第五話 黒の聖装
リセルは視線をそらし、そっぽを向いたまま荷袋を担ぎ直す。
「じゃあ、俺は行くから」
「……本当にいいの?」
「ああ、気にするな」
短く言い切って、部屋を出ようとした――そのとき。
遠くの通りで、何かがぶつかるような音がした。
リセルは立ち止まり、耳を澄ました。宿の裏手のほう。馬のいななきが、かすかに響いた。
霧の向こうを見つめた。音だけでは判断できない。だが、確かに、何かが来ている。
やがて、窓の外に黒い外套の男の姿が現れた。
外套は漆黒。光を吸い込むような重い布地に、黒獅子と火輪の紋章が浮かび上がる。僧衣に似たその装束は軍人のような威圧ではなく、ただ無機質な“裁き”の象徴に見えた。
肩には聖印――火輪を背負った黒獅子が、銀糸で縫い込まれている。
(……黒の聖装。――セグラドか)
信仰の名のもとに異端を取り締まる、聖堂直属の私兵。
軍ではない。だが、国家のどの兵よりも恐れられている存在。
法を超えて、聖性の名で人を裁き、連れ去る。
連れ去られた者は、もう戻らない――そう信じられていた。
ただの兵ではない。あれは、逆らえば“魂が穢れる”とされる存在――〈黒聖〉と呼ばれている。
単なる戒めではない。
――この世界から“異端者”として消える、ということだ。
(俺のような“あっち側”の民にとっては――見つかった時点で、もう終わりだ)
リセルは息を詰めた。
(なぜ、ここに……? まさか、俺を?)
「何か、あったの?」
いつの間にか、エリシアと名乗った少女が、靴を履き、リセルの隣から窓の外をのぞき込んだ。その瞬間、エリシアは確かに息を呑んだ。
「……そんな、もう」
明らかに震えはじめるエリシアを見て、リセルは思わず尋ねた。
「どうした?」
次の瞬間、エリシアはリセルの腕を引っ張って窓から遠ざけた。
「私を、追ってきたんだ。お願い、あの人達が来ても、私のことは知らないって言って!」
リセルはわずかに顔を出して、彼らの足取りを見た。
通りに先ほどの医者がいて、呼び止めてなにやら訪ねている。医者が、リセル達のいる宿屋の方を振り返って指さすのが見えた。
(間違いない、この子を探してる)
リセルはエリシアを見下ろした。青ざめて、唇も、肩も明らかに震えている。しかし、意を決したのか、踵を返して部屋の出口に向かって走り出していた。
「待て!」
思わず口をついて出た言葉だった。彼女は立ち止まって振り返る。
「ここは通りから丸見えだ。あっという間に追いつかれるぞ」
「う、裏口から出ます」
「裏口からでたところで、店主がお前のことを伝えたら、すぐにばれるぞ」
「でも、ここにいるわけにはいかないの。やっと逃げてきたの。もう、捕まるわけにはいかないの」
「……お前、何をしたんだ?」
「何も、してない!」
エリシアは拳を握りしめて、叫んだ。そして、叫んでしまったことにはっとして、今度は、押し殺すような声で言った。
「何も、してない。急に、攫われて……長い間、閉じ込められていたの。だから、逃げた。今戻されたら、きっと今度こそ逃げられない」
そうしているうちに宿の一階に騒がしい足音が響いてきた。
(早い……)
「仕方ない。こっちだ」
リセルは咄嗟に寝台の下を指さした。簡易な部屋にはそもそも寝台と、小さな棚、椅子くらいしかない。
「ここに隠れろ」
リセルはエリシアの手を引き、寝台の下に潜り込ませた。そして、衣服の裾を押し込め、ユルンと荷袋をその前に置き、自分も寝台に腰かけた。旅の荷物はそれなりの大きさがあり、寝台の下くらいは隠せる。
次の瞬間、階段を上がる複数人の足音が響き、扉を乱暴に叩く音が響いた。
返事も待たずに扉を開けて、三人の黒聖が無遠慮に入り込んだ。
フードの奥から目だけが覗く。澱んだ視線が、室内を一掃した。
一人が、寝台に腰かけたままのリセルを見下ろす。
「おい、お前、女を見なかったか?」
問いは、無機質な命令のように冷たく響いた。
「この宿に、聖堂から逃亡した女が来ているはずだ。小柄でやせた体格、長い白金色の髪の……ちょうど……そうだな、お前くらいの年の女だ」
