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【第一幕・完】灯火の誓い〜炎を宿す少年は、名を奪われた少女と雪の大陸を逃げる〜  作者: 水瀬 理音
第四章 風を抱く郷(後編)―旅立ちの理由

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第三十一話 黎火の郷の伝説

 風が静かに吹いていた。

 フェルディエルの小屋には、まだ朝の光が差し込んでいない。

 燻した匂いが、空気に残っている。


 ガルザが腰を上げると、手早く指示を出す。

「カイネル、すぐに動いてくれ。ライハン、お前にはここを任せる。あとで迎えに誰かをよこす」


 バイラも立ち上がり、ガルザに言った。

「ガルザ、すぐにみんなを集めておくれ。朝の見回りのあと、寄合所に来てもらうように。あの血の気の多い坊主も呼びな。忘れるんじゃないよ」


「坊主って……」

 あの図体の男を、坊主。

 リセルは目を瞬いた。


 ガルザとカイネルが素早く小屋を出ていくと、バイラは手を腰に当ててこちらを見た。

「さて。傷の方は落ち着いたかい? 火の坊や」

「リセルだ。その呼び方はやめてくれ」

 リセルは眉をひそめた。


「気に障ったかい? ……まあ、冗談さ。こんな形で会うとはね。あたしは、いずれ会っておきたいと思ってたんだよ。あんたがヴァシュにやられたってのは、本当かい?」


 ライハンが静かにうなずいた。

「さっきも言っただろ。……ヴァシュは、またライラみたいに誰かが犠牲になるって思ってる。でも俺は見た。リセルは、どんなに追い詰められても火は出さなかった」


「……そうかい。あいつは昔から、思い詰めるところがあったからね……」


 フェルディエルが一歩前に出た。

「それは……お前さんが、怒りや恐れに打ち勝ったということかもしれないね」


 リセルが目を上げた。

「……あんたが、郷の癒し手か」


「君ときちんと話すのは、これが初めてだったね。私はフェルディエル。この郷の癒し手であり、エリシアと同じ系譜の民だ」

「マルヤから聞いてるよ。エリシアからも……」


「そうか。……いや、実に……懐かしいね。お前さんを見ていると、かつての仲間を思い出すよ。まさかこの郷で、二人のような同胞に相まみえるとは思わなんだ」


 エリシアが口を開いた。

「フェルドさんは、リセルみたいな火の民のことも知っているんですか?」

「知っているも何も……私は、かつて同じ郷で暮らしていた。君たちの代では、もう完全に分かたれてしまったのだろうけれど」


 バイラが目を丸くした。

「へえ、珍しいね。あんたが昔話なんてするとは。……私は茶でも入れてこよう。待ちながら少し聞かせてもらうよ。ライハンもちょうどよかった。郷の者にも知っておいてもらいたい話だ」


 ライハンも少し驚いたように言った。

「おれも初耳だ。あんたが、火の民と一緒に暮らしてたなんて」

 フェルディエルはゆっくりと頷き、小さくため息をついた。


「……私はね、もうずっと過去のことなど話すつもりはなかった。話したところで、変わるものなどないと思っていた。だが……」

 囲炉裏の炭が、かすかに音を立てて崩れる。


「君たちを見ていると、いま、語らねばならない気がしてくるんだ。だから、少しだけ昔話に付き合ってくれないか」


 その場に、静かな間が落ちた。

 風が、屋根の隙間を鳴らしていった。


 * * *


 部屋は、しんと静まり返っていた。

 バイラは茶を入れに立ち、ライハンは壁にもたれて腕を組んでいた。

 リセルとエリシアは、囲炉裏の向こうに座るフェルディエルの語りを、じっと聞いていた。


 フェルディエルは少し遠くを見るような目をした。

 やがて、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。


「……かつて、東の果てに〈黎火れいかの郷〉と呼ばれる村があった。朝焼けのように赤く、静かな火を象徴とするその地で、二つの民――ユーファとエルナが共に暮らしていたんだ」


