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【本編完結】灯火の誓い〜孤独を選んだ少年と、名を奪われた少女の逃避行ファンタジー  作者: 水瀬 莉音
第八章 生誕祭の夜

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第七十八話 逃げ場のない夜

 石畳に風が触れた。

 広場の真ん中に、ひとつだけ影が立っている。


「――そこで何をしている」


 ヴァルデンの声だった。

 低く、迷いのない響き。


「フィルナ殿。まさかこんなところでお会いするとは思いませんでした。……念のため聞きましょう。そこで――何をしているのですか?」


 背後で足音がして、階段を上りきった影が、広場へ現れる。

 黒衛の若い兵だ。

 退路が、ふさがれた。

 ヴァルデンは視線も向けずに命じた。


「ルシェ。フィルナ殿を押さえてろ。動かすな」

「はい!」


 エリシアへ向かう足音。

 伸びた手が触れようとした――その瞬間。


「やめろ!」


 リセルは反射で踏み込んでいた。

 エリシアの前に割り込むように。

 だが、その刹那。


 金属が擦れる、乾いた気配。

 ――鞘鳴り。

 身体が勝手に反応した。

 

 リセルはエリシアを庇う姿勢のまま、ぎりぎりで横へ跳ぶ。

 次の瞬間、ヴァルデンの影が、すぐ目の前に迫っていた。


「フィルナ殿から離れろ」

 

 低く冷えた声。

 鞘から抜け出た剣の先端が、わずかに空気を切る。

 リセルは歯を噛み、踏ん張る。

 

 振り返ると、ルシェの手がもうエリシアの腕を掴んでいた。

 固い、真面目な兵士の手。

 エリシアの肩が小さく震える。


「放して……!」

 

 抵抗するもびくともしない。


「……申し訳ありません。命令ですので……」


 その言葉が落ちたとき、ヴァルデンの視線がリセルに向く。


「ヴェルナで見た顔だな」


 影が伸びた。

 夜気がひやりと張り詰める。


「……あのとき警告したはずだ。ラファス領内であれば、残党狩りは私の仕事だと」


 リセルは剣を構えるしかなかった。

 前にはヴァルデン。

 背後では、ルシェがエリシアを拘束している。

 逃げ場なんて、どこにもなかった。

 ヴァルデンが静かに言う。


「お前は見ていろ、ルシェ。手を出すな」


 それだけの言葉で十分だった。

 その瞬間――

 城のどこかで鐘が鳴りはじめた。

 一つ。

 また一つ。

 低い音が冷えた空気を震わせ、石畳に波紋のように広がる。

 その時、七つの鐘が鳴った。

 スイが言っていた時刻。

 潮が満ちる合図であり、エリシアのお披露目が始まる夜会の刻でもあった。

 音は夜の広場を満たし、逃げ道が消えていく現実だけを静かに告げていた。


 * * *


 鐘が鳴り終わると同時に、花火が堰を切るように重なった。

 夜の頂点みたいな光の奔流。

 そのくせ、ここだけが妙に静かだった。

 祭りの喧噪から切り取られたような、冷たい宵闇。

 不思議な感覚が、じんわりと手足に広がる。


 この男を目の前にすれば、心がもっと荒れるはずだった。

 なのに、胸の奥は静かに冷えていく。

 鐘の余韻と花火の光が、焦りも恐れも沈めていった。

 頭の奥がすうっと澄んでいく。

 その中心に、ひとつだけ硬い決意が浮かぶ。


 ――ここまで来て、奪われてたまるか。


 リセルは息を吸い込んだ。

 濃い潮の香が鼻をつく。

 剣を握る手に汗が滲む。


「……離れろだって? それはこっちのセリフだ。エリシアを放せ」

「妙なことを言う。侵入者はお前の方だ。フィルナ殿は我が国の庇護下にある」

「人を攫うのが、お前たちの国では『庇護』というのか? エリシアを解放しろ。エリシアは自由に生きる。それだけだ」

「……これ以上の会話は無駄なようだ」

「だったらどうする」

「侵入者は捕らえる。ユーファを見逃す法もない」


 リセルはラグドに教わったように、片足を後方に一歩下げて低く構えた。

 その時、ラグドの声がよぎる。


『戦うな。特に、黒衛になんて出くわしたら、戦おうなんて思うな。分が悪すぎる』


(分かってる。精鋭の、しかも長年訓練を積んだ生粋の軍人なんかに、叶うはずもない。俺のは付け焼刃の、剣の真似事だ。

 ――けど、ラグド、この状況じゃ、戦うしかないだろ?)