リセルは一瞬だけ目を伏せて、静かに息を吸った。なるべく平静を装ってのんびりと答えた。
「ああ、林で行き倒れてたやつのことか? 道端で拾って、医者も呼んでやったのに、戻ったら、もういなくなってたな」
「いなくなった?」
もう一人の男が低く問い直す。リセルは何でもないことのように頷いて、荷袋の紐をねじった。
「ああ、寝台も空っぽだし。医者代も何も残さず消えたよ。とんだ恩知らずなやつを拾っちまったらしい」
あたりが静まり返った。リセルは早まる鼓動が男達に聞こえていないか、気もそぞろだった。
それでも、諦めきれないのか、男たちの視線が、部屋を滑るように巡っていく。
荷袋、棚、窓、そして、寝台――。
隠れるところなどない簡素な部屋。明らかに旅の途中の少年が宿をとっているだけの光景に見えるはずだった。
その時だった。
「……きゃ」
寝台の下から、息の欠片のような声が漏れた。
汚れた床板の隙間――虫か、ネズミか。そう思った。
……いや、違うだろ。
問題はそこじゃない。それが最悪の瞬間に出たことだった。
三人の視線が、同時にリセルに向く。
一瞬の間を置いて、中央の男が口の端だけで嗤った。
「……寝台の下に、何かいるようだな」
もう一人が前に出る。鋭く言い放つ。
「小僧、さっきの話は本当だと神に誓えるか? 審問官に対する偽証は、魂の穢れ――大罪だ」
リセルは立ち上がり、口を開きかけた。
だが、その前に、最後の一人が手を挙げて制した。
「構うな。私たちは、目的の女だけを連れ帰ればいい」
そう言って、黒聖の一人が、寝台の下に手を伸ばす。
エリシアの腕を掴み、まるで物でも引きずるように、乱暴に引きずり出した。
彼女は体勢を崩し、床を擦る音とともに引きずられる。
足が絡まり、抵抗しようとしても力が足りない。
それでも、激しく抵抗するエリシアに舌打ちをして、男は無言のまま、後ろ髪を強くつかんだ。
「痛い……やめて……っ!」
エリシアがもがきながら、必死に訴える。
だが、男は聞く耳を持たなかった。
リセルは立ち尽くしていた。
審問官への嘘がばれた。本当なら、自分も連れていかれてもおかしくない。
それでも、黒聖は目の前のリセルへの興味は失ったようだった。このまま、黙っていれば済むかもしれないという思いがリセルの足を凍りつかせていた。
(仕方ない。見つかったら、自分の方が殺される立場だ。ずっと見つからないように、うまくやってきたんだ。こいつはせいぜい、連れていかれるだけだ。殺されるわけじゃない)
リセルは無意識に拳を握りしめた。
エリシアは、引きずられながらも必死に振り返った。
乱れた髪の隙間から、リセルを見上げる。
薄茶の瞳に涙が滲んでいた。その目が、まっすぐに自分を捉えた。
その瞳は、言葉よりも先に何かを訴えていた。
「……お願い……助けて」
小さな声だった。だが、はっきり聞こえた。
黒聖の男は聞いていないふりをして、無造作に髪をつかみ引っ張る。
エリシアの叫びが、空気を裂いた。
「やだ……やめて……っ、母さんっ……!」
その声に、リセルの胸が焼けるように熱くなった。
母の声も、そうだった。
最後に聞こえたのは、叫びだった。
自分を逃がすために囮になって……、どこか遠くで、『こっちよ』と叫んでいた。
逃げろ、と言われて、言われたとおりに物陰に隠れて――
それきり、見ていない。
(俺は……なにも、できなかった)
あのときと、同じだった。
助けてと叫んでいるのに、引きずられていくのに。
動けないなんて、もう嫌だった。
リセルの胸に、熱いものが駆け上がった。
頭で考えるより先に、体が動いた。
拳が男の顔を打ち抜いた。
男がのけぞって体勢を崩す。エリシアが床に崩れ落ちた。
「……やめろ」
低く、押し殺した声が出た。
もう、引き返せない。
見れば、見捨てられないと知っていた。
だから、見ないで生きてきた。
それなのに目の前で引きずられていく。そんなもの、無視できるはずがない。
孤独を選んだ。誰のことも見ないために。
一人で生きる。そう決めていたはずなのに――
誓いは、薄氷のように、あっけなく割れた。