 リセルがわずかに眉を上げる。


「……ユーファと、エルナが、一緒に?」


 フェルディエルは頷いた。


「そう。ユーファの民は焔を操り、エルナの民は、灯火のように優しく、癒しの力を宿していた。その明かりは、病や傷を癒し、命をつなぐ力だった。そして、それらの力は、いずれも火の竜から授かったとされていた」


「火の……竜?」


 エリシアとリセルは息を呑んだ。

「竜なんて……神話の中の化け物だろ。そんな話、聞いたこともない」


 ライハンが肩をすくめた。

「そりゃそうだ。麓じゃもう竜の話は禁句みたいなもんだからな」

 少し声を落とした。

「火輪の神オルデスを信じるラファスから見たら、火の竜なんて異端中の異端になるだろうな……」


 フェルディエルは小さく頷いた。

「……竜がなぜ人に力を落とすのか――それは誰にも分からん。それで、昔から“竜の気まぐれ”とも呼ばれてきた」


 そのとき、バイラが戻ってきた。

 湯気の立つ木杯が、手元に置かれる。

 指先に、じんわりと熱が移った。


 エリシアは、膝の上で指先をぎゅっと握った。

「だから、さっきバイラさんが」

「ああ。竜の力は形のないものだ。理屈もわからない。火の竜はね、本当は“灯火の竜”と呼んだ者もいたらしいが、それはまた別の話さ」


 フェルディエルは囲炉裏を見つめたまま、続ける。

「その竜の力は、人の身にはあまりに強すぎた。だからこそ竜は、力を二つに分けて授けた。炎を生み出す力と、炎を制御する力。生まれながらに、黎火(れいか)の郷の者はどちらかの力に偏っていた」


 フェルディエルは一拍置いた。

「やがてその違いは役割の違いとなり、次第に民の在り方が分かれ始めたんだ」

 エリシアが小さくつぶやく。

「……それが、ユーファとエルナ……」


「その通り。最初のうちは、それでも〈誓い〉よって、二つの力は一つに束ねられていた。誓いとは何か――それは、ユーファとエルナが共に儀式を行い、力の均衡を保つために交わす言葉だった。一人では暴走してしまう火の力も、誓いを交わせば、穏やかに命を守る光へと変わった。それが、我々が信じてきた火の在り方だったんだ」


 リセルは拳を握りしめながら問う。

「……その場所……『東の果てに行けば、力を得られる』って、昔、親が言ってた。……そういうことだったのか?」


 エリシアも目を伏せながら言う。

「私は……『東へ行けば、力を手放せる』って、母から聞いてた」

 リセルはエリシアの言葉に顔を向けた。

「……一方だけが捨てて、一方だけが得る? そんなの……釣り合いが取れるのかよ」


 バイラが腕を組んだまま、ぽつりとつぶやいた。

「さあね……誰かにとっては“得たい力”で、誰かにとっては“捨てたい重荷”……それだけの違いが、伝わる意味を変えていったのかもしれないね」


 フェルディエルは静かに続ける。


「……私にも、真実はわからん。ただ、時代は流れ、人はその意味を見失っていった。ユーファの民は“戦う力”として炎を重んじ、エルナの民は“癒しの役割”だけに押し込められていった。誓いは形式だけのものとなり、実際に交わせる者はほとんどいなくなった。……私が生きていた頃には、もう〈誓い〉は伝説になりかけていたよ。それでも一部の家系には、誓いの言葉だけがかすかに残されていた」


「誓いの言葉」というフェルディエルの言葉に、エリシアは少しだけ肩を揺らした。

 ライハンは静かに頷く。

「けど……その言葉だけでも残ってたってのは、きっとよっぽどの意味があったんだな」


 囲炉裏の炭が、崩れた。

 フェルディエルは続けた。


「……あの頃、私たちは争いを止める者として、国境の外にも〈火の壁〉を立てに行っていた。戦場の中央に、立ち上がる炎だ。剣も矢も焼き払い、兵士の足を止める――それは、命を奪う炎ではなく、命を守るための炎だった。戦う者たちが冷静になるまで、炎が両者を隔てる。だが、それはラファスから見れば“踏み込むべきでない領分”と見なされた」


