第二十九話 離れの癒し手
小屋の前に着いたとき、戸はまだ閉じられていた。
ガルザが歩みを止め、耳を澄ませる。
「……畑だな。朝から動いてやがる」
そう言って、戸の隙間へ声をかけた。
「おーい、フェルド! 来たぞ」
返事はない。
代わりに、少し離れた畑の方から怒鳴り声が返ってきた。
「うるさい、いま戻る。畝が崩れてたんだ!」
ガルザは肩をすくめる。
「ったく、年寄りのくせに働きすぎだ」
朝の冷気が残っていた。
ふたりは黙って待つ。
エリシアが、ためらいがちに口を開いた。
「……ガルザさん。どうして、私たちを受け入れてくれたんですか?」
ガルザは、前を向いたまま答えた。
「……俺は、あの場にいなかった。だが、守り手どもは信じてる」
短い息をつく。
「あいつらの目には、リセルがお前を庇ってたって映ったらしい」
少しだけ横目を向ける。
「ここは、逃げてきた者でできた郷だ。追われて流れ着いたやつは助ける。それだけだ」
エリシアは俯いた。
ガルザはエリシアを見て続けた。
「それにな、お前がいれば、あいつは暴走しない。長く生きりゃ、人の目を見れば分かることもある。――だから受け入れた」
胸の奥に、温度が灯ったそのとき。
「おーい、戻ったぞ。……まったく、朝っぱらから来なくていいって、何度言えば分かるんだか」
不満げな声が、畑の方から飛んできた。
土を払う音が近づき、フェルドが小屋の影から顔を出す。
ガルザが鼻で笑う。
「じいさんの一人暮らしを心配して来てやってんだ。文句言うな」
フェルドはふん、とそっぽを向いた。
「……まあ、客人をつれてるようだから、今日は大目に見るよ」
ガルザが苦笑を浮かべる。
それを見て、エリシアは思わず笑ってしまった。
朝靄が、屋根の上に淡く漂っていた。
* * *
部屋に招き入れながら、フェルディエルはガルザとの態度とはちがう柔らかい口調にもどっていた。
「エリシア。いずれ尋ねてくれると思っていたよ」
穏やかな顔立ちに、どこか張りつめた影を宿した老人だった。
その横で、ガルザがむすっとした顔で腕を組んでいる。
「まだいたのか。お前の方は呼んでないけどな。朝っぱらから仏頂面を拝まされるとは思わなかったよ」
「相変わらずの減らず口だな。様子見に来て何が悪い」
「ふん。お前さん達守り手のことは、赤ん坊の頃から知っとる。そんなガキどもに心配されるほど、老いぼれてはおらんよ」
ガルザが何か言い返そうとしたそのとき、奥の部屋から気配がした。
足音ではない。ただ、空気が動いた。
「……騒がしいな、ほんとに」
背後からため息混じりの声が降ってきた。
振り返れば、髪をまとめた白髪の老女が、眠そうな顔で立っていた。背筋がまっすぐで、老女というには若々しい立ち振る舞いだ。
長い前髪で右目を隠している。その奥、左の瞳だけが光を含んでいる。
薄い藍に、金が差す。夜明け前の空の色だ。
「年寄りは朝が早くて敵わん。昼まで寝るつもりだったのに……深酒した日に限って、ついてない」
「バイラ村長、やっぱりここにいたか」
ガルザが溜息交じりに呟く。
「……あなたが、村長」
エリシアも息を呑んだ。
けだるそうではあるが、身にまとう空気は霧のようにつかめない。
それでいて、湖面のような静けさがあった。
「そうだよ。昨晩はフェルドと酒を酌み交わしていた。つまらん話をな」
肩をすくめたバイラが、ふっとエリシアの方を見る。
「……ああ、新しく流れ着いた子だね。聞いた通りだ。フェルドの若い頃の瞳の色にそっくりだ」
「あなたが……村長の?」
「うん。君たちが来ることは、霧の気配が教えてくれていたよ。フェルドがこの郷に辿り着いた時と、よく似ている。君も……〈エルナ〉の――“灯火の民”なんだろう? 私と同じ、竜の気まぐれで力を持つ」
「……え?」
――竜の気まぐれ?