「大人しく投降するなら、この場では殺しはしない。ユーファは火の力を確認してから処刑することになっているからな」


 深灰の瞳がリセルをじっと見据えた。


「さて、お前はどっちだろうな」

「投降はしない。エリシアは連れていく」

「――なら、仕方ない」


 ヴァルデンが剣を抜いたまま、踏み込んだ。

 次の瞬間――

 リセルは横に飛び、剣を振り下ろしていた。

 鋭い金属音が響き、火花が散る。

 ヴァルデンは軽く剣を傾けて受け止めた。


「……剣の真似事か。無謀だな」


 その言葉を聞くなり、リセルはさらに身を沈め、素早く切り返す。

 狙いは脇――。

 しかし――刃と刃が激しくぶつかり、衝撃が腕に響く。

 骨がきしみ、痛みが肘まで駆け抜けた。


(くそ……っ! 重い……!)


 ヴァルデンは、一瞬だけ視線を細める。

 重心のずらし方。

 踏み込みの位置。

 ラグドから叩き込まれた最初の数手。

 刃と刃が何度か鳴った。

 ヴァルデンは、一度だけ息を吸う。


「……悪くない」


 それは賞賛ではなく“把握”だった。

 口元がわずかに歪む。


「もっと足掻いてみろ」


 言葉と同時に、一歩踏み込む。

 次の瞬間、剣速が変わった。

 重さと角度が、容赦なくリセルを追い詰める。


「――くっ!」


 リセルは反射的に剣を握り直し、迎え撃つように踏み込んだ。

 しかし――

 ヴァルデンの剣が圧倒的な力で押し返す。

 衝撃が体を突き抜け、リセルの足がわずかに浮いた。

 足が下がる。

 腕が痺れる。

 視界が揺れる。


(……避けろ。横に抜けろ。そして――)


