第三十一話 黎火の郷の伝説
風が静かに吹いていた。
フェルディエルの小屋には、まだ朝の光が差し込んでいない。
燻した匂いが、空気に残っている。
ガルザが腰を上げると、手早く指示を出す。
「カイネル、すぐに動いてくれ。ライハン、お前にはここを任せる。あとで迎えに誰かをよこす」
バイラも立ち上がり、ガルザに言った。
「ガルザ、すぐにみんなを集めておくれ。朝の見回りのあと、寄合所に来てもらうように。あの血の気の多い坊主も呼びな。忘れるんじゃないよ」
「坊主って……」
あの図体の男を、坊主。
リセルは目を瞬いた。
ガルザとカイネルが素早く小屋を出ていくと、バイラは手を腰に当ててこちらを見た。
「さて。傷の方は落ち着いたかい? 火の坊や」
「リセルだ。その呼び方はやめてくれ」
リセルは眉をひそめた。
「気に障ったかい? ……まあ、冗談さ。こんな形で会うとはね。あたしは、いずれ会っておきたいと思ってたんだよ。あんたがヴァシュにやられたってのは、本当かい?」
ライハンが静かにうなずいた。
「さっきも言っただろ。……ヴァシュは、またライラみたいに誰かが犠牲になるって思ってる。でも俺は見た。リセルは、どんなに追い詰められても火は出さなかった」
「……そうかい。あいつは昔から、思い詰めるところがあったからね……」
フェルディエルが一歩前に出た。
「それは……お前さんが、怒りや恐れに打ち勝ったということかもしれないね」
リセルが目を上げた。
「……あんたが、郷の癒し手か」
「君ときちんと話すのは、これが初めてだったね。私はフェルディエル。この郷の癒し手であり、エリシアと同じ系譜の民だ」
「マルヤから聞いてるよ。エリシアからも……」
「そうか。……いや、実に……懐かしいね。お前さんを見ていると、かつての仲間を思い出すよ。まさかこの郷で、二人のような同胞に相まみえるとは思わなんだ」
エリシアが口を開いた。
「フェルドさんは、リセルみたいな火の民のことも知っているんですか?」
「知っているも何も……私は、かつて同じ郷で暮らしていた。君たちの代では、もう完全に分かたれてしまったのだろうけれど」
バイラが目を丸くした。
「へえ、珍しいね。あんたが昔話なんてするとは。……私は茶でも入れてこよう。待ちながら少し聞かせてもらうよ。ライハンもちょうどよかった。郷の者にも知っておいてもらいたい話だ」
ライハンも少し驚いたように言った。
「おれも初耳だ。あんたが、火の民と一緒に暮らしてたなんて」
フェルディエルはゆっくりと頷き、小さくため息をついた。
「……私はね、もうずっと過去のことなど話すつもりはなかった。話したところで、変わるものなどないと思っていた。だが……」
囲炉裏の炭が、かすかに音を立てて崩れる。
「君たちを見ていると、いま、語らねばならない気がしてくるんだ。だから、少しだけ昔話に付き合ってくれないか」
その場に、静かな間が落ちた。
風が、屋根の隙間を鳴らしていった。
* * *
部屋は、しんと静まり返っていた。
バイラは茶を入れに立ち、ライハンは壁にもたれて腕を組んでいた。
リセルとエリシアは、囲炉裏の向こうに座るフェルディエルの語りを、じっと聞いていた。
フェルディエルは少し遠くを見るような目をした。
やがて、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「……かつて、東の果てに〈黎火の郷〉と呼ばれる村があった。朝焼けのように赤く、静かな火を象徴とするその地で、二つの民――ユーファとエルナが共に暮らしていたんだ」
リセルがわずかに眉を上げる。
「……ユーファと、エルナが、一緒に?」
フェルディエルは頷いた。
「そう。ユーファの民は焔を操り、エルナの民は、灯火のように優しく、癒しの力を宿していた。その明かりは、病や傷を癒し、命をつなぐ力だった。そして、それらの力は、いずれも火の竜から授かったとされていた」
「火の……竜?」
エリシアとリセルは息を呑んだ。
「竜なんて……神話の中の化け物だろ。そんな話、聞いたこともない」
ライハンが肩をすくめた。
「そりゃそうだ。麓じゃもう竜の話は禁句みたいなもんだからな」
少し声を落とした。
「火輪の神オルデスを信じるラファスから見たら、火の竜なんて異端中の異端になるだろうな……」
フェルディエルは小さく頷いた。
「……竜がなぜ人に力を落とすのか――それは誰にも分からん。それで、昔から“竜の気まぐれ”とも呼ばれてきた」
そのとき、バイラが戻ってきた。
湯気の立つ木杯が、手元に置かれる。
指先に、じんわりと熱が移った。
エリシアは、膝の上で指先をぎゅっと握った。
「だから、さっきバイラさんが」
「ああ。竜の力は形のないものだ。理屈もわからない。火の竜はね、本当は“灯火の竜”と呼んだ者もいたらしいが、それはまた別の話さ」
フェルディエルは囲炉裏を見つめたまま、続ける。
