第三話 東と呟いた少女
今日にでも、ラファスを出るつもりだった。
それなのに、道端にあんなものが転がっていやがった。
狩りも終えていた。あとは毛皮を売って、南へ戻るだけ。
誰とも関わらずに済む、完璧な流れだったのに――。
イース大陸は寒冷で、厳しい土地だ。
南北に分けるようにヴァルト山脈が走り、その北側に王政国家ラファス、南に氏族連合国家ヴェルナがある。
二国は交易の名目で同盟を結んでいるが、実質的にはラファスが力を持ち、ヴェルナは従属的な立場だった。
山脈は天然の国境となり、通れる道は限られる。
冬の間は雪で閉ざされるため、物資の運搬には〈背運び〉と呼ばれる山越えの労働者が雇われる。命がけの仕事のため志願者は少なく、身分証の確認も甘い。
リセル・ヴォルカも、その〈背運び〉の一人だった。
彼は冬の間、何度も山を越えてラファスへ入り、物資や鉱石を運んで稼ぎを得ていた。
今は春。通行も緩くなり、背運びの仕事も減る時期だ。
リセルは、狩猟と毛皮売りで一稼ぎして、国境がゆるみ始めたこの時期にヴェルナへ戻るつもりだった。
ラファスに長居するわけにはいかない事情もあった。
だがその予定は、予期せぬ“荷物”によって狂わされた。
* * *
リセルは近くの宿場町に少女を連れて行き、すぐに部屋を取った。
二階の一室。通りに面した窓のある部屋だった。
店主に医師を呼ぶよう頼み、一泊分の宿代と医者代を握らせる。
「あらあら、こんな薄着で……」
宿の奥から、いかにも世話焼きそうな女主人が現れ、寝台に横たわる少女を見て眉をひそめた。
「このままじゃ、医者が来る前に凍えちまうよ。うちに置いてある服でいいなら、着替えさせてやろうか?」
リセルは一瞬、言葉に詰まる。
しかし、少女の冷え切った指先を見て、短く息を吐いた。
「……頼む」
「じゃあ、あんたは外で待ってな」
「は?」
「は、じゃないよ、まったく。男がいたら着替えられないだろう?」
追い出されるようにして、リセルは部屋を出た。
廊下の壁にもたれながら、帽子のつばを無意識に引き下げる。
(ここまで世話を焼くつもりはなかったんだが……)
そう考えつつも、じっと待つ。
やがて宿の女主人がドアを開けた。
「ほら、終わったよ。お代をくれるなら、その服はやってもいいよ」
リセルは無言のまま懐から銅貨を取り出し、女主人に渡す。
(やれやれだ……)
中に戻ると、少女はようやく人間らしい姿に戻っていた。
粗末な服でも、体を包むだけで見違える。
さっきまで“ただの荷物”だった存在が、急に“生きた誰か”に見えてしまった。
(……意識が戻る前に消えるか)
これ以上関わる理由もない。
それに、今はこんなところで時間を食うわけにいかない。
リセルは寝台の少女を一瞥し、踵を返そうとした。
だが、その瞬間――
「……あれ、私……?」
かすれた声が、静かな部屋に落ちた。
リセルの背筋が強ばる。
少女のまぶたが薄く開き、ぼんやりとした薄茶の瞳がかすかに揺れる。その中に、淡く紫が差していた。どこか幻想めいた光彩だった。
まだ、夢うつつなのだろうか。視点の定まらないまま、か細い声で言葉を紡いだ。
「……東に……行けば、私は……」
リセルの心臓が、強く跳ねた。
――東。
頭の奥で、母の声が蘇る。
『リセル。もし何かあったら、東の果てへ行きなさい。昔、母さんの祖父さんや祖母さんが暮らしていた場所だよ。ユーファの子は、そこで守りの火を授かるって言われてる。……母さんたちは、行けなかったけどね』
手を拭きながら、母は笑って言った。
あの日、母が遠くを見るような、それでいて真剣な顔で言った言葉だった。
『守りの火?』
『私たちは、使えないけどね。でも、火を使える人たちは知ってるんだ。……もう遠くに行ってしまった人だけどね』
幼い自分には、おとぎ話のように聞こえていた。
でも少女の言葉は、どこか違っていた。
「そこに行けば、私は……」
そこで言葉が途切れた。
まるで、何かを降ろしたい人間の声だった。
母が語った「授かる」という言葉とは、正反対の響き。
東は、力を授かる場所だ。
ずっと、そう聞かされてきた。
なのに――
あの少女の口ぶりは、それとは逆だった。
(なぜ、この子も“東”を知っている?)
思わず、少女の腕を掴んでいた。
「東って、どこのことだ?」
荒くなった声に、彼女の瞳が微かに揺れる。
「……あの」
彼女はぼんやりとリセルの方を見た。瞳の奥に、一瞬、光が揺れた気がした。
リセルの押し殺したような、探るような物言いに、彼女の瞳に怯えの色が滲んだ。
そのとき――
「おーい、凍傷になりかけている子がいるってのはここかい?」
突然、扉が開き、慌ただしい足音が部屋に響いた。
「いやぁ、聞いたよ。防寒具なしで雪の中? 普通、死ぬだろそんなの。手遅れになる前に診せてくれ」
医者が駆け込み、リセルは慌てて手を離す。
(……同じ東を知っているのか?)
母から聞いた「力を授かる場所」と、少女が呟いた言葉。同じ東でも、まるで意味が違って聞こえた。
それに、何もかも今更だ。
だが、あの一言が、ずっと胸の奥に残っていた。
「……手足が腫れてたから、すぐ見てやってくれ」
そう言い捨てて、踵を返し、部屋の外に出た。
* * *
少女を診てもらっている間、そのまま宿を離れることもできた。
意識も戻った。
医者も来た。助かる。
もう自分の手はいらない。
わざわざ言葉を交わして関わることもない。
それでも、リセルは動けずにいた。
(……少し、話を聞くだけだ)
自分にそう言い聞かせながら、廊下に足を留めた。
誰とも関わらず、生き延びると決めたはずだった。
なのに、いまはただ――
“東の果て”。
その言葉が、リセルの足を凍らせていた。




