第七話 焚火の揺らぐ夜
林の奥、薄明の空の下で、焚火が静かに揺れていた。
ユルンを広げ、荷袋の中身を確認する。
下に詰めた毛皮は水を吸って重くなっていたが、幸い上に積んでいた外套や獣毛は濡れていなかった。
リセルは安堵の息を吐き、そのうち一枚を焚火のそばに広げた。
「これは濡れてない。……使える」
リセルは濡れた荷物を広げ、濡れていなかった獣毛や布を使って、ユルンを簡易の風よけに張り直した。林の枝を使って仕切りも作り、干せる毛皮や外套を吊るした。
腰側の荷袋に入れていた食料や薬草は水を吸ってしまっていたが、上側に積んでいた寝具や換え布はかろうじて無事だった。
焚火の炎がぱちぱちと弾けるたびに、二人を包む空気がほんのわずか緩む。
「……濡れたままじゃ、凍えちゃう。向こうで、脱いできてもいい?」
エリシアが戸惑いがちに言った。
「ああ、あっち向いてる。それと、これ」
そう言って、濡れていなかった外套と獣毛を差し出した。それから立ち上がり、焚火の火をいじるふりをしながら視線を外す。
しばらくすると、エリシアは外套を肩から巻き付け、仕切りの内側に戻った。それから火の向こう側に腰かけ、焚火を見つめていた。
「……寒くないか?」
焚火越しに声をかけると、エリシアは膝を抱えて、小さく頷いた。
「……うん」
かすれた声が、ぱち、と弾ける火の音に溶けた。
そのとき、ちらりと視界の端に素肌がのぞいた気がして、リセルは思わず目をそらした。
見間違いかもしれない。けれど、落ち着かないのは確かだった。
自分も下衣を脱ぎ、腰に獣毛を巻いているだけ――。
(……なんだよ、落ち着かないな)
お互い、間抜けな恰好だ。
状況が状況だから仕方ない――そう思いながらも、どこか落ち着かない。
風がそよいで、干してある布がふわりと揺れた。
焚火の熱だけが、静かに二人のあいだにあった。
やがて、焚火の炎が安定すると、リセルは黙ったまま、枝をもう一本くべた。
(……追手は撒けたはずだ。水路を通ってきた人間を追うのは無理だろ)
そう思いながらも、リセルの警戒心は消えていなかった。
火の向こうで、エリシアが身じろぎした。
重い沈黙の中、彼女がぽつりと呟いた。
「……ごめんなさい。こんなことになって……」
リセルは目を上げた。けれど、すぐに視線を外して、薪の火をじっと見つめた。
焚火の奥で揺れるエリシアの影を見つめながら、すぐには何も言えなかった。
黒聖に手を出した――それが、どれほどの重罪かは、十歳の子でもわかる。
「そんなことない」「大丈夫だ」なんて、すぐに気休めの言葉をかけられるほど、心の整理ができていなかった。
リセルの沈黙をどう受け取ったのか、エリシアは俯いたまま唇を噛んだ。
「あのとき、とっさに……助けてって言っちゃって」
「……」
「言い訳になるかもしれないけど……助けてって言うの、たぶんもう、口癖みたいになってたの。本当は、誰かに届くなんて思ってなかったの。……逃げるとき最後に一度だけ助けくれた人はいたけど……それまでは、誰も助けてくれなかったから」
リセルは少し俯いて、小さく呟いた。
「……見てられなかっただけだ」
自分でも驚くほど低く押し殺した声が出た。だが、それは後悔や怒りではなく、ただ正直な気持ちだった。
「それでも、リセルは助けてくれた。……あなたは、優しい人なんだね」
――そんなことはない。
泣いているとも、微笑んでいるともつかない表情で自分を見るエリシアに、そんな言葉が喉から出かかった。けれど、リセルはただ、焚火を見つめ続けていた。
どうして見て見ぬ振りができなかったのか。
ずっと、誰とも関わらずに生きてきたはずだった。