 脳裏に、あの低い声が蘇る。


『――避けた瞬間に一撃を入れる。勝つためじゃねぇ、生き延びるための反撃だ』


 石畳を蹴る足裏が、ざらついた感触を返す。

 腰を捻り、刃先をヴァルデンの脇へ走らせる。

 金属が擦れる音と共に、鎧の継ぎ目から火花が散った。


「……ほう」


 興味を示すような低い声。

 だが次の瞬間、ヴァルデンの剣が反転し、容赦なく襲いかかる。

 凄まじい衝撃が腕を貫く。剣が手から離れた。


「ぐっ……!」


 間髪入れず、鳩尾を抉る衝撃。肺が押し潰され、息が漏れる音すら出ない。

 耳鳴りが鼓膜を叩き、遠くで人の声がくぐもって響く。

 ヴァルデンが淡々と告げる。


「お前を生け捕りにして色々聞いてもよかったが……面倒だ。もういい。調べればわかることだ」


 刃が首筋に触れ、氷のような感触が走った。

 遠くでエリシアの悲鳴が響く。その声さえ、どこか遠い。

 だが、刃は動かなかった。

 代わりに足が振り上げられる。


 次の瞬間――

 胸を突き破る衝撃と共に、世界が一度、真っ白になった。

 瓦礫に叩きつけられた体が、石の硬さと冷たさを骨まで伝えてくる。

 息をつく間もなく、腹へ、脇腹へと蹴りが入る。視界が歪む。


 頭の奥で火花が散り、呼吸が苦しい。

 それでも、リセルは膝をつき、立ち上がった。

 琥珀色の瞳には、なおも炎のような敵意が宿っていた。


「意地は認めるが――」


 ヴァルデンが足元に転がった剣を無造作に蹴る。

 乾いた金属音が石畳に長く響いた。


 琥珀色の瞳が、その行方を一瞬だけ追う。

 それでもすぐに、ヴァルデンを睨み返した。


 長い沈黙のあと、ヴァルデンがわずかに目を細める。


「……その目が気に食わないな」


 感情を伴わない、冷めた声が落ちた。


 * * *


 だめだ――

 このままじゃ。

 また、守れない。

 胸の奥に、何かが沈んでいく。

 その時、リセルの中で、何かが吹き抜けた。


 音が消える。


 ――ああ、まただ。

 見覚えのある、あの風景だった。


 黒煙が上がる焼野原。

 朱い炎。黄土色に上がる粉塵と、灰色がかった黄色の空。

 そして、それを見下ろすあの生き物――灯火の竜。


 力を使いたければ、使ってしまえというように。

 口も目も人の物ではないのに、薄ら笑っているようにも見えた。


 ――見せてみろ。

 お前たちが力をどう使うか。

 どうせ、いつも同じだ。


 そう言っているような気がした。


 ――違う。

 これは、俺が望むことじゃない。

 何かを燃やしたくないんだ。

 この火は――ただ、誰かを護るために――。


 胸の奥が、焼けるように熱くなった。

 体が勝手に反応する。

 手のひらで“何か”が爆ぜた。

 橙色の光。

 炎が、音もなく立ち上がる。


 ヴァルデンの眉がかすかに動く。

 次の瞬間、迷いなく刃が落ちた。

 刃先が引かれたかと思うと――一瞬で突き出された。

 咄嗟の刺突。

 躊躇のない、一点の打ち込み。


「っ……!」


 鋭い痛みが、胸を貫いた。

 世界が、音をなくした。

 息が吸えない。

 喉の奥が焼けつくように熱くなり、血の味が広がる。

 視界が揺らぎ、音も色も遠くなっていく。

 リセルの身体が跳ね、沈む。


「リセル!!」


 その叫びと同時に、ルシェは息を呑んだ。

 地面に倒れた少年。

 もう、動かない。

 勝負はついた――そう思った一瞬、ルシェの手から力がわずかに抜けた。

 エリシアはその隙を逃さなかった。

 一瞬緩んだ拘束を、細い腕からは想像もできない力で振りほどいた。


「フィルナ殿!」


 ルシェが掴み直そうとした腕は空を切った。

 エリシアはリセルの傍らに膝をついた。

 胸元へ押し当てた手が、熱と血でじわりと濡れる。


「……ひどい」


 あの時、港町で見た光景が脳裏をよぎる。

 ドレイドに瀕死にされた者たちは、どんなに癒しの力を使っても目を覚ますことはなかった――。


 これ以上はだめ。急がないと。

 癒しの力も、届かなくなってしまう。

 息が震え、視界の端でヴァルデンの影が動くのが見えた。

 エリシアは振り返ってヴァルデンの前へ立ちはだかった。

 足元は震えていたが、その目は逸らさなかった。


「これ以上は、やめてください!」


 声は掠れ、しかし必死に張り上げられていた。

 一瞬だけ、唇が震える。


「……私、戻ります……! だから……お願いです。リセルを助けさせてください」


 ヴァルデンの視線が冷たく降りかかる。

 一拍置き、深く息を吐くと、剣先をゆっくりと下げた。


「……あなたが変な気を起こさなければ、こうはならなかった」


 その目が、足元のリセルを一瞥する。

 エリシアは震える拳を握りしめ、一歩踏み出した。


「もう、逃げないって、約束します」

「エリ……シア。やめろ……」


 リセルが苦しげに声を上げるが、それは途切れた息と共に掻き消えた。


「あなたたちが望む聖女になります。成人したら、王との〈契約〉も受けます。だから、リセルだけは……見逃してください」


 エリシアは涙を堪えるように目に力を込めた。

 それでも、一筋の雫が頬を伝い、石畳へ落ちた。

 ヴァルデンは短く息を吐き、剣を鞘に収めた。


「……手当てなら、お好きに。ただ、結果は変わりません」

「まだ……間に合います」


 ヴァルデンは一瞬だけ眉を上げる。

 だが、何も言わず踵を返した。

 ルシェへ歩み寄り、顎で合図を送った。


「ヴァルデン将、よろしいのですか?」

「好きにさせておけ」

「ですが、将。助かったとしても、ユーファは……」

「……あの傷では助からん」


 淡々とした声に、わずかな倦怠が混じる。

 ヴァルデンは倒れた少年に一瞥だけ送り、背を向けた。


「目は離すな」

「はっ」


 二人は少し離れた場所へ下がった。

 夜風が、広場を通り抜けた。

 静かな、けれど逃げ場のない時間が落ちる。

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