「まあまあ、バイラ」
フェルディエルが一歩踏み出す。
「朝飯でも出してやろう。立ち話もなんだ。奥に入って座りなさい」
* * *
小屋に入ると、外の風とは打って変わって、あたたかな湯気の匂いが満ちていた。
粗末ながら整えられた炉のそばに、木椅子が並んでいる。
フェルディエルは手を止めずに尋ねた。
「さて、エリシア。体調はどうだい? 力を使ったあとは、さぞ疲れただろうね」
「いえ、マルヤさんたちのおかげで、もうすっかり元気です」
「そうかい」
ふっと笑うと、粥をよそう手を止めた。
「私に、聞きたいことがあって来たのだろう?」
「はい。昨日、フェルドさんが言っていたこと……」
エリシアが座ったまま、そっと視線を上げる。
「力の使い方について。私は、力を注ぎすぎなんだって……」
「……みんな、通る道だよ」
フェルディエルの声音が少し和らいだ。
「私も、初めて力を使った時は、君と同じように倒れていたよ。癒し手は、まず自分の力を制御しなきゃいけない。じゃないと、自分ごとすり減ってしまうからね」
「それを、教えていただくわけにはいきませんか?」
少しだけ間が空いた。
フェルディエルは、炉の火に目を落とす。
「……」
「小さい頃、母がその力を使っていたのを見たことがあります。怪我した人がいると、放っておけない人でした。でも、まさか自分にもそんな力があるなんて、つい最近まで知らなくて……」
エリシアは指先をぎゅっと握った。
「だから、ちゃんと教わったこともなくて。治りが早いってだけで、母と同じ力を持っていると期待されて、捕まって……」
フェルディエルは小さく頷いた。
その目は、どこか遠くを見るようでもあった。
「君は、優しい子だね」
「……」
「でも、よく考えた方がいい。この力は、使い方を間違えれば君自身の命を削る。持っているからといって、必ず使う義務はない。そうだろう?」
エリシアは、唇を噛んでうつむいた。
だが、すぐに顔を上げる。
「それでも、あなたはこの郷の癒し手なんでしょう? たくさんの人を癒してきたはずです」
沈黙が落ちた。
フェルディエルが、深く息を吐く。
「……私がどうして離れに住んでいるか、知っているかい? 私は聖人でも、導く者でもない。この力は、時に呪いになる」
言葉を選ぶように、フェルディエルは続けた。
「使わなければ、誰かを見殺しにした気持ちが残る。だから私は郷から距離をとっている。
目の前の傷を見たら癒そうとしてしまう――それが、エルナの民の性分だ」
フェルディエルは目を伏せ、わずかに口元を緩めた。
「だが、そのたびに力を使っていたら、自分が滅びる。私は臆病なんだ。だから、人の声が届かないここにいる」
誰も、言葉を返さなかった。
やがて、静かな声が割って入る。
「……ふん。そう言いながら、あんたが人を癒すのを拒んだのを、私は見たことがないけどね」
横で、バイラが器を手にしたまま呟いた。
「俺たちも、本当に危ない時だけフェルドに頼るようにしている」
ガルザの低い声が続く。
「そうなんですか……」
エリシアが小さく呟いた。
フェルディエルは肩をすくめる。
そして、あきれたように言った。
「そうは言っても、君も人を見捨てられない性分なんだろう? 放っておいても、どうせまた誰かを助けようとする。だったら――コツくらいは、教えてやるさ」
エリシアの顔が、ぱっと明るくなる。
「本当ですか!」
「また倒れられては敵わんからね。ただし、自分のすべてを投げ出すような使い方は、もうしないと約束できるかい?」
「はい!」
その返事に、バイラがくすっと笑った。
「懐かしいね。若い頃のフェルドを見てるみたいだ」
「その頃、お前さんは、鼻垂れだったろうが」
「村長を捕まえて鼻垂れとは、どういう了見だい?」
「また始まった……」
ガルザがぼそっと呟き、場に穏やかな笑いが広がった。
ガルザが、昨晩の焚き火の話をバイラに伝える傍ら、 エリシアとフェルディエルは、木の椅子に並んで腰を下ろしていた。
こうして、フェルドの手ほどきは始まった。
「エルナの民がよく教える、基礎的な方法から始めようか。――見ててごらん」
そう言ってフェルディエルは、静かに目を閉じ、両手を胸の前にふんわりと浮かせた。
深く息を吸い、ふーっと吐き出す。
その呼吸に合わせるように、彼の手のひらから白い光がふわりと立ちのぼった。
焚き火の火のように、けれど炎ではない。風もないのに、ゆらゆらと揺れていた。
「これが、癒しの力だよ。これは、出した光を消さずに手のひらにとどめる練習だ。光はすぐに溢れ出すからね。うまくいかないと、辺り一面が明るくなってしまう。でも、本当に必要なのは、この手の中だけに灯し続ける力なんだ」
白い光は、確かに形を保っていた。
フェルディエルの手のひらの中で、控えめに。
エリシアは、あの夜を思い出す。
自分の光は、霧のように散った。
「たくさん出せばいいってもんじゃない。溢れた光は、どこにも届かないまま散ってしまう。必要なのは、ここにあるっていう、確かなかたちだよ」
「ろうそくの火を、風のないところで絶やさずに燃やし続けるように、だよ」
「……やってみます」