 バイラが低く笑う。

「国をまたいで火の壁を張りに行く……それじゃ、ラファスの連中には煙たがられただろうね」


 フェルディエルはうなずき、付け加えた。

「……もともと、黎火(れいか)の郷にいた民は、カイラのように移動する民でもあったんだ。だから、国というものにこだわりがなかった。火が必要とされる場所へ、ただ行っただけ……それが、余計に敵意を生んだのかもしれないね」


 リセルの眉がわずかに動いた。

「……それ、まるで……カイラの生き方と同じじゃないか」

「君の出自も、無関係ではないかもしれないね」

「……」


 フェルディエルは、少し目を伏せて続けた。


「そうして、二つの民は、心の奥で少しずつ分断されていった。そして――ラファスの粛清が始まった。かつてユーファとエルナが暮らしていた黎火(れいか)の郷は、イースの北東にあった。私の故郷だ。その郷では、まだ争いが起これば、火の壁でそれを止める風習が残っていた。だがその行いが、ラファスの怒りを買ったんだ。ラファスが信じる神は、火輪からいずる光を象徴としていた。それに対し、ユーファの炎は“異端の火”と見なされた」


 ライハンが顔をしかめた。

「……異端の火、ね」

 一拍置くと、低い声で呟いた。

「それで、攻められたのか」


「そうだ。そして、粛清が始まった。……始まったのは、もっと前からだがね。だが、郷を追われるほど激しくなったのは、ちょうど私の時代――五十年ほど前だった。戦うことを選んだユーファの民は、誓いを交わす術も忘れ、炎に呑まれ、暴走する者が増えた。

 戦う術を持たなかったエルナの民は、滅ぶか、逃れるしかなかった。私も……その一人だった。黎火(れいか)の郷を追われ、それきり、故郷がどうなったのかは知らない」


 リセルが口を開く。

「……でも、その力は今も残ってる。俺の中にも、ある」


 フェルディエルは静かに頷く。

「君の中にある炎の力は、まぎれもなくあの頃のものだ。その力は、怒りや恐怖、悲しみに強く反応する。私は、そんな力に呑まれた者を何人も見てきた。この郷に流れ着いたセラドという青年もそうだった。君と同じように火を持ち、力を制御できずに苦しんでいた。 ……私は彼を、救ってやることができなかった。

 その力は、感情と深く結びついている。特に、怒りや喪失――そういった強い想いにね。お前さんに、何か思い当たることはないかい?」


「それは……」

 エリシアがリセルを見つめながら、静かに言う。

「リセルは、火に呑まれてなんかいない。いつだって、私を……守ろうとしてくれた」

「だが、危うさはある。リセル、お前さんはそれを感じたことはなかったかい? 自分の心に宿した大きな生き物の力だよ」


 リセルは俯いた。


 あのとき、ヴァシュに首を絞められたときに見えた――

 あの焼けた鋼のような、深い赤銅色の鱗。

 長い体。

 だれかの記憶のような、焼け野原……。

 見たことのない景色だった。


 フェルディエルは木杯で喉を潤すと、続けた。

「その力に対して、かつては〈誓い〉という手段があった。それが交わされた場所が、〈誓いの石碑〉――黎火(れいか)の郷の奥にあった。その儀式によって、制御できない力が安定すると言い伝えられていた。私は、誓いを交わしたことがない。その効果を、実際に見たこともない。 それでも、確かにその石碑は存在していた」


 エリシアが、おそるおそる口を開く。

「私、母からその話を聞いたことがあります。東の果てのどこかで、エルナの民は力を手放せる場所があるって……。フェルドさん、“癒しの先の力”のこと、知っていますか?」


