するもびくともしない。
「……申し訳ありません。命令ですので……」
その言葉が落ちたとき、ヴァルデンの視線がリセルに向く。
「ヴェルナで見た顔だな」
影が伸びた。
夜気がひやりと張り詰める。
「……あのとき警告したはずだ。ラファス領内であれば、残党狩りは私の仕事だと」
リセルは剣を構えるしかなかった。
前にはヴァルデン。
背後では、ルシェがエリシアを拘束している。
逃げ場なんて、どこにもなかった。
ヴァルデンが静かに言う。
「お前は見ていろ、ルシェ。手を出すな」
それだけの言葉で十分だった。
その瞬間――
城のどこかで鐘が鳴りはじめた。
一つ。
また一つ。
低い音が冷えた空気を震わせ、石畳に波紋のように広がる。
その時、七つの鐘が鳴った。
スイが言っていた時刻。
潮が満ちる合図であり、エリシアのお披露目が始まる夜会の刻でもあった。
音は夜の広場を満たし、逃げ道が消えていく現実だけを静かに告げていた。
* * *
鐘が鳴り終わると同時に、花火が堰を切るように重なった。
夜の頂点みたいな光の奔流。
そのくせ、ここだけが妙に静かだった。
祭りの喧噪から切り取られたような、冷たい宵闇。
不思議な感覚が、じんわりと手足に広がる。
この男を目の前にすれば、心がもっと荒れるはずだった。
なのに、胸の奥は静かに冷えていく。
鐘の余韻と花火の光が、焦りも恐れも沈めていった。
頭の奥がすうっと澄んでいく。
その中心に、ひとつだけ硬い決意が浮かぶ。
――ここまで来て、奪われてたまるか。
リセルは息を吸い込んだ。
濃い潮の香が鼻をつく。
剣を握る手に汗が滲む。
「……離れろだって? それはこっちのセリフだ。エリシアを放せ」
「妙なことを言う。侵入者はお前の方だ。フィルナ殿は我が国の庇護下にある」
「人を攫うのが、お前たちの国では『庇護』というのか? エリシアを解放しろ。エリシアは自由に生きる。それだけだ」
「……これ以上の会話は無駄なようだ」
「だったらどうする」
「侵入者は捕らえる。ユーファを見逃す法もない」
リセルはラグドに教わったように、片足を後方に一歩下げて低く構えた。
その時、ラグドの声がよぎる。
『戦うな。特に、黒衛になんて出くわしたら、戦おうなんて思うな。分が悪すぎる』
(分かってる。精鋭の、しかも長年訓練を積んだ生粋の軍人なんかに、叶うはずもない。俺のは付け焼刃の、剣の真似事だ。
――けど、ラグド、この状況じゃ、戦うしかないだろ?)
「大人しく投降するなら、この場では殺しはしない。ユーファは火の力を確認してから処刑することになっているからな」
深灰の瞳がリセルをじっと見据えた。
「さて、お前はどっちだろうな」
「投降はしない。エリシアは連れていく」
「――なら、仕方ない」
ヴァルデンが剣を抜いたまま、踏み込んだ。
次の瞬間――
リセルは横に飛び、剣を振り下ろしていた。
鋭い金属音が響き、火花が散る。
ヴァルデンは軽く剣を傾けて受け止めた。
「……剣の真似事か。無謀だな」
その言葉を聞くなり、リセルはさらに身を沈め、素早く切り返す。
狙いは脇――。
しかし――刃と刃が激しくぶつかり、衝撃が腕に響く。
骨がきしみ、痛みが肘まで駆け抜けた。
(くそ……っ! 重い……!)
ヴァルデンは、一瞬だけ視線を細める。
重心のずらし方。
踏み込みの位置。
ラグドから叩き込まれた最初の数手。
刃と刃が何度か鳴った。
ヴァルデンは、一度だけ息を吸う。
「……悪くない」
それは賞賛ではなく“把握”だった。
口元がわずかに歪む。
「もっと足掻いてみろ」
言葉と同時に、一歩踏み込む。
次の瞬間、剣速が変わった。
重さと角度が、容赦なくリセルを追い詰める。
「――くっ!」
リセルは反射的に剣を握り直し、迎え撃つように踏み込んだ。
しかし――
ヴァルデンの剣が圧倒的な力で押し返す。
衝撃が体を突き抜け、リセルの足がわずかに浮いた。
足が下がる。
腕が痺れる。
視界が揺れる。
(……避けろ。横に抜けろ。そして――)
脳裏に、あの低い声が蘇る。
『――避けた瞬間に一撃を入れる。勝つためじゃねぇ、生き延びるための反撃だ』
石畳を蹴る足裏が、ざらついた感触を返す。
腰を捻り、刃先をヴァルデンの脇へ走らせる。
金属が擦れる音と共に、鎧の継ぎ目から火花が散った。
「……ほう」
興味を示すような低い声。
だが次の瞬間、ヴァルデンの剣が反転し、容赦なく襲いかかる。
凄まじい衝撃が腕を貫く。剣が手から離れた。
「ぐっ……!」
間髪入れず、鳩尾を抉る衝撃。肺が押し潰され、息が漏れる音すら出ない。
耳鳴りが鼓膜を叩き、遠くで人の声がくぐもって響く。
ヴァルデンが淡々と告げる。
「お前を生け捕りにして色々聞いてもよかったが……面倒だ。もういい。調べればわかることだ」
刃が首筋に触れ、氷のような感触が走った。
