第六話 逃げる
リセルは最初の男を殴り倒すと、二人目に肩から突っ込んだ。
重みで崩れた体を踏み越えて、すぐにユルンを手に取る。
三人目が剣に手をかけた瞬間、荷袋ごとその胸を叩きつけた。
鉱石と毛皮の詰まった重みが、男の脇腹をえぐった。
鈍い音とともに、体が折れ曲がる。
「立て!」
リセルはエリシアの腕を掴んで引き上げると、そのまま扉を飛び出した。
階段を駆け降りる足音が、木造の床を揺らす。
拳が、男の顔にめり込む感触がまだ残っていた。
体が勝手に動いた。そうするしかなかった。
だけど、次の瞬間には、心の中を激しい後悔が襲った。
(何やってんだ俺は……)
今まで、誰とも関わらずに済むように、ずっとやってきた。
目立たず、争わず、見つからないように。それだけでよかったのに。
生き延びるために、きつい背運びだってやってきた。
もう少し稼げば、海路だって目前だった。――なのに。
(こんなとこで、こんな……! くそ!)
リセルは歯を食いしばる。
もう引き返せないところまで来てしまった――身体の奥がそう告げていた。だが、こうなってしまった今、捕まれば自分も終わる――。
逃げ切るしかない。後悔は後からいくらでもできる。
リセルはエリシアの手を引いたまま、宿の裏手を駆け抜けた。
視界の端に、黒外套の影が一瞬よぎる。
(まずい、こっちも回り込まれてる)
小道を一つ曲がると、板塀の脇に小さな排水口のような穴があった。
そこから、村を横切るように石張りの浅い用水路が伸びている。
かがんで通れるほどの高さの石造りで、上を半分覆うように石の梁がかかっているため、外から中はほとんど見えない。水深は深く、子どもなら胸元まで浸かるほどだった。
「こっちだ」
リセルはエリシアの肩をぐっと押しながら先に進ませ、自らも塀を越え、水路へ飛び込んだ。
冷たい水が腰まで浸かる。泥と濁りで視界は悪いが、進むしかない。
「そんな……ここ、通れるの?」
「通れる。急げ!」
行く先々で、逃げ道を探しておくのはリセルの常だった。
ここはずいぶん前に下調べ済みで、水路を抜ければ川沿いの林にでることができる。
そのさらに先は古い農地がある。だが、入るところを見られたのでは、それも水の泡だ。
リセルはエリシアを素早く、しかし音を立てないように招き入れた。エリシアの顔が冷たさに歪んだが、気にしている場合ではなかった。
間髪入れず、背後で黒聖たちの足音が塀の向こうに響いた。だが、追ってくる音は用水路には入ってこない。
(あいつらは、間違いなく馬を取りに行く。聖人ぶった連中に、泥水を這うなんて発想はない。林道を追うはずだ)
無言でエリシアに進むよう合図を送った。リセルは腰まで浸かっていたが、エリシアは胸下あたりまで浸かっていて、この寒さに耐えられるか不安がよぎった。しかし、ここにはもういられない。進むしかない――。
低く身を屈めながら、リセルは水路の先へ進んだ。
足元は滑る。けれど、息を切らしながらついてくるエリシアの気配が、確かに後ろにあった。
* * *
どのくらい歩いたか分からない。
時折、脚を取られて倒れそうになるエリシアを支えながら、ただ必死に進む。
水路を抜けた先、突然足元の感触が変わった。石の硬さが泥に変わり、目の前がひらける。
そこには、夕暮れの光に包まれた小川が流れていた。
水の音と、鳥の声だけが静かに響く。
町の喧騒も、追っ手の気配も、もう遠くに感じられた。
リセルは、まだ冷たい手でエリシアの手を握ったまま、泥の岸に足をかける。
「……出た。もう追ってこれない」
小川を渡り、木立の陰に身を隠すように腰を下ろす。
エリシアの肩は小刻みに震えていた。
胸のあたりまで冷たい泥水に浸かったため、宿で取り換えた衣服も、見るも無残に汚れていた。濡れた衣服が張り付き、彼女の体温を奪っていく。
リセルは荷袋をほどき、近くの枝葉を素早く集めると、火打石を手に取った。
かじかんだ指ではうまく石を弾けず、火花が何度も虚しく散った。
それでも粘り続け、ようやく――ぱち、ぱちと、小さな焚火が火を噴いた。
ユルンの上部に積んでいた獣毛や毛皮の一部は、かろうじて濡れずにすんだ。
けれど、腰に下げていた旅袋の中身――食料や替えの衣服、道具類は、ほとんど泥水に浸かってしまっていた。
それでも今は、火の前で、少しでも体を乾かさなければならない。
(追手は……撒けたか?)
そんな思いが頭をかすめる。だが今は、とにかく体を温めることが先だ。
身体の芯から震えがきている。これは、低体温の兆候――。
きっとエリシアも同じだった。
彼女はもう、話す気力すら残っていないように見えた。
がちがちと歯を鳴らしながら、青ざめた顔で焚火の炎を見つめている。
空は茜に染まり、遠くの稜線が、沈みゆく太陽を静かに飲み込んでいった。