「その竜の力は、人の身にはあまりに強すぎた。だからこそ竜は、力を二つに分けて授けた。炎を生み出す力と、炎を制御する力。生まれながらに、黎火の郷の者はどちらかの力に偏っていた」
フェルディエルは一拍置いた。
「やがてその違いは役割の違いとなり、次第に民の在り方が分かれ始めたんだ」
エリシアが小さくつぶやく。
「……それが、ユーファとエルナ……」
「その通り。最初のうちは、それでも〈誓い〉よって、二つの力は一つに束ねられていた。誓いとは何か――それは、ユーファとエルナが共に儀式を行い、力の均衡を保つために交わす言葉だった。一人では暴走してしまう火の力も、誓いを交わせば、穏やかに命を守る光へと変わった。それが、我々が信じてきた火の在り方だったんだ」
リセルは拳を握りしめながら問う。
「……その場所……『東の果てに行けば、力を得られる』って、昔、親が言ってた。……そういうことだったのか?」
エリシアも目を伏せながら言う。
「私は……『東へ行けば、力を手放せる』って、母から聞いてた」
リセルはエリシアの言葉に顔を向けた。
「……一方だけが捨てて、一方だけが得る? そんなの……釣り合いが取れるのかよ」
バイラが腕を組んだまま、ぽつりとつぶやいた。
「さあね……誰かにとっては“得たい力”で、誰かにとっては“捨てたい重荷”……それだけの違いが、伝わる意味を変えていったのかもしれないね」
フェルディエルは静かに続ける。
「……私にも、真実はわからん。ただ、時代は流れ、人はその意味を見失っていった。ユーファの民は“戦う力”として炎を重んじ、エルナの民は“癒しの役割”だけに押し込められていった。誓いは形式だけのものとなり、実際に交わせる者はほとんどいなくなった。……私が生きていた頃には、もう〈誓い〉は伝説になりかけていたよ。それでも一部の家系には、誓いの言葉だけがかすかに残されていた」
「誓いの言葉」というフェルディエルの言葉に、エリシアは少しだけ肩を揺らした。
ライハンは静かに頷く。
「けど……その言葉だけでも残ってたってのは、きっとよっぽどの意味があったんだな」
囲炉裏の炭が、崩れた。
フェルディエルは続けた。
「……あの頃、私たちは争いを止める者として、国境の外にも〈火の壁〉を立てに行っていた。戦場の中央に、立ち上がる炎だ。剣も矢も焼き払い、兵士の足を止める――それは、命を奪う炎ではなく、命を守るための炎だった。戦う者たちが冷静になるまで、炎が両者を隔てる。だが、それはラファスから見れば“踏み込むべきでない領分”と見なされた」
バイラが低く笑う。
「国をまたいで火の壁を張りに行く……それじゃ、ラファスの連中には煙たがられただろうね」
フェルディエルはうなずき、付け加えた。
「……もともと、黎火の郷にいた民は、カイラのように移動する民でもあったんだ。だから、国というものにこだわりがなかった。火が必要とされる場所へ、ただ行っただけ……それが、余計に敵意を生んだのかもしれないね」
リセルの眉がわずかに動いた。
「……それ、まるで……カイラの生き方と同じじゃないか」
「君の出自も、無関係ではないかもしれないね」
「……」
フェルディエルは、少し目を伏せて続けた。
「そうして、二つの民は、心の奥で少しずつ分断されていった。そして――ラファスの粛清が始まった。かつてユーファとエルナが暮らしていた黎火の郷は、イースの北東にあった。私の故郷だ。その郷では、まだ争いが起これば、火の壁でそれを止める風習が残っていた。だがその行いが、ラファスの怒りを買ったんだ。ラファスが信じる神は、火輪からいずる光を象徴としていた。それに対し、ユーファの炎は“異端の火”と見なされた」
ライハンが顔をしかめた。
「……異端の火、ね」
一拍置くと、低い声で呟いた。
「それで、攻められたのか」
「そうだ。そして、粛清が始まった。……始まったのは、もっと前からだがね。だが、郷を追われるほど激しくなったのは、ちょうど私の時代――五十年ほど前だった。戦うことを選んだユーファの民は、誓いを交わす術も忘れ、炎に呑まれ、暴走する者が増えた。
戦う術を持たなかったエルナの民は、滅ぶか、逃れるしかなかった。私も……その一人だった。黎火の郷を追われ、それきり、故郷がどうなったのかは知らない」
リセルが口を開く。
「……でも、その力は今も残ってる。俺の中にも、ある」
フェルディエルは静かに頷く。
「君の中にある炎の力は、まぎれもなくあの頃のものだ。その力は、怒りや恐怖、悲しみに強く反応する。私は、そんな力に呑まれた者を何人も見てきた。この郷に流れ着いたセラドという青年もそうだった。君と同じように火を持ち、力を制御できずに苦しんでいた。 ……私は彼を、救ってやることができなかった。
その力は、感情と深く結びついている。特に、怒りや喪失――そういった強い想いにね。お前さんに、何か思い当たることはないかい?」
「それは……」
