第三十三話 花冠と焚き火
広場に柔らかな夕陽が差し込み、雪解けの匂いが風に混じっていた。
白と淡い紫の小花が、まだ冷たい大地に顔を出している。
子どもたちは輪になり、指先を忙しなく動かしながら花冠を編んでいた。
「わあ、エリシア姉ちゃん、すごい! きれいにできてる!」
弾む声と笑いが風に溶ける。
エリシアは頬を染め、花を編む手を止めて微笑んだ。
隣でシェマが、彼女の耳に内緒話をして――二人で目を合わせ、くすりと笑った。
その笑顔は、ここで過ごしたどの時間よりもやわらかく、あたたかかった。
焚き火の赤でもなく、ランプの光でもなく――自然の陽の下で、こんな表情をしている。
まるでこの郷にずっといたかのように、ごく普通の女の子に見えた。
明るい陽射しが、彼女の髪に淡くきらめいている。
少し離れた木陰で、リセルは腰を下ろしていた。
胸の奥がざわつく。
(……こんな顔、できるなら、外になんて出なくてもいいんじゃないか? ここでなら――)
そんな言葉が、喉までせり上がるのを吞み込んだ。
そのとき、横から声がした。
「リセル」
ナディルが立っていた。見習い狩人らしく手に弓矢を握っていた。今日から訓練にもどっているのだろうとリセルは思った。
「出ていっちゃうんだな」
低い声。子どもらしい軽さはなかった。
「せっかく……同じカイラに会えたと思ったのに」
リセルは立ち上がった。
「……ああ」
ナディルは一度うつむき、それから顔を上げて言った。
「いつか――戻ってこいよな。戻ってこなかったら……俺がいつか先に出てやるからな!」
その目は真剣だった。
風が髪を揺らし、声をどこまでも運んでいくようだった。
リセルは言葉を探したが、何も出てこなかった。
ただ、小さくうなずく。それだけだった。
夕陽が山の稜線を朱に染める頃、広場は静けさを取り戻した。
子どもたちが駆け去り、残ったのは白い花びらと、冷たい風の音だけだった。
夜の気配が下り始めた頃、マルヤの治療小屋の前で荷をまとめる二人の前に、影が落ちた。
振り向くと、フェルディエルが立っていた。
皺を刻んだ顔に、焚き火の赤が映えている。
「準備は進んでいるようだね」
低い声が、夜気を震わせる。
「……私はもう年老いてしまったから、今さら外に出ようとは思わない」
フェルディエルは腰を下ろし、火に手をかざした。
ぱちり、と炎が弾ける音がした。
「だが――ひとつ、後悔があるとすれば……」
言葉を切り、炎の奥を見つめる。
「黎火の郷がどうなったのか、かつての仲間がどんな道を選んだのか……知れないまま、ここで老いたことだ」
風が吹き、戸口の幕が揺れた。
その音のあとで、フェルディエルは顔を上げた。
「お前さんたちは若い。まだ、どこにだって行ける。どうやってその力と生きていくか――それは、自分で選ぶことだ」
エリシアは静かにうなずいた。
胸の奥に、熱がじんわり広がっていく。
「……忘れないで。この力は、お前さん自身の想いだ。命の灯火なんだよ。どう灯すかは、自分で決めなさい。手放すことも、共に生きることも――お前さんが決めていい」
そして、リセルに視線を向ける。
「恐れるな。お前は、かつての友人によく似ている」
炎に映るフェルディエルの瞳が、ほんの少し熱を帯びた。
「ユーファの民が皆、戦いに傾いたわけじゃない。私はその人と共にここに逃れたんだ。
だが、最後は……私の力では救えない大怪我をしてね。ここについたときには、もう――」
言葉が、火の奥に落ちていった。
しばしの沈黙。
フェルディエルは再び、二人を見て微笑んだ。
「だから、願わずにいられない。お前さんたちの行く先に、絶えず灯りがあるように」
エリシアは小さく息をついた。
「……フェルドさん。教わったこと、練習してみます。もっと、自然にできるように。自分を削らないように」
「……ああ、君なら、きっとできる。筋がよかったからね」
フェルディエルは立ち上がり、肩越しに言った。
