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【第一幕・完】灯火の誓い〜炎を宿す少年は、名を奪われた少女と雪の大陸を逃げる〜  作者: 水瀬 理音
第四章 風を抱く郷(後編)―旅立ちの理由

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第三十五話 鳥笛の別れ

 沢沿いの山道を下りながら、ライハンがぽつりと呟いた。


「昔は、この辺りの植物だって食えたんだがな」

 足元に転がる黒ずんだ実を、靴先で弾く。

「寒冷化で毒を持つやつが増えちまった。毒を食った獣まで凶暴になる。ナディルが噛まれたのも、そのせいだ」


 リセルは森で出くわした熊を思い出す。

「あの時の熊……やっぱり様子が変だった」

「ああ、毒食った熊だ。お前、運が良かったな。あんなのに遭って無事なんて」

 ライハンは口の端を上げ、ちらりとリセルを見る。


「まぁ、俺がいたから助かったんだろうけどな」

 リセルは横目でにらみ、むっつりと視線を逸らした。

「……その矢で、俺を撃ったんだろ」

「ははっ、根にもつタイプか?」

「……」


 その顔を見て、ライハンが吹き出す。

「そんな顔すんなって。冗談だよ」

 軽く肩をすくめ、笑い声が霧に溶ける。

「……せっかく、これからお前で遊ぼうと思ってたのにな」


「ライハンは、これで淋しがり屋だからね」

 後ろからカイネルがさらりと口を挟む。

「うるせぇよ」

「でも、ほんとにそうだよ」

 カイネルはふっと笑って、リセルとエリシアを見た。


「俺たち、楽しかったんだ。外から人が来るなんて、久しぶりでさ」

 エリシアが小首をかしげる。

「カイネルさんも……外に興味があるんですか?」

「まぁね。この郷の若いのは、たぶんみんなそうだよ」


 淡く霧のかかる山道で、カイネルの声が少し遠くなる。

「外の世界があるなら、見てみたい。出てみたくなるんだ。でも、上の世代はそうはいかない。昔、兵士が侵入してきて……あの人たちは、戦った。守るために」


 カイネルの視線が霧の奥を見つめる。

「だから、慎重になる気持ちもわかる。ただ、俺たちの代は違う。もう、外と繋がらなきゃ、この郷も先がないって俺は思う」


 ライハンが荷を背負い直し、ぽつりと呟いた。

「まぁ、この郷も、ずっと同じじゃいられないってことだ」

 小さな吐息とともに続けた。

「お前たちは……きっと新しい風を、起こしたんだろうな」


 霧が薄れ、視界が少しずつ開けていく。

 岩場の隙間から、春の陽光が斜めに差し込み、濡れた石肌を淡く照らしていた。


 遠く、谷の底には雪解けの水が白く光り、細い糸のように連なっている。

 その向こうに、淡い空色に溶けるヴァルト山脈の稜線がかすかに見えた。


 ライハンは足を止め、谷を指さした。

「ここからさらに下れば、ヴェルナの麓だ」

 吐く息が白く揺れる。

「ここでお別れだ。出たとこからじゃ登れねぇ。お前みたいに、崖から落ちてくる物好きでもない限りな」


 リセルは目を細めたが、言い返さなかった。

 ライハンは肩をすくめ、いつもの調子で続ける。


「ま、出るまでは近くにいるさ。無事に出るときは――さっきガルザが渡した鳥笛、吹けよ」


 リセルは無言で頷く。

 その手の中で、小さな笛がひやりと冷たい。


 遠くで雪解けの水音が鈴を鳴らすように響いていた。

 風が頬をかすめる。冷たさが皮膚を刺し、肩にかけた毛皮を押し上げる。


「よし、じゃあここから沢を下れ」

 ライハンが振り返り、低い声で告げる。


「道なりに行けば、東の街道に出る」

 カイネルは肩の弓を軽く叩き、にやりと笑った。


「ここまでだな。……気をつけろよ。戻ってこいとは言わないけど――無茶はするなよ」

 リセルは短くうなずいた。


 その瞬間、カイネルの笑みが一瞬だけ揺れる。

 ライハンは一歩近づき、リセルの肩を叩いた。