エリシアがリセルを見つめながら、静かに言う。
「リセルは、火に呑まれてなんかいない。いつだって、私を……守ろうとしてくれた」
「だが、危うさはある。リセル、お前さんはそれを感じたことはなかったかい? 自分の心に宿した大きな生き物の力だよ」
リセルは俯いた。
あのとき、ヴァシュに首を絞められたときに見えた――
あの焼けた鋼のような、深い赤銅色の鱗。
長い体。
だれかの記憶のような、焼け野原……。
見たことのない景色だった。
フェルディエルは木杯で喉を潤すと、続けた。
「その力に対して、かつては〈誓い〉という手段があった。それが交わされた場所が、〈誓いの石碑〉――黎火の郷の奥にあった。その儀式によって、制御できない力が安定すると言い伝えられていた。私は、誓いを交わしたことがない。その効果を、実際に見たこともない。 それでも、確かにその石碑は存在していた」
エリシアが、おそるおそる口を開く。
「私、母からその話を聞いたことがあります。東の果てのどこかで、エルナの民は力を手放せる場所があるって……。フェルドさん、“癒しの先の力”のこと、知っていますか?」
「……先の力とは、なんのことだろうか」
「癒しの……先の力。それは、命を差し出すような……人の痛みを、引き受けてしまうような力です」
フェルディエルは目を伏せ、ゆっくりと答えた。
「聞いたことはある。だが、私の時代には、それを使った者はいなかった」
「でも、私の母は、その力を……」
エリシアの声が、かすかに震えた。
フェルディエルが、静かに言葉を継いだ。
「無理に……使わされたのだね」
リセルが小さく首をかしげる。
「癒しの力……じゃないのか? それって、なんの……」
フェルディエルはゆっくりとリセルに向き直り、ゆっくりと答えた。
「エリシアの言うその力は、エルナの中では〈禁忌〉とされていた。使い方も、伝える者も、すでにほとんど残っていない。知っていたとしても、軽々しく話せるようなものではなかった……」
彼は一拍、目を伏せ、そしてエリシアに視線を移す。
「だが……エリシア。君の母は、それを、自ら使ったわけではない。使わされたのだろう?」
エリシアは、拳をぎゅっと握りしめた。
フェルディエルはその仕草に気づいたように、さらに静かに続ける。
「そして君は……それを手放したいと思っているのだね」
エリシアは小さく頷いた。
「……もう、力に怯えて生きたくはないんです」
その言葉に、フェルディエルの目がわずかに和らいだ。
「それは……私たちエルナが、かつて皆、願っていたことだよ。……残念だが、私には、〈誓いの儀式〉が本当に力を抑えられるのかはわからない。だが――」
リセルが目を上げ、言葉を重ねる。
「でも、確かめに行く価値は、あるんだろ?」
「そうだ。最近では、大規模な粛清も聞かなくなった。もしかしたら、まだ、あの郷にかつての仲間たちが生き残っているかもしれない」
リセルは静かに目を伏せた。
「粛清も何も……俺たちは、もう狩られつくして……もう名すら知られずに、忘れ去られていく民になっただけだ」
そのとき、エリシアがまっすぐリセルを見て言った。
「……でも、リセル。私は、行ってみたい」
その声には、確かな意志が宿っていた。
フェルディエルは、遠くに消えた火を想うように目を細めて、ゆっくりと頷いた。
「――その声が、あの丘に再び火を灯すなら。きっと、かつての〈誓い〉も、まだ、そこに残っているはずだ」
「でも、俺は……」
「行ってみようよ、リセル……。そしたら、私たちも追われずに、怯えずに生きる道があるかもしれない」
「……でもさ、大事なこと忘れてないか? この郷、『一度入ったら出られない』って言われてたろ?」
バイラが腕を組んで言った。
「ふむ……それなんだけどね。あんたたち、あとで郷の寄り合いに顔を出してもらうよ」
「俺たちも?」
「そうさ。あんたのことなんだから、本人がいなきゃ話にならないだろうよ」
リセルとエリシアは顔を見合わせた。
出ていきたいなんて、そんなこと……言えるのか。
(処分とか……ならないよな)
「そんな顔するなって」
ライハンがリセルの肩に腕をまわす。
「俺が、ちゃんと助け船出してやる。ヴァシュの奴には、もう手出しさせない。な?」
リセルは、ライハンの腕をそっと払いのけた。
そして――答えなかった。
けれど、多分。
もうその答えは、自分の中では、とっくに決まっていたのだ。
あの竜を、見てしまった。
焼け野原を。空を。焦げた匂いを。
それが、自分の抱える未来なら――
ここにはいられない。
力に怯えたくない。追われるのも、もうたくさんだ。
だけど、この力を制御できたら――
きっと、大事なものを守れる力になれる。
もう誰からも何も奪われたくない。
「……寄りかかるなよ、重い」
リセルは小さくつぶやき、少しだけ、笑っていた。
ライハンはそっと腕を下ろし、吐息のように息をついた。
その口元は、静かに笑っていた。




