第三十四話 風の向く方へ
山の端が白く光り始めていた。
吐く息は白く、冷たい風が頬をかすめる。郷の中央には、昨夜の焚き火の灰が残り、そこから細い煙が立ちのぼっていた。
その周りに、数人の影が静かに集まっている。
ライハンとカイネルと共に歩み出た二人に、最初に声をかけたのはナイラだった。
彼女は真っ直ぐにリセルを見て、唇を震わせながら言った。
「ねぇ、リセル。私ね、あんたがここに迷い込んだとき、偵察班で、あの場にいたんだ。あんたが出した炎、見たよ……」
ナイラは一瞬、目を伏せた。
「最初は……あんたを疑ったけど」
声は、澄んだ空気に溶けていった。
「私、セラドの事件のとき、まだ七歳だった。でも、ライラ姉があの小屋に走っていくのを見たの。セラドの火は、本当に怖かった。でも、あの時――あんたの火は違った。優しい色だった」
少し間を置いて、ナイラは続ける。
「セラドもね、最後は同じ色になった。ライラ姉さんが飛び込んだあとの火は……あったかかったんだ。セラドも、きっと誰も傷つけたくなかったんだと思う。でも、リセルはきっとそうならないって、私は信じてる。――だから、郷を出たら、その子を守ってやって」
リセルは喉が詰まったようになり、ただ強くうなずいた。
次に、バイラが前に出る。
片目を細め、冷たい風を受けながら空を見上げ、ふっと笑った。
「風は吹くものだ。誰も止められない。あんたたちがここに来たのは、きっと必要な風だったんだろうね。……この郷もね、私のような風読みは、もう現れないだろうさ。私の代で最後なんだと思ってる。だから、いろいろと潮目なんだろうね。……気にせず行っておいで」
その言葉は、朝の空気に溶けていった。
エリシアの前に、マルヤが歩み寄った。
布袋を差し出し、その手をそっと包む。
「少ししか一緒にいられなかったけど、もう娘だと思ってるからね。無理しないで。体を壊すほど、力を使っちゃだめだよ」
エリシアは思わず涙をこぼしそうになり、慌てて笑った。
「……ありがとう、マルヤさん」
声は小さかったが、その指先の力は強かった。
エルランは一歩前に出て、言いかけて――言葉を飲み込んだ。
「……本当は、引き留めたい」
それだけ言って、視線を逸らす。
「君に癒しの力がなかったとしても、ここにいてほしいと思った。でも、行くところがあるんだろう? なら、引き留めない。――見つけたいものが見つかったら、リセルと戻ってきてほしい」
エリシアは目を伏せ、唇をかすかに噛んでから、小さくうなずいた。
「……ありがとう」
最後に、ガルザがゆっくりと近づいてきた。
その手には、滑らかに削られた木笛が握られていた。
リセルの前で立ち止まると、しばし視線を落とし――低い声で言った。
「……守れなくて、すまなかった」
笛を差し出す。リセルが受け取った瞬間、指先に冷たい木の感触と、ずっしりとした重みが伝わった。
「……これって」
「何かあったら吹け。俺が作った音だ。郷の者なら、どこにいてもこの音を聞けば、帰り道を見つけられる」
リセルは言葉を失い、ただ深く頭を下げた。
笛を強く握りしめる。冷たい木肌の下に、手のひらの熱がにじむ。
二人が歩き出そうとした時、小さな影が駆け寄った。
ナディルだ。息を弾ませながら、二人を見上げ――少しだけ、エリシアの方に視線を向けた。
「……あの時、助けてくれてありがとう」
照れたように口を尖らせながらも、きちんと頭を下げる。
「俺、恩は忘れねえから」
エリシアは目を丸くして、静かに笑った。
「うん。……元気でね。ナディル」
ナディルは、はにかんだように頬を掻き、目を伏せたが、すぐにリセルに向き直る。
小さく息を吸って――
「リセル……」
短い沈黙のあと、言葉を押し出す。
「……昨日の言葉、忘れんなよ」
短く、それだけ言う。
ナディルの拳が、胸の前でぎゅっと握られていた。
リセルは一瞬ためらい――その拳に、自分の拳を重ねる。
重ねた拳から、まだ軽い、でも骨ばった拳の熱が伝わってくる。
「……ああ」
ナディルの瞳がかすかに揺れる。
「約束だぞ!」
――約束、という言葉に、胸が熱くなった。
風がひときわ強く吹き抜け、草原が波打った。
その風の中で、声がひとつ落ちた。
「――行きな。風の向く方へ」
白い朝の光が降り注いでいた。
リセルとエリシアは一歩を踏み出す。
後ろに残ったのは、灰色の煙と、わずかなぬくもりだけ。
二人は、そのまま振り返らなかった。