「黎火の郷に行けたら、教えておくれ。その場所のことを」
夜風が、彼の背を静かに包んでいった。
* * *
夕陽が沈み、山の端が群青に沈むころ、広場はひっそりとしていた。
昼間の笑い声は消え、雪解けの匂いと冷たい風だけが残っている。
リセルとエリシアは、寄合で泊まることになったガルザの家へと戻っていた。
家の中では、囲炉裏の火が小さく揺れていた。
赤い残り火が、厚い梁の影を淡く照らしている。
壁際には、すでに旅装にまとめられた荷。水をはじく厚布、乾いた毛皮、編んだ縄。それから、ユルンに似た簡易テント。
その隣で、ライハンとカイネルが段取りを確認していた。
「夜明けと同時に出る。山道はまだ凍ってるが、沢に沿って行けば抜けられる」
ライハンは短く言い、視線だけでリセルに合図を送る。
「……食料は?」
「マルヤがもう用意してる」
カイネルが答え、背の弓を確かめながら笑った。
「安心しろ。ここまでの道は俺たちが安全に連れてってやる」
その言葉に、リセルは小さくうなずいた。
護衛の二人がいても、胸の奥の緊張は消えない。だが、その目の落ち着きが、不思議と支
えになった。
しばらくして、マルヤとエルランが入ってきた。
マルヤは外で焼いてきた肉や野菜を、薄いパン生地で挟んだものを木皿に載せている。
香ばしい匂いが、冷えた空気をやわらげた。
「とにかく、何か食べましょう。スープも作ってあるわ」
彼女は盆を囲炉裏のそばに置き、エリシアの手をそっと包むように握った。
「……明日の朝なんて、いくらなんでも早すぎるわ。ようやく回復したばかりだっていうのに」
低く、押し殺した声。それでも、にじむ名残惜しさは隠せない。
「エリシア、これからはもっと食べないとだめよ」
エリシアは小さくうなずき、マルヤの指をぎゅっと握り返した。
エルランは肩の薬草袋を外し、リセルの前に置く。
「これ、地熱で薬効を高めた薬草だよ。煎じ方は紙に書いてある。道中、困らないように」
その声音は、淡々としていながら、深い思いやりをにじませていた。
リセルは小さく「ありがとう」と答えた。
その夜の食事は、マルヤやエルラン、カイネルとライハンも一緒だった。
昨晩、焚き火を囲んだ夜の賑やかさはもうなく、薪が崩れる音と、外の風のざわめきだけが耳に残った。
それでも、温かいスープと黒穀の焼き餅、それに肉と野菜を挟んだパンの味は、不思議と深く沁みた。
誰も、余計なことは言わなかった。ただ、黙々と食事を口に運んだ。
やがて食器を片づけると、マルヤはエリシアの肩を抱き、優しく微笑んだ。
「さ、温泉に入ってきなさい。明日までに少しでも疲れを取っておかないと」
エルランを護衛に、エリシアは素直にうなずき、戸口を出た。
エルランのランプが小道を照らす。
二人の背はやがて夜のとばりに消えていった。
ライハンとカイネルは、別室でガルザと段取りを確認するという。
「リセル、早めに休んどけ。明日は早い」
「ああ……少し、外の空気を吸ったら寝るよ」
リセルは囲炉裏の火に最後の薪を一つ足し、家を出た。
外気は鋭く冷たいのに、空気の底には春の匂いが混じっている。
見上げれば、銀砂をまいたような夜空が広がっていた。
家の前の、消えかけた焚き火のそばに腰を下ろす。
パチッ、と火がはぜる。
その音だけが、静かな郷に滲んでいた。
* * *
リセルは家の壁に背を預け、炎を見つめていた。
家の奥から、食事の匂いがまだかすかに漂ってくる。
今夜はガルザの家で休むことになっていたが、外の冷たい空気が妙に心地よく、眠る気にはなれなかった。
――結局、こういう方が落ち着くんだ。
何度も思った。自分には、火と風と、ただの大地があればいい。
ふと、気配がして振り向く。
家の戸口に、エリシアが立っていた。
まだ少し湿った髪が肩に落ち、夜気を含んで光っている。
その腕には、小さな花冠が抱えられていた。
「まだ寝ないの?」
「……ああ」
それきり、言葉はなかった。
彼女はゆっくりと近づき、リセルの前で立ち止まる。
そして、不意に小さく笑った。
「……似合わないってわかってるけど」
そう言って、花冠をそっとリセルの頭に載せた。
白と紫の花弁が、夜の炎にかすかに透ける。
不意を突かれ、リセルはわずかに身じろいだ。
頬をかすめたのは、まだ温もりを残す髪先だった。
――なぜか、胸の奥がざわつく。
気づくと、手の甲で口元を押さえていた。
(……何やってんだ、俺)
「なんだよ、これ」
花冠をそっと取り、視線を落とす。
小さな輪は、昼間の名残をとどめながらも、もう少ししおれていた。
「花冠。シェマと子どもたちと作ったの。……リセルにあげたくて」
小さく笑う声は、どこか遠い。
「ふふ、こんなに外で遊んだの、久しぶり」
彼女の笑顔を見ていたら、昼間から喉に詰まっていた言葉が、するりと口をついた。
「なぁ、ほんとにいいのか?」
「何が?」
「俺が出るからって、お前まで、ここを出ることはないんじゃないか?」
そこまで言って、言葉が宙をさまよった。
あんなに、幸せそうだった。
昼間の光景が脳裏にちらつく。
炎の光に、エリシアの横顔が浮かぶ。
すっとエリシアの顔から笑顔が消えた。
「どうして、そんなこと言うの?」
声は低いが、芯があった。
「お前まで出ることはないって、そのままの意味だ。俺のことはいいから、残れよ。ここなら、お前は受け入れてくれる」
エリシアは一瞬驚き――それから、真っすぐにリセルを見返した。
「そうだね。そうかも、しれない」
胸が、ちくりと痛んだ。
もし本当に、彼女がここに残ると言ったら。その時、自分はどう思うんだろう。
リセルは花冠の小さな花弁を指でなぞった。
だが、彼女が口にしたのは、全く別のことだった。
「私ね、ここに来て……。こんなに人に優しくしてもらったの、久しぶりだった」
小さく息をつき、炎を見やる。
そして、自然にリセルの隣に座った。
「ずっと、名前すら呼ばれなかったの。あそこでは、フィルナ以外の名前を口にすることさえ許されなかったから。……そのうち、自分が誰なのか、曖昧になっていった」
彼女は指先をぎゅっと握り、続けた。
「最後に私を名前で呼んでくれた母も……本当は、どうなったかわからない。亡くなったと聞いたけど、ただ、戻ってこなかっただけかもしれない」
声が少し震えた。リセルは何も言わず、ただ聞いていた。
「……だから、忘れてたの。母が話してくれたエルナの伝承や、誓いの言葉を」
焚き火が、ぱちりと音を立てた。
エリシアは炎を見つめ、目を細める。
「でもね。ここに来て、少しずつ思い出してきた。母が東の果てのことを話してくれたことも」
「……力を手放す場所、ってやつか」
「うん。行ってみたいの。わからない力に怯えて、追われて、閉じ込められるのはもう嫌。
わからないまま、生きていきたくない」
少し言葉を切り、笑みを浮かべた。
「母が苦しめられた力を、手放せる方法があるなら、知りたい」
リセルは何も言えなかった。
ただ、炎の奥で、彼女の瞳が光るのを見ていた。
「……だから、一緒に行く」
静かで、けれど揺るがない声だった。
「もう決めたの」
そして、わざと軽い調子を作って、続ける。
「それに、ほら。リセル……私がいないと、すぐ傷だらけになるでしょ?」
「……なんだよ、それ」
視線をそらし、低く言う。
「そんな理由で」
「理由は……うまく言えないけどね。でも、出会えたの、偶然じゃないって思いたいの」
リセルは短く息を吐き、花冠を見つめた。
「……言っとくけど。お前と会う前は、無傷でやってきたんだ」
その声に、力はなかった。
エリシアはふっと笑って、まっすぐリセルを見た。
「もう、ここに残れなんて言わないで」
リセルは目を閉じ、わずかにうなずいた。
「……決めたなら、好きにしろ」
炎が、やわらかく二人を照らしていた。