 言葉はなかった。ただ、その手の重みがすべてを語っていた。


「……ありがとう」


 リセルの声は、風にかき消されるほど小さかった。

 ライハンがふっと笑みを浮かべ、最後に軽く言い放つ。

「もう崖から落ちるなよ」

「ああ……」


「いつか、必ずまた会いに行きます」

 エリシアの声が震えた。唇を噛み、下を向いて涙をこらえようとする。


 小さく肩が揺れているのを、リセルは横目で見ていた。

 それでも彼女は顔を上げ、二人をまっすぐ見つめた。


 カイネルとライハンは優しく目を細めると、そっとエリシアの頭に手を置いた。

「ああ、待ってる。マルヤも、エルランもみんな」

「じゃあな。達者でな」


 霧の中で、二人の背が静かに遠ざかっていく。

 やがて、その影が完全に霧に溶けるまで、リセルとエリシアは立ち尽くしていた。


 ……なんでかわからない。

 あの二人が、そばにいるのが当たり前みたいに感じていた。

 くだらない冗談にむっとして、からかわれて――

 それが、遠ざかっていく。


 リセルは目を伏せ、手のひらをそっと握った。


 やがて――無言で歩き出す。

 霧の先に、まだ見ぬ道が続いていた。


 * * *


 夕方には青空がのぞいていたはずの空が、いつの間にか厚い雲に覆われていた。

 風が変わったのは、山道を下り始めてからしばらくしてだった。

 リセルがぴたりと足を止め、空を見上げる。灰色の雲の下で、木々がざわついていた。


「……降るな、これ」


 ぽつりと呟いた声に、エリシアも不安そうに空を仰いだ。

 そのとき、ひときわ強い風が森を走り抜け、冷たいものが頬に触れる。


 ぽつ、ぽつ――


 雨が落ち始めた。すぐに葉を打つ音が重なり、いよいよ激しい雨になった。

「急ごう。濡れたら火が起こせなくなる」


 そう言っても、すでに足元はぬかるみ、前へ進むのもやっとだった。

 やがて雷鳴がとどろき、空が裂けるような稲光が森を照らす。


 ――夜までには止むかもしれない。

 そんな淡い期待は、すぐに打ち砕かれた。


 濡れた枝では火がつかない。

 何度火打ち石を打っても、火花は水にかき消され、煙すら上がらなかった。


 森の外れ、小さな岩陰に二人は身を寄せる。

 木々が密集したこのあたりでは、雨宿りもままならず、冷えた体がじわじわと震えていく。


「雪のほうが、まだましだった……」

 リセルが吐き捨てるように言った。


 冬なら、どうにかなる術を知っていた。火の起こし方も、どこで耐えるべきかもわかっていた。

 だが、この雨は違った。木々は濡れ、風は熱を奪っていく。


 エリシアは肩をすくめ、身を縮める。

 唇がわずかに紫がかっているのに、リセルは気づいた。


「……少し離れてて」

 そう言って立ち上がると、リセルは濡れた額をぬぐい、拳を握った。

 息を吸い、目を閉じる。

 指先が、かすかに熱を帯びる。


 怒りや恐怖の先でしか現れなかった炎。

 けれど、今は違った。


 ただ、彼女を温めたいと思った。

 この夜を、彼女と越えたいと願った。


 ぱち、と音がして、手のひらに橙の火が灯る。

 脈打つようにゆれる小さな炎。

 風に煽られながらも、消えずにそこにとどまり続けた。


 リセルはそっと、それを地面に移す。

 湿った小枝がじり、と音を立て、細く煙を上げた。

 やがて火は、焚き火となって広がっていく。


 エリシアがそっと近づき、焚き火のそばに膝をついた。

 火のあたたかさが頬をなで、指の先を染めていく。


「……これが、リセルの火なんだね」


 リセルは何も言わずにうなずいた。


「なんだか、似てる気がする。私の……あの光に」


 彼女の癒しの力を、リセルも思い出す。

 確かに、それは燃え広がる火ではなく、包むような熱を持っていた。


「そうか?」

「うん。とっても、あったかい。全然……怖くないよ」


 そう言いながら、エリシアは指を火へかざす。


