第三十二話 郷の寄り合い
朝日はもう昇りきり、郷の家々からは朝餉の匂いと、かまどの煙が立ちのぼっていた。
外には鳥の声も混じる。
けれど、この小屋の中だけは、別の空気に閉ざされていた。
守り手小屋では、火が静かに爆ぜる音だけが寄り合いを満たしていた。
囲炉裏の炎が、まだ眠る影を長く揺らしている。
ヴァシュは囲炉裏の外寄り、他の戦士から半歩離れて座っていた。
肘を膝にのせ、視線を炎より低く落としたまま。
その奥に、燻った火種のような光を宿している。
ガルザの両脇にはフェルディエルとバイラ。
ライハンはリセルとエリシアの近くで腕を組み、ヴァシュを鋭く見据えていた。
カイネルはその隣で神妙な面持ちを崩さず、周囲にはナイラやマシュラ、そしてザシェの大きな影もある。
おそらく、狩人や守り手のほとんどがここに集まっていた。
リセルはただならぬ雰囲気に息を呑んだ。
エリシアも隣で、震える指先をぎゅっと握りしめている。
やがて、ガルザが低く口を開いた。
「始めるぞ。まずは今朝の件だ」
囲炉裏の光に、誰かの影が揺れる。
「ヴァシュは番小屋からリセルを連れ出し、掟を破って独断で処分しようとした。ライハンが止めなければ、命を奪っていただろう。――一度受け入れた者に刃を向けるのは、この郷で最も重い禁だ」
火の音がぱちりと弾けた。
「だが、まだ処分は決めてはいない。言い分があるなら聞く。それが寄り合いだ」
ヴァシュは顔を上げ、吐き捨てるように言った。
「どうせ何言っても無駄だろ。結局はバイラの風読みがすべてだ。あんな不確かなもんで郷の命運を決めるくらいなら、俺は従う気はなかった。それだけだ」
白髪に半分隠された片目を閉じたまま、バイラが静かに答えた。
「私は風を感じたことを伝えただけさ。信じるかどうかは、いつだってこの輪の判断だったよ」
短い沈黙を破ったのはフェルディエルだった。
「……あの夜を忘れたか。吹雪の中、バイラが片目を賭けて遠くの敵を見抜いたことを。あれがなきゃ、郷はとっくに滅んでいた」
再び、囲炉裏の音が小さく弾けた。
リセルはついに口を開く。
「……俺も言っていいなら」
一斉に視線が集まる。
たじろぎながらも、言葉を紡いだ。
「受け入れてくれたことは、嬉しかった。でも……ヴァシュの言うことも、全部は否定できない。俺は――定住しないって決めてたんだ。誰かを犠牲にしてまで生き延びるのは、もう嫌だったから。だから……ここを出たい。自分で、選んで、生きたい」
「リセル……」
エリシアの声が震える。
ヴァシュの口元が歪んだ。
「笑わせるなよ。掟を忘れたか? 一度来たら、出さない。火種は処分。それが一番手っ取り早い。――俺は郷の代わりに、それをやっただけだ」
その瞬間、エリシアが立ち上がった。
声を張り上げる。
「リセルは火種なんかじゃない! 最初から、何もしてない! 牢に閉じ込めたのも、殺そうとしたのも――あなた達です!」
リセルが制そうと手を伸ばす。だが、彼女は止まらない。
「何も知らないくせに! 私たちがどんな思いでここまで来たかも――リセルは、私を助けてくれただけなのに。それなのに……どうして、あんなことするの……! 受け入れてくれたと、思ったのに……」
その言葉は続かなかった。
溢れた涙のまま、ヴァシュを睨みつける。
小屋に、火の爆ぜる音だけが残った。
その沈黙を、バイラの低い声が破る。
「いつからだろうね。『出たい者を斬る』なんて掟ができたのは。兵士を斬ったことはあった。でも、仲間を――斬ったことはあったかい?」
誰も答えられなかった。
不精髭をなでながら、中年の戦士――ガントが低く言う。
「……だが、郷がこれまで守られてきたのは、この掟があったからじゃねえのか?」
ガントの声は低く、重い。
「兵士は迷わず斬ってきた。それは、誰かが口を割れば郷が終わるからだ。俺たちは、斬るもんは斬って、生き延びてきた。そいつだって、もし捕まって……口を開いたらどうする? ここに置いても危ねえ。外に出すのはもっと危ねえ。危ねえ芽は、内でも外でも変わらねえ。だったら――」
そこで言葉を切り、思い切るように言い放った。
「同じ理屈で、絶つしかねえだろうが」
ざわり、と場が揺れた。
誰も、すぐには否定できなかった。
ガントは、そのまま言葉を継がなかった。
腕を固く組んだまま。
視線だけが、火から離れない。
「やめろ、ガント……!」
真っ先にナイラが声を上げる。
「兵士と、仲間は同じじゃない!」
マシュラも、拳を握って睨みつける。
火の音だけが間を埋めた。
誰も、視線を上げなかった。
その沈黙を、ヴァシュの声が切り裂く。
