第七十二話 祝祭の光と影Ⅰ
年に一度の生誕祭は、城下を明るく染めていた。
祭りの少ないラファスの民にとって、この日は特別だった。
あらゆる仕事から解放され、王室からの御馳走や酒が、貧しい者にも等しく振る舞われる。イース大陸の短い夏の空に、陽が透き通る。
色とりどりの布が風に揺れ、通りは花の匂いで満ちていた。南の高原から運ばれてきた黄や白の夏花が、露店に飾られている。短くも、良い季節だった。
子どもたちが笑いながら花弁を撒いている。白い花びらが舞い上がり、光を受けてきらきらと散った。
城門が開くと、まず整然とした隊列が現れた。
火輪のオルデス神の紋章。深紅と金を纏ったイグナルド正規軍だった。
甲冑が陽光を跳ね返し、石畳に揃った足音が響く。
祝祭の顔は表だけだ。
先頭には正規軍イグナルドの旗。赤が風を切り、槍の穂先に小さな光が走る。
その内側を囲むように、近衛儀礼兵アルガルドが白と群青の礼装で並ぶ。白銀が陽を受けて淡く輝く。旗が風を孕み、布の擦れる音が通りを満たした。
その中央を、王が進んでいた。
馬上の姿はよく見える。
だがそれは、周囲が隅々まで整え尽くされているからだった。
王の周囲には、民が近づけぬよう白衛が一定の距離を保っていた。
「陛下だ!」
城下町の大通りで、誰かが叫んだ。その声が波のように広がり、人々が一斉に前へと身を乗り出す。道の中央を、赤い外套が揺れていた。
深い赤。金糸で縁取りがされ、陽光を浴びるたびかすかに光る。
そして、最後。後方には、黒衛アシュガルドの影。黒だけが光を飲み込み、行列の終わりを静かに締めていた。彼らが通り過ぎるときだけ、人々は目を伏せた。ざわつきが消える。
十年前、先王が逝き、若き王――レヴィウスが即位した。
影の座も引き継がれたが、国の姿は変わらなかった。
王が代われば、影もまた代わる。ラファスでは、それが当たり前だった。
光と影が入れ替わっても、秩序は保たれた。
――人々は、そう信じていた。
レヴィウスは今年二十八になり、その顔には威厳が増していた。
陽の光のような金の髪。精悍な顔立ち。
よく通る薄緑の眼差し。
肩にかかる外套の重みさえ、自然に馴染んでいる。
レヴィウスは馬上から手を上げた。その仕草ひとつで、ざわめきが一斉に走った。
風に花弁が舞う。
「……光の人だ」
「オルデスの加護が、まだこの国にある」
声は歓声ではなく、祈りに近かった。
祝祭の日は、寒さも争いも忘れられる。人々は、この王が未来を連れてきてくれると信じていた。そう信じられるだけの、まっすぐな美しさが、そこにあった。
レヴィウスは微笑んだ。
柔らかく、穏やかに。
人々に向けて、ひとりひとりを包むような笑みだった。
その笑顔に、城下はまた息をのみ、そして歓声があがる。
花弁が、陽光の中で降り続ける。赤い外套に白い花片が落ち、昼の空に瞬く星のようだった。まるで、天からの祝福のように。
——この国には王がいる。
この王が、国を導く。
誰もが、そう信じていた。
この時は、まだ。
* * *
城の上空を、黄昏の光を浴びた彩雲が流れていた。
凱旋を終えた生誕祭の夕方。
いつもより旗が多く揺れ、楽の音が遠くで響いているのに、謁見の間だけは静かだった。
この後の夜会の警備からは、黒衛アシュガルドの名が外されていた。
祝宴に影は要らない──その判断だった。
レヴィウスは玉座から立ち上がった。
祝宴のざわめきは、分厚い扉の向こうに遠ざかっていく。
外套がかすかに揺れた。
*
執務室は暗かった。
日差しが廊下側の壁に長い影を落としている。
祭りの日でも、机の上には書類が積まれたままだ。
レヴィウスは席に着き、深く息を吐いた。
それは安堵ではなく、ただ次の呼吸へ移るためのものだった。
机に積まれた書類を見やり、レヴィウスは短くまぶたを伏せた。
——三年か。ようやく、聖堂と黒衛の綱を握り直せた。
扉が叩かれる。
「入れ」
入ってきたのはヴァルデンだった。
黒い軍衣。姿勢はまっすぐで、影のように無駄がない。
ラファスの王はめったに姿を見せない。公務も謁見も代理を通して済ませる。外交はヴィカリウスに委ねている。
この部屋に入ることを許される者は少ない。
ヴァルデンは、その数えるほどの例外だった。
黒衛は一枚岩ではない。王都の名家から出る者もいれば、戦士部族から抜擢される者もいる。