それなのに、火を見つめる少女の目から、視線が離れなかった。
あのとき、雪の上でもこの少女は、確かに生きたいと願っていた――。
その姿が、胸の奥にしまっていた"何か"を疼かせた。
諦めたはずの願い。
……でも。
本当は――
どこかで諦めきれてなかったのかもしれない。
誰にも頼らず、誰も信じず、それでも生き延びることが正しいと思い込んでいた。
それしか選べなかった。でも――
エリシアの必死さが、それを否定してくる。
――だれかに、頼ったっていい。生きたいと渇望することは、甘えじゃない。
そう訴えかけられている気がした。
リセルは静かに目を伏せた。
火の温もりが、皮膚の奥に染みる。
だけど、それ以上に、胸の奥が、じんと熱かった。
「でもね、もうこれ以上、迷惑はかけられないから――」
エリシアが静かに言った。
「私、明日になったら、もう行くね。リセルは、元の生活に戻ってね」
リセルは顔を上げた。
エリシアは目が合うと今度はにっこりと笑った。
紫がかった薄茶の瞳に焚火の炎が映え、温かな光が宿る。
リセルは何も言わず、薪をくべた。
炎の奥で揺れていたのは、火か――それとも、自分の迷いか。
「……私ね、昔は、ラファスの西の小さな村で暮らしてたの。母と畑をやって、ちゃんと食べて……穏やかだった。
でも、ある日、黒い外套の兵士たちが来て、私と母を攫っていった。それからはずっと、閉じ込められて……。今日、あなたが助けてくれて、本当に、嬉しかったの。……ありがとう」
リセルは答えられなかった。
この「ありがとう」は、きっとエリシアなりの――別れの挨拶。
まるで、幕を引くように丁寧な言い方だった。
リセルは無言のまま、薪をくべた。
炎の影が揺れ、ぱち、と焚火の薪が弾ける。
まるで、心の奥底に押し込めた何かが、燃え残っているかのように。
それを見つめながら、リセルはふっと息を吐いた。
言いようもないざらつきが胸を支配していたが、それを言葉にすることはできなかった。
ふと、エリシアが、焚火に視線を戻し、両手をかざす。朱色の炎が、エリシアの頬を優しく照らしていた。
「焚き火を見ていると、どんなに寒くても、あったかい気がするから不思議だね」
ぽつりとした呟きが、火の音に溶ける。
その言葉に、リセルの胸の奥で――遠い記憶が、静かに灯った。
『焚き火ってのはさ、見てると気持ちもあったかくしてくれるんだよな』
雪の夜。
火を囲んでいたフィンが、笑いながらそう言った。
『そんなこと言ったって、背中が寒い』
『……いいから黙って火を見てみろ。俺が言ったこと、わかるから』
『……』
『どうだ?』
『やっぱり寒い』
『ったく、仕方ねぇなぁ。ほら』
肩に外套をかけられたときの、あの温もり。
あの夜の火と、今の火が、静かに重なっていく。
(……なんだよ、フィン。今さら思い出させるな)
リセルは、乱暴に薪をくべた。
火の粉が、ぱちっと爆ぜて、暗闇に吸い込まれていく。
「……うん、あったかくなってきた」
焚火の向こうで、エリシアが小さく笑った。
火の明かりに照らされた頬に、ようやく色が戻っている。
「こんな風にちゃんと火にあたって座るの、ほんと久しぶり。……火って、見てるだけでも心まであったかくなるんだね」
その笑顔に、リセルは少しだけ目を伏せた。
うまく言えない感情が、胸の奥に差し込んでくる。
過去の記憶と、今のこの静かな時間とが――どこかで重なっていた。
焚火の炎は、ゆらゆらと揺れながら、遠くの枝を照らしていた。
明日になれば、この小さな火も、朝の風にさらわれてしまうかもしれない。
――それでも、今は確かに、ここで揺れている。