「はっ! お前ら、何をきれいごと並べている? 結局、火種は火種だろう。外に出せば郷を売る。このまま置いとけば郷を焼く。消せばそれで済む話だって最初から言ってるんだ。甘いんだよ、お前らは! 掟を曲げるなら、最初から作るな! ……ガルザ、お前だって分かってるはずだろう!」
ヴァシュが立ち上がる。
囲炉裏を踏み越え、リセルの胸ぐらへ手を伸ばす。
「こいつが――」
リセルが身構え、ライハンが前に出かけた――そのとき。
その横で、ずし、と大きな影が動いた。
ザシェが立ち、無言でヴァシュの背後に回る。
「なっ、おい、何して――」
襟をつかむと、そのまま軽々と持ち上げた。
「頭を冷やせ。ここは寄り合いだ」
岩のような声。
ぶら下がるヴァシュを無言で引きずり、小屋の外へと運んでいく。
「まだ終わっていない! おれは納得していない――」
その声が遠ざかり、小屋に重い沈黙が落ちた。
ガルザは輪をゆっくりと見渡した。
火の音だけが返る。
「他に異論はないか? ……議論は、以上だな」
煙が天井へとまっすぐに立ちのぼっていく。
「掟は郷を守るためのものだ。だが、お前はもう、この郷に火をつけた。ならば、見届けさせてくれ」
ガルザはリセルを見据えた。
「――郷から自分の足で出ていく奴が現れたのは、初めてだ」
リセルは立ち上がった。
「……本当に、出てもいいのか?」
ガルザはしばらく目を閉じていた。
やがて、静かに目を開く。
「行け。お前たちが選んだ道だ」
火が、ぱちりと鳴る。
「――ただし」
誰も動かない。
「郷は、もうお前たちを守らない」
朝の光が、囲炉裏の残り火にかすかに差しこんだ。
その光を背に、リセルは小さくうなずいた。
火の音だけが響く中、誰も言葉を挟まなかった。
煙が梁の上をゆっくりと上り、煙抜きへと吸い込まれていく。
やがて、フェルディエルが目を伏せ、隣のバイラが静かにうなずいた。
ナイラも、マシュラも――反対の声は、もうなかった。
火の音だけが残った。
リセルは深く息を吐き、立ち上がる。
隣で、エリシアも小さく息を吸った。
戸口へ向かいかけて――ふと、気配を感じる。
振り返る。
囲炉裏の奥。
まだ、視線が残っている気がした。
それでも、リセルは肩で小さく息をした。
囲炉裏の小さな炎が、まだ揺れているのが見えた。
朝の光を背に、彼は言った。
「……約束を、させてほしい」
声は低く、けれど澄んでいた。
「ここを出ても、郷のことは誰にも言わない。ここで見たことも、教わったことも……俺たちの中に残す」
エリシアも涙を拭い、うなずいた。
「約束します。……ここで過ごしたこと、誰にも話しません」
ガルザは無言で二人を見つめていた。
囲炉裏の火が、小さく揺れる。
やがて、深くうなずく。
「それでいい。……それがお前らの誠意だ」
そのとき。
ガントが、低く吐いた。
「……もし、郷のことが漏れたら」
言葉が途切れる。
顔を背ける。
「――そのときは、俺がやる」
煙がゆっくりと立ちのぼり、煙抜きから差す朝の光に溶けていく。
囲炉裏の火はもう小さく、その上にも淡い光が落ちはじめていた。
寄合が終わり、各々が小屋の外に出たときだった。ガルザが、ライハンとカイネルを呼び止めた。
「……ライハン。カイネル。お前たちは、明日二人の道案内を頼む」
二人が顔を上げた。
「こいつらが郷を出るまで、見届けてやれ」
息を吐くように言う。
「――境までだ」
ライハンとカイネルがうなずいた。
「越えたら……手は出すな」
短く付け足す。
「……それと、念のためだ。納得していない連中が、あとをつけないとも限らない」
一瞬だけ、視線が外へ流れる。
「郷の外で何が起きても、郷は関わらない」
ヴァシュの名は出なかった。だが、その意味は誰の胸にも残った。
ライハンは静かにうなずき、カイネルも軽く顎を引いた。
すでに二人の頭の中では、道筋と準備の段取りが組まれはじめている。
「……この郷から人を見送るのは、これが初めてかもしれんな」
わずかに目を細める。
「どう転ぶか、見てみたい」
ガルザがぽつりと呟く。
その声には、苦味と、ほんのわずかな期待が残っていた。
焚き火の火種が、ぱちりと音を立てた。
その小さな光に、朝の風が触れる――こうして寄り合いは、静かに終わった。
その日の空は、高く澄んでいた。煙が、まっすぐ空へ昇っていく。
風はなく、静かだった。
だがリセルには、その静けさが――どこか遠い気がした。
背に、まだ視線が残っている気がする。
振り返っても、誰もいない。
それでも、気配だけが消えなかった。
夜が来れば、ここで過ごす最後の時が始まる。
そう思っても、うまく実感がなかった。
掴もうとしても、灰みたいに指のあいだから抜けていった。