ヴァルデンは後者だった。北西部族の出。
反乱の火が鎮められたのち、王都へ“預けられた”血。
人質と呼ぶ者もいたが、彼はその言葉を否定も肯定もしなかった。
幼いレヴィウスや、その双子の兄セヴェルスと同じ屋敷で育ち、同じ庭で剣を学んだ。
やがて前線で頭角を現し、その働きを前王エリウスに認められる。
そして黒衛の特務の長――〈将〉へ任ぜられた。
「聖女候補はどうしている」
レヴィウスの声は静かだった。
「最近は指導にも素直に従っています。問題となる様子は見られません」
「それでいい。扱いやすいに越したことはない。余計な手間は面倒だからな。これから、長い付き合いになる」
レヴィウスは机の端に置かれた水差しへ視線を落とした。
喉は乾いていない。ただ、言葉のあいだにひとつ、区切りが欲しかった。
「今夜の夜会で、お披露目を行う。それがまず、上層への正式な橋渡しになる」
レヴィウスは目を上げた。
「これで、揃う」
レヴィウスは続けた。
「契約の儀は……彼女が成人を迎えてからだ。あと数日のことだ」
ヴァルデンのまつげが、わずかに揺れる。
レヴィウスは気づかぬふりをした。
「形を整えるには、順序がいる。民へは奇跡を示す」
ヴァルデンはゆっくりと頷いた。
「……承知しております。予定に支障はありません」
短い返事だった。声音には、温度はなかった。
レヴィウスは満足げに頷いた。
そのとき、別の足音が近づいた。戸を開けずともわかる、かすれた靴音。
「影の王記録官、カエルタ。入室許可を」
低い声だった。
影の王記録官。影の王の政務と行動を記し、越権がないかを見届ける役職だった。
「入れ」
扉が開く。
カエルタは痩せていた。濃藍の長衣に、首元だけ簡素な飾り紐。背は少し曲がり、肩は細い。淡い灰色の瞳が、音もなく室内を這った。
「報告を」
レヴィウスが促すと、彼は書簡を一通、恭しく差し出した。
「ヴィカリウス殿下は、本日の夜会には出席されません。陛下が主役の席だからと」
レヴィウスはわずかに眉を動かした。
この兄はいつもそうして、自ら影へ退く。
それでいて、ときおり自分よりも鮮明に人の目に映る。
昔から、それが癪に障った。
だが、その感情に名を与えたことはない。
「兄上も相変わらずだな」
カエルタはわずかに咳払いをして続けた。
「政務が終わり次第、ルシトへ向かう所存とのこと。来賓の中に、懇意の者がいるとか」
「……また女か」
レヴィウスは小さく吐息を漏らした。
カエルタは無表情で首を横に振る。
「それは、存じません」
短いやりとりだった。しかし、その一言に、部屋の空気がひっそりと揺れた。
レヴィウスは指先で机の端を軽く叩いた。考えるときの癖だった。
「……気に食わんな」
その声は、笑っているようにも聞こえた。けれど、それが冗談でないことを、二人は知っていた。
レヴィウスは視線をヴァルデンに向ける。
「ヴァルデン。お前が釘を刺してこい」
「……承知しました」
「王家御用達の港だ。出立を止める必要はない。港で声をかけるだけでいい」
「心得ています」
「そのあとは――お前も宴に顔を出せ」
ヴァルデンは、ほんのわずかに視線をそらした。
「ああいう場所は、苦手です」
「なら、好きにするがいい」
レヴィウスは一瞬、言葉を切った。
「ただ――お前も少しは楽しめるようになれ」
その声は軽かったが、命令であり、情にも似た響きがあった。
「それから、カエルタ」
「は」
「ヴィカリウスには外交報告書を直ちに提出させろ。今夜、出立前にだ」
「承知しました」
「公務を果たしたあとのことまで、私が口を挟むことではない」
カエルタは深く頭を下げ、音もなく引き下がった。
扉が閉まり、再び静寂が落ちる。
レヴィウスは窓の外を見た。陽は傾き、空は黄金から青へ移りはじめていた。
(聖女は、私が選んだ。聖堂でも、神官でもない。王国の象徴を決めるのは、王だ)
ほんの短い、呼吸。
(父上は、体制を変えようとして命を落とした。私は同じ轍は踏まん)
「……今夜で、口出しはできなくなる」
それは、声とも呼べないほどのひと息だった。誰に向けた祈りでもなく、ただ——事実を確かめるだけの言葉。
ヴァルデンは踵を返す。
言われた通り、ヴィカリウスに釘を刺すだけ。そのつもりだった。
その背に、落ちる影は長かった。夕暮れは、もう潮の音を連れていた。




