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灯火の誓い〜もう奪われたくない。ひとりで生きることを選んだ少年は、 雪解けの道で、行き倒れた少女に出会う  作者: 水瀬 理音
第一章 雪解けの出会い

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第七話 焚火の揺らぐ夜

 林の奥、薄明の空の下で、焚火が静かに揺れていた。


 ユルンを広げ、荷袋の中身を確認する。

 下に詰めた毛皮は水を吸って重くなっていたが、幸い上に積んでいた外套や獣毛は濡れていなかった。


 リセルは安堵の息を吐き、そのうち一枚を焚火のそばに広げた。

「これは濡れてない。……使える」

 リセルは濡れた荷物を広げ、濡れていなかった獣毛や布を使って、ユルンを簡易の風よけに張り直した。林の枝を使って仕切りも作り、干せる毛皮や外套を吊るした。


 腰側の荷袋に入れていた食料や薬草は水を吸ってしまっていたが、上側に積んでいた寝具や換え布はかろうじて無事だった。

 焚火の炎がぱちぱちと弾けるたびに、二人を包む空気がほんのわずか緩む。


「……濡れたままじゃ、凍えちゃう。向こうで、脱いできてもいい?」

 エリシアが戸惑いがちに言った。

「ああ、あっち向いてる。それと、これ」

 そう言って、濡れていなかった外套と獣毛を差し出した。それから立ち上がり、焚火の火をいじるふりをしながら視線を外す。


 しばらくすると、エリシアは外套を肩から巻き付け、仕切りの内側に戻った。それから火の向こう側に腰かけ、焚火を見つめていた。

「……寒くないか?」

 焚火越しに声をかけると、エリシアは膝を抱えて、小さく頷いた。

「……うん」

 かすれた声が、ぱち、と弾ける火の音に溶けた。


 そのとき、ちらりと視界の端に素肌がのぞいた気がして、リセルは思わず目をそらした。

 見間違いかもしれない。けれど、落ち着かないのは確かだった。

 自分も下衣を脱ぎ、腰に獣毛を巻いているだけ――。

(……なんだよ、落ち着かないな) 

 お互い、間抜けな恰好だ。


 状況が状況だから仕方ない――そう思いながらも、どこか落ち着かない。

 風がそよいで、干してある布がふわりと揺れた。

 焚火の熱だけが、静かに二人のあいだにあった。


 やがて、焚火の炎が安定すると、リセルは黙ったまま、枝をもう一本くべた。

(……追手は撒けたはずだ。水路を通ってきた人間を追うのは無理だろ)

 そう思いながらも、リセルの警戒心は消えていなかった。


 火の向こうで、エリシアが身じろぎした。

 重い沈黙の中、彼女がぽつりと呟いた。

「……ごめんなさい。こんなことになって……」


 リセルは目を上げた。けれど、すぐに視線を外して、薪の火をじっと見つめた。

 焚火の奥で揺れるエリシアの影を見つめながら、すぐには何も言えなかった。

 黒聖に手を出した――それが、どれほどの重罪かは、十歳の子でもわかる。

「そんなことない」「大丈夫だ」なんて、すぐに気休めの言葉をかけられるほど、心の整理ができていなかった。


 リセルの沈黙をどう受け取ったのか、エリシアは俯いたまま唇を噛んだ。

「あのとき、とっさに……助けてって言っちゃって」

「……」

「言い訳になるかもしれないけど……助けてって言うの、たぶんもう、口癖みたいになってたの。本当は、誰かに届くなんて思ってなかったの。……逃げるとき最後に一度だけ助けくれた人はいたけど……それまでは、誰も助けてくれなかったから」