「こんな火を、みんな最初から見てたら、誰もリセルのこと……怖いなんて思わなかったのにね」


 リセルは返事をしなかった。

 ただ、手のひらをじっと見つめる。


「悪い。きっと、寒い思いばっかりさせてる。野営なんて、慣れてないだろ?」

「ん……あんまり、したことなかったかも」


 焚き火の揺らぎが、彼女の横顔に影を落とす。


「でも――」


 エリシアはぽつりと言った。


「屋根も壁もある場所にいたときの方が、ずっと、寒かった。……あの聖堂で、一人でいたときの方が、よっぽど、怖かったよ」


 リセルがわずかに顔を向ける。

 けれど、彼女は微笑んだ。


「リセルといる今の方が、安心するの。この火を見てると、夜が来ても……越えられる気がする」


 しばらく、雨音だけが響いていた。

 けれど、火のまわりには、確かにあたたかな空気があった。

 二人の影が、ゆらゆらと濡れた岩壁に揺れていた。


 * * *


 夜が明けるころには、雨はすっかり上がっていた。

 ぬかるんだ地面には靄が立ちこめ、細い沢の水が岩を伝って流れ続けている。


 雲間から差し込んだ光が、木々の葉を淡く照らしていた。

 林の先に、開けた空がのぞいている。


 リセルは立ち止まり、懐から小さな鳥笛を取り出した。

 ライハンが言っていた合図――「出るときに吹け」


(いるわけ、ないよな)


 一晩経ってるし、もう郷に戻っただろうな。

 それでも――吹かずにはいられなかった。

 彼らの顔を思い出す。

 リセルは笛を唇にあて、短く、静かに息を吹き込む。


「……ピィー」


 澄んだ音が、濡れた木々のあいだをすり抜けていく。

 風も止まり、しばし世界が静寂に包まれた。


 ……やがて、 

 同じ音が、遠くから返ってきた。


「ピィーィ……」


 エリシアが顔を上げ、そっと微笑む。


「本当に、待っててくれてたんだね」

「あいつら、あの雨をどうやってやり過ごしたんだろ。心配しすぎだって」

 そう言いながら、リセルも少しだけ口元を緩めた。


 彼の背に負った布包みからは、ほのかに焚き火の匂いが残っている。

 朝の林を抜けた先、陽の差す小道が二人を待っていた。


 肌をかすめる冷気に息を吸い込む。

 自然と足並みが揃う。


 やがてその先に、街道の石畳がのぞいて見えた。

 その瞬間、リセルの足がわずかに止まる。 


 彼は慣れた手つきで帽子をかぶり直し、さらにその上からフードを深くかぶった。

 赤髪を二重に隠すように。外では、それが賢明だ。

 それから、腰に手をやり、短剣の位置を確かめる。


 エリシアもその動作にならい、髪をまとめ、フードの中に隠した。

 初めて会ったときと同じ――張り詰めた横顔を、エリシアはじっと見つめた。


「……大丈夫か?」


 ちらりとエリシアを振り返り、小さく呟いた声は、ほんの少し緊張していた。

 リセルは霧に包まれた山の奥を見つめた。

 あそこには、まだライハンたちがいる。あの温かい焚き火も、笑い声も、すべてがあの向こうにある。


 けれど、もう戻ることはできない。


「……行こう」


 街道に足音が響く。馬車の車輪の音が、遠くから聞こえてくる。

 リセルは歩きながら、懐の鳥笛をそっと握りしめた。

 

 あの音が届く場所は、もうすぐ、見えなくなる。

 二人は街道を歩き出した――。


四章・完 ― 第一幕完 ―


ここまでで物語は折り返しです。

新章・五章より『灯火の誓い』第二幕が始まります。


調整のため、更新は4月より再開予定です。

引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
四章そして第一幕完結おめでとうございます!今回もとっても面白かったです。 村での日々から出発するまでの優しい情景と緊張がある雰囲気の対比、とてもよかったです。 力があるからといって、幸せになれるとは限…
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