第三十五話 鳥笛の別れ
沢沿いの山道を下りながら、ライハンがぽつりと呟いた。
「昔は、この辺りの植物だって食えたんだがな」
足元に転がる黒ずんだ実を、靴先で弾く。
「寒冷化で毒を持つやつが増えちまった。毒を食った獣まで凶暴になる。ナディルが噛まれたのも、そのせいだ」
リセルは森で出くわした熊を思い出す。
「あの時の熊……やっぱり様子が変だった」
「ああ、毒食った熊だ。お前、運が良かったな。あんなのに遭って無事なんて」
ライハンは口の端を上げ、ちらりとリセルを見る。
「まぁ、俺がいたから助かったんだろうけどな」
リセルは横目でにらみ、むっつりと視線を逸らした。
「……その矢で、俺を撃ったんだろ」
「ははっ、根にもつタイプか?」
「……」
その顔を見て、ライハンが吹き出す。
「そんな顔すんなって。冗談だよ」
軽く肩をすくめ、笑い声が霧に溶ける。
「……せっかく、これからお前で遊ぼうと思ってたのにな」
「ライハンは、これで淋しがり屋だからね」
後ろからカイネルがさらりと口を挟む。
「うるせぇよ」
「でも、ほんとにそうだよ」
カイネルはふっと笑って、リセルとエリシアを見た。
「俺たち、楽しかったんだ。外から人が来るなんて、久しぶりでさ」
エリシアが小首をかしげる。
「カイネルさんも……外に興味があるんですか?」
「まぁね。この郷の若いのは、たぶんみんなそうだよ」
淡く霧のかかる山道で、カイネルの声が少し遠くなる。
「外の世界があるなら、見てみたい。出てみたくなるんだ。でも、上の世代はそうはいかない。昔、兵士が侵入してきて……あの人たちは、戦った。守るために」
カイネルの視線が霧の奥を見つめる。
「だから、慎重になる気持ちもわかる。ただ、俺たちの代は違う。もう、外と繋がらなきゃ、この郷も先がないって俺は思う」
ライハンが荷を背負い直し、ぽつりと呟いた。
「まぁ、この郷も、ずっと同じじゃいられないってことだ」
小さな吐息とともに続けた。
「お前たちは……きっと新しい風を、起こしたんだろうな」
霧が薄れ、視界が少しずつ開けていく。
岩場の隙間から、春の陽光が斜めに差し込み、濡れた石肌を淡く照らしていた。
遠く、谷の底には雪解けの水が白く光り、細い糸のように連なっている。
その向こうに、淡い空色に溶けるヴァルト山脈の稜線がかすかに見えた。
ライハンは足を止め、谷を指さした。
「ここからさらに下れば、ヴェルナの麓だ」
吐く息が白く揺れる。
「ここでお別れだ。出たとこからじゃ登れねぇ。お前みたいに、崖から落ちてくる物好きでもない限りな」
リセルは目を細めたが、言い返さなかった。
ライハンは肩をすくめ、いつもの調子で続ける。
「ま、出るまでは近くにいるさ。無事に出るときは――さっきガルザが渡した鳥笛、吹けよ」
リセルは無言で頷く。
その手の中で、小さな笛がひやりと冷たい。
遠くで雪解けの水音が鈴を鳴らすように響いていた。
風が頬をかすめる。冷たさが皮膚を刺し、肩にかけた毛皮を押し上げる。
「よし、じゃあここから沢を下れ」
ライハンが振り返り、低い声で告げる。
「道なりに行けば、東の街道に出る」
カイネルは肩の弓を軽く叩き、にやりと笑った。
「ここまでだな。……気をつけろよ。戻ってこいとは言わないけど――無茶はするなよ」
リセルは短くうなずいた。
その瞬間、カイネルの笑みが一瞬だけ揺れる。
ライハンは一歩近づき、リセルの肩を叩いた。
言葉はなかった。ただ、その手の重みがすべてを語っていた。
「……ありがとう」
リセルの声は、風にかき消されるほど小さかった。
ライハンがふっと笑みを浮かべ、最後に軽く言い放つ。
「もう崖から落ちるなよ」
「ああ……」
「いつか、必ずまた会いに行きます」
エリシアの声が震えた。唇を噛み、下を向いて涙をこらえようとする。
小さく肩が揺れているのを、リセルは横目で見ていた。
それでも彼女は顔を上げ、二人をまっすぐ見つめた。
カイネルとライハンは優しく目を細めると、そっとエリシアの頭に手を置いた。
「ああ、待ってる。マルヤも、エルランもみんな」
「じゃあな。達者でな」
霧の中で、二人の背が静かに遠ざかっていく。
やがて、その影が完全に霧に溶けるまで、リセルとエリシアは立ち尽くしていた。
……なんでかわからない。
あの二人が、そばにいるのが当たり前みたいに感じていた。
くだらない冗談にむっとして、からかわれて――
それが、遠ざかっていく。
リセルは目を伏せ、手のひらをそっと握った。
やがて――無言で歩き出す。
霧の先に、まだ見ぬ道が続いていた。
* * *
夕方には青空がのぞいていたはずの空が、いつの間にか厚い雲に覆われていた。
風が変わったのは、山道を下り始めてからしばらくしてだった。
リセルがぴたりと足を止め、空を見上げる。灰色の雲の下で、木々がざわついていた。
「……降るな、これ」
ぽつりと呟いた声に、エリシアも不安そうに空を仰いだ。
そのとき、ひときわ強い風が森を走り抜け、冷たいものが頬に触れる。
ぽつ、ぽつ――
雨が落ち始めた。すぐに葉を打つ音が重なり、いよいよ激しい雨になった。
「急ごう。濡れたら火が起こせなくなる」
そう言っても、すでに足元はぬかるみ、前へ進むのもやっとだった。
やがて雷鳴がとどろき、空が裂けるような稲光が森を照らす。
――夜までには止むかもしれない。