 リセルは少し俯いて、小さく呟いた。

「……見てられなかっただけだ」

 自分でも驚くほど低く押し殺した声が出た。だが、それは後悔や怒りではなく、ただ正直な気持ちだった。


「それでも、リセルは助けてくれた。……あなたは、優しい人なんだね」

 ――そんなことはない。

 泣いているとも、微笑んでいるともつかない表情で自分を見るエリシアに、そんな言葉が喉から出かかった。けれど、リセルはただ、焚火を見つめ続けていた。


 どうして見て見ぬ振りができなかったのか。

 ずっと、誰とも関わらずに生きてきたはずだった。

 それなのに、火を見つめる少女の目から、視線が離れなかった。


 あのとき、雪の上でもこの少女は、確かに生きたいと願っていた――。

 その姿が、胸の奥にしまっていた"何か"を疼かせた。

 諦めたはずの願い。


 ……でも。

 本当は――

 どこかで諦めきれてなかったのかもしれない。

 誰にも頼らず、誰も信じず、それでも生き延びることが正しいと思い込んでいた。

 それしか選べなかった。でも――


 エリシアの必死さが、それを否定してくる。

 ――だれかに、頼ったっていい。生きたいと渇望することは、甘えじゃない。

 そう訴えかけられている気がした。


 リセルは静かに目を伏せた。

 火の温もりが、皮膚の奥に染みる。

 だけど、それ以上に、胸の奥が、じんと熱かった。


「でもね、もうこれ以上、迷惑はかけられないから――」

 エリシアが静かに言った。

「私、明日になったら、もう行くね。リセルは、元の生活に戻ってね」


 リセルは顔を上げた。

 エリシアは目が合うと今度はにっこりと笑った。

 紫がかった薄茶の瞳に焚火の炎が映え、温かな光が宿る。

 リセルは何も言わず、薪をくべた。


 炎の奥で揺れていたのは、火か――それとも、自分の迷いか。


「……私ね、昔は、ラファスの西の小さな村で暮らしてたの。母と畑をやって、ちゃんと食べて……穏やかだった。 

 でも、ある日、黒い外套の兵士たちが来て、私と母を攫っていった。それからはずっと、閉じ込められて……。今日、あなたが助けてくれて、本当に、嬉しかったの。……ありがとう」    


 リセルは答えられなかった。

 この「ありがとう」は、きっとエリシアなりの――別れの挨拶。

 まるで、幕を引くように丁寧な言い方だった。


 リセルは無言のまま、薪をくべた。

 炎の影が揺れ、ぱち、と焚火の薪が弾ける。

 まるで、心の奥底に押し込めた何かが、燃え残っているかのように。


 それを見つめながら、リセルはふっと息を吐いた。

 言いようもないざらつきが胸を支配していたが、それを言葉にすることはできなかった。


 ふと、エリシアが、焚火に視線を戻し、両手をかざす。朱色の炎が、エリシアの頬を優しく照らしていた。

「焚き火を見ていると、どんなに寒くても、あったかい気がするから不思議だね」

 ぽつりとした呟きが、火の音に溶ける。


 その言葉に、リセルの胸の奥で――遠い記憶が、静かに灯った。


『焚き火ってのはさ、見てると気持ちもあったかくしてくれるんだよな』

 雪の夜。

 火を囲んでいたフィンが、笑いながらそう言った。

『そんなこと言ったって、背中が寒い』

『……いいから黙って火を見てみろ。俺が言ったこと、わかるから』

『……』

『どうだ?』

『やっぱり寒い』

『ったく、仕方ねぇなぁ。ほら』


 肩に外套をかけられたときの、あの温もり。

 あの夜の火と、今の火が、静かに重なっていく。


(……なんだよ、フィン。今さら思い出させるな) 


 リセルは、乱暴に薪をくべた。

 火の粉が、ぱちっと爆ぜて、暗闇に吸い込まれていく。

「……うん、あったかくなってきた」


 焚火の向こうで、エリシアが小さく笑った。

 火の明かりに照らされた頬に、ようやく色が戻っている。

「こんな風にちゃんと火にあたって座るの、ほんと久しぶり。……火って、見てるだけでも心まであったかくなるんだね」


 その笑顔に、リセルは少しだけ目を伏せた。

 うまく言えない感情が、胸の奥に差し込んでくる。

 過去の記憶と、今のこの静かな時間とが――どこかで重なっていた。

 焚火の炎は、ゆらゆらと揺れながら、遠くの枝を照らしていた。


 明日になれば、この小さな火も、朝の風にさらわれてしまうかもしれない。


 ――それでも、今は確かに、ここで揺れている。




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