遠くでエリシアの悲鳴が響く。その声さえ、どこか遠い。
だが、刃は動かなかった。
代わりに足が振り上げられる。
次の瞬間――
胸を突き破る衝撃と共に、世界が一度、真っ白になった。
瓦礫に叩きつけられた体が、石の硬さと冷たさを骨まで伝えてくる。
息をつく間もなく、腹へ、脇腹へと蹴りが入る。視界が歪む。
頭の奥で火花が散り、呼吸が苦しい。
それでも、リセルは膝をつき、立ち上がった。
琥珀色の瞳には、なおも炎のような敵意が宿っていた。
「意地は認めるが――」
ヴァルデンが足元に転がった剣を無造作に蹴る。
乾いた金属音が石畳に長く響いた。
琥珀色の瞳が、その行方を一瞬だけ追う。
それでもすぐに、ヴァルデンを睨み返した。
長い沈黙のあと、ヴァルデンがわずかに目を細める。
「……その目が気に食わないな」
感情を伴わない、冷めた声が落ちた。
* * *
だめだ――
このままじゃ。
また、守れない。
胸の奥に、何かが沈んでいく。
その時、リセルの中で、何かが吹き抜けた。
音が消える。
――ああ、まただ。
見覚えのある、あの風景だった。
黒煙が上がる焼野原。
朱い炎。黄土色に上がる粉塵と、灰色がかった黄色の空。
そして、それを見下ろすあの生き物――灯火の竜。
力を使いたければ、使ってしまえというように。
口も目も人の物ではないのに、薄ら笑っているようにも見えた。
――見せてみろ。
お前たちが力をどう使うか。
どうせ、いつも同じだ。
そう言っているような気がした。
――違う。
これは、俺が望むことじゃない。
何かを燃やしたくないんだ。
この火は――ただ、誰かを護るために――。
胸の奥が、焼けるように熱くなった。
体が勝手に反応する。
手のひらで“何か”が爆ぜた。
橙色の光。
炎が、音もなく立ち上がる。
ヴァルデンの眉がかすかに動く。
次の瞬間、迷いなく刃が落ちた。
刃先が引かれたかと思うと――一瞬で突き出された。
咄嗟の刺突。
躊躇のない、一点の打ち込み。
「っ……!」
鋭い痛みが、胸を貫いた。
世界が、音をなくした。
息が吸えない。
喉の奥が焼けつくように熱くなり、血の味が広がる。
視界が揺らぎ、音も色も遠くなっていく。
リセルの身体が跳ね、沈む。
「リセル!!」
その叫びと同時に、ルシェは息を呑んだ。
地面に倒れた少年。
もう、動かない。
勝負はついた――そう思った一瞬、ルシェの手から力がわずかに抜けた。
エリシアはその隙を逃さなかった。
一瞬緩んだ拘束を、細い腕からは想像もできない力で振りほどいた。
「フィルナ殿!」
ルシェが掴み直そうとした腕は空を切った。
エリシアはリセルの傍らに膝をついた。
胸元へ押し当てた手が、熱と血でじわりと濡れる。
「……ひどい」
あの時、港町で見た光景が脳裏をよぎる。
ドレイドに瀕死にされた者たちは、どんなに癒しの力を使っても目を覚ますことはなかった――。
これ以上はだめ。急がないと。
癒しの力も、届かなくなってしまう。
息が震え、視界の端でヴァルデンの影が動くのが見えた。
エリシアは振り返ってヴァルデンの前へ立ちはだかった。
足元は震えていたが、その目は逸らさなかった。
「これ以上は、やめてください!」
声は掠れ、しかし必死に張り上げられていた。
一瞬だけ、唇が震える。
「……私、戻ります……! だから……お願いです。リセルを助けさせてください」
ヴァルデンの視線が冷たく降りかかる。
一拍置き、深く息を吐くと、剣先をゆっくりと下げた。
「……あなたが変な気を起こさなければ、こうはならなかった」
その目が、足元のリセルを一瞥する。
エリシアは震える拳を握りしめ、一歩踏み出した。
「もう、逃げないって、約束します」
「エリ……シア。やめろ……」
リセルが苦しげに声を上げるが、それは途切れた息と共に掻き消えた。
「あなたたちが望む聖女になります。成人したら、王との〈契約〉も受けます。だから、リセルだけは……見逃してください」
エリシアは涙を堪えるように目に力を込めた。
それでも、一筋の雫が頬を伝い、石畳へ落ちた。
ヴァルデンは短く息を吐き、剣を鞘に収めた。
「……手当てなら、お好きに。ただ、結果は変わりません」
「まだ……間に合います」
ヴァルデンは一瞬だけ眉を上げる。
だが、何も言わず踵を返した。
ルシェへ歩み寄り、顎で合図を送った。
「ヴァルデン将、よろしいのですか?」
「好きにさせておけ」
「ですが、将。助かったとしても、ユーファは……」
「……あの傷では助からん」
淡々とした声に、わずかな倦怠が混じる。
ヴァルデンは倒れた少年に一瞥だけ送り、背を向けた。
「目は離すな」
「はっ」
二人は少し離れた場所へ下がった。
夜風が、広場を通り抜けた。
静かな、けれど逃げ場のない時間が落ちる。