そんな淡い期待は、すぐに打ち砕かれた。
濡れた枝では火がつかない。
何度火打ち石を打っても、火花は水にかき消され、煙すら上がらなかった。
森の外れ、小さな岩陰に二人は身を寄せる。
木々が密集したこのあたりでは、雨宿りもままならず、冷えた体がじわじわと震えていく。
「雪のほうが、まだましだった……」
リセルが吐き捨てるように言った。
冬なら、どうにかなる術を知っていた。火の起こし方も、どこで耐えるべきかもわかっていた。
だが、この雨は違った。木々は濡れ、風は熱を奪っていく。
エリシアは肩をすくめ、身を縮める。
唇がわずかに紫がかっているのに、リセルは気づいた。
「……少し離れてて」
そう言って立ち上がると、リセルは濡れた額をぬぐい、拳を握った。
息を吸い、目を閉じる。
指先が、かすかに熱を帯びる。
怒りや恐怖の先でしか現れなかった炎。
けれど、今は違った。
ただ、彼女を温めたいと思った。
この夜を、彼女と越えたいと願った。
ぱち、と音がして、手のひらに橙の火が灯る。
脈打つようにゆれる小さな炎。
風に煽られながらも、消えずにそこにとどまり続けた。
リセルはそっと、それを地面に移す。
湿った小枝がじり、と音を立て、細く煙を上げた。
やがて火は、焚き火となって広がっていく。
エリシアがそっと近づき、焚き火のそばに膝をついた。
火のあたたかさが頬をなで、指の先を染めていく。
「……これが、リセルの火なんだね」
リセルは何も言わずにうなずいた。
「なんだか、似てる気がする。私の……あの光に」
彼女の癒しの力を、リセルも思い出す。
確かに、それは燃え広がる火ではなく、包むような熱を持っていた。
「そうか?」
「うん。とっても、あったかい。全然……怖くないよ」
そう言いながら、エリシアは指を火へかざす。
「こんな火を、みんな最初から見てたら、誰もリセルのこと……怖いなんて思わなかったのにね」
リセルは返事をしなかった。
ただ、手のひらをじっと見つめる。
「悪い。きっと、寒い思いばっかりさせてる。野営なんて、慣れてないだろ?」
「ん……あんまり、したことなかったかも」
焚き火の揺らぎが、彼女の横顔に影を落とす。
「でも――」
エリシアはぽつりと言った。
「屋根も壁もある場所にいたときの方が、ずっと、寒かった。……あの聖堂で、一人でいたときの方が、よっぽど、怖かったよ」
リセルがわずかに顔を向ける。
けれど、彼女は微笑んだ。
「リセルといる今の方が、安心するの。この火を見てると、夜が来ても……越えられる気がする」
しばらく、雨音だけが響いていた。
けれど、火のまわりには、確かにあたたかな空気があった。
二人の影が、ゆらゆらと濡れた岩壁に揺れていた。
* * *
夜が明けるころには、雨はすっかり上がっていた。
ぬかるんだ地面には靄が立ちこめ、細い沢の水が岩を伝って流れ続けている。
雲間から差し込んだ光が、木々の葉を淡く照らしていた。
林の先に、開けた空がのぞいている。
リセルは立ち止まり、懐から小さな鳥笛を取り出した。
ライハンが言っていた合図――「出るときに吹け」
(いるわけ、ないよな)
一晩経ってるし、もう郷に戻っただろうな。
それでも――吹かずにはいられなかった。
彼らの顔を思い出す。
リセルは笛を唇にあて、短く、静かに息を吹き込む。
「……ピィー」
澄んだ音が、濡れた木々のあいだをすり抜けていく。
風も止まり、しばし世界が静寂に包まれた。
……やがて、
同じ音が、遠くから返ってきた。
「ピィーィ……」
エリシアが顔を上げ、そっと微笑む。
「本当に、待っててくれてたんだね」
「あいつら、あの雨をどうやってやり過ごしたんだろ。心配しすぎだって」
そう言いながら、リセルも少しだけ口元を緩めた。
彼の背に負った布包みからは、ほのかに焚き火の匂いが残っている。
朝の林を抜けた先、陽の差す小道が二人を待っていた。
肌をかすめる冷気に息を吸い込む。
自然と足並みが揃う。
やがてその先に、街道の石畳がのぞいて見えた。
その瞬間、リセルの足がわずかに止まる。
彼は慣れた手つきで帽子をかぶり直し、さらにその上からフードを深くかぶった。
赤髪を二重に隠すように。外では、それが賢明だ。
それから、腰に手をやり、短剣の位置を確かめる。
エリシアもその動作にならい、髪をまとめ、フードの中に隠した。
初めて会ったときと同じ――張り詰めた横顔を、エリシアはじっと見つめた。
「……大丈夫か?」
ちらりとエリシアを振り返り、小さく呟いた声は、ほんの少し緊張していた。
リセルは霧に包まれた山の奥を見つめた。
あそこには、まだライハンたちがいる。あの温かい焚き火も、笑い声も、すべてがあの向こうにある。
けれど、もう戻ることはできない。
「……行こう」
街道に足音が響く。馬車の車輪の音が、遠くから聞こえてくる。
リセルは歩きながら、懐の鳥笛をそっと握りしめた。
あの音が届く場所は、もうすぐ、見えなくなる。
二人は街道を歩き出した――。
四章・完 ― 第一幕完 ―
ここまでで物語は折り返しです。
新章・五章より『灯火の誓い』第二幕が始まります。
調整のため、更新は4月より再開予定です。
引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。