「……先の力とは、なんのことだろうか」

「癒しの……先の力。それは、命を差し出すような……人の痛みを、引き受けてしまうような力です」


 フェルディエルは目を伏せ、ゆっくりと答えた。

「聞いたことはある。だが、私の時代には、それを使った者はいなかった」

「でも、私の母は、その力を……」

 エリシアの声が、かすかに震えた。


 フェルディエルが、静かに言葉を継いだ。

「無理に……使わされたのだね」

 リセルが小さく首をかしげる。

「癒しの力……じゃないのか? それって、なんの……」


 フェルディエルはゆっくりとリセルに向き直り、ゆっくりと答えた。


「エリシアの言うその力は、エルナの中では〈禁忌〉とされていた。使い方も、伝える者も、すでにほとんど残っていない。知っていたとしても、軽々しく話せるようなものではなかった……」


 彼は一拍、目を伏せ、そしてエリシアに視線を移す。

「だが……エリシア。君の母は、それを、自ら使ったわけではない。使わされたのだろう?」

 エリシアは、拳をぎゅっと握りしめた。


 フェルディエルはその仕草に気づいたように、さらに静かに続ける。

「そして君は……それを手放したいと思っているのだね」

 エリシアは小さく頷いた。

「……もう、力に怯えて生きたくはないんです」


 その言葉に、フェルディエルの目がわずかに和らいだ。

「それは……私たちエルナが、かつて皆、願っていたことだよ。……残念だが、私には、〈誓いの儀式〉が本当に力を抑えられるのかはわからない。だが――」


 リセルが目を上げ、言葉を重ねる。


「でも、確かめに行く価値は、あるんだろ?」

「そうだ。最近では、大規模な粛清も聞かなくなった。もしかしたら、まだ、あの郷にかつての仲間たちが生き残っているかもしれない」


 リセルは静かに目を伏せた。

「粛清も何も……俺たちは、もう狩られつくして……もう名すら知られずに、忘れ去られていく民になっただけだ」


 そのとき、エリシアがまっすぐリセルを見て言った。

「……でも、リセル。私は、行ってみたい」

 その声には、確かな意志が宿っていた。


 フェルディエルは、遠くに消えた火を想うように目を細めて、ゆっくりと頷いた。

「――その声が、あの丘に再び火を灯すなら。きっと、かつての〈誓い〉も、まだ、そこに残っているはずだ」


「でも、俺は……」

「行ってみようよ、リセル……。そしたら、私たちも追われずに、怯えずに生きる道があるかもしれない」

「……でもさ、大事なこと忘れてないか? この郷、『一度入ったら出られない』って言われてたろ?」


 バイラが腕を組んで言った。

「ふむ……それなんだけどね。あんたたち、あとで郷の寄り合いに顔を出してもらうよ」

「俺たちも?」

「そうさ。あんたのことなんだから、本人がいなきゃ話にならないだろうよ」


 リセルとエリシアは顔を見合わせた。

 出ていきたいなんて、そんなこと……言えるのか。

(処分とか……ならないよな)


「そんな顔するなって」

 ライハンがリセルの肩に腕をまわす。

「俺が、ちゃんと助け船出してやる。ヴァシュの奴には、もう手出しさせない。な?」


 リセルは、ライハンの腕をそっと払いのけた。

 そして――答えなかった。


 けれど、多分。

 もうその答えは、自分の中では、とっくに決まっていたのだ。


 あの竜を、見てしまった。

 焼け野原を。空を。焦げた匂いを。


 それが、自分の抱える未来なら――

 ここにはいられない。


 力に怯えたくない。追われるのも、もうたくさんだ。

 だけど、この力を制御できたら――

 きっと、大事なものを守れる力になれる。

 もう誰からも何も奪われたくない。


「……寄りかかるなよ、重い」


 リセルは小さくつぶやき、少しだけ、笑っていた。


 ライハンはそっと腕を下ろし、吐息のように息をついた。

 その口元は、静かに笑っていた。

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