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【第一幕・完】灯火の誓い〜炎を宿す少年は、名を奪われた少女と雪の大陸を逃げる〜  作者: 水瀬 理音
第四章 風を抱く郷(後編)―旅立ちの理由

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第三十二話 郷の寄り合い

 朝日はもう昇りきり、郷の家々からは朝餉の匂いと、かまどの煙が立ちのぼっていた。

 外には鳥の声も混じる。


 けれど、この小屋の中だけは、別の空気に閉ざされていた。

 守り手小屋では、火が静かに爆ぜる音だけが寄り合いを満たしていた。

 囲炉裏の炎が、まだ眠る影を長く揺らしている。

 

 ヴァシュは囲炉裏の外寄り、他の戦士から半歩離れて座っていた。

 肘を膝にのせ、視線を炎より低く落としたまま。

 その奥に、燻った火種のような光を宿している。

 

 ガルザの両脇にはフェルディエルとバイラ。

 ライハンはリセルとエリシアの近くで腕を組み、ヴァシュを鋭く見据えていた。

 カイネルはその隣で神妙な面持ちを崩さず、周囲にはナイラやマシュラ、そしてザシェの大きな影もある。

 

 おそらく、狩人や守り手のほとんどがここに集まっていた。

 リセルはただならぬ雰囲気に息を呑んだ。

 エリシアも隣で、震える指先をぎゅっと握りしめている。


 やがて、ガルザが低く口を開いた。

「始めるぞ。まずは今朝の件だ」

 囲炉裏の光に、誰かの影が揺れる。


「ヴァシュは番小屋からリセルを連れ出し、掟を破って独断で処分しようとした。ライハンが止めなければ、命を奪っていただろう。――一度受け入れた者に刃を向けるのは、この郷で最も重い禁だ」


 火の音がぱちりと弾けた。


「だが、まだ処分は決めてはいない。言い分があるなら聞く。それが寄り合いだ」

 ヴァシュは顔を上げ、吐き捨てるように言った。

「どうせ何言っても無駄だろ。結局はバイラの風読みがすべてだ。あんな不確かなもんで郷の命運を決めるくらいなら、俺は従う気はなかった。それだけだ」


 白髪に半分隠された片目を閉じたまま、バイラが静かに答えた。

「私は風を感じたことを伝えただけさ。信じるかどうかは、いつだってこの輪の判断だったよ」


 短い沈黙を破ったのはフェルディエルだった。


「……あの夜を忘れたか。吹雪の中、バイラが片目を賭けて遠くの敵を見抜いたことを。あれがなきゃ、郷はとっくに滅んでいた」

 

 再び、囲炉裏の音が小さく弾けた。

 リセルはついに口を開く。


「……俺も言っていいなら」


 一斉に視線が集まる。

 たじろぎながらも、言葉を紡いだ。


「受け入れてくれたことは、嬉しかった。でも……ヴァシュの言うことも、全部は否定できない。俺は――定住しないって決めてたんだ。誰かを犠牲にしてまで生き延びるのは、もう嫌だったから。だから……ここを出たい。自分で、選んで、生きたい」


「リセル……」

 エリシアの声が震える。


 ヴァシュの口元が歪んだ。

「笑わせるなよ。掟を忘れたか? 一度来たら、出さない。火種は処分。それが一番手っ取り早い。――俺は郷の代わりに、それをやっただけだ」


 その瞬間、エリシアが立ち上がった。

 声を張り上げる。


「リセルは火種なんかじゃない! 最初から、何もしてない! 牢に閉じ込めたのも、殺そうとしたのも――あなた達です!」


 リセルが制そうと手を伸ばす。だが、彼女は止まらない。


「何も知らないくせに! 私たちがどんな思いでここまで来たかも――リセルは、私を助けてくれただけなのに。それなのに……どうして、あんなことするの……! 受け入れてくれたと、思ったのに……」


 その言葉は続かなかった。

 溢れた涙のまま、ヴァシュを睨みつける。

 小屋に、火の爆ぜる音だけが残った。


 その沈黙を、バイラの低い声が破る。

「いつからだろうね。『出たい者を斬る』なんて掟ができたのは。兵士を斬ったことはあった。でも、仲間を――斬ったことはあったかい?」


 誰も答えられなかった。

 不精髭をなでながら、中年の戦士――ガントが低く言う。


「……だが、郷がこれまで守られてきたのは、この掟があったからじゃねえのか?」 

 ガントの声は低く、重い。


「兵士は迷わず斬ってきた。それは、誰かが口を割れば郷が終わるからだ。俺たちは、斬るもんは斬って、生き延びてきた。そいつだって、もし捕まって……口を開いたらどうする? ここに置いても危ねえ。外に出すのはもっと危ねえ。危ねえ芽は、内でも外でも変わらねえ。だったら――」


 そこで言葉を切り、思い切るように言い放った。

「同じ理屈で、絶つしかねえだろうが」

 ざわり、と場が揺れた。


 誰も、すぐには否定できなかった。

 ガントは、そのまま言葉を継がなかった。

 腕を固く組んだまま。

 視線だけが、火から離れない。


「やめろ、ガント……!」

 真っ先にナイラが声を上げる。

「兵士と、仲間は同じじゃない!」

 マシュラも、拳を握って睨みつける。


 火の音だけが間を埋めた。

 誰も、視線を上げなかった。

 その沈黙を、ヴァシュの声が切り裂く。


「はっ! お前ら、何をきれいごと並べている? 結局、火種は火種だろう。外に出せば郷を売る。このまま置いとけば郷を焼く。消せばそれで済む話だって最初から言ってるんだ。甘いんだよ、お前らは! 掟を曲げるなら、最初から作るな! ……ガルザ、お前だって分かってるはずだろう!」


 ヴァシュが立ち上がる。

 囲炉裏を踏み越え、リセルの胸ぐらへ手を伸ばす。


「こいつが――」


 リセルが身構え、ライハンが前に出かけた――そのとき。

 その横で、ずし、と大きな影が動いた。


 ザシェが立ち、無言でヴァシュの背後に回る。

「なっ、おい、何して――」

 襟をつかむと、そのまま軽々と持ち上げた。


「頭を冷やせ。ここは寄り合いだ」

 岩のような声。

 ぶら下がるヴァシュを無言で引きずり、小屋の外へと運んでいく。


「まだ終わっていない! おれは納得していない――」

 その声が遠ざかり、小屋に重い沈黙が落ちた。


 ガルザは輪をゆっくりと見渡した。

 火の音だけが返る。

「他に異論はないか? ……議論は、以上だな」


 煙が天井へとまっすぐに立ちのぼっていく。

「掟は郷を守るためのものだ。だが、お前はもう、この郷に火をつけた。ならば、見届けさせてくれ」


 ガルザはリセルを見据えた。

「――郷から自分の足で出ていく奴が現れたのは、初めてだ」

 リセルは立ち上がった。

「……本当に、出てもいいのか?」


 ガルザはしばらく目を閉じていた。

 やがて、静かに目を開く。


「行け。お前たちが選んだ道だ」

 火が、ぱちりと鳴る。

「――ただし」

 誰も動かない。

「郷は、もうお前たちを守らない」


 朝の光が、囲炉裏の残り火にかすかに差しこんだ。

 その光を背に、リセルは小さくうなずいた。

 火の音だけが響く中、誰も言葉を挟まなかった。

 煙が梁の上をゆっくりと上り、煙抜きへと吸い込まれていく。


 やがて、フェルディエルが目を伏せ、隣のバイラが静かにうなずいた。

 ナイラも、マシュラも――反対の声は、もうなかった。

 火の音だけが残った。


 リセルは深く息を吐き、立ち上がる。

 隣で、エリシアも小さく息を吸った。

 戸口へ向かいかけて――ふと、気配を感じる。


 振り返る。

 囲炉裏の奥。

 まだ、視線が残っている気がした。


 それでも、リセルは肩で小さく息をした。

 囲炉裏の小さな炎が、まだ揺れているのが見えた。

 朝の光を背に、彼は言った。


「……約束を、させてほしい」

 声は低く、けれど澄んでいた。

「ここを出ても、郷のことは誰にも言わない。ここで見たことも、教わったことも……俺たちの中に残す」

 エリシアも涙を拭い、うなずいた。

「約束します。……ここで過ごしたこと、誰にも話しません」


 ガルザは無言で二人を見つめていた。

 囲炉裏の火が、小さく揺れる。

 やがて、深くうなずく。

「それでいい。……それがお前らの誠意だ」


 そのとき。

 ガントが、低く吐いた。

「……もし、郷のことが漏れたら」

 言葉が途切れる。

 顔を背ける。

「――そのときは、俺がやる」


 煙がゆっくりと立ちのぼり、煙抜きから差す朝の光に溶けていく。

 囲炉裏の火はもう小さく、その上にも淡い光が落ちはじめていた。


 寄合が終わり、各々が小屋の外に出たときだった。ガルザが、ライハンとカイネルを呼び止めた。

「……ライハン。カイネル。お前たちは、明日二人の道案内を頼む」

 二人が顔を上げた。


「こいつらが郷を出るまで、見届けてやれ」

 息を吐くように言う。

「――境までだ」

 ライハンとカイネルがうなずいた。


「越えたら……手は出すな」

 短く付け足す。

「……それと、念のためだ。納得していない連中が、あとをつけないとも限らない」

 一瞬だけ、視線が外へ流れる。

「郷の外で何が起きても、郷は関わらない」


 ヴァシュの名は出なかった。だが、その意味は誰の胸にも残った。

 ライハンは静かにうなずき、カイネルも軽く顎を引いた。

 すでに二人の頭の中では、道筋と準備の段取りが組まれはじめている。


「……この郷から人を見送るのは、これが初めてかもしれんな」

 わずかに目を細める。

「どう転ぶか、見てみたい」

 ガルザがぽつりと呟く。

 その声には、苦味と、ほんのわずかな期待が残っていた。


 焚き火の火種が、ぱちりと音を立てた。

 その小さな光に、朝の風が触れる――こうして寄り合いは、静かに終わった。


 その日の空は、高く澄んでいた。煙が、まっすぐ空へ昇っていく。

 風はなく、静かだった。

 だがリセルには、その静けさが――どこか遠い気がした。


 背に、まだ視線が残っている気がする。

 振り返っても、誰もいない。

 それでも、気配だけが消えなかった。


 夜が来れば、ここで過ごす最後の時が始まる。

 そう思っても、うまく実感がなかった。

 掴もうとしても、灰みたいに指のあいだから抜けていった。